音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
カワイイ。ポニーテールがカワイイ。全然オシャレに興味がなさそうな雰囲気なのに、週1で直哉の高級シャンプーを使っている菜緒葉よりも髪がサラサラなのがカワイイ。
カワイイ。袴の女の子というのはフェティシズムを唆る。活動的で、女中の着物なんかよりも断然いい。スポーティーでよく似合う。カワイイ。
カワイイ。このお年頃は肌の調子を保つのが大変なのが普通で、新人の後輩達はみんな悩んでいる。なのに彼女の肌はきめが細かくてニキビひとつなく、ついでに日焼けで傷んでいる気配もない。
カワイイ。呪具の眼鏡なしじゃ呪霊も見えないカスだとか思っていたのは誰だ。数分前までの菜緒葉だ。絞め殺してやりたい。眼鏡っ娘の最高峰とはまさに彼女ではないか。
意志の強そうな瞳。サバサバした雰囲気。
今の菜緒葉より10cmくらい高い──170cm程度の身長で、足が長い。和装だからわかりづらいが、胸も結構ありそうだ。
完璧だ。
完璧な美少女がそこにいた。
その、完璧な美少女が虐げられている。
見ているだけで興奮でゾクゾクした。
美しい物が穢される場面は美しい。あたかも新雪を踏み躙るようなものだ。目的地に辿り着くためだとでも言い訳しながら、わざと泥のついた靴でぐちゃぐちゃにして、その音を愉しむ。俗人の生活は超然とした美しさに耐えられない。菜緒葉もそうだった。
だから少女が虐げられる光景を心ゆくまで愛でた。
諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。
心の中でひたすらに甘い呪詛を繰り返しながら、菜緒葉は目の前の光景を見つめ続けた。髪を掴まれ、蹴り飛ばされ、踏みつけにされて泥にまみれながら、それでもなお諦めないその少女の姿を見つめ続けていた。
真希の柔らかな髪を乱暴に掴むその手は自分のものなのだと想像する。真希の華奢な腹を容赦なく蹴り飛ばすその足は自分のものなのだと想像する。呪術師になる道なんてそもそも選ぶことすら思いつかなかった菜緒葉の代わりに、大好きな直哉が、何の資格も持たない真希を諦めさせようとしてくれているのだと想像する。ちゃんと男に生まれてくれた菜緒葉の分身が、真希の身の程知らずな所業を処罰しているのだと想像する。
そもそも、真希なんかより直哉の方が何倍も強いのだ。直哉は菜緒葉が必死に奉仕して大事にして、その結果磨き上げられた完成品だ。毎日ごはんを作ろうが家の掃除をしようが一切感謝してくれないけれど、それでも直哉は菜緒葉の努力の甲斐あって、家の雑事など気にせずに、無事に呪術師として成功している。最高に自慢の弟である。今の直哉は術式どころか呪力もあまり使っていない。なのに子猫でもいたぶるような余裕で真希の可憐な顔を踏みつけにしている。次期当主の座を掠め取るようなことを公然と言った小娘に、直哉はみごとな実力の差を見せつけている。素晴らしいことだ。なんの問題もない。弟は間違ったことなんかしていない。
だから、もう諦めて欲しかった。
真希の折角の綺麗な顔は泥と血にまみれ、無惨に腫れ上がっている。鍛え上げられた大人の男の蹴りを受けて、痛くないはずがない。内臓が破裂しそうなほどの苦痛のはずだ。菜緒葉だったら直哉にこんな顔で見下されたら怖くて悲しくて、泣き叫んで許しを乞うていただろう。
真希にも早く諦めて、自分の身の程を知ってほしかった。
なのに、何度叩きのめされても真希は立ち上がる。
どうして諦めないのかがわからない。菜緒葉は全部を諦めて──いや、諦めているつもりすらなくて、ルールの中で自分なりに一生懸命頑張ってきたつもりで──なのに、ルールを守っていない真希は。
真希はまだ輝いている。
美しい女が何度穢されても立ち上がる姿は、この世の何より美しかった。
自分にもこんな風に、何かを強烈に渇望する時期はあっただろうか。記憶の底をいくら探っても全然思い出せない。いや、こんなにも自己の在り方にキラキラとひたむきで、純粋な反抗心に燃えていた時代など、菜緒葉の人生には1秒たりとも存在しなかった。
だから怖い。カワイイ。無様で、滑稽で、酷く興奮する。絶対に許せない。どうしようもなくキュンキュンする。心の底から憎たらしい。壊したい。この手でめちゃくちゃにしたい。下腹部が熱を持ち、甘く締めつけられる。もっと、もっと苛め抜きたい! 直哉の足で、あの子の心をぐちゃぐちゃに蹂躙して貰いたい! 暗闇から見上げる一番星のようなあの眩い光を、永遠に消し去りたい! 空を飛ぶための翼をへし折って、小さな鳥籠の中に閉じ込めて、永久に屈服させたい♡♡
──なんて。
これ以上考えてはいけない。
自らの内側に渦巻くとんでもない感情に理性の警報が鳴り響いた瞬間、菜緒葉はふと我に返った。ぐしゃぐしゃに打ちのめされている真希の様子がさすがにただ事ではないと気づいたのだ。これ以上放置すれば取り返しのつかないことになりかねないと判断し、菜緒葉はふわりと歩み出て、わざとらしく明るい声を張り上げた。
「なーおや様っ、メロンはいかがかしら? 前にくし切りにしたら嫌がってたから、今度はちゃんと一口サイズのブロックカットにしましたのよ!」
そのひたすら能天気で甘々で場違いな声に、直哉は真希の腹を蹴り上げようとしていた足をピタリと止めた。
「この状況でよー言うわ。ぼーっと突っ立って捻り出した言葉がそれなん?」
振り返った直哉が完全に毒気を抜かれたというように舌打ちをする。菜緒葉はそんな弟の軽蔑の視線を涼しい顔で完全に無視すると、膝をついて血混じりの荒い息を吐く真希の方へと歩み寄り、さも善良な女中のような顔を作って媚びっ媚びに微笑みかけた。
「真希ちゃんもメロン食べる? 一番甘いトコをあげるから♡」
「えっ、菜緒葉ちゃん??????」
──直哉が困惑しているが、コイツは皮ギリギリの硬い部分でも食べていればいい。10歳以上年下の女の子をいじめて愉しむカスなんだから、メロンの分け前があるだけでもありがたく思うべきだ。
「怪我の方も、他の人に内緒にしてくれるなら、女中部屋の方でこっそり手当てしてあげますわよ♡♡♡」
「ちょい待って菜緒葉ちゃん……」
普通に治療するのは勿論だが、菜緒葉にはちょっとした切り傷や打撲を治す力がある。呪力を持たない同僚にマウントを取っていると思われて浮くのが嫌なので、誰にも言っていない。そういえば直毘人や直哉にすら言っていないレベルだが、真希相手なら使ってもまあいいだろう。ぼっちだから告げ口の相手もいないはずだし、弟が傷つけたお詫びだ。
しかし荒い息を整えながら、真希の眼鏡の奥の双眸はまるで汚物でも見るかのようだった。
「……触んなよ」
真希は気づいていたのだ。菜緒葉がずっと物陰からこの蹂躙劇を眺め、あまつさえ暗い熱を孕んだ瞳を向けていたことに。
とはいえ、まさか自分に対して歪でよこしまな感情が向けられているとは常識的に考えて気づく訳がない。直哉の超レアな洋服姿にでも発情しているのだろうと思って終わりだった。
そして何より最悪なことに、菜緒葉の容姿は真希の半身である真依に少し似ている。真依は綺麗系、菜緒葉は可愛い系で系統は違う。ただし骨格や目元の造作といった根本的なパーツは割と近いのだ。
つまり、菜緒葉は真希自身にも似ていた。
結婚する気も責任を取る気も一切なく、ただ自分の退屈凌ぎと欲望の捌け口として女に手を出している最低最悪な従兄。そして、そんな男の三歩後ろを嬉々として歩き、甘い声を出している醜悪な女中。
客観的に見て、論外の男と論外の女の組み合わせだ。
そして禪院家に長居すればする程、真希はそこに近づく。
だから真希は菜緒葉を睨んだ。
心底けがらわしい、と真希の目は雄弁に語った。保守的な母を悲しませることになろうとも、この女のように朽ちていく人生など絶対に御免だ──と。そういう真っ直ぐな感情が、表情に全部出た。
そしてそんな真希の「テメーらみたいな連中とは根本的に生きる世界が違うんだよ」と言わんばかりの拒絶を浴びながら、菜緒葉の胸のうちはまだドキドキと高鳴っていた。
あまりの若さと圧倒的な青臭さ、そしてどうしようもない誇り高さ。それがもう、眩しくて仕方ない。心の奥底がじりじりと焼ける。
ずるい。ずるいずるいずるいずるい。
絶対的な当主である直毘人が、この小娘に呪術師の端くれとしての居場所という温情を与えたのは何故だろう。あの人もやっぱり菜緒葉と同じ眩しさを真希に感じたりしたのだろうか。もし実の娘である菜緒葉が同じように「強くなりたい」とワガママを言ったとして、直毘人は許してくれただろうか。それを確認をする手段はもう失われている。だって何もかもが手遅れなのだ。菜緒葉は高校という外の世界を知る機会すら与えられず、この年齢になってしまった。今更どれだけ未練を持とうと、どれだけ真希を呪おうと、菜緒葉の止まった時計の針が動くことはない。
──やがてふらつく足でふらりと立ち上がった真希は、メロンの乗った盆を持った菜緒葉にも直哉にも二度と振り返ることなくその場から去っていった。その背中はひどく小さく、しかし決して折れてはいなかった。
サディスティックな部分を刺激され、余計にときめいてしまう光景だ。嫉妬と興奮と感嘆が交じり合う。
「直哉、あなたったら人の心とかないの? ひょっとしたら磨けば光るダイヤモンドの原石かもしれませんわよ? なのにあんなにボロボロにしてしまって。もっと大事に磨いてあげたらいいのに」
菜緒葉はほとんど無意識のまま、熱を帯びた頬を紅潮させ、うっとりと夢見るような甘ったるい笑みを浮かべながら、縁側に座って冷たいメロンを頬張り始めた直哉にそう進言した。
しかしそんな菜緒葉の顔を見た直哉は、露骨に気味の悪いものでも見るような目を向けた。
「……人の心ないのは君の方やろ。非道い女やね。何ウットリしとんねん」
直哉は本心から理解不能というような顔をし、やがて呆れ果てたように長いため息を吐き出した。普段の直哉なら面白くなく思うどころではないし、苛立ちを露わにする場面だ。しかし菜緒葉の表情は、身内からするとあまりにも直視しづらい代物だった。ドン引きだった。ドン引きしつつも、直哉は彼なりに姉の表情に対する解釈をつけた。
「可哀想やなぁ。菜緒葉ちゃんは甚爾くんに会うたことないんやもんね」
「……はい?」
「あんな出来損ない見て、原石やのなんやのって喜んで。本物を知らんっちゅうのは悲しいなぁ」
「……」
直哉のその一言は思いのほか鋭く菜緒葉の心を抉った。
菜緒葉の全てを否定するほどに強烈な光を放っていた、あんなにも眩い真希の存在が直哉の尺度においてはただの出来損ないのゴミに過ぎないのだとしたら、最初から戦うことすらしていない菜緒葉は、一体直哉の目にはどう映っているのだろう。
菜緒葉は直哉のせいでこうなったのに。
沈黙し、静かに俯く菜緒葉をしばらく胡乱な目で見つめていた直哉は、やがて興味を失ったように急に話題を変えた。
「そういえば、あれからもう何年めやっけ。俺がそろそろもっとええダイヤ、買うたろか?」
直哉の視線の先にあるものに気づき、菜緒葉はそっと自らの首元、ペンダントの華奢なチェーンに触れた。
今、自分の首筋で燦然と輝いている、かつて与えられた一粒のダイヤモンド。直哉も自分もまだ子供と言える年齢で、直哉も今ほど救いようがない人格ではなくて、曇りなく優しかった頃の思い出。
これこそが這いつくばって生きてきた菜緒葉の人生における唯一のトロフィーであり、この世で一番大切な、自分だけの首輪だ。
「……私の身分では、そのような立派なものは分不相応でしょう」
波立つ感情を虚ろな瞳の中に封じ込めて、菜緒葉は完璧な従者の微笑みを張り付けて言った。そして、それに対して弟が浮かべた表情を見て、初めて弟のことを怖いと思った。
──その後、菜緒葉が直哉の元を辞して躯倶留隊の詰所へ残りのメロンを運んでいったのは、予定の時間を少し過ぎてからのことだった。
「おせーぞ菜緒葉! 待ちくたびれて干涸びるかと思ったぜ」
「ごめんなさいね、信朗様。直哉様がどうしてもとお引き留めになるから、私、すっかり逃げ遅れてしまって……」
菜緒葉は困り果てたような可憐な顔を作って、小さくため息をついてみせる。
息をするように滑らかに全責任を直哉へと転嫁してしまったが、直哉にはもうこれ以上下がるべき評価など存在しないのだから、なんの問題もないだろう。
◇
真希が禪院家にいれば、菜緒葉は真希を近くで見ることができた。直哉が真希を虐げる場面も真希が立ち上がる場面も、全てが菜緒葉の手の届く範囲にあった。だが、菜緒葉が真希を見る権利はあっという間に奪われてしまった。
「菜緒葉さん、菜緒葉さーん……」
「……」
「放っといてあげなよ。菜緒葉さんは彼氏(?)が10代の子に暴力を振るうヤバ男だったから傷心中なんだよ」
心ここにあらずなまま里芋を洗い続ける菜緒葉を見て、後輩達は囁き合う。
「ところで聞いた? 真希、東京の呪術高専に行くんだって」
「ええっ? 呪術高専って御三家の人間は行かないんじゃなかったの?」
「いやいや、行けないと行かないは違うでしょう。それにほら、東京校へ行けばあの五条悟が後ろ盾になるから……」
「ヒィッ、五条家当主の!」
水を張ったボウルの中で里芋の泥を洗い落としながら、真希の名前が出たところで少し我に返り、菜緒葉は後輩2人の会話にぼんやりと耳を傾けた。冬の水道水は芯から冷たく、指先の感覚を奪っていく。
五条悟。呪術の専門的な技術知識が欠如した菜緒葉でも、その名前の重みくらいは知っている。直毘人が酒を飲んで機嫌が悪くなるたびに、「あの白髪のクソガキが」と憎々しげに悪態をついている現代最強の呪術師だ。
──直毘人にとっての五条は政治的に邪魔なだけでなく、10億で買う気だった恵を持って行った下手人でもある。そしてついでに亡妻の双子隠蔽についても、五条誕生と時期が近くなければ起こらなかった可能性が高い。凶兆の誕生する可能性について、五条が生まれた矢先のことでなければ、直毘人だって全く気にせず受け入れられていた。妻を思い詰めさせることもなかっただろう。つまり五条さえいなければ、直哉と菜緒葉の父親としては非常に頭の痛い関係も、そもそも存在しなかったのだ。
しかしそんなこととはつゆとも知らぬ菜緒葉は呑気に「いやぁ、そんな人も真希ちゃんの魅力にメロメロですのね♡」と異常者特有の想像を巡らせた。そして菜緒葉が見ず知らずの五条へと最低最悪の濡れ衣を脳内で勝手に着せているあいだにも、会話は続く。
「当主様はよく許したよね」
「あの方は破天荒なところがおありだから。それに、真希なんてこの家にいたってどうせ婿の来手もないんだし……」
菜緒葉は「真希ちゃんに相応しい男なんて、禪院家とかいうドブカスハウスには存在しませんからね! というか男なんかに真希ちゃんを取られるなんて……」とクソみたいなことを考えていたが、そこまでで有紗の軽口がふつりと途絶えた。振り返らなくともわかる。板場の入り口、敷居を跨ぐ手前の廊下に、女中頭が音もなく立った気配がした。
「朝の膳はどうなっていますか」
どんな顔をしているだろうかと思って振り返ると、灰茶の着物の衿は寸分の狂いもなく合わさり、結い上げられた髪には一糸のほつれもない。実の娘が当主に直談判をして、勘当同然でこの家を飛び出していったというのに、その顔には一切の悲哀が浮かんでいなかった。この人はどんな時でも禪院の女としての型に、己の魂ごと押し込めている。
菜緒葉は素直に尊敬の気持ちを深めた。「お義母さん、真希ちゃんをこの世に生み落としてくださってありがとうございます♡」と。
しかし表面上は普段通りを装う。
「奥様、おはようございます。焼き物はあと二枚、汁は仕上げに入っております」
「炙りが強い。手前の1枚!」
「……申し訳ございません」
女中頭は冷ややかな目で板場を一巡りし、誰の目も見なかった。空気が凍りつく。有紗が真っ青な顔で縮こまったまま「あの、奥様」と震える声を絞り出した。このままだと有紗は先ほどの余計な私語を咎められ、烈火のごとく叱責される。菜緒葉は手元の里芋を冷たい水の中へ沈めると、あえて明るく、日常の延長にある軽い調子で声を張った。
「奥様、真依ちゃんの業務の引き継ぎについて、午後休憩のときに30分ほどお時間をいただけないでしょうか?」
女中頭が目だけで菜緒葉を見た。真希に合わせて双子の妹である真依も京都の呪術高専へ放り出されることが決まっていたのだ。
「……引き継ぎ?」
「ええ。真依ちゃんがこれまで担ってくれていたお仕事、そのままにしておくわけには参りませんでしょう? 私たちで分担を決めたいのです」
女中頭は数秒だけ無言で菜緒葉を見つめ、やがて小さく顎を引いた。
「……午後2時に私の部屋へ来なさい」
それだけ言い残して御膳所を去っていく。張り詰めていた空気が一気に緩み、後輩たちが深い安堵の息を吐き出した。
菜緒葉のシフトは多岐にわたる。本家用の御膳所での調理と酌、母屋の清掃監督、そして月に数度回ってくる深夜の賄い。呪力のおかげで体力があるのをいいことに、「直哉の愛人だから贔屓されている」などと悪口を言われないよう、面倒な仕事は積極的に引き受けるようにしているのだ。それだけでも手一杯だというのに、問題は山積みだった。
その日の午前中、母屋の廊下を雑巾掛けしていた菜緒葉の耳は、障子の向こうから聞こえてくる『灯』の男たちの雑談を拾った。
「はぁ……4月になったら真依ちゃんも京都に行っちまうんだろ? 詰所の茶汲み、これから誰がやんだよ」
「新人の下っ端にやらせりゃいいだろ。湯呑み洗いも灰皿の片付けも、元々は俺らが新人の頃にやってたんだから」
「馬ッ鹿、かわいい女の子に入れてもらう茶の方が美味いじゃねえか。座布団の支度だって、あの歳にしちゃ色気のある真依ちゃんがやると華があったのに」
「にしても、実の親父の扇様も冷てえよな。そういやあの子、いっつも物置みたいなとこへ行って着替えてたけど、今にして思えば専用の着替え場所くらい、あの人の口利きで用意してやりゃ良かったんじゃねえのか? 実の娘なんだし」
「当主様が『真希が躯倶留隊に行くなら真依も入れとけ』って現場に丸投げしただけだからな。扇様からすりゃ、あの双子は家の恥だ。最初から呪術師目指して欲しいなんて思ってなかったんだろ」
菜緒葉は雑巾を絞る手を止め、隣で同じく床を拭いていた後輩の菫と顔を見合わせた。男たちの声に悪意はない。しかし呼吸をするような自然さで真依を軽んじている。その無自覚さが女の身には酷くグロテスクに響いたのだ。
午後1時半。女中部屋での短い休憩時間。
湯呑みから立ち上る茶の香りを嗅ぎながら、菜緒葉は後輩や同僚たちから、真依の穴埋めという名目で彼女の業務の実態を洗い出していた。
「それにしても真依ちゃんのやってた仕事って面倒ですわね。頭が痛いですわ」
菜緒葉がわざとらしくため息をつくと、菫が心底嫌そうに口を尖らせた。
「呪具磨きは絶対に躯倶留隊の下っ端に押し付けるとして、備品台帳の写し、祝儀の水引の下拵え……極めつけは任務報告書の清書の手伝い! まさかこれも全部こっちに回ってくるんじゃないでしょうね!」
別の女中が肩をすくめる。
「仕方ないじゃない、真依様がいなくなるんだから。女の子がいれば『お前がやれよ』って押し付けられるのが、ここにいる男の暗黙の了解でしょ」
分担を見直すべき業務など、せいぜい稽古着の洗濯や住み込みの術師へ膳を運ぶことくらいだと思っていた。しかし実態は違った。可哀想に、『灯』での真依は完全なパシリだったのだ。女中に頼むか男の下っ端にやらせるかが曖昧なグレーゾーンの雑務は、ことごとく断れない小娘である真依に集中していた。このまま放置すれば、それが正式に女中の仕事として定着しかねない。
菫が顔をしかめて呟く。
「真依のやつ、本家の血筋だからってお高く止まってると思ってましたけど……ちょっと可哀想かも。女の子が配属されたっていうのに、専用の着替え場所ひとつ用意してあげなかったなんて知りませんでしたよ」
「私も正直、こういうのは常識的に考えて、扇様が父親としてどうにかすべきだと思いますの」
「そういえば、真依に親切に声かけてたのって、大体下心のありそうな連中ばかりでしたよね。気持ち悪っ」
「……」
「でも真依ったら、そういう男も上手くいなしてて。上手に女の武器使って男に囲まれて、図太いっていうかなんというか……」
菫の無邪気な残酷さに、菜緒葉は湯呑みの縁に口を当てたまま、冷ややかに目を細めた。
現場を見たことはないが、真依の内心は概ね想像はつく。将来のリスクが透けて見える男たちの親切をギリギリのラインで躱し続ける。それがどれほどの精神的摩耗を強いるか、菜緒葉には痛いほどよくわかっていた。菫も将来、もう少し悪い目に遭えばわかるようになるだろう。術式を持ち、両親に愛され、『炳』に兄がいる菫なら、わからないままで終われる可能性もそれなりにある。わからない方がいい。この家では、賢明さとは絶望と同義なのだから。
そして午後2時になった。
菜緒葉としては、気が重いどころではなかった。
思っていたよりも真依は搾取されていたし、菜緒葉はこれから真依の実の母親に向かって「あなたの娘は術師とは名ばかりの使い走りでした」と突きつけなければならない。しかも「可哀想ですね」と泣いて終わる話ではなく、「なので今後の分担を確定させましょう」と実務を迫らなければならない。さらにこの雑務群の発生源は『灯』なので、確実かつ円滑に物事を進めるためには、女中頭を通して身分の高い術師である扇に働きかける必要がある。
つまり菜緒葉は女中頭に「あなたの夫が娘を放置した結果の後始末を、あなたの口から夫に言ってください」とまで頼まなくてはならないのだ。
妻がその話題を夫に持ち出すことが夫婦間にどれだけの摩擦と屈辱を生むか。それがわからない程、菜緒葉は愚かではない。
それでも、女中頭の私室に足を踏み入れた菜緒葉は静かに襖を閉め、業務リストを手渡して切り出した。
「真依ちゃんが抜けた穴の業務、すべてを私ども女中で抱え込むのは、人員的に厳しいかと存じます。稽古着の洗濯や修繕と膳の用意は問題ございませんが、筆仕事と備品台帳については『灯』の事務方にお任せしたいのです。報告書の清書や呪具の管理についても、当然、術師の皆様のご領分でしょう」
部屋には沈香の匂いが微かに漂っていた。茶の湯の道具や書類が、主人の精神を反映するように一点の狂いもなく収められた空間。背筋を真っ直ぐに伸ばした女中頭は手元のリストから目を離さないまま、感情の消えた声で言った。
「はっきり言いなさい。扇を使って、男達に話を通せと言いたいのよね」
「ええ。私たちは、術師の方々の仕事を請け負える程暇でもお人好しでもございませんの。女には女の仕事があるのだから、面倒なことは全部女任せでいいと思われては困ります」
率直すぎる物言いに女中頭はゆっくりと顔を上げた。冷徹な双眸が菜緒葉を射抜く。
「……いつのまにか図太いことを言うようになったわね」
「ふふ、お褒めにあずかり光栄ですわ」
菜緒葉は表情を崩さず、しかしわずかに口元を和らげて微笑んでみせた。
「でもね菜緒葉、この家の男に『これは術師の仕事です』と言って、素直に通ったためしはありません。あの人達の頭の中では、仕事というのは呪霊を祓うことだけです」
「硯を洗うのも台帳を写すのも、あの人達の分類では仕事ではない、と」
「……そうよ」
──では、私たちが毎日している料理と掃除は?
喉まで出かかったその問いを菜緒葉は理性で呑み込んだ。いつか直哉だって直毘人だって、自分の完璧な奉仕を認めてくれるかもしれない。
まだ一度も、褒められたことなどないけれど。
その自己欺瞞の惨めさはきっと目の前の女中頭も同じなのだ。静かな沈黙が降りた後、女中頭は再びリストに視線を落とした。
「扇には、『非術師の手には余る』とでも言っておきましょう」
菜緒葉は「はぁ?」と思ったが、目の前の女にそれを言っても話が通らないことくらいは理解していた。
これでも女中頭なりの譲歩であり、家父長制のルールに則った上での精一杯の抵抗なのだろう。
◇
禪院真依とは10年近く同じ屋根の下にいた。膳も菜緒葉が作っていた。それでも菜緒葉は、彼女の顔をマトモに見たことが一度もなかった。
食べ物の好き嫌いはある程度知っている。たとえばどんなおかずを残しがちか、とか。けれどもそれだけだ。
廊下の先に呪力の気配を感じただけで、あるいは遠目に見かけただけで、菜緒葉はくるりと向きを変えて別の道を選んでいた。それが自分は幸福なのだと信じ込みながら禪院家で過ごすため、自らの肉体に染み込ませた防衛本能だった。
──それを初めてやめてみた。
理由は自分でもうまく言えない。引継ぎの用事があるのは事実だが、真依の日常についてなら後輩の菫の方が詳しいのだから、彼女に頼めば済む話だ。
だからきっと、本当はただ──真希という強烈な光の半身である真依という少女と、一度言葉を交わしてみたかったのだと思う。
近くで向き合った第一印象には、真希を物陰から覗き見たときのような、脳髄が焼かれるほどのトキメキや衝撃は一切なかった。パーツの造作は同じはずなのに、目の前に立つこの娘の在り方は、明らかに菜緒葉の側に近い。黒髪を内側に巻き込んだ短い髪が、俯いた頬の線に沿って揺れている。
菜緒葉は「顔じゃなくてソウルなんですのね!」と身勝手なことを考えていた。なお、一卵性双生児は呪術的には同一人物なので実は魂も同質なはずである。
「あんた誰」
「御膳所の菜緒葉と申します」
名乗ると真依の目の中で何かが噛み合ったようだった。
「ああ。直哉と週1でヤッてる女ね」
「……」
子供相手に腹を立ててはいけない。この程度の毒舌、直哉に比べれば子猫の戯れのようなものだ。菜緒葉は口元に張り付けた笑みを一切崩さず、そのまま真依を見つめた。
「で、私に何の用よ」
「賄い場の方で、あなたが運んでくださっていた術師の皆様がたのお膳のことですの」
「……運ぶだけでしょ。適当に手の空いてる下っ端にやらせればいいじゃない」
「本当にそれだけで済むかしら? 気をつけるべき配膳の順番や、お声がけのタイミングがあるでしょう。誰がどの時間帯に機嫌を損ねやすいか、誰の近くに寄ると手癖が悪くて危険か。そういうの、ご存知なんでしょう?」
菜緒葉が皮肉ではなく純粋な実務として問うと、真依は酷く冷ややかな声のまま渋々といった調子で最低限の注意点を口にした。扇の視界には極力入らないこと。特定の隊士には盆を置いたら1秒でも早く離れること。
すべてを突っぱねて完全にシャットアウトしてしまうほどの無軌道さを、真依は持ち合わせていない。根が繊細で、周囲の顔色を窺って生きる術を身につけてしまっているのだ。
「ご親切にありがとう。助かりますわ」
菜緒葉がにっこりと微笑むと、真依はそれ以上何も言わず、足早に去って行った。
それ以来、菜緒葉は廊下ですれ違う際や、真依が重そうな荷物を抱えて歩いている時など、あえて自分から歩み寄るようにした。「重そうね、半分持ちますわ」と軽やかに手を貸し、完璧な女中の笑みを浮かべて世間話を振る。
「そういえば真依ちゃん、もうすぐ京都校へ入学ですわよね。おめでとう。新しい制服の採寸はもう済んだの?」
ある日の午後、菜緒葉は小首を傾げてそう言った。春の足音が近づいているとはいってもまだ底冷えのする風が吹き抜ける中、真依はあからさまに嫌悪感を剥き出しにして細い眉をひそめた。
「……あんたに祝われる筋合いなんてないんだけど。大方、私が家を追い出されてせいせいしてるんでしょ」
「そんなことありませんわ。寂しくなるわねって、みんなで話していましたのよ」
「嘘ばっかり。馴れ馴れしい顔して、気持ち悪い」
吐き捨てるような真依の言葉は、相変わらず拒絶に満ちていた。滅茶苦茶な塩対応である。直哉の愛人めいた立ち位置の(と周囲からは見られている)菜緒葉からの「おめでとう」など、真依にとっては下劣な嫌味にしか聞こえないのだろう。
だが、菜緒葉だってずっとサンドバッグのように聖母でいられるわけではない。
「周囲から嫌われていると思うなら、せめて嫌われないよう賢く立ち回ればいいじゃないの。あなた、すぐにそうやって尖った言葉で突っ返して、周りの気遣いや歩み寄りを弾き飛ばしてしまうでしょう。それでは損をするばかりよ」
「何よ、説教? あんたこそ、自分の男が真希に何したか考えることね……!」
「……ごめんなさい、真希ちゃんのことは」
流石の菜緒葉も罪悪感のようなものを覚えた。真希の妹の目線からすると、直哉のやってきたことが許せないのは当然だ。そして菜緒葉も事後共犯のようなものである。しかしこの反応が意外だったらしく、真依は困惑したような、悔しそうな顔をした。
「……謝るんなら真希に謝りなさいよ」
「いないから、謝れないじゃない」
菜緒葉が気を取り直して事もなげに返すと、真依はギリッと唇を噛んだ。
「あんた、その減らず口でなんで直哉と付き合えてるの? みんな言ってるわよ。さっさと飽きられて解放してもらえって。このままズルズル囲われたままじゃ箔も落ちて、縁談の格もどんどん下がっちゃうでしょ」
「私は直哉しか知らないし、他の男だってみんなが言うほど直哉と大差ないんですのよ。なんなら直哉が一番安心なの、私にとっては」
これは嘘偽りのない本心だった。
直哉は本当は弟なのだから、最悪の事態は何も起こらない。それに対して他の男たちはどうだ。すれ違いざまに不快な熱を帯びた視線を向けてきたり、狭い廊下でわざと肩が触れる距離を歩いてきたりする。「直哉が飽きたら俺が引き受けてやる」と下卑た笑い声を上げていた輩さえいる。
周りが勝手に妄想しているような淫らな真似を、直哉は一切やっていない。むしろ、そういうことを平気で口にできる他の男たちの欲望の方が、よほど薄汚くて悍ましい。顔も知らない男の下へ宛てがわれる嫁入りという名の奉公に出たくない気持ちは、日を追うごとに増すばかりだった。
そもそも、ようやく戻れた自分の本来の家から、何が悲しくて出て行かなくてはいけないのか。仕事が上手く行って、女中頭からは新人の指導と作法の教育を任せて貰えるようになってきたというのに。
術師の家へ嫁になんて行けば、それはただの労働力としての隷属だ。禪院のちまちました給与テーブルの範疇とはいえ努力の甲斐あって順調に上がってきていた給金は完全にストップするし、子供ができた後にここへ戻れる保証もない。いいことなど何一つとして存在しないのだ。
この箱庭の中で、直哉の気まぐれな庇護のもと、一体いつまでこんな綱渡りのような独身生活を続けられるかって?
それは──。
「だからあんた、時々……もう死にたいっていうみたいな目をするのね」
ふと、真依が毒気を抜かれたような冷たくて静かな声で言った。
心臓がトクンと不自然な音を立てた。
この子は一体何を言っているのだろうかと、菜緒葉は本気で思った。
死にたいと思ったことなど、多分一度もない。菜緒葉は本当の家族と一緒にいられさえすれば、他の何もいらないのだ。
それなのに、真依の切れ長の瞳に映る自分の顔は、どうしてこんなにも、ぽっかりと穴の空いたような虚無を浮かべているのだろうか。
──ああ、真希のせいか。
真希を見てから何にも満足できなくなった。ありふれた日常を美しいと思えなくなった。日に日に世界が醜く思えるようになった。そしてその劣化には際限がない。
禪院真希だけが唯一、美しく思える形をしている。
彼女の行動は非生産的で、感情的で、愚かだった。届かない高みに向かって負けても踏まれても手を伸ばし続けることに、何の意味があるのか。けれども真希の真っ直ぐさは、菜緒葉が心から愛せた頃の直哉に似ていた。そしてあの輝きは、誰が認めずとも価値のあるものだった。
真依が京都校の寮へ発つ日が目前に迫った、3月の夜のことだった。漆器を収める蔵の施錠の最終チェックを終え「直哉をどう言いくるめればジョジョ3部のアニメ録画を少しでも見せてもらえるか」の策略を必死に練りながら弟の部屋に向かっていた菜緒葉は、廊下の先の壁際でとんでもない光景に行き合った。
直哉が真依を壁に押し付けるようにして立ち塞がり、逃げ場を完全に塞いでいる。距離が異様に近い。薄闇の中、直哉が身を屈めるようにして真依の耳元へ顔を寄せていた。直哉の手が真依の髪を撫でていたのか、首筋を這っていたのか、菜緒葉の位置からは判然としない。
ただ、壁に縫い付けられたように動けない真依の華奢な肩が、小刻みに震えているのだけが見えた。
何を話しているのかはよく聞こえない。けれども少しだけ聞こえた言葉があった。
「……で、真依ちゃん。生きてるだけで姉の足手纏いってのはどんな気分や?」
底意地の悪い囁きだった。ポロポロと真依の頬を涙が伝い落ちていくのが見えた。直哉が気まぐれな退屈凌ぎの嬲り方をしているだけなのか、真希への苛立ちを同じ顔の真依にぶつけているのか。それとも手を出そうとしているのか。菜緒葉にはわからなかった。わからなかったけれど、真希の時のように見ているだけというのはもう嫌だった。
それをやったら、今度こそ人間として後戻りが効かなくなる気がする。
菜緒葉は殊更に大きな足音を立てながら、2人の空間へと足を踏み入れた。
「直哉様。こんな夜更けに真依ちゃんを捕まえて、何のお話ですの?」
努めて明るく装いつつも、少しだけ硬い声が出た。直哉がゆっくりと首を巡らせる。その冷たくギラギラと光る瞳に見下ろされた瞬間、菜緒葉の心臓は恐怖で冷たく跳ね上がった。動物園で見たライオンの眼にそっくりだった。美しい獣だと思った記憶があるが、今はこんなに醜い。
「……なんや、菜緒葉ちゃんか」
直哉は真依から離れず、それどころかその手首を乱雑に掴み、つまらなさそうに目を細めた。
「……」
「菜緒葉ちゃんは俺の部屋で待ってて。もうちょいしたら行くわ」
真依の肩がビクッと跳ねた。その言葉が意味する内容の悍ましさに対してだろう。菜緒葉は奥歯を噛み締め、震えそうになる膝を必死に堪えて、真依の細い手首を掴んだ。
「ごめんなさい、直哉様。……今日は、直哉様のお部屋には行きたくありません」
「は?」
直哉の機嫌が一気に冷える。逆らえばどうなるか──過去に直哉に逆らった女中達の運命に関する無数の記憶が菜緒葉の脳裏をよぎったが、真依の腕を引いた手は離さなかった。
「真依ちゃんはもうすぐ京都に行ってしまいますから。少しだけ、女同士でお話をしたいんですの」
直哉はしばらくの間菜緒葉と怯えて俯く真依を交互に見比べていたが、やがて完全に表情を失った。そして頬を軽くペチンと叩かれる。じゃれつくのと同じような力加減なのに、今の菜緒葉にとっては抜群の示威行為だった。足ががくがくして止まらず、キャパオーバーした頭の中で「逃げなきゃ」と思った。体はそれを拒否した。真希を相手に最悪なことをした分、せめて真依を助けたかった。
菜緒葉が前言を撤回する気配がないことを確認すると、直哉は蔑みの表情を浮かべた。
「……勝手にせえや」
そう吐き捨てると直哉は忌々しげに暗い廊下の奥へと消えていった。
足音が完全に聞こえなくなってから、菜緒葉は深く息を吐き出した。冷や汗がじっとりと背中を伝っている。
けれども、真依を助けられたと思った。
間に合ったのだとも思った。
何かあったのか、何もなかったのか。何もないと考える程には、菜緒葉は弟を信頼していなかった。一方で何かがあったとして、今日が初めてじゃないかもしれないというようなことは、菜緒葉は1ミリも考えなかった。直哉は大抵後ろ盾のない外部組に手を出していたし、それも数年前までのことだった。あるいは、直哉をこの世の誰よりも最優先で考えたいという気持ちが、まだ残っていたからかもしれない。
「……行きましょう、真依ちゃん」
菜緒葉はそのまま真依の手を引き、すっかり火の落ちた無人の御膳所へと向かった。こういう時に1人で自分の部屋に帰らせるのはよくないと思った。そうなると思いつくのは、菜緒葉の聖域である厨房しかなかった。男は絶対入ってこない、暴力からかけ離れた最も安全な場所だ。真依は抵抗しなかった。ただ、されるがままにふらふらと歩いた。
先ほどまで直哉が触れていた真依の細い手首を握りながら、菜緒葉は考えた。こんなふうに、単なる女中である自分如きが真依に何かをしてやれるのは今だけだ。真依はもうすぐ呪術高専へ行って、真希と同じように、菜緒葉とは完全に別の世界の人間になる。男の呪術師達と同じように、女中など簡単に殺してしまえる程に強くなってしまうのだろう。
菜緒葉にだって呪力はある。中学校の女子トイレの個室にぎゅうぎゅうに詰まっていた巨大な呪霊を命からがら祓ったことがあって、あの時はすごくいい気分だった。しかしどんなに呪力があろうとも、菜緒葉はただの女中として引き取られたのだ。自分の仕事をまっとうするほかない。それなのに真依は高専への切符を手に入れている。
羨ましい。
菜緒葉だって本当は高校へ行きたかった。
青春したかった。
でも、直哉に嫌われると思うだけで恐怖するような弱虫の菜緒葉には、呪霊退治を仕事にするなんてどだい無理なのかもしれない。
真依は立派だ。あの真希と並んで双子で呪術師を目指せるなんて、本当に羨ましい。真依みたいになりたくて仕方ない。
菜緒葉は薄暗い厨房に灯りを入れると、鮮やかなオレンジ色をした熟れたマンゴーのカットを冷蔵庫から取り出して、真依へと皿を取り出した。口に入れるだけで花の香りのような味がして、とろけるように甘い果実。こんな高級甘味は双子の膳には滅多に載らないから、これを食べれば少しは気持ちも落ち着くだろう。
「ほら、これをお食べなさい。夕餉のデザートの余りだけど、特別ですわよ?」
菜緒葉は笑みを浮かべた。
本当は自分用にこっそり余り物を確保していたのだが、最低な弟のせいで物凄く怖い目に遭った真依のためだから仕方ない。
「私はね、奥様──真依ちゃんのお母様にはいつもお世話になっているの。あの方もね、私が新人の頃、仕事で大きな失敗をして御膳所の隅で泣いていた時に、こうしてこっそり食べ残しのマンゴーを切って慰めてくれたことがあるのよ。甘いものを食べれば、男達の嫌な言葉なんて少しは忘れられるって」
「……」
泣き止まない真依の背中を菜緒葉は優しく撫でた。自分でも驚く程にその声は甘かった。自分の中の汚い嫉妬に負けず、真依を応援できている。そのことに少し安心する。
「そもそも呪術高専へ行ってしまえば、こんな小さい場所の人間関係なんて、きっとすぐにどうでもよくなりますわ。向こうでお友達を作って一人前の呪術師になって自活し始めれば、この家を出て真希ちゃんと2人暮らしするのだって視野に入ってくるでしょう。みんな色々言ってるけれど、本当は羨ましいのよ。嫉妬して真依ちゃんの陰口を言ってるだけなんだから」
「……」
真依の肩が大きく跳ねた。
「奥様だっていつもは厳格な方だけれど、きっと心の中では、あなたのことを誰よりも誇らしく思っていらっしゃるはずですわ。真希ちゃんのことについても……厳しくしないと示しがつかないからそうしているだけかもしれないって、たまに思うことがあるの」
「……」
「次期当主──はアレだけど、真希ちゃんはきっとあなたと奥様の居場所を作りたくて、きっとあの子なりに考えているのでしょう。だから2人で一緒に、きっと立派な呪術師になってね」
本当に双子のきょうだいと一緒に呪術師になりたかったのは菜緒葉自身だ。だから羨ましさを必死に押し殺し、弟のせいで怖い思いをした女の子を慰め、その身内を丁寧に褒める。真依はいつか、菜緒葉が本当に欲しかった全部を手に入れるかもしれない。そう思いながら菜緒葉は、フォークを持ったまま泣き続ける真依の手首にできた痣に気がついた。直哉がやったのか、それとも自分か。菜緒葉は流れ作業のように真依の手首をそっと取り、正のエネルギーを流し込んだ。尤も、正のエネルギーという概念は菜緒葉の中にはなく、単に呪力を軽くヒューッとやってヒョイッとすると、何故だか傷を治せるという認識しかないのだが。
すると真依の泣き声が大きくなった。彼女は俯いたままとめどなく涙をこぼし続けた。先ほど直哉に接近され、酷い言葉を投げつけられていた時よりも、もっと深く絶望的な嗚咽を漏らして。
何故そんなに泣くのか、菜緒葉には全く理解できなかった。菜緒葉は静かに微笑みながら、いつまでも、いつまでも泣き続ける少女の背中を、彼女が苦しげな顔をしてマンゴーを食べ終えるまで、ただ優しく撫で続けていた。