音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
直毘人が東京に発つ前の会話は、本当にいつも通りのものだった。
仕込みの最中に若い子たちが騒いでいた。もうすぐハロウィンで、渋谷という街が仮装した人間で埋まるらしい、頭に猫の耳をつけた大人が路上で瓶を割っていたりするらしい、今時の日本人は幼稚だ、あんなの呪霊と一緒じゃん、祓われるべきよねぇ──そんな他愛のない話を聞きながら、菜緒葉は膳の支度をした。
明朝当主が発つ先がその街の近くであることは知っていたが、それ以上は何も知らなかった。そもそも菜緒葉は、父親の苦戦の記録を禪院家に来てからこのかた一度も聞いたことがない。手酷い怪我を負って帰った話も、負けたという話も。逆に、酒の入った状態で任務に赴き、そのまま特級呪霊を祓ったという噂なら聞いた。菜緒葉は父親の実力を心から尊敬していたし、父親が仕事中に死ぬかもしれないとはっきり考えたことも、あまりなかった。
菜緒葉は父親のことを人々を守る無敵のヒーローだと信じきっていた。現場の実状も、父親が一般人にどう接しているかの実例すら、何ひとつ知らないままに。
菜緒葉は手際よく湯煎の温度を確かめ、直毘人の好む酒器を温めた。漆塗りの盆に銚子と小鉢を乗せて当主の私室を訪い、いつも通りに銚子を傾けていた。
低い声が降ってきたのは、菜緒葉が3杯目を注ごうと銚子を持ち直した時だった。
「菜緒葉、今度の縁談だが──」
「私なんかを欲しがる人はもういないでしょう」
間髪入れず、菜緒葉は薄く笑いながら言葉を遮った。
「四捨五入で30歳ですし。……汚れた女ですし」
最後の一言は、自虐を装った嘘だ。
直哉とは何もないのだから、汚れたもクソもない。実際には直毘人もそれは把握しているはずだ。いや、どうだろう。もしかしたら多少は疑っているかもしれない。動物園帰りに直哉と外泊してからというもの、直毘人の酒量は目に見えてとんでもなく増えた。「一線超えたか?」等と直接下世話な疑いを向けられた訳ではないので、実際のところどう思われているのかはわからない。そもそも呪術師の世界における道徳は、外部の一般社会のそれとは異なっている。
直毘人の考えることは、菜緒葉にはよくわからない。完璧な沈黙の理由が黙認なのか興味がないのか、それとも今更どの顔で口を出せるのかという話なのかもわからない。今もまた、盃を見つめる直毘人の視線が菜緒葉の鎖骨のあいだへと落ちた。しかしそこに在るものに対しては、外せとも似合うとも、一切の言及をしなかった。
代わりに紡がれたのは全く予期せぬ言葉だった。
「オマエが思うよりは断然いるよ」
「またそんな。お優しいこと」
「先月だけで2つ相談が来た。断ってるのは俺だ」
「…………え?」
菜緒葉は銚子を持ったまま固まった。手首の角度が崩れて、酒がわずかに盃の外へ落ちた。酌係になってから初めての失態だった。
「直哉が満足する相手が見つからないから全部断ってるだけで、25を過ぎてからの方が多いな。呪力も多いし、禪院の作法がそのまま持ち込める。あとは持参金の積立が相当に貯まってきてるしな」
「持参金? ……何ですの、それ」
「親族採用は全員給金から毎月3万近く抜いておるだろうが。何だと思ってたんだ?」
「ああ、財形貯蓄でしたか。あれは……退職時にでも引き出せるものかと思っておりましたけれど」
15の時に言われるがままに契約書にサインした。そういうものだと納得して、精査していない。直毘人は心底呆れ果てたという顔で菜緒葉を見た。
「流石に母集団の質は最初より落ちとるがなぁ。──このままだと先に既成事実を作ろうという輩も出てきそうだし、いい加減に身を固めて貰うぞ」
菜緒葉は微笑んだ。作りものではない微笑みを作るのは、ここ最近でかなり難しくなってきていた。
「……私は、当主様にお仕えできるだけで幸せですのに」
模範解答のような台詞。菜緒葉にはもう、直毘人がかつて自分が信じ込んでいた程完璧な庇護者ではないのだということがわかってしまっていた。かと言って嫌いにはなれない。憎むこともできない。好きなまま、世の中そのものがなんだか色々嫌になってきてしまったのが現状だった
菜緒葉が曖昧に笑っていると、直毘人は空になった盃を干して、不意にぽつりと言った。
「オマエが何考えてるのかは、いっつもわからん」
責めるような調子ではなかった。長年手元に置いた道具の目盛りが最後まで読めないでいる職人のような、どこか間の抜けた、寂しげな困惑だった。
「菜緒葉、どんな男がタイプなんだ?」
「そうですね……10年以上前に再会した生き別れの父親が、案外格好良くて♡」
わざとらしく語尾に愛嬌を滲ませると、揶揄われたと悟った直毘人は渋面を作った。
「……オマエなぁ」
呆れたようなため息に構わず、くすくすと笑いながら菜緒葉は再び銚子を持ち上げた。
本当のことを言う方法が、菜緒葉にはこれしかなかった。会えて嬉しかったと、あなたのことが好きですと、この家だけが私の家ですと──そう真正面から告げることができればどんなに楽だろう。だがそれは、一女中が当主に向かって吐いてよい言葉の範囲を軽々と踏み越える。けれども冗談の形に折り畳んで砂糖をまぶして差し出せば、笑って流してもらえる。そうやって何年も、菜緒葉は本音を冗談の器に入れて運んできた。
「全く。直哉といいオマエといい、揃いも揃って……」
その先を直毘人は言わなかった。菜緒葉も深くは追及せず、ただ完璧な笑顔を保ったまま、静かに盃を満たした。
「──そうだ。帰ったら、蕪を炊いたやつを食わせろ」
立ち上がり際、直毘人は思い出したように振り返って言った。
「あの、鶏のダシで、柚子の皮を落としたやつだ。で、食べながらこの話の続きな」
「……かしこまりました。腕によりをかけてお待ちしておりますわ」
翌朝、直毘人は玄関先で随伴の者に何か短く指示を出し、菜緒葉が深く腰を折るのを見もせずに車へ乗り込んだ。「いってらっしゃいませ」と声を掛けたが、返事はなかった。ひらひらと片手だけが上がった。
──それが、菜緒葉が見た五体満足な父親の最後の姿だった。
数日後、渋谷から帰還した直毘人は蕪の炊き合わせを食べるどころか食事そのものができる状態ではなかった。当然、言葉を交わすことすら不可能だった。全身を黒焦げにした凄まじい熱傷。呪術による医療は、熱傷の深度が高ければ高い程、治癒が難儀するということは、医学に関しても呪術に関しても素人同然な菜緒葉の感覚でも理解できた。以前自分が負った火傷を治そうとした際、すぐに流水で冷やして自然治癒を待った方がよほど痕が残らなかったのではないかという状態に陥ったことがある。
呪術師とはそもそも、常に死と隣り合わせの因果な職業だ。禪院家の奥方や娘が夫や父の死の理不尽さを恨むことは決してない。しかし不幸にも、菜緒葉には呪術師の身内としての覚悟が一切なかった。一介の女中として扱われ続けた菜緒葉に、家族はこの心構えを教えなかった。父親が腕を落とされ焼き殺されることへの覚悟なんて、菜緒葉はしていなかった。
だから大泣きした。意識を取り戻すこともなく、ただ細い呼吸だけを繰り返して生死の境を彷徨う父の姿を思い出すたびに胸の奥が痛みに襲われ、仕事などまともに手につかなかった。菜緒葉がとうとう耐えきれなくなったのは、父のために用意していた蕪を女中頭が使うと言った瞬間だった。
「使えるものから使いなさい。……今の情勢では食材が傷むまで待てる余裕はないから」
直哉の面倒を見るようになってから一層虚ろになった暗い目で、女中頭はそう言った。
「これは当主様が元気になった時にお出しする蕪です……!」
菜緒葉が反論すると、女中頭どころか他の同僚や後輩さえ呆れた顔をした。誰も直毘人が生き延びるとは思っていなかった。あんな状態で、人間が生きられる訳がない。とっくのとうに、呼吸をしているだけの死体のようなものだ。
「明後日には葉が黄ばみます。数日後には煮ても水っぽくなります。あなたが一番よく知っているでしょう」
「……」
包丁を持つ手が震えた。震えているのが自分でもわかった。
「菜緒葉。今日は蔵の整理に回りなさい」
「……申し訳ありません。すぐに立て直しますので」
「その顔で人前に出るなと言っています」
女中頭の目は冷たかった。
「ついでに、過去の当主の葬儀のときの目録を探しておいて」
「当主様はまだ生きておられますわ!」
「この状況では普通に葬儀をできるかも怪しいと、あなたはわかっていますか。扇はこういう場合の過去の事例を知りたがるでしょうし、今のうちに探しておきなさい」
菜緒葉は俯いた。膝の上で握った拳の中で、爪が手のひらに食い込んでいく。
「……ところで、一緒にいた真希ちゃんも怪我をしていると窺いましたが、大丈夫なんですの?」
自分でも思いがけない問いだった。
女中頭は答えるまでに、一拍だけ置いた。
「命に別状はないそうです」
命に別状がないというのはかなり幅広い状態を指す言葉なのだが、菜緒葉はそれを知らなかった。
「……そうですか」
「もう行きなさい、菜緒葉」
この十数年で初めて、菜緒葉はこの人に対する強い苛立ちを覚えた。
父は死ぬ。なのに、菜緒葉の期待を裏切った真希は怪我をしただけで、命に別状はないそうだ。
2018年10月31日、19時。
渋谷を中心に帳が張り巡らされ、その日都内にいた直毘人が事態収拾のために赴いた。そこで直毘人が遭遇したのは、特級呪霊──それも、大自然の根源的な脅威を司る最強格の特級呪霊2体だ。いくら特別1級呪術師である直毘人であっても相手が悪すぎた。仕方のない結果だった。
しかし菜緒葉には特級呪霊の強さの幅広さに関する感覚はない。「1級呪術師が最低2人いれば特級呪霊は当然祓えるものだ」という一般的な基準だけを父に聞かされていただけだった。それなのに無敵だった父が死にかけており、同行していた昇級査定中の小娘が生きている。そうなると、因果はひとつの形にしか結ばなかった。
──お父様はあの子のせいでああなった。
菜緒葉はこの筋書きを補強する材料を、自分の記憶の中に大量に持っていた。当主の温情で躯倶留隊に入れてもらった小娘。身の程知らずにも直毘人に向かって次の当主になると言い放ったのに、むしろ面白がられていた小娘。その小娘のために父は渋谷に駆けつけ、そしてあんな状態になった。真希の昇級査定の話を聞いた時、菜緒葉は本当に嬉しかった。嬉しかったのに。
直哉が話しかけてきたのは、蔵の冷たい床にへたり込み、音を立てないよう必死に己の口を両手で塞いで泣き咽んでいた時だった。
「あの人のことでまだ泣いとるん?」
いつもの書生服を着た直哉が立ったまま見下してきた。裸電球の下、桐箱が天井近くまで積み上がる蔵の中。防虫香と埃と、古い木の匂いが強く漂っている。
「……直哉こそ、悲しくはないの?」
「呪術師にしてはだいぶ長く生きたんちゃう? 菜緒葉ちゃんかて下っ端共の葬式の準備で、こういうのはいい加減に手慣れたモンやろ」
「……」
赤の他人の場合と同じように考えられる訳がない。父子なのだから。けれども言えなかった。弟の前で弱った腹を見せようとするたび、決まってあの声が耳の奥で反響する。
ええ歳した大人になってもきょうだいでこんな仲良しなんて、みっともないわ。ほんま反吐が出る。
そう言われたんだった。
だから菜緒葉はただ泣き続けた。
直哉はそれを黙って見ていた。
──直哉からすると、菜緒葉の涙は本気で意味不明だった。菜緒葉からすると直毘人は優しくて、趣味も合って、ヒーローのような仕事をしている自慢の父親だ。けれども直哉からすると、直毘人の姉への扱いは良好とは言いがたかった。術師としては一流で、当主としては概ね公正かもしれない。けれども父親としての直毘人は、姉を連れ出して外泊した日から、直哉の中ではとっくに死んでいる。その体が死んだところで、新しく失うものは何ひとつない。むしろ得る。当主の座を。
今日ここまで来たのも、それが理由だった。姉に「ようやく当主になれますわね、おめでとう♡」といつもの調子で言わせてやろうと思ったのだ。この女はそういう時には必ず両手を胸の前で組んで、大袈裟なくらい嬉しそうな声を出す。それを聞きに来た。
なのに、この有様である。
直毘人も真希も真依も、どうしてこの女の心をああも簡単に掴んでいくのか、直哉にはさっぱりわからなかった。自分が16の秋から、一度も掴めた実感のないものを。
「当主様は、帰ったら蕪を食べたいと仰っていましたの。今日の晩にその蕪を使うって、女中頭様が……」
菜緒葉は泣いたままで言った。
女ほど惨めな生き物は存在しない。
自分が父親からどれだけ多くのものを奪われていたかも知らずに、父親のための料理の話をしている。
その憐れさを無感動に鑑賞しながら、直哉はいい加減な態度で答えた。
「俺が食うたるわ。それでええやろ?」
「よくありませんわ……」
そう言いつつも、菜緒葉は涙を拭いた。直哉は少しだけ笑った。
「俺は甚壱くん達に呼ばれとるから、ほな行くわ」
「……いってらっしゃい」
しかし直毘人が息を引き取ったのはその十数分後だったし、その後直哉はすぐに出て行って、その日は屋敷に戻ってこなかった。東京に伏黒恵を殺しに行ったからだった。
◇
⒈禪院直哉を当主とす。
⒉高専忌庫および禪院家忌庫に保管されている呪具を含めた全財産を禪院直哉が相続し、禪院扇あるいは禪院甚壱の承認を得た上で運用する。
⒊ただし五条悟が意思能力を喪失した場合は伏黒恵を禪院家当主に迎え、全財産を譲る。
簡単に言えば、直哉当主の場合は甚壱と扇をくっつけて反感を抑える、格上の術式を持つ伏黒恵を当主にする場合は実力主義の禪院らしく当主に全権委任、そのせいで死んだらそれまでだという、親心と禪院の矜持が滲んだ素晴らしき采配である。
直毘人のその遺言について、菜緒葉は翌朝、蔵の中で女中頭から聞かされた。その際に女中頭は伏黒甚爾との誓約状については一切言及しなかった。
あまり重要と思わなかったし、名を出すことそのものを忌んでいたからだ。
「……伏黒恵ってあの子ですわよね。何年か前にこの家に来てた、『十種』の男の子」
案外落ち着いたまま菜緒葉は尋ねた。糸が切れる寸前の憎悪が全くなかったとは言えない。
「ええ」
「恵様はそれを受けると?」
「……ええ」
菜緒葉は、伏黒恵には一度だけ会ったことがある。向こうは覚えていないだろう。菜緒葉がしたのは茶と菓子を出したことだけだ。しかし恵は一口も口をつけなかったし、ずっと無表情だった。彼の態度は大人びていて、賢そうだった。だから菓子に手をつけなかったのは、毒でも盛られると思ったからかもしれない。直哉は直情だからそんなことは絶対しないが、外部から見れば疑いを買いそうな性格でもある。
あの時の子供が新当主?
実のところ、彼が直哉と並ぶ次期当主候補だったことについて、菜緒葉はこれまであまり気にしてこなかった。禪院の敷地から一刻も早く出ていきたいという気持ちでいっぱいな様子だったあの子供が、今の情勢で当主なんて貧乏くじを引きたがる訳がない。
伏黒恵は甚爾の息子で、甚爾と禪院家の関係は最悪で、更に恵にとって父親の血脈は忌むべきモノだ。
賢そうなあの少年なら、巻き込まれたのを迷惑がりながら固辞する可能性の方が断然高いと思っていた。
「で、恵様はいつ頃この家においでになるんです? 全財産というのは流石に少々乱暴な気もしますし、今後について相談の必要なことは、山ほどございますわよねぇ」
東京どころか主要大都市の全てが大変なことになっているこの状況において直哉が当主に不適格なのは、弟贔屓の菜緒葉でもわかる。この人のために戦おうという気持ちを周囲に抱かせるようなカリスマが直哉には一切ないのだ。直哉はいつも周りに呪いを振り撒くことしかできない。直哉が当主に選ばれる場合でも甚壱と扇の判子付きでないと忌庫の中身を動かせない取り決めだったというのは、直毘人も菜緒葉と同じ意見だったということだろう。
それを考慮すれば、下手を打って史上最悪の当主として名を残すより、恵を適当に懐柔して盾に使った方が断然賢い。遺言の「何らかの理由で五条悟が死亡または意思能力を喪失した場合」という記載は、五条がいては恵を上手くコントロールできないと父が踏んだためかもしれない。
財産関連の条項については、直毘人に認知されている訳でもない、単なる女中の菜緒葉には元々無関係だ。直哉については遺留分が残る可能性はあるし、それがなくても特別1級の給料があれば絶対食うには困らないだろう。
菜緒葉の喫緊の関心は別にある。父親の葬儀と、日本の危機に禪院家がどのように行動するのかについてだ。
まず、前当主の葬儀は次の当主が仕切るのが通例だ。遺言の条項が発動して27代目が伏黒恵になるなら、喪主になるのも直哉ではなくその少年ということになるのだろうか。それともやっぱり、こういうことは直哉がやるのか。そもそも菜緒葉は、いつになったら落ち着いて父親を悼めるようになるのか。
次に、禪院家は100人を超える術師を擁し、全国の現場に人を出し続けている。当主とは、その人員配置と資源配分と対外交渉の責任者であり、部下を死地に送る決裁権者だ。繁忙期に賄い場をどのように回すかということは、直毘人から降りてきた指示をもとに回していた。日本全体の危機なら、これからは普段の繁忙期どころでなく忙しくなるかもしれない。様子を見て甚壱か扇に聞こうと思っていたが、もしかしたら恵の指示を仰いだ方がいいのだろうか。
直哉については──まずは慰めて、好きな食べ物でも振舞ってやって、それから恵にとっての「親戚の頼れるおじさん」ポジションを目指すよう言い聞かせよう。
しかし女中頭は菜緒葉の考えていた予定の全てを否定した。
「恵様は、禪院家にはいらっしゃいません」
菜緒葉は一拍置いた後、淑女にあるまじき表情で、女中にあるまじき声を漏らした。
「……はぁ?」
そんな声を女中頭の前で漏らしたのは初めてだった。けれどもあまり気にならなかった。
あの子供は誉れある当主の責務も果たさず、金銭と土地と呪具だけを奪って行く気なのか。
禪院家も随分と舐められたものだ。
だが、数秒かけて菜緒葉はまた冷静になった。
かつて見かけた恵の態度や言動を思い出せば納得は行く。自分をネグレクトしていた父親の実家なんて、面倒くさくて仕方ないだろう。別に人殺しでもなんでもなかった伯父とさえ、菜緒葉はもう二度と会いたくない。恵を悪く思うのは筋違いだ。
しかも恵はまだ高専生で、彼の今いる東京は呪霊だらけ。一方彼が不快きわまりない禪院家に顔を見せに来たとしても上がるのはせいぜい末端のモチベーション程度で、実務は結局甚壱か扇に任せる可能性が高い。ならば高専を拠点に自分の仕事を続ける方が効率的だろう。
だがそれなら、恵が当主になりたがる必然性は一層ない。不快でしかない家の当主の地位という面倒を、恵はどうして引き受けたのか。
数秒考えただけで、この疑問の答えは出た。
「──なるほど。真希ちゃんが働きかけたのかしら? それとも真依ちゃん?」
「……菜緒葉?」
「ふふ、お気になさらず、奥様。で、直哉様はどう仰っているのでしょうか。相当腹に据えかねていらっしゃるはずです。……心配だわ」
さっきの態度はまずかった。
いつも通りの自分に戻ろうと、わざとらしく頬に手を当てる。
真希と真依のいずれかがこれ見よがしに伏黒恵の同情を引いて、直哉の欲してやまぬであろう貧乏くじを引かせたとしても、それは母親の罪ではない。菜緒葉の奉仕の賜物であるかわいい弟が当主になれないとしても、情勢を考えれば仕方ない。弟をなだめることこそが、今の菜緒葉に唯一可能な責務だ。
しかし、菜緒葉の自制はまたもや剥ぎ取られた。
「あの人は東京へ行きましたよ。伏黒恵を殺すと言って」
「何やってるんですのあの馬鹿は!!!」
アホすぎる。弟がここまで間抜けだとは思っていなかった。こんな大変な状況で、弟はいったい何をしているのだろう。
直哉が恵に殺意を持つこと自体はわかっていた。けれども、日本が危機に陥っているときにするのがよりによってそれなのか。我慢という概念は直哉にはなかったのだろうか。
菜緒葉は声を荒げた。
「どうして止めなかったんです??!」
直哉が親戚の子供を殺すかもしれない。いや、直毘人が指名したということは恵の方が能力は上なはずだ。術式が格上なだけでなく、父すら使えなかった何やら伝説的な術を使えると噂で聞いた。だから直哉は返り討ちに遭って死ぬかもしれない。よりによって、あの甚爾の息子の手でだ。
必死に詰め寄る菜緒葉に、女中頭も珍しく態度が乱れた。
「止められる訳がないでしょう!!」
彼女の返答は正論だった。彼女は愚かな甥に絶対服従する側仕えで、直哉の機嫌を損ねると後が怖い。そもそも勇気を出して進言したとして、直哉が彼女の言うことを聞いたかは微妙だった。
けれども菜緒葉からすると、そういう問題ではなかった。父の葬儀のことも決まらぬうちから弟が情けないことをしでかして、生きて帰って来ないかもしれない。
そして──
「誤魔化さなくて結構ですわよ! あなたは直哉が馬鹿なことをして死んだ方が嬉しいでしょうね!! ……母娘揃っての連携で宿願を果たされて、結構ですこと」
別に本気で連携したとは思っていない。皮肉だ。
しかし目の前の女は間違いなく直哉の死を願っている。菜緒葉はそれに気づかない程馬鹿ではないし、それを不当だと罵れる立場にもいない。
これは八つ当たりだし、そもそも菜緒葉の中にあるのは無根拠な推論ばかりだ。
それでも女中頭が微かに困惑した表情を浮かべているのを見ると、菜緒葉の中には直哉が持っているのと同じ悪意がとぷりと湧き出して止まらなくなった。
「何を言っているの?」
「奥様はお気づきでないのかしら? あの伏黒恵が当主の座に就いたのは、あなたの娘のどちらかが乞うたからでしょう。私の想像では、きっと真希ちゃんです。──本当に賢い子だわ。頑健な娘ですし、命に別状はないのでしょう。自分を庇う位置にいた人が亡くなったら、私であれば這ってでも挨拶に赴きますが……まだお線香も上げにいらしていないのは、死んだ人間に頭を下げるよりは、生きた男の子に直哉を潰して貰う方が利益になるからでしょうか?」
菜緒葉はくすくすと笑った。
「私、これでも本当は真希ちゃんのことはひそかに尊敬しておりましたのよ。男性に頼らず、誰も通ったことのない道を進んで強くなって、禪院家を変えてくれるんじゃないかって。でも結局は、素晴らしく典型的な場所へと落ち着きましたのね。いえ……。歴史上最も呪霊湧出が跳ね上がっている時期に、100人以上の呪術師を率いる座へと自分に都合のいい男を連れて来て座らせるようなお嬢さんは、やはり前代未聞かもしれません」
「……」
「ええ、ええ、当然わかっておりますとも! 当主というのは、皆が命を預ける相手です。そして預ける気にさせる作業を、直哉はしていない。伏黒恵の方が万倍マシでしょう。素敵な方を連れて来て下さったと思いますわ。でも、真希ちゃんは直哉未満でしたわよね? 御三家の当主という最も重い職責を目指しておきながら、家を構成する人間は全く見えていなかった。挙げ句己が力及ばずとなれば、強い男を盾に気に入らない男を貶める──それは呪術師として、お行儀のいい真似でしょうか? それとも女というのは直哉の言う通り、そういう生き方しかできない生き物なのでしょうか?」
「……」
「私は直哉に仕える身分でありながら、考え方や価値観は少しも矯正しなかった出来損ないですけれども──あの子は女としての勤めをしっかり果たしていたようで。乙骨憂太様とも大変親しくしていらっしゃるそうですが、一体どちらが本命なのかしら? 優秀な殿方とのご交流がお上手なようで、羨ましいことです」
「……」
「奥様。あなたは本当に素晴らしいお嬢さんをお育てになりましたね。扇様もさぞ誇らしいことでしょう。お父上が相続する予定だった財産を部外者に掠め取らせるような娘さんですが……ほら、女は三界に家なしと申しますでしょう! 娘は家を出れば、夫の家を自分の家と定めて奉仕するのが作法ですもの」
「……」
「で、真希ちゃんの母親であるあなたは、仮にも主君が我が身を滅ぼすのを内心笑いながら眺めて、娘のやり残しを片付けた。結構なお手際ですこと。殿方をさりげなく操縦してきた期間で言えば、年季が違いますものねぇ?」
こんなことを言っても今後の仕事に差し支えるだけで、どうにもならない。けれども弟まで東京で死んでいたらどうしようかと怖かった。だからとりあえず目につく原因を罵りたかったし、菜緒葉はどんなに取り繕おうが直哉の姉なので、その気になれば他人をこき下ろす言葉は無限に出てくる。
普段はそんなことを言ったらどうなるかの計算ができるし、平時の直哉が2人ぶんのクソみたいな言動をしているのを反面教師として眺めて我慢しているだけだ。
「……何を言うかと思っておとなしく聞いてあげていたら。子供がいない人は結局言うことが子供ね。下等な男といい加減な関係を続けているから、舌まで腐るのよ。あなた、陰で自分がなんて言われているか知ってる?」
女中頭も真希と真依の母親だけあって、そこそこ強火だった。
自分がどんな陰口を叩かれているかくらいは当然知っている。
けれども今の菜緒葉は悪い意味で無敵だった。陰口を叩かれていない女の方が、女中社会には珍しい。目の前の女についてもそうだ。
彼女が鬼女のような表情を浮かべていたとしても、少しも怖くない。
「あらあら。その下等な男には意見ひとつなさらないくせに、女にばかり当たりが強くあらせられますのね。男性との関係について私の未熟を論うなら、ご自身の旦那さんとの成熟した関係について、よくよくお考えになったらいかが?」
嘲笑してやった。
そもそもこの女は、真希について菜緒葉がアレコレ言いがかりをつけている時には無言で、話題が自分に及んだ時点で初めて反論を始めた。そういう人間なのは、真依が『灯』でこき使われていたことを報告した時から薄々知っていた。出産と育児で「大人」になった女がそんな心の醜さを晒している時点で、勝敗はついている。
女としてのコンプレックスと真希への好意ゆえに数ヶ月前には禪院蘭太に腹を立ててしまったが、アレはやはり賢い男だ。
彼には悪意なんてなかった。当主になるだけの才がなくても、ただ単に自分の願いを通したいだけなら、もっと別の道がある。それを正直に言っただけだった。いつも正解を選んでいる人間は、考えることが違う。
菜緒葉は他の正解があると思っていたから怒ったが、憧れは虚構だった。次に会ったら、もっと優しくしよう。向こうはいつも優しいし。
──まあ、こんな暴言を吐いたらクビにされて、二度と会えないかもしれないが。
「私の家族を返して!」
そう吐き捨てて、菜緒葉は蔵を出た。
出た瞬間、やらかしを再認識した。
善良な女たらんと自分に言い聞かせてきたのに、長年の努力はついに水泡に帰し、従妹にとんでもないことをしでかすクソ男の片割れに相応の社会不適合を露呈してしまった。
菜緒葉はこれからどうすればいいかわからなくなった。中卒でアラサーで碌な職歴もない自分がもしも家族を捨ててこの家を出たらどうなるかということについて、本当は何年も考えていた。そうでなければ、何が悲しくて自らを貶め続けることに耐えられるだろうか。
外の女は自分の稼いだ金でさまざまな自己実現をしているが、菜緒葉が下手な自己主張をすればその時点で詰みだ。
家族と職場と家を同時に失う。
それ以外の部分を可能な範囲で完璧にすることで、結婚や子供を作ることだけは辛うじて避けてきたけれども、どんなに頑張っても結局は見下されるだけだった。
でも、こんな時でもこの後は仏間と奥の間の掃除をしなくてはいけない。廊下のシフトもあるし、夜の厨房にもまた入るし、深夜番もたしか今日で──
「あ」
考え事に夢中になっていた菜緒葉は、蔵を出たところで最悪の相手に遭遇した。禪院扇──今しがた罵倒を投げつけた女の夫である。時代劇の登場人物のような格好をした50代くらいの男で、目つきが何やら常に危なっかしい。後輩はみんな扇を怖がっている。しかし菜緒葉自身はその眼光に恐怖を覚えたことなど一度もなかった。普段のやり取りでは「ずいぶんと生真面目な人だ」という感想を抱くのが関の山だ。
そして、その無駄に生真面目な男に、先ほどの大立ち回りがすべて聞かれていた可能性はきわめて高かった。なにせ、互いにかなりの声量でやり合っていたのだから。
終わりだ。
完全に終わった。
菜緒葉は内心絶望しつつも、とりあえずは恭しく頭を下げ、何事もなくその場をやり過ごそうと必死に試みた。余計なことさえ喋らなければ、自分が儚げで薄倖な印象に見えることを菜緒葉は知っていた。
実際に不幸だって?
まあ、そうとも言う。
ただでさえ最近体重が減ってきていたところに、更にここ数日は食事も碌にできていない。元々ダイエットの必要な体格でもなかったので、やつれた印象が出てきている。
しかしその猫被りの甲斐もなく、扇の声が上方から降ってきた。
「オマエがこの家に来た時に3000万円が動いた」
唐突に投げかけられた言葉は、先刻までの醜い口論とは全く関係のない内容だった。
「……?」
菜緒葉は黙って扇の顔を見上げながら思いっきり首を傾げた。
扇の妻子への中傷を叱られるものとばかり思っていた。いくら家族関係が冷え込んでいるといっても、限度があるだろう。
しかも、扇とこれまで交わした会話など過去を遡っても無機質な事務連絡程度しかない。正直、菜緒葉の顔と名前すら一致していないのではないかと疑っていたくらいだ。
それにもかかわらず、男は探るような視線を隠そうともせず畳みかける。
「兄が3000万円を動かしたのは、オマエがあの男の娘だからだろう?」
問う形を取ってはいるが、その声の響きには確固たる断定が籠もっていた。
まずい。
答え方に失敗すれば大変なことになる。
主君が隠していたことについて「はい、その通り娘です」などと素直に頷くほど、菜緒葉は愚かで不忠な女ではない。子だとはっきり名乗った場合に起きる事態にも責任を持てない。だがあからさまな上位者に対して底の割れた嘘をつけば、手酷い折檻が下る。菜緒葉は一瞬で思考を切り替え、防御のための微笑みを唇に浮かべた。
「前当主様はそのようには一度も仰りませんでしたわ。私からご回答できることは、何も」
言葉の語尾を濁して返答を煙に巻く。間髪を入れず、男は次の矢を放ってきた。
「直哉との関係は何だ?」
この質問は絶対に来ると思っていた。もし2人が姉弟であることを扇が長年察していたのだとすれば、この男は何年もの間、腹の底でどんな醜悪な想像を巡らせていたのだろう。水曜日に何も起きていないことを公にできないのは、直哉が不能だと思われては一大事だからだ。だが、こういう事態になれば戦略は変わる。万が一にも直哉が身内を貪る異常者だと誤解されるのは困りものだった。
「身分ある方の閨について語る権利は、本来であれば一介の奉公人が口にするべき事柄ではございません。……ですが、10年間も通い詰めながら子の一人も授からぬという事実に、噂を耳にされる皆様は正しき違和感を抱いていらしたようで」
いや、これだけだとまだ足りないか。
子がいないというだけだと不妊説がまだ残る。この年代の男性の中には、子が生まれないのを全部女性の責任にする人も多いはずだ。
──そう計算しながら、菜緒葉は完璧に自分を立て直し終えた。余裕を装って、くすくすと含み笑いを漏らしてみせる。
「とはいえ、私とて己の胎の出来不出来を試したことはないので、実際のところはわかりかねますの。お試しになられますか──」
恭しく問うと、扇は何故か気圧されたように一歩下がった。どうしてだろう。菜緒葉のことなんか、一瞬で殺せる強者のくせに。
「不要だ。元々可能性は低いと見ていた。──オマエは直哉の母親に似ている。口を開くと不快な父親似のようだがな」
扇はそれ以上、直哉との関係を追求することを露骨に避け、話題をすり替えた。
「……ところで、先程の話は女中らの総意か」
「あら、どのお話のことでございますか?」
「とぼけるな。真希が伏黒恵を引き込んだという件だ」
言い方は威圧的だが怒っている雰囲気ではない。問題にされているのは暴言ではなく内容だ。もしかして「娘を誘導して権力獲得のために裏で動いた」と思われるのを恐れているのだろうか。扇は相続で損をしている側だから絶対にあり得ないのに、真面目な男は得てして小心者だ。
「私の身勝手な推測に過ぎませんわ。新当主様と御息女は、いずれも五条悟様に師事し、随分と親密にされていたという評判でございますし」
菜緒葉は正直にそう答えた。仲間を自分の失言の巻き添えにする程落ちぶれたつもりはないので、公知の情報と個人的な印象から適当に組み立てただけの理屈だということを、扇に納得してもらう必要がある。
しかし答えを紡ぎながら、菜緒葉は今更ながら失望に近い感慨を抱いた。
孤高の身で直哉に抗う、真希のあの気高さに見惚れたはずなのに──今にして思えば、強がっていられる居場所があること自体が結局は男の後ろ盾頼みなのか。
「……」
「それに、真依様とは多少のお話をさせていただく機会がございましたけれど……新当主様の話題になりますと、どこか嬉しそうに微笑んでおられたように記憶しております。……女の勘、とでも申しましょうか」
菜緒葉には男全般のことがあまりよくわからない。実害が出そうになるまで、あまり深く考えないようにしている。どうでもいいと思われているのに気づいたら、頭がおかしくなりそうだからだ。特定の行動をすれば特定の反応をするプログラムへと入力を続けるような、そういう虚しさとともに接していることが多かった。
しかし同性の繊細な表情の変化を読み解くことにかけては、むしろかなりの自信があった。その菜緒葉の勘から言わせてもらえば、あれはドロドロとした本気の懸想という訳ではなさそうだった。
多分、親戚の同年代の男の子の中では一番格好良くて優しいとでも思っていたのだろう。
10代の少女が抱く恋愛感情なんて、大抵はその程度の浅薄なものだ。
容姿や稼得能力が優れたオスへとメスが集中的に群がる。それは逃れようのない生き物の本能らしいし、別段それを悪徳だとも思わない。普通すぎてつまらない、とは思うが。
「奥様には、後ほど無礼のお詫びに伺うつもりでございます。もっとも……奥様へのお詫びなど待たずとも、すべては扇様のお心ひとつで決まることかもしれませんけれど」
──菜緒葉は己が危機を免れそうだということに気がつきつつあった。どうしてかはわからない。父を堂々と悼めぬ姪への憐れみか、それとも、面倒な噂が流れていなかったことへの安堵か。身内には冷淡なのに外面がいい男というのは、よく噂に聞く。扇もそういう男なのかもしれない。
「処罰はしない。今後も禪院家のため、励んでゆくように」
扇は何故か満足げにそう言って、菜緒葉のもとから去って行った。
──菜緒葉は何も知らなかった。呪術師にとっての殺人という行為が菜緒葉が思っているより何倍も軽いということも。直哉は姉が思うほどの弱者ではないので、暴言の動機が9割9分は勘違いから始まる理不尽の極みだったということも。扇が菜緒葉を見逃した理由も。
そして──。
「産まなきゃ良かった、産まなきゃ良かった、産まなきゃ良かった……」
菜緒葉がいなくなった後の蔵の中で、女中頭が延々と呪詛の言葉を呟いていたことも。
◇
そして間もなく、呪術総監部より通達が下った。
1. 夏油傑生存の事実を確認。同人に対し再度の死刑を宣告する
2. 五条悟を渋谷事変共同正犯とし、呪術界から永久追放。かつ封印を解く行為も罪と決定する
3. 夜蛾正道を五条悟と夏油傑を唆し、渋谷事変を起こしたとして死罪を認定する
4. 虎杖悠仁の死刑執行猶予を取り消し、速やかな死刑の執行を決定する
5. 虎杖悠仁の死刑執行役として、特級術師乙骨憂太を任命する
夏油傑について、菜緒葉は去年の冬に教えてもらっている。あの後夏油が五条の手で処刑されたことも直哉から聞いた。
大した内容ではない。「悟くんは元同級生を処刑したんやって。傑くんは強かったらしいけど思想がアカンわ。これだから非術師家系の出は」程度の話しぶりだった。
あの直哉から「思想がアカン」と言われる辺り、さすが呪詛師だ。
その呪詛師が生きていて、なんと五条悟と裏で組んでいた。
夜蛾という名前は聞いたことがなかったが、2人の学生時代の担任らしい。つまり直哉が言うところの「アカン思想」の発生源ということか。
とはいえ五条について、菜緒葉が気楽に会話できる階層の人々の間での意見はかなり錯綜している。菫が雑巾掛けをしながら教えてくれた。
「テロリストな親友との内輪揉めで封印された危険人物……と見せかけて、封印されたのをいいことに政治的な策謀で濡れ衣を着せられているだけの可能性が高いみたいですよ!」
「ふーん……。なんだか怖いですわねぇ……」
一女中に過ぎない菜緒葉には、呪術界の複雑な政治的駆け引きも、総監部の意図も知り得るはずがない。判断の材料が足りなさすぎる。
菜緒葉が知っているのは、直毘人が生前五条悟の存在をどれ程忌々しく思っていたかだ。
宿儺の器は死刑と決まっていた。呪術界のルールがそう定めた。これを五条が個人の権威で覆して猶予させた。五条は呪術界の正規の決定を、自分の力で無効化した。制度が「殺せ」と言ったものを、五条が「殺すな」と言って止めた。
禪院家も似たような横紙破りはやっていた。菜緒葉の知っている範囲だと、真希の昇級妨害がそれだ。だが、そのせいで渋谷事変まで起きたとなると、犠牲の桁が違う。
共同正犯が濡れ衣だとしても、あるいは渋谷事変そのものが策謀の一環だとしても、五条が大量虐殺者を2人も渋谷へと送り出したクソ野郎であることは揺らがない。総監部が正しくて、五条が間違っていた。彼こそが誰にも口出しさせない暴君として立場を確固たるものにしていた、体制腐敗の権化である。
だからこそ直毘人は、五条を目障りに思っていた。いや、直毘人に限らずそういう人物は山ほどいただろう。
菜緒葉はそう考えた。
直毘人の遺言は「五条がいなくなったら」と仮定した。総監部からの通告は「五条をいなくさせ続ける」と決定した。
遺言と通告が偶然補完し合うのか、それとも直毘人が通告の方向性を見越していたのかはわからない。
ただ、総監部に五条を永久に封印しておきたい勢力があるのは間違いない。禪院家か加茂家、あるいは総監部の反五条勢力。もしかしたら五条の派閥構成員以外の全員かもしれない。
直毘人は遺言を書いた時点で、五条の排除が「死亡」「封印」「その他」のいずれの形で起きてもカバーできるようにした。起き方を特定できなかったのか、あるいは複数のシナリオを想定していたのか。
いずれにしても、直毘人はこの事態を具体的に予見していたが、阻止しなかった。阻止しなかったのは、五条の排除が直毘人にとって有益だったからだ。
実際に五条排除のパワーゲームに直毘人が噛んでいたかについての確証は持てないが、直毘人が存命なら、五条家の衰亡を肴に上機嫌で祝杯をあげたがったであろうことだけはたしかだった。伏黒恵の当主就任で五条家と仲直りができるのではないかという説も有力だが、おそらくそれは父の遺志にそむいている。
父の顔を思い浮かべて悲しくなりながら、しかし菜緒葉は冷静に思考を続ける。
五条悟の封印は解除可能なものであるらしい。同時に、封印を解くこと自体が罪になる。
──この状況で、そもそも伏黒恵はどう立ち回る?
通告第3項で死罪を認定された夜蛾は、五条と夏油の教師だ。そして真希と伏黒恵は五条の教え子。菜緒葉は五条の教育内容を知らないが、教え子2人がどのように行動しているかは多少知っている。いずれも禪院家への愛着など微塵もないし、五条はそれを助長するような教育しかしていないはずだ。
そうなると伏黒恵は、禪院家にとって非常に面倒な判断をしかねない。
恵が五条を助けようと考えているなら、直毘人の目論見は無に帰す。ついでに恵の配下である禪院家は五条という危険分子の派閥と看做され、父の意図とはおそらく全く異なる方向へと万事が進む。
扇は感情的には直毘人を嫌悪しているはずだが、菜緒葉と似た危惧を抱いている可能性が高い。真面目な男だし、総監部の指示には絶対従うだろう。だからあの時、屋敷の空気を知りたがった。
自分が扇に見逃された理由の一部を、菜緒葉は推察し始めている。
菜緒葉の考えでは、扇は遺言を無効化するための手続きを取るか、あるいは総監部に対して禪院家が五条一派の道連れにならないよう上手く申し開きをするはずだ。
いずれにせよ菜緒葉は事の推移を遠くから見守ることしかできないし、もっと関心のあることは、他にある。
──膝をついて雑巾を絞り、端から端まで拭き上げていく単純作業をこなしながら、菜緒葉は無言で考えを巡らせ続けていた。長い間、雑巾の擦れる音だけが廊下に響いていた。菜緒葉はそれでいいと思っていたが、静寂には限界がある。
気がつけば後輩2人が好奇心旺盛に左右から距離を詰めてきている。
菫と柚乃。
菫は菜緒葉のお気に入りの後輩で、人見知りだが身内だけの場では率直で、ついでに規範意識が強い。一方の柚乃は外部組で、口の軽い噂好きだ。
「あの、奥様とは結局何があったんですか?」
目線は雑巾に落としたままで、菫がおずおずと切り出した。
周囲の推測は「蕪の件の後で2人がまた口論したらしい。多分当主様の件だろう」という方向だ。ただしこの推測には「でもあの菜緒葉さんが他人の死であそこまで取り乱すか?」という疑念がつく。
可能性は低いものの、最悪の場合は菜緒葉にとっても直毘人にとっても非常に不名誉な、下衆の勘繰りを招きかねない。
──手ぶらでいれば待っているのは女社会での排斥と排除のみ。そして菜緒葉に破滅を座して待つ気はもはやない。
「あー、口論を扇様に聞かれてしまったんですのよ。でも扇様は私に『今後も励め』と」
「えっ」
2人が顔を見合わせた。
菜緒葉は情報を畳み掛けるようにさらりと言い添える。
「叱られると思ったんだけど、扇様はとても親切でしたわ。……ちょっと意外だったし、奥様の気持ちを思うとね……」
菫の目が僅かに見開かれた。菜緒葉の言葉の意味を咀嚼している。同時に、柚乃の口元が僅かに歪んだ。──菜緒葉は事実を言っているだけだ。この意味を解釈するのは柚乃自身の仕事だ。
「口論の内容は真希ちゃんについて。私が無根拠な……いや、真希ちゃんが今日、新当主様じきじきの許可を得て死滅回游平定のための呪具を取りに来るなら、やっぱり無根拠じゃないのかしら? ……とにかくそういうことを言ってしまったせいですの。何度か謝ったんだけど」
言い淀みながら菜緒葉はちらりと柚乃の表情を確認した。予想通りに柚乃の目がギラギラし始めている。柚乃は間延びした声で言った。
「菜緒葉センパイは奥様に、具体的にはなんて言ったんですかぁ?」
菫が「柚乃さんっ」と小声で窘めたが、柚乃は一切悪びれない。彼女はそういう女だ。
去年のクリスマス前に直哉について「取り柄は顔だけ!」と言われてから、菜緒葉は柚乃に一度たりとも気を許したことがない。テロへの対応という重要な仕事の後に、疲れているであろう直哉を拘束するなんて、菜緒葉には考えられなかった。そもそも、どういう了見であれば人目につく場所で主家の男を罵り、別の男に媚びるような無様な真似ができるのやら。それもよりによって、禪院家が総動員で呪術テロの阻止に出る話の真っ最中に。
だから菜緒葉は柚乃には重要な仕事は任せないし、恋愛のアドバイスも一切しなかった。しかし今日に限っては、この女は使える。
菜緒葉は雑巾を絞りながら物憂げな表情を作り、慎重に言葉を選んだ。
「実はね。真希ちゃんが伏黒恵様を当主に推したんじゃないかって言ってしまったの。新当主様も真希ちゃんも五条悟様の教え子ですし、つい結びつけてしまって。……娘を殴り、自分を酷使している男と噂になってるような女がそんな風に口を滑らせれば、腹も立つでしょうねぇ。奥様にしてみれば、娘を侮辱されたようなものですもの」
菫が首を傾げた。
「どうして侮辱になるんですか? 真希が直哉様よりあの人を当主にしたいって思って動いたとしてもそれは普通のことじゃないですか! 誰だって殴られたくないですよ!」
「まあ、私もそう思いますけれどもね。菫ちゃんは忘れちゃったの? ……真希ちゃんは当主になって戻ってくるって言っていたでしょう?」
ついでに、真希を殴った男が伏黒恵のせいで当主の座を逃すかもしれない男でもあることも、後輩2人は当然意識しているだろう。
わかりやすい女同士のドロドロは柚乃の大好物だ。柚乃は必ず今日中に、直哉の愛人が女中頭を皮肉って扇公認で論破した話を言いふらすだろう。
菫はしばらく考え込むような顔をしてから言った。
「あ! 忌庫って女は入っちゃダメなんじゃありませんでしたっけ」
──言うと思った。
「女がダメなんじゃなくて、非術師の女が入っちゃダメなルールですのよ」
「呪力のない人は非術師の括りじゃないんですか? それに、呪力のある私達だって、忌庫は立ち入り禁止ですよね!」
「……偉い人の許可があれば話は別ですわ。真希ちゃんにはあって、私たちにはないでしょう?」
菜緒葉は自分でもあまり納得していないことがバレバレの棒読みで菫に言い聞かせた。これで菫も噂を流す方へと加担する。普段の彼女ならそういうのは嫌うが、ルール違反への義憤でなら彼女は動く。この仕事が終わって数十分以内には確実に、女中頭自身の耳にも届く。
これは菜緒葉なりの女中頭への嫌がらせだった。
女中頭は真希を止めに行くだろう。
自分の保身のためだけに。
忌庫は危ない場所だ。立ち入り禁止の掟は実利的としか思ってなかったが、よく考えてみたら、実質的には女性差別かもしれない。
しかしこれが差別だったとしても、男の威光を嵩に着た女ひとりが楽しげにガラスの天井を破った特例を気取るなんて、腹が立って仕方ない。この家にいる普通の女を軽視しているのが、男だけではないという証拠だ。
菜緒葉は馬鹿ではないので、料理や掃除が女だけに押し付けられているのがおかしいことくらいわかっている。しかし、料理や掃除自体が下等だなどとは、菜緒葉は一度も思ったことはない。
真希は男同様、家で料理や掃除をしている女を見下してるから、忌庫に入るのを禁じるルールを菜緒葉や菫を尻目にさくっと破っていくのだろう。
だから軽い嫌がらせをしてやる。
革命に等しい行動を母親に否定される娘というのはどういう気分なんだろう。
部下にコソコソ言われるのが嫌で、保身のためだけに娘の重要な用事を邪魔しに行く母親は、恥を感じるだろうか。
少し考えてから、普通に嫌になった。
滅んだほうがいいかもな、禪院家。
というか、日本自体がどうなっても別にどうでもいいかもしれない……。
菜緒葉は呪術師をヒーローだと自分が誤解していたことに、今更ながら気がついていた。死滅回游で日本が滅茶苦茶になれば、学歴が中卒でも関係なくなりそうだ。
絶対に良くないことだし最悪に不謹慎だと頭ではわかっているのだが、菜緒葉は内心ワクワクしていた。
──雑巾掛けを終えて、化粧を直した。今日は久々にきちんとフルメイクをしていているので、鏡に映る自分に違和感がある。
早起きは死ぬほど苦手なので省力化が最優先だし、派手好きだと思われたくないし、和服向きのメイクが嗜好に合わないせいで腕を磨く気がなかなか湧かないので、菜緒葉はメイクがあまり得意ではない。
隈を消すために2年ぶりに出したコンシーラーは中々伸びなかった。継ぎ足したら粉っぽくなり、不自然を誤魔化すうちに全体が心なしか濃くなった。変ではないし、年寄りや男はなんとも思わないだろうが、同性にはわかる。
化粧を直して洗面所を出ると、廊下の先で数人が立ち話をしていた。今朝の派遣に漏れた組だ。菜緒葉は会釈をして廊下の端に寄った。
「──で、術師は5点だ。非術師は1点」
「点って何に使うんだよ」
「ルールを足せるらしい。総則そのものを書き換えられるとさ」
高専に任せてうちは参加しないから関係ない、と誰かが締めた。
実際その通りではある。強制的に泳者にされるのは脳を弄られた者と呪物を取り込まされた者だけだ。そして死滅回游は永続する儀式で、勝ち抜けが存在しない。おまけに呪術師が集中的に狙われて、それこそがまさに主催者の思惑かもしれない。
──要は、参加のインセンティブが全くないのだ。
禪院家は総監部からの依頼で夜蛾正道の死刑執行のために人員を割き、要人警護に人を出し、全国で膨れ上がった呪霊の対処に追われているが、それでも屋敷には案外人が残っている。
今朝の出動人数は35人だ。膳の数を把握するのは菜緒葉の仕事のうちだから、誰が出て誰が残っているかは毎日全員分を正確に把握していた。
後継者争いの件で屋敷中が緊張感に包まれていて、来週誰が命令を出す立場にいるのかが不透明なので、甚壱辺りが人員を出し渋りまくっているのではないかと菜緒葉は踏んでいた。
もしも禪院家全体が天元からの情報──このままいけば日本の一般人が全滅するという話を知っていたなら、末端の判断はまた違ったのかもしれない。だが少なくとも菜緒葉の耳に届く階層に、そんな情報は降りてきていなかった。皆、総監部の言うことをおとなしく聞いていた。菜緒葉自身が体制の従順な僕であるのと、何ひとつ変わらずに。
説明はいつも同じ形で降りてくる。死滅回游は永続する。殺し合いは結界の中でのみ起こる。人を殺せば点になり、術師なら5点、そうでない者なら1点。結界の外は安全だ。
安全。
「……本当に安全?」
妙なルールが加えられ、結界の出入りが自由になった暁には、儀式から解放された平安時代の化け物がその辺をフラフラ歩き回って気まぐれに人を殺し始めるかもしれない。
思わず呟いたが、誰も答えなかった。当然だ。廊下の端に寄って会釈をする女はそこにいないのと同じ扱いになるし、立ち話の輪は既に別の話題に移っている。
しかし菜緒葉は内心死滅回游に興味があった。強い術師、あるいは大量殺人者が自分で考えたルールを追加できる。加えられるルールの内容によっては、何か新しく愉快な社会を見られるようになるのではないか。
そこで、背後から声を掛けられた。
「菜緒葉さん」
振り返らなくてもわかる。『灯』の中堅どころの男だ。数年前からよく話しかけられるようになった。悪い人ではない。少なくとも腰を触ってくる手合いよりは断然マシだ。名前は覚えている。しかし呼ぶ気にはなれない。
「ああ、ご機嫌よう。これから任務ですわよね。連日お疲れ様です」
「うん。──菜緒葉さん、なんか、今日は顔色いいな」
「そうですか? ありがとうございます」
「うん。この前まで、正直見てられなかったからさ。ちょっと安心した」
菜緒葉は首を傾げ、困り顔を作った。
「お気遣いありがとうございます。こういう時こそきちんとしていないと、皆様のお食事が回らなくなってしまいますから」
男の手が伸びてきた。菜緒葉はさりげなく体の向きを変えた。
「あんたはいつもそうだよなあ。大事にされてないのに無理しすぎだよ。ずっと思ってた」
男は笑った。感心と苛立ちが混じった笑い方だった。菜緒葉が弱みを見せないことに対する苛立ちだ。この男は自分の善意が届かないことを、菜緒葉の遠慮だと思っている。遠慮を崩すのが優しさだと思っている。男の目が菜緒葉の首元に落ちた。ダイヤモンドが今日も光っている。
菜緒葉は「馬鹿だなぁ」と思って男を見た。この男は別に真依には優しくなかったし、他の女に優しくできない人間に優しくされても嬉しくない。菜緒葉が都合の悪い女になったら、コイツの態度はどう変わるだろう。会話が面倒くさい方向へ進んできているのはきっと、化粧なんかしたせいだ。
「──直哉様は、お戻りになってからずっとご機嫌斜めですのよ」
菜緒葉は困り果てたように眉を寄せて、小さく息を吐いてみせた。
「東京で何かおありだったのか、わたくしにも一切お話しくださらなくて。今日もお部屋に来いと仰るものだから、これから伺うところですの。……こういう時の直哉様、本当に長いんですのよ。3時間でも4時間でも、返してくれなくて」
出鱈目だ。真っ昼間だぞ。
けれどもこの嘘は誰にも検証できない。水曜日の夜に何が起きているかを十年間誰も確かめられなかったのと同じ理屈だ。菜緒葉の身に着けている最も分厚い鎧は、いつだって弟の悪評である。
男の表情が歪んだ。
「……そっか。大変だな」
「ええ、本当に。それでは、失礼いたしますわね」
完璧な角度で頭を下げて、菜緒葉は男の脇をすり抜けた。背中に視線が張りついていたが、追ってはこなかった。追ってこられる状況ではなくしたのだから当然だ。
菜緒葉は自分の仕事を放り出して男としけこむ人間を心底馬鹿にしていた。そういう女を見るたびに直哉も男尊女卑になる訳だと軽蔑した。
でも、まあいいか。
折角だから弟に会いにいこう。
数時間ばかり仕事をサボるよりも、断然邪悪なことをしてきた後だ。
で、自分より呪術に詳しい直哉に面白い話を色々聞いてみよう。
たとえば、死滅回游のシステムでは、自分みたいな女は何点と判定されるかとか。
◇
直哉は無事に帰ってきていた。
これは姉の立場からすると、本来なら嬉しいことである。
けれども直哉は夜ごはんを食べる約束を破って殺人をしに行っておいて、ターゲットに会うことすらできず、ついでに乙骨に恩を売られて言われるがままに総監部へのおつかいをこなし、誰1人殺せずにおめおめと帰ってきたのだ。
これは菜緒葉視点だと恥晒しどころの話ではなかった。
──せめて殺してこいよ。
正直、それが本音だった。
父親の死に際しての直哉の態度は、家族としては全く信頼できるものではない。弟さえ無事ならいいとは、もう全く思えなかった。
だからしばらくシカトしていたが、流石に孤独に堪えきれなくなってきていた。どんな人間でも、この世でたった1人の身内だ。
直哉がひとりで過ごしたい時によく籠もる、ピアノの置かれた部屋がある。昔は応接間だったが、今は書庫兼ピアノ置き場。亡き実母の形見であり、直哉自身も昔習っていたというピアノを、菜緒葉も好ましく思っていた。埃がたまらないようにきちんと掃除しているが、直哉はもう滅多に弾かない。それどころか鍵盤にたまに足を乗っけるので、菜緒葉はいつも「やめなさい」と言っていた。
その、部屋の入り口に──
「…………」
物凄くカッコイイ、ショートヘアの美女が立っていた。
菜緒葉は真希の顔を見て、完全に腰が抜けてしまった。
その美しい顔は完全に焼け爛れていた。
大きなケロイドができて、その境目が波打って盛り上がっている。もとに戻ることは絶対にない。一生この顔だ。
こんな重傷を負った子に、自分は自分の考える正論をぶつけていたのかと思うと、菜緒葉はもう駄目だった。
命に別状がないと言うから、てっきりピンピンしていたものかと思って、腹が立って仕方なかったのだ。違った。娘は大火傷をして苦しんでいるんですと女中頭がメソメソしてくれていれば、菜緒葉だってもう少し手心という物を加えたのに……! 自分の言い方はあまりに残酷すぎた。
一生治らない怪我をして、絶対に酷いことを言ってくるのが明らかな直哉と相対しているというのに、真希の目はまだあの時と同じだった。前につけていた物とは違う、呪具の丸眼鏡の奥で、炯々と輝いている。
ファッションもいい。
高専の制服なのだろうか、マント付きの黒衣がクールだ。ウエストの細さが際立つナイスデザインだった。
布を巻いたとんでもなく重そうな呪具を軽々と携えているのも、なんだか凄い。
それに比べると、安全圏に身を置き、ワーワーと真希を非難していた自分の浅ましさや醜さは、一体何なのか。廊下に座り込んでいる菜緒葉の中には、猛烈な後悔が大津波のように押し寄せて来ていた。いや、菜緒葉は厳密にはワーワー言うだけでは済まさなかった。忌庫の掟を菫に思い出させ、柚乃の口に乗せたのが今日の朝だ。計算通りなら、忌庫の前には、真希の母が待ち受けて立っている。
大怪我をして、当主の座も逃して本当は悔しいであろう真希を、これから更に母親と喧嘩させてしまうのだ。
真希はこんな重傷を負うくらい頑張っていたのに、なんであんなことを言ってしまったんだろう!!
自分のことをこれ以上嫌いになる瞬間が来るとは思っていなかった。
恨みは一瞬で瓦解し、代わりに取り返しのつかない程に重い後悔が菜緒葉の中に取って代わっていた。しかし直哉は真希に向かい、とんでもないことを言い出していた。
「酷い面やな。それもう治らんやろ。どうすんの? 真希ちゃん」
コイツゥ〜!!!
コイツコイツコイツゥ〜!!!!
床の感触を尻で感じながら、菜緒葉は弟への怒りを覚えた。
直哉の言動には人の心がなかった。それに怒りつつも「……でも、本当にどうすんの? 私は今の真希ちゃんのお顔も好きだけど!」と菜緒葉は考えていた。感情的になって言い過ぎたとはいえ、伏黒恵の威を借りる真希のやり方を、菜緒葉は決してよく思っていない。こんな方法で家を変えられるとも、真依や女中頭の扱いが良くなるとも思えない。扇とも親子喧嘩になるだろう。今度は本当に勘当扱いになるかもしれない。そんなふうに危ぶんでいる菜緒葉のハラハラする気持ちをよそに、真希は微塵も怯むことなく吐き捨てた。
「女を顔で判別できたんだな。ケツしか見てねぇと思ったぜ」
菜緒葉からすると怖くなるような言動だった。偉大すぎる反骨精神だ。直哉にこれを言って煽りまくる勇気は、菜緒葉にはなかった。真希みたいには、これまで一度もできなかった。だから真希が羨ましかった。直毘人に呪術師として評価されて、直哉には抗えて、菜緒葉の欲しいものを全部持っている。しかしそれにあっさり「答えろやカス」と返した直哉はさらに続ける。
「呪術も使えん。呪霊も見えん。取り柄の顔もグズグズ。もう誰も君のこと眼中にないで。寂しいなぁ。昔みたいにまたイジメたろか? どうすんの? 乙骨くんと恵くんの金魚の糞」
菜緒葉は心底惨めになった。
誰の眼中にもないのは、直哉の方だ。伏黒恵を殺すこともできず、おめおめと逃げ帰ってきて当主の座も逃した。直哉のことを好きなのなんて、この家では菜緒葉だけだ。直毘人は直哉のことを愛していただろうが、直哉は彼に何も返してこなかった。
周りと仲良くしようとしない、この家における嫌われ者。
直哉と真希の外形の違いなんて、結局は性別と呪力の有無だけだ。
直哉は真希より有利な立場にいて、なのにこの有り様。呪術が使えて呪霊が見えて、しかしそれらは禪院家の男にとっては所詮はただの前提条件なので、あまり嬉しい勝利でもないだろう。取り柄のお顔は幸運にもグズグズじゃないが、男社会における容姿の価値は女のそれより圧倒的に劣る。「どうすんの?」と執拗に繰り返す直哉は、もしかしたら、本当に真希がどうするのか知りたかったのかもしれない。すべてを失った人間が、折れるのか、それとも戦うのか。
自分の惨めさを他人に押し付け、罵っている弟の姿を見るのは、菜緒葉にとってたまらなく辛かった。
自分でも答えが出ていないことについて、他人に期待して押し付けるのはよくない。菜緒葉も同じことをして、さっきまで真希にがっかりしていたからわかる。
菜緒葉は、真希が禪院家に新しい風を吹かせてくれるんじゃないかと思って信仰していた。けれども真希は真希の領分でできることを頑張っていただけだった。菜緒葉自身にも禪院家を変える方法なんてわからないのに、どうしてこんな子供が上手くやれないことについて、あれこれ言ってしまったのか。本当は直毘人と一緒に戦いたかったからだ。父の助けになれない、真希と違って父にとって何者でもなかった自分が憎かったからだ。
真希は直哉の言葉を完全に無視し、踵を返した。菜緒葉にはその黙殺さえ、みっともない直哉に対する慈悲に見えてしまった。
ガクガクする膝で立ち上がり、敷居の脇へ寄って道を空けると、袖が触れそうな距離を真希が通り過ぎていく。なんだかいい匂いがした。この匂いを、多分、永久に忘れられないんじゃないかという気がした。
真希は菜緒葉の顔を見なかったし、会釈もしなかった。
仕方ない。全部仕方ない。
「なんとか言えや、カス」
直哉の毒づく声が聞こえた。
菜緒葉はそのまま部屋に入った。
作り付けの書棚が天井近くまである。棚板がぎっしり埋まっていて、入れ方が明確に乱雑だ。縦挿しと平積みが同じ段に混在し、背の高さも奥行きも揃っていない。書棚の上、天井との隙間には蓋付きの木箱や段ボールが横積みになっている。棚が飽和して、収まりきらないものが箱に入って上へ逃げている。
菜緒葉に気づいた直哉が、ピアノの鍵盤に乗せていた足を下ろす。
想像通り、少しも笑っていなかった。
無様でかわいい弟に向けて、菜緒葉は優しく声を掛けた。
「そういうの──もうやめましょうよ、直哉」