音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
真依も京都の呪術高専へと発ち、屋敷から双子の姿は完全に消え失せた。
屋敷の者はこれを数日噂し、すぐに忘れた。
あれだけ劇的な対立の予感を孕んでいたというのに、菜緒葉と直哉の関係についても、拍子抜けするほど元通りになっていた。
真依を助けるために直哉を初めて拒絶した翌朝。菜緒葉はいつものように完璧に身だしなみを整え、直哉の好きな出汁巻き卵を少しだけ甘めに焼き上げて、側仕えの子にお願いして彼の部屋へと膳を運ばせてもらった。
怒られるか、あるいは膳ごとひっくり返されて熱い味噌汁を浴びせられる覚悟だった。しかし直哉は不機嫌そうに舌打ちをしただけで、何事もなかったかのようにあっさりと箸をつけたのだ。
おそらくは互いに、相手の存在が己の日常に深く根を張りすぎているためだろう。菜緒葉にとって直哉が依存対象であるように、直哉にとってもまた、菜緒葉という絶対的に従順なサンドバッグを手放すのは、あまりにも面倒で不都合だったのだろう。
結局のところ、2人は同じ泥沼に首まで浸かって互いの体温で暖を取り合っているようなものだった。その居心地の悪さと得も言われぬ安心感は、他の誰にも代用が利かない。
「それにしても、真希ちゃんのあのミニスカは良くないと思いますの。ミニスカにルーズソックスなんて、わた、ゴホン、殿方の劣情を刺激しちゃいますわ!」
春のうららかな陽光が差し込む縁側で、菜緒葉は新茶の入った湯呑みを両手で包み込みながらため息をついた。隣に座る直哉は菜緒葉の運んだ東京にある有名店の高級な桜餅を無作法に指でつまんで頬張っている。
呪術高専の制服は生徒の要望に合わせてある程度カスタマイズが可能らしい。その情報をどこからか仕入れてきた直哉が、暇つぶしに菜緒葉に共有したのが事の発端だった。
「その点真依ちゃんは立派ですわよねぇ。ゆるっとしてるのに足首の部分だけキュッとなってるあのよくわからない変なズボン……名前はなんて言うのかしら」
「サルエルパンツ?」
「そうそれ! サルエルパンツは脚のラインも隠れていますし、全然エロくないですし。実用性を重視した堅実なデザインだと思いますわ♡」
菜緒葉が誇らしさすら滲ませてそう評価すると、直哉は桜餅を飲み込み、意地悪く言った。
「菜緒葉ちゃんは夏服のデザインを知らずじまいだったんやね」
「……え?」
「真依ちゃんの夏服、ノースリーブやで。しかも脇のところ、結構ガッツリ開いとるやつ」
「まあ……っ!」
菜緒葉は両手で頬を押さえ、頬を真っ赤に染めた。
「信じられませんわ!真依ちゃんったらとんだむっつりスケベだったのね! ズボンで油断させておいて上を脱ぐなんて──真依ちゃん、恐ろしい子!」
「せやろ?」
直哉が下衆な笑みを浮かべ、菜緒葉もつられてコロコロ笑う。
その光景は控えめに言って地獄だった。縁側で高級和菓子をついばみながらいなくなった従妹たちの制服の布面積についてピーチクパーチクと盛り上がっているこの男女は、れっきとしたアラサーである。あと数年で三十路に手が届こうかという大人が10代半ばの少女たちの服装を「エロい」「エロくない」とまるで思春期の男子高校生が部室でエロ本を回し読みしているかのようなノリで値踏みし、キャッキャと盛り上がっているのだ。この姉弟は完全に、倫理観が崩壊した特級呪物並みのカスと化していた。
「全く、呪術高専の風紀はどうなってるんですの? そんな制服を通すなんて、講師陣も相当なドスケベなんじゃないかしら?」
「全くやわ。悟くんなんて、絶対教え子のスカートとかノリノリで履いとるタイプや!」
自分たちの異常性などは完全に差し置いて彼らは最強の呪術師をこき下ろし、うららかな春の昼下がりを悪意で満たしていった。菜緒葉にとってはこれは楽しいことだった。自分の欲望と審美意識を思うままに口にして、自分がいつもされていることを他人に返す。それによって、弟との距離を元に戻そうとする。醜悪そのものだ。真依の一件について、菜緒葉は必死に忘れようと努めていた。そうしないと直哉を嫌いになってしまいそうだったからだ。
「それでは私は、そろそろお仕事に戻りますわね。夕餉には鰆の西京焼きをご用意しておきますから」
ひとしきり品性下劣な噂話で盛り上がり終えた菜緒葉が立ち上がると、直哉は興味なさそうに手だけをひらひらと振った。菜緒葉は完璧な角度でお辞儀をし、静かに縁側を後にする。
廊下を進みながらすれ違いざまに若手術師の手が腰のあたりに軽く触れたのを愛想笑いと巧みな体の躱し方でいなし、菜緒葉はふと思いを巡らせた。
──この日常は一体いつまで続くのだろう。
最近はよくそのことについて考える。ダイヤモンドの輝きはずっと変わらないけれど、肉体は確実に歳を取る。結婚もせず、子供も産まず、直哉の一番のお気に入りの女中という中途半端で曖昧な立ち位置のままで年月を重ねてきたせいか、菜緒葉を守る防壁は明らかに脆くなっていた。若さを失って「市場価値」とやらは落ちたはずだが、不躾な接触は25歳を過ぎてからむしろ増している。直哉はいつ身を固めてもおかしくない年齢だし、そうなれば菜緒葉はそのうちの誰かに下げ渡されてもおかしくないのだ。
そもそも直哉自身の求心力が乏しいのも良くない。尊敬する上司ならともかく、陰で嫌われている上司の女なら奪っても痛まない。「俺が直哉の冷遇から救い出してやる」とでも言いたげな善人面で言い寄ってくる男たちの対処が、菜緒葉にとっては最も不快で厄介であった。
背中へ伸びてきた別の男の無遠慮な手を、小走りと引きつった笑みで躱し、御膳所へ逃げ込もうとした矢先──凛とした冷ややかな声を掛けられた。
「菜緒葉」
「ああ、奥様! お疲れ様でございます」
菜緒葉が慌てて深々と礼をすると、女中頭──真希と真依の母は、影のある瞳で小さく息を吐いた。
「……最近、男達のあなたへの態度が目に余りますね」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。でも大丈夫ですわ、ああいう手合いのあしらいには慣れておりますし、皆さん口だけで本気ではありませんから」
「あなたが上手く立ち回っているのはわかっています。ですが事態を甘く見ないことです。ああいう人達は、一度つけ入る隙を見せれば際限なくつけあがるので」
「……お言葉、肝に銘じておきますわ」
菜緒葉が殊勝に頭を下げると女中頭はふと視線を伏せ、普段の冷徹な彼女らしくない僅かな躊躇いを見せた。
「……実は明日から、私が直哉様の側仕えに入ることになりました」
「えっ?」
菜緒葉は素っ頓狂な声を上げてしまった。側仕えといえば、身の回りの世話から私室の掃除、来客の給仕までを担う、言うなれば専属の雑用係だ。これまでは若手の女中が数人がかりでローテーションを回していたはずである。
「前の者たちが直哉様の勘気に触れて、年度末でまとめて解雇されました。その後釜として、直々に私が命じられたのです」
女中頭の言葉に、菜緒葉は瞬時に事の背景を理解した。真希は東京へ逃げ去ってしまったので、直哉はもう彼女を殴りつけることができない。真依も京都へ去り、鬱憤の晴らしどころを失った。だからこれは、直哉が残された母親へ与える、明白な嫌がらせ──連座の報復なのだ。
「そんな……奥様が直哉様のお世話なんて、あまりにも割に合いませんわ! 直哉様はお茶の温度一つで小姑の如くネチネチと喧しいのに」
菜緒葉は一歩踏み出し、なりふり構わず身を乗り出した。
「私が代わりましょうか? 直哉様の好みや地雷は、私が一番よく把握しております。私が『どうしても直哉様のお側でお仕えしたい』とワガママを言ったことにすれば向こうも悪い気はしないはずですし、奥様にご負担をおかけせずに済みますわ」
菜緒葉としては本心からの提案だった。女中頭には日頃から世話になっているし、あの救いようのない弟を彼女に任せるのは良心が咎める。
しかし女中頭は一切の温度を宿さない瞳で静かに首を横に振った。
「お断りします」
「どうしてですか!? 私が引き受けた方が全て丸く収まりますのに!」
「これは私への懲罰であり、真希が犯した不義理に対する見せしめです。私が甘んじてこの屈辱を受けなければ、男たちの留飲は下がりません。それに……」
女中頭はすっと目を細めて菜緒葉を真っ直ぐに見つめた。
「そんな側女のような真似をやらせたら、余計にあなたが軽んじられることになります。あなたは……本当なら今頃どこかに嫁ぎ、普通に子供を産んで育てていてもおかしくない年齢なのですよ」
「あら、別にいいんですのよ!」
菜緒葉は明るい声を張り上げた。自分に言い聞かせるように、軽快なトーンで言葉を捲し立てる。
「そうなっていた場合の人生だって、別に幸せとは限りませんわ。私、直哉様に捨てられた後に用意される縁談の条件なんてなんだって平気ですの! なんなら子持ちの初老の男性でも構いませんわ。すでに跡継ぎがいるなら子供を産む義務も免除されて、若い頃より案外快適かもしれませんでしょう?」
「……菜緒葉。強がらなくてもいいのですよ」
「強がりじゃありませんわ!」
菜緒葉は笑ってみせた。
本当は、結婚自体したくない。
色々言っている目の前の女だって、この家で最も条件のいい男と結婚しているはずなのに、1ミリも幸せそうではない。なのにどうして他人に結婚を勧め、結婚していない人間を憐れめるのか。
時々考える。
この禪院家で30歳を過ぎて独身の女など前例がない。けれども自分がそのパイオニアとなり、女中としての仕事を誰よりも完璧にこなして揺るぎない地位を築ければ──「女は男の付属物ではない」という新しい生き方の選択肢を示せるのではないだろうか。
それを見せつければ、直哉だって少しは考え方を変えてくれるかもしれない。厨房の環境を改革し、虐げられる女の立場を底上げできるかもしれない。その過程は当然針の筵どころの話ではないだろう。けれども真希だって、もっと酷い目に遭っていた。
けれども菜緒葉の言葉は女中頭には強がりにしか響かなかったようだった。
「私の仕事に口を出さないで頂戴。私は私に与えられた役割を果たすだけです。あなたに庇われる筋合いはありません」
冷たくそう言われたきりで終わった。
──それ以降、女中頭は直哉の陰湿な言動の数々を、完璧な業務遂行と一切の感情を排した鉄面皮で悉く無力化してみせた。
口出し不要と言われたので何も言えなかったが、菜緒葉はこれを悪手だと思っていた。直哉はああ見えて、自分の言うことを完全に聞くだけの女も心底嫌っている。機械的に男を立てておけば済むような手合いでは全くないのだ。
そもそも、どれほど隙なく立ち回ろうとも女中頭が禪院家において決定的な傷を抱えていることは誰の目にも明らかだ。
彼女は凶兆とされる双子を産んだ女で、真希はこの家の女として失格だ。直哉とてそれが女中頭のせいだと本気で思っている訳ではないのだろうが、女の目につく弱点を突くのは、菜緒葉とは鏡写しな直哉の性分だ。
他人の内面を精密に推定することについて、直哉は周囲が思っている程不得手な男ではない。言い方と差別意識のフィルターを外せば、案外的を射たことを言っていたりもする。
自分を軽蔑しているに決まっている年上の女を、自分の身の回りの世話係に据える。そのあいだ中、この女の頭の中では何が起きているんだろう、という屈辱の純度を計る遊びはどう考えても面白い。
だから直哉は女中頭の欠点を突き続けるだろう。反応が見えるまで。
あれだけ気丈な女の反応が見えるまでというのは、つまり壊れるまでということだ。
真希の昇級が遅々として進まないことも、直哉による絶好の攻撃材料になっていた。当主になるとイキっておいて無様だのなんだのと茶呑み話のような態度で直哉が日常的につらつらと並べ立てていることは、女中の間で噂になっていた。だがこれについては真希が2年生になった頃、お気に入りの後輩である菫から気になる情報を聞いた。直毘人が、真希の等級昇格を意図的に妨害しているというのだ。
「それはどういうことですの?」
「いや、私も詳しくは……。『本当に4級の実力ってことは流石にないだろうから、そこについて悪口を言うのはやめなさい』って、このあいだお兄ちゃんに軽く叱られただけなので……」
「そう。──ありがとう、菫ちゃん」
父を信じているので嘘だと信じたかった。しかし真希のあの強烈な意志を宿した瞳を思い出すと、彼女が最低ランクの4級のままで足踏みをしているというのはあまりにも不自然に思えた。
情報源として最も身近な直哉に聞くのは自殺行為に等しい。真希の名前を出した瞬間に不機嫌になるのは確実だし、機嫌を損ねた彼がまた女中頭への当たりをキツくするのも避けたかった。
そこで菜緒葉は、屋敷に出入りする高位の術師の中で、最も話が通じそうな人物に目星をつけた。
直毘人の昇級妨害について菫に語った張本人である、彼女の兄だ。
彼は菫の顔を見るために、母屋の廊下掃除の場に時々顔を出す。たまに妹の当番の日を間違えて、いない時も顔を出す。
多少は喋る仲だが深い話をする関係ではない。100パーセントの善意で「直哉と別れろ」とか言ってくるし、下手に長話をしていると外部組の後輩からウザがられる。菜緒葉みたいな女が若くてそこそこ人気のある男と話していると、行き遅れの年増が調子に乗っているみたいな構図になってしまって、非常に面倒なのだ。特に、よく一緒に廊下掃除をする柚乃などは殺気立つ。下手に煽てて情報を引き出しに行こうものなら、菜緒葉の後輩人気はダダ下がりしてしまうだろう。
じゃあ、どうやって質問するか。
何ヶ月も悩んで、ようやくその機会が訪れたのは8月の末だった。
菜緒葉は仏間で花を生けていた。
出入りの業者が持ち込んできた白菊とおみなえし、それから名前を覚えきれていない枝や葉っぱ。菜緒葉はおみなえしが嫌いだ。秋らしいというので毎年仕入れられるし、小さな黄色が密集した花姿は愛らしいが、すぐに小花がぱらぱら落ちる。水も一晩で臭くなるし、この時期は花器もぬめりやすいから面倒だ。
薄暗がりの中、仏壇の金箔だけが濡れたように光っている。線香の残り香、切り口から滲む青い汁の匂い、腐った醤油のような花の匂い。生け花とはつまるところ、生きている茎を断ち、剣山の針に刺し貫いて、枯れるまでの数日だけ姿勢を保たせる作業だ。美しく見えるのは、まだ倒れていないからにすぎない。
そこに、菫の兄が偶然顔を出した。
「あれ、今日は菫じゃないんだ」
「ごめんなさいね、あの子は熱を出したからさっき帰らせましたわよ」
「そっか。ありがとう。お盆は忙しくてなかなか手を合わせに来られなかったから、今ちょっといい?」
「勿論。今火を灯しますわ」
蝋燭に着火しながら、今は2人きりなのに気がつく。『炳』の男と2人きりになるのはリスクがあると新人の頃には指導されたし、菜緒葉自身も警戒心のなさそうな美人の後輩には似たようなことを言い聞かせている。だが、彼相手なら安心だろう。目撃者がいないので変な噂も立てられずに済みそうだし、どうにか誘導して、真希の件を質問できないだろうか。
ご機嫌取りのために首を振る設定にしてあった扇風機をさりげなく彼のいる仏壇の方向へ固定する。普通の男なら少し機嫌が良くなり、直哉なら当たり前の奉仕として特に反応しない。しかし手を合わせ終えた菫の兄は、心配そうにしただけだった。
「何やってるんだ。扇風機、自分に当てなよ。ずっとここで作業してるんだから」
「……お花が傷みますので」
面倒くさい男だ。菜緒葉は彼のことが少し苦手だった。一緒にいると自分の性格の悪さや打算、それから自分が憐れまれていることを意識せずにはいられないからだ。悪意なら受け流せる。けれども善意は眩しすぎた。
「……」
花茎の切り口を水の中で斜めに落とす。冷たい水の中で指先が白くふやけ、ささくれに薄く染みる。菫の兄は何とも言えない寂しそうな表情を浮かべ、花を生けている菜緒葉を見た。
「えーっと、どうなさいましたの?」
「綺麗だと思って。花が好きなんだ、内緒だよ」
「あなたの妹が生けた方が上手でしょうに。どのお花がお好きなの?」
「……すみれとか」
「シスコン?」
「違うけど!!」
揶揄ったら少し怒られたが、直哉と比べればチワワのようにかわいい。なんなら真依と比べてさえかわいかったので、菜緒葉は笑みを浮かべ続けることに苦労せずに済んだ。
「あとはその花も好きだよ。なんていう名前だっけ、菜緒葉?」
「おみなえし。『名にめでて折れるばかりぞ女郎花われおちにきと人に語るな』……って、歌にも読まれているんですのよ」
「どういう意味?」
「『私はただ名前が綺麗だから折ろうとしただけだ、堕ちてきたなんて人に言うなよ』って、お花に頼んでいるの。……面白いでしょう? 勝手に近づいてきて恥ずかしがっているのは男の方で、お花はどうせ何も話せないんですから。──だから、自分では喋れないこの子達のことも覚えてあげて下さいね。人の名前を覚えるのはお得意でしょう?」
直哉どころか直毘人さえ躯倶留隊の人達の名前を覚えないが、この男は違う。むしろ『炳』に所属する実力者でありながら、術式を持たない者を無闇に蔑む風潮に異を唱えるような言動を見せていた。誠実で温和な振る舞いをする彼は、この家で最も真希という存在に同情を寄せ、客観的な評価を下せそうな人物でもある。
「──真希ちゃんもあなたみたいに器用に立ち回れたら違ったんでしょうけどねぇ」
菜緒葉はため息をつきながら鋏を持ったままの手を止め、意を決して切り出した。これは世辞ではなく、菜緒葉の本音だ。
組織の中で上を目指すなら、まずは既存のルールに適応してみせる必要がある。朝一番に稽古場に顔を出し、誰よりも大きな声で挨拶をし、先輩たちに可愛がられながら、組織の理屈を理解して徐々に味方を増やし、上へと上がっていく。それが体育会系の、そして古い家における順当な出世のプロセスでもある。真希が本気で当主になりたいと望むのなら、この男のように振舞うべきだった。
とはいえ。とはいえだ。
「呪術師の等級は、同じ等級の呪霊に圧勝できるかどうかで決まると伺っております。そして、4級程度の呪霊なら……女の身でお恥ずかしい話ですが、私でさえ敷地内のをたまにこっそり祓ってますわ」
「危ないことするなよ。そういう時は誰かを呼べ」
「あの程度の呪霊なら、呪力をヒューッとやってヒョイってして、頭をドカーンとすればみんな死にますもの。ゴキブリ退治程度の難易度です。殿方のお手を煩わせる程のものでもありません」
「感覚的だなぁ。……まあいいけど」
「そういう訳だから、真希ちゃんが4級のままだなんて、いくらなんでもおかしいのでは?」
思いきって尋ねると、菫の兄は少し真面目な顔になった。
「前提として言っておくけど、俺と真希が最後に喋ったのは入学前の正月だし、扇さんともあんまり親しくないから、彼女の今の実力はよくわからないよ。わからないんだけど……」
「……」
「あの子の実力はせいぜい2級手前なんじゃないかなぁ。呪具の眼鏡が壊れたら任務続行不能。呪具なしじゃ呪霊を祓えない。素人の君すらやってる基礎技能の呪力探知もダメ。ついでに呪力耐性も低いとなれば、単独で安定して呪霊を祓うのが不可能だから。──知ってる? 呪術高専の基準では、単独任務の可能な一人前の呪術師っていうのは2級からなんだ」
菜緒葉は呪術に詳しくなかった。だから菫の兄の評価がどれだけ適正かはわからなかったし、彼の答えは断定的すぎると思った。そもそも、特別1級の直哉は、真希と同じように呪力のなかった男を日頃から大絶賛しているではないか。
「でも、直哉が褒めてる甚爾様という人は……あっ」
しまった、と菜緒葉は口を覆った。カッとなってつい持ち出してしまったが、伏黒甚爾という名前は禪院家ではタブーなのだ。
しかし菫の兄は案外気にしていなかった。
「へー。直哉さんって君に名前の呼び捨てとかさせてるんだ。うわぁ」
「別にいいでしょう! 気にするのそっちなんですの??」
「逆に、甚爾さんの名前を出した程度で怒るとでも? 甚爾さんは特別だったんだ。理屈はよくわからないけど、あの人の動きは呪力がないのに呪霊が見えているとしか思えなかった」
「……え?」
「真希がそれと同じレベルになったという噂は聞かない。もしそうなったら、直哉さんは真希のお母さんに絶対あんな態度は取らないよ」
「……」
甚爾には呪霊が見えていた?
そんな話、直哉からは一度も聞いたことがなかった。
いや、直哉自身は知っていたはずだ。ただ、女の菜緒葉には詳細な話を説明する価値がないと判断して省いていたのだろう。
菜緒葉は得も言われぬ惨めさを覚えた。
扇風機の首を仏壇へ固定したせいで、風はもう菜緒葉の側へは来ない。うなじの後れ毛が汗で肌に貼りついているのが自分でもわかったが、直すには両手が濡れて汚れていた。菫の兄が一瞬だけそこへ目をやり、何も言わずに花へ視線を戻したのが、見なくてもわかった。親切な男の気遣いは無遠慮な視線よりずっと長く肌に残るが、快も不快もない。
気遣いの様子を示したまま、菫の兄は言った。
「菜緒葉が知りたいのは真希が昇級妨害を受けてるんじゃないかって話だろう? 数ヶ月前に菫から聞いたよ。その話を聞いたら、菜緒葉が何故かとんでもなくショックを受けてたって」
「……受けてませんわよ。真希ちゃんのことなんてどうでもいいし」
嘘だった。最近は何故だか真希のことばかり考えている。
そしてその嘘は一瞬で見抜かれたようだった。
菫の兄はどこか悲しそうな顔をした。
「わかったわかった。でもさ、菜緒葉。禪院家の次期当主候補になるなら1級にならないといけないし、1級以上の術師になるためには身内以外の1級術師2人の推薦が必要なんだ。たとえば交流会で活躍すれば、飛び級での推薦も当然あり得る」
「……この家が昇級を妨害できるのは2級までだから、いま真希ちゃんが4級なのは、次期当主候補に名乗りを上げるだけの実力がない彼女の自業自得だと仰るのですか?」
だからといって妨害が許されるとは、菜緒葉にはとてもじゃないが思えないのだが。
「『呪術師になりたい』と言って出て行ってそれなら可哀想だけど、『当主になる』って啖呵を切って出て行ったなら、相応の実力は求められて当然だよ。禪院の名前はそこまで安くない」
「……本家のお嬢様を相手にずいぶんと苛烈ですのね。少し意外ですわ」
「分家の立場からすると、当主の座は承認欲求のための玩具じゃないから。自分を見下している人達に復讐したくてああいう風に言ったんだろうけど、そんな幼稚な反抗心で御三家の一角を率いられたら困る。いくら本家の血を引いていても、ああいう人のためには命は懸けられないよ」
菜緒葉は、真希が何かしらの志を持っていると信じていた。しかしよく考えると、真希とは碌に話したことがないので、反論の材料はない。
だから代わりに、彼の大切な人の話をしてみた。
「着いて行くなら、甚壱様みたいなお方こそ心強いとお思いでしょうね」
「うん。この家には今も、甚爾さんみたいに、実力があるのに術式がないせいで日の目を見ない人が大勢いる。そういう人を拾い上げられるようにしないとそのうち禪院家は滅んでしまう。甚壱さんならこの家を少しずつ変えてくれると、俺は信じてるよ」
「……」
「真希にはそういう目標ってあるの? 術式のない先輩がたに溶け込もうとも、教えを乞おうともしなかったのに」
口調は穏やかだったが、内容は真希を容赦なく切り捨てていた。
菜緒葉は新聞紙の上に広げた花を手に取り、水切りと根割りをしながら考えた。──目の前の男は間違ったことは言っている訳ではない気がするし、たかが女中を相手にここまで誠実に話してくれる禪院の男というのは異例だ。なのに何故か、彼の言い方に対しては嫌悪感がある。彼は直毘人の妨害がそこまで悪いことではないと考えているようだが、菜緒葉にはとてもそうは思えなかった。悩んでいた菜緒葉に、菫の兄は付け加えた。
「でもまあ、嫌なことばっかりで真希が尖る気持ちは理解できるよ」
「……」
「禪院家から術師として認められることだけが幸せって訳じゃないと思う。呪術高専は同級生が少ないから、生き残れば一生続く友達になれるって聞くし。この家だと歳が近い相手はみんなライバルだから、外の方が楽しいんじゃないかな」
「……」
菜緒葉にはそういう友達はいない。どんなに仲が良くなったつもりでも、相手が結婚でもすれば、違う世界の住人になる。菜緒葉の根本の部分を理解する人間は誰もいない。
「そういえば、特級の乙骨くんといい感じだって噂も聞いたな。だから、真希のことで菜緒葉が心配したり気に病んだりする必要は一切ないんだよ。今頃は案外直哉さんにされたことなんて完全に忘れて、楽しくやってるかもしれないし」
「………………そう。細かく教えてくださってありがとうございます。蘭太様」
知り合ってから初めて名前を呼んだ気がする。
恭しく頭を下げて、菜緒葉は作業に戻る。
おみなえしの小花が、ひとつ、またひとつ、新聞紙の上に落ちた。
菜緒葉は確信してしまった。
菫の兄──禪院蘭太は間違いなく善良だ。
だが、女が野心を持つに至る心理への共感は微塵もない。
家全体に蔓延っていた「術式や呪力が全て」という絶対的な差別意識は、年を追って軟化していく兆しを見せている。
禪院家は少しずつ良くなっていくのだろう。
女の領域は、置き去りにしたままで。
女のことは女の間で解決するしかない。
彼に何かを求めるのは間違っている。
それでも彼が、真希の「尖る気持ち」を理解しているようには見えなかった。真希が躯倶留隊に溶け込めなかった理由を、彼は本当に真希だけの責任だと思っているのだろうか。自分と同じ術式を持つ妹が呪術の代わりに生け花を学んでいたことについては、どう思っているのだろうか。
そして──友達や恋人ができた程度で、禪院家のしょうもなさがどうでもよくなるほど、女の思慮は浅いとでも思っているのだろうか。
そもそも真希が男に媚びたりなどする訳がない。あの娘がそこらの女中のように自分より強い男に頬を染めるなど、想像するだけでもゾッとする! 彼女は今頃戦乙女の如く、直哉に負けない強さや禪院家の改革のために、鋭意努力中のはずだ!!
茎の長さの調整をしながら、しばらくそう考えた。そして根を割り、水を吸わせる。綺麗だと言って貰った花だが、毎日水換えをしているのは女だ。やっぱりおみなえしは好きになれない。
蘭太はすぐに出て行くかと思ったが、しばらくその場に留まり、菜緒葉の横顔を窺うように見ていた。空気が不自然に冷え切ったのを感じ取ったのだろう。
「……何か、気に障ることを言った?」
仔犬のように不安げに尋ねてくるその声には、一切の悪気がなかった。
正直に思ったことをすべて話せば、何かが変わったかもしれない。けれども菜緒葉はそうしなかった。口答えして今後の自分の立場が悪くなったら困る。そもそも、この男は菜緒葉が意見を言える立場だと、どうして純粋に信じていられるのだろう。
ここで菜緒葉を殺しても、数日の謹慎で済む地位にいるくせに。
◇
この年の11月、禪院直毘人が死んだ。
真希の1級昇格の査定任務中の負傷が原因だった。
こちらの菜緒葉は周囲から「直哉が真希に暴力を振るうところを見て以来、直哉の扇ファミリーへの仕打ちに心を痛めてどんどん痩せ細っているので可哀想」と噂されています。なので終盤のシーンは他人の気遣いに対して若干視野狭窄になってるかも?