音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
旅行&ストックが尽きたので次回更新は2週間後を予定しています。
※今更ですが、今回は原作禪院家以上の差別描写が沢山出てくるのでご注意ください。
「そういうの──もうやめましょうよ、直哉」
菜緒葉が静かに声をかけると、直哉は窓枠に肘をついたままで面倒くさそうに首を傾けた。
「どういうの?」
問い返す声に敵意はなかった。しかし興味の気配もなかった。犬が名を呼ばれて耳だけを動かすのに似ている。菜緒葉は敷居の内側に立ったまま、その横顔を見た。逆光で輪郭だけが白く縁取られ、表情は半ば影に沈んでいる。
直哉も初めて会った頃には真希と同じくらいの年齢だった。今よりもっと真っ直ぐで、不器用だった。最低な部分はあの頃から沢山あって、しかし環境のせいだと思えば十分に納得が行った。
菜緒葉だって、禪院家に来てからどんどん性格が悪くなっている。直哉が聖人でないということ程度で怒るつもりもない。
けれども直哉はもう28歳だった。菜緒葉と同い年だ。どう足掻いても、周りのせいにして解決できる年齢ではありえない。因果関係以前に事実として、自分のことには自分で責任を負わねばならない。
真希を言葉でいたぶっても何の意味もないのだと諭したかった。けれども直哉が従う気はしなかった。そもそも真希がどうしてこの禪院家に来たのかという部分へと先に遡ろうかと考えて、菜緒葉は少し悩んでから答えた。
「伏黒恵のこと、どうして相談してくれなかったの?」
問いかけの形をした菜緒葉の糾弾にはしょうもない即答が返ってきた。
「菜緒葉ちゃんに相談しても意味ないやろ」
棚の上に置いてある物の名前を読み上げるような速度で、菜緒葉という人間が置かれている高さが示された。
「別に殺しに行かなくたって、話し合って、時間をかけて籠絡すれば良かったでしょう。高校生なんて猿みたいなものだし、うちの女の子でもあてがえば上手くいったんじゃない?」
「……」
直哉の表情がどんどん消えて行く。
消えていくのを見ながら、菜緒葉は自分の舌が勝手に動くのを止められない。優しく甘くなめらかに、舌はよく滑る。
直哉は信じられない物でも見るような態度だった。まさか、菜緒葉の心をそれほど清らかで純潔だと思っていた訳がないだろうに。男に女を、女に男をあてがう作業を、菜緒葉は何年も続けて来た。男の気持ちは知らないが、女は菜緒葉にいつも感謝していた。
「あなたもいい歳だから若い女の子を操縦する自信はなかった? 私が手伝ってあげたわよ」
菜緒葉にはそれができる。
あまり計算高くなく、禪院の水に浸かりきれていない不幸で善良な娘などはうってつけだろう。娘自身も自分が操られているとは思わない。そういうやり方には自信がある。
「女の考え方やね。いかにも陰湿な雑魚。弱いって悲しいなぁ?」
あなたと同じ部屋で十月十日を育ったからだ、とは菜緒葉は言わなかった。言えなかった。
あなたが弱いと呼ぶものと、あなたの中身は、同じ材料でできている。同じ胎で、同じ水を分け合って、同じ日に外へ出された。
もしもそう言えば、ライオンの檻の前で聞いたのと同じ台詞が返ってくる。あの言葉は8年前の夏の白い陽射しごと菜緒葉の耳の奥に保管されていて、必要のない時にまで勝手に再生される。
菜緒葉は泣きそうになるのを必死に堪えていた。
直哉にとっての男尊女卑は呼吸だ。
生きて行くために必要なこと。人生の前提。
息を止めろと言えば苦しむに決まっているし、苦しませたい訳ではなかった。そもそも、口や性格の良し悪しはあっても男尊女卑なのは禪院家の大抵の人が同じだ。同性同士でつるんで女を貶めることのないぶんだけ、菜緒葉からすれば弟はまだ潔かった。
それに、弟がこうなった理由は、なんとなくわかる気がする。菜緒葉が男に生まれていたら間違いなく、直哉よりも好き勝手やっていた。
だから菜緒葉は一度も止めろとは言わなかった。言わない代わりに弟の吐いた息を全部自分の肺に吸い込んで、笑って、美味しいですわねと言ってきた。それが姉としての役目だと思っていた。たとえ名乗れもしない姉だとしても。しかし真希を見た後だと、直哉のための我慢が、あまり直哉のためになっていなかったんじゃないかと考えずにはいられなかった。
「直哉。あなたはなんでいっつもそういうことばかり言うの? そういうことばかり言ってるから、私以外の雑魚のみんなからそっぽを向かれたんでしょう。世の中、雑魚の方が多いのに」
直哉が禪院家を憎んでいるらしいのはわかっている。菜緒葉と初めて会った頃には既にそうだった。それでも、当主になりたいなら協調性を学ぶべきだった。この家では強さがルールだから、強ければ意外にどうにかなったりするのかとぼんやり思っていたが、無理だった。身分の違いを無視してでも、もっと早く諌めるべきだったのだ。
「急にどしたん? 生理?」
「お願い、今日くらいはちゃんと話を聞いて」
外光が入っても部屋はまだ少し薄暗い。キノコ型のカメオガラスのランプが丸い天板のテーブルの上に光っているものの、ぼうっと暖色に光るだけだ。少しも明るくない。カメオガラスは層を何枚も被せて酸で腐蝕させて模様を出しているので、光を通す部分が限られる。
直哉の顔を見るのが辛くなって、そのランプを見ながら言葉を紡いだ。
「あなたは無駄に敵ばかり作っています。……あなたはいつも自分の意見をちゃんと言えて、気に食わない相手を打ちのめして、羨ましかった。正直気分が良かったから、何も言わなかった。でも……」
「……」
「でも、そろそろ大人にならないと」
俺は全てを許される身分なんや。8年前の夏、菜緒葉の手首を掴んで引きずりながら、弟は得意げにそう言った。そんな身分がありますの、と菜緒葉は笑った。笑いながら片足をレールの外へ落とした。落としたまま8年が過ぎ、とうとう現実に追いつかれた。
全てを許される身分なんてなかった。
男に生まれた直哉が女の菜緒葉の代わりに自由に生きているのが途中までは楽しかったし、嬉しかった。救われたことも何度かある。それでも、直哉がそういう態度を取っているから、こんなことになってしまった。
上手く誤魔化して続けてきた、モラトリアムのツケだ。
蛹が繭に閉じこもるようにぬくぬくしていられればそれで良かったけれど、蚕の繭が結局どうなるかと言うのは簡単な話だ。結局丸ごと茹でられて、命が終わる。姉弟で13年かけて吐き合った糸も、そろそろ湯に入る頃合いなのだろう。
昼なのに暗いこの部屋は、菜緒葉には実際より更に暗く見えていた。
書棚は相変わらず乱雑で、天井との隙間に押し込まれた木箱の角が光の届かない高さで鈍く影を落としている。見られたくない大事な本があるかもしれないから、極力触らないようにしていた。ピアノの方は菜緒葉が週に二度、艶が曇らないよう乾いた布で拭いていた。それを誰にも言ったことはない。
直哉は気づいていないだろう。
もっと早く言ってみればよかった。
そんなことを考えながら菜緒葉がようやく顔を上げると、直哉は壊れた家具でも見るような、妙に優しい顔をしていた。
「菜緒葉ちゃん、もうええから。ここ数日で色々あったし、最近は行き遅れって陰口叩かれてたりもして、疲れとるんやろ?」
「……」
直哉から言葉ではっきり気遣われたのは禪院家にきてからこの13年で初めてだった。全く嬉しくなかった。嬉しくないどころか、腹の底が冷たく凪いだ。
直哉は窓枠から肘を外し、言った。
「よし! 菜緒葉ちゃん、縁談用意したるわ。あのアル中も最後までそれが心残りやったやろし」
「……は?」
「呪術界だとあんまりええのは結局見つからんかったから、金持ってる非術師がええと思っとるんやけど。それで、禪院家とは全く関係ないとこで普通に暮らそう」
非術師を相手に選んでくれた理由も、禪院の外の人を選んでくれた理由も、菜緒葉にはわかった。直毘人は多分、菜緒葉を禪院以外の男に嫁がせることは嫌がったと思う。禪院のために子を産んで欲しがっていただろう。それも、優秀な呪術師をだ。
けれども直哉は違う。
そういえば、直哉が非術師を猿と呼ぶところを菜緒葉は一度も見たことがなかった。今日まで気づいてすらいなかった。
直哉が菜緒葉のために組める最良の選択肢がそれだった。おそらくは直哉が出せる優しさの最上限がこれで、これ以上は出てこない。
それでも、菜緒葉は声を震わせた。
「嫌」
嫌だった。
結婚自体が嫌だった。
菜緒葉の拒絶に直哉は怒りも呆れもしなかった。その眼差しには憐憫と観察の色だけが混ざり合っている。あの時のライオンと同じだ、とまた思った。日向で腹を見せ、喉の奥で低く鳴っていた獣ではない。春の廊下の暗がりで、真依を壁に縫い留めていた時の、あの眼だ。
「菜緒葉ちゃん。君、いつまで夢見てるつもりなん?」
「……夢?」
「真希ちゃんと同じやね。実現するはずがない目標で自分を守っとるんやろ?」
「違う、私は……っ!」
何だろう。
言い返そうとして、菜緒葉は自分の中に用意されている言葉があまりに貧しいことに気づいた。
自立したかった。女としてじゃなく、普通に人間として認められたかった。仕事ができると認められて、たとえば炊飯器の導入について許可をもらえたらと想像していた。それが菜緒葉の人生における最大の野望だった。
けれども、直哉にはそれが全部ただの言い訳に見えていたようだった。
「そもそも、『自分は男に興味ありません』みたいなツラしとるけど。……ほんまは男が嫌いなわけやなくて、女が好きなんやろ?」
「っ……!」
心臓が跳ね上がった。
血の引く音が耳奥で鳴り響き、指先が氷のように冷たくなっていく。
「何言っとるか意味不明、みたいな顔すんなや。むしろ隠す気あったっぽいのが驚きや。水曜日の夜になんで俺が君と最後までやらんかったか、わかってへんかったん? ……あんなぁ、レズなんていう異常な病気、移ったら堪らんし。女が好きで男を気味悪がっとるような腐った女を抱くほど、俺も物好きやないねん」
「……」
「菜緒葉ちゃん、いい加減大人にならんとあかんよ。俺やって最初は本当に嫌やったけど……まあ、慣れてきたらそこまで悪いもんでもないで? 世間の夫婦なんて皆そんなもんや」
「……」
直哉の口調は悪意がある訳でもなく、抑制的で淡々としていた。それが一番堪えた。悪意なら受け流せる。この13年、菜緒葉が受け流し損ねたものは、決まって善意と説明だった。
「──最初の縁談の時にクソ親父の言うこと聞いとけば、菜緒葉ちゃんはこんなクソみたいなことになっとらんかったのにな」
姉弟の絆を感じていた水曜日も、少し救われた思い出も、遡って穢された。それも、一番気にしていたことを貶されて。記憶というのは残酷にできていて、上から塗られると下の層はもう二度と見えない。カメオガラスと同じだ。腐蝕させた分だけ、光の通る場所が減る。
菜緒葉は、女が好きなつもりはなかった。
大抵は同性相手にばっかりときめくが、女性社会にずっといたせいだ。そもそも男相手でも、見目良く屈強な者が虐げられている姿を見ると、ほとんど同じようなソワソワした気持ちになる。禪院家でアプローチしてくる男がクソすぎるだけで、いつか自分も「普通」になれると信じて、信じて信じて信じて、自分を納得させてきた。
20歳を過ぎたら。25歳を過ぎたら。
ある朝ふと目が覚めて、廊下ですれ違った誰かの背中に頬が熱くなって、自分も他の女のように洗面所で恋の話をするようになるのだと思っていた。
結局その日が来なかっただけだ。
来なかったものに勝手に名前をつけられて、病気だと言われた。しかもずっとそう思われた上で、毎週水曜の夜に呼ばれていた。
というか。
これまで散々奉仕してきたのに、ちょっと諫言しただけでお払い箱にされるらしい。膳の数を数え、鍋を振り、廊下を拭き、若い子に礼の角度を教え、誰の名前も覚えない男達の代わりに全員の名前と好き嫌いと機嫌の周期を覚えて、その全部が、たった一度の「もうやめましょうよ」で帳消しになる。
あんまりだ。
父親は黒焦げになって死んだし、直哉は当主になれなさそうだし、敬愛していた上司との関係性は冷え切った。真希のことはやっぱりまだ好きだが、憧れていた程大した娘ではなかったのを痛感した。あの娘には、禪院家を改革できるだけの能力はない。その辺りのことを総合して考えると、菜緒葉の今後の人生にはいいことなど何ひとつ起こらないのははっきりしていた。
いっそ死んじゃおう。
そう思いきったのは早かった。思いついてから決めるまで、湯を沸かすよりも短かった。
しかし菜緒葉は首を括った先輩の死体を見たことがある。汚かった。人が死ぬと体の中身は必ず出口を探すし、床は拭かなければならないし、拭くのは女だ。そして、3ヶ月もすれば誰も彼女の話をしなくなった。3ヶ月。四十九日の倍にも満たない。たったのそれだけで、名前すらもう誰も出さなくなる。
だから目の前の片割れの手を使う。
そうすれば直哉は、きっとずっと自分を覚えていてくれる。直哉は平気で人を殺しに行くタイプだということは伏黒恵の一件で証明されてしまったけれど、相手が菜緒葉なら、流石に直哉は一生忘れない。
呪霊に喰われて死ぬ女中も、行方知れずになる女中もたまにいるので、後始末の方法は想像がつく。
菜緒葉は直哉に限らず禪院の男達を怒らせたり傷つけたりするための方法を大量に知っていて、これまで使わなかっただけだった。
無礼討ち確実な罵倒は、実は無限に思いついていた。
「そういうあなたはどうなの?」
菜緒葉は口火を切った。
「……?」
「10年通って子ができない。私は石女だと言われるのをハナから甘んじて受け止める気でいたけれど……流石の禪院家も、若い人は発展してますのね。それとも。あなたの場合は……ほら、他の人との関係もあるからでしょうか」
あるいは直哉の人望がないから、みんな悪口を言いたい放題なだけなのかもしれない。群れに溶け込めない個体への風当たりは、男も女もあまり変わらない。
直哉は思ったより平気そうだった。眉ひとつ動かさない。言われ慣れているのか。
「菜緒葉ちゃん、そんなこと思っとったん?」
「しばらく前にとある人に言われたんですのよ。タネなしのあなたの代わりに孕ませてくれるんですって」
そう言うと、直哉は初めて嫌そうな顔をした。直哉が何か言う前に、菜緒葉は言葉を連ねる。
「あの人、あなたと私のあいだに何もないと知ったら一体どう思うんでしょうねぇ」
「それは……」
「だから、アレでしょ。あなたこそ男が好きなんじゃない? 人間って一番言われたくないことを悪口に使うものね。13年間、同じ部屋でくっついて寝てすら私の体に反応しないなんて、病気じゃなきゃ何なの」
「はぁ? わかっとるやろ。それは君が……」
言いかけて、直哉はやめた。
何を言おうとしたのだろう。
言わせてしまえば楽になったのかもしれない。それでも菜緒葉は続きを言わせなかった。
「嫌がってた、とか、私の側にあなたへの興味がなかったから、というのは通用しませんわよ。女の拒絶なんて九官鳥や鸚鵡の鳴き声と同じでしょう? 禪院家で長い間呼吸しているのに、そんなことも知らなかったから当主になれなかったんじゃない?」
それまでの菜緒葉は、直哉が自分が姉と気づいて少し優しくしてくれてるんじゃないかと思っていた。それが密かに一番気に入っている仮説だった。暇な夜に取り出しては撫でて、また仕舞う。それだけで生きていけた。
だが、もう何も信じられなくなった。
考えてみたら直哉が菜緒葉にやってたのは明らかに姉への所業ではなかった。首輪も、朝までの拘束も、飽きたと言って脅すのも、他の女との関係をわざわざ見せつけるのも。
だからとびきり下劣に言ってやった。
「あなたのお兄様がたから聞いたんです。伏黒甚爾とは碌に話せず、稽古をつけてもらったこともなく、ただ背後をついて回るだけだったんだったって」
「……」
「本当にカワイイわね。まさに女の子のやることですわ」
直哉が最も嫌悪するであろう下卑た枠組みのど真ん中に、彼自身の神聖な記憶をあえて放り込んでやる。
直哉はすぐには動かなかった。
この13年間、菜緒葉が何を言われても笑って耐え忍んできたように、今日の直哉は、菜緒葉に対して奇妙なまでの寛容さを見せていた。それは彼なりの憐憫だったのかもしれない。
「恋愛しか頭にない女の低俗な精神性で好き勝手言わんといてくれる? 俺のは純粋な憧れやし」
直哉は本気の不快を露わにしていた。それでもまだ、踏みとどまっていた。ギリギリのところで理性を保ち、菜緒葉の暴走を愚かな女のヒステリーとして処理しようと努めているのがわかった。
しかし彼が自制しようとすればするほど、菜緒葉の中の暗い炎は油を注がれたように燃え上がった。
「私の感情が醜い色情だと言うなら、あなたのそれは一体何!? 本っ当に気持ち悪い!!」
鼓膜を劈くような自分の金切り声に、菜緒葉自身が一番驚いた。取り繕ってきた従順な女の仮面がひび割れ、剥がれ落ちていく。
「自分を顧みない男の背中を、ただ物陰から追って、勝手に神格化して……。それをニコニコしながら聞かされる私の身にもなったことある!? 最低に不愉快だった! 吐き気がするほど嫌だった!!」
「は?」
「あなたみたいな、強さに縋りつくしか能のないクズの感情が純粋だっていうなら、私の方がよっぽど純粋よ! 真希ちゃんはずっと戦ってた! 自分の足で立って、前に進んでた! 私も本当は……本当は、真希ちゃんみたいになりたかった!」
「は??? あんな……あんな偽物に!!」
「ずっと思ってたけど、本物とか偽物とか、あなたの頭の中だけの貧困な基準でしょ! というか、あなたのその崇高な憧れの君は、結局この家から逃げ出して、金のために殺し屋に身を窶して、中学生の女の子を殺しただけのクズじゃない! 憧れる要素なんてゼロでしょうが!!」
息継ぎすら惜しんで菜緒葉はまくしたてた。
「真希ちゃんの方が100倍すごい! 1000倍気高いわ! 伏黒甚爾なんて、真希ちゃんのただの劣化版の──!!」
鈍く、重い音が自分の体の中から響いた。
途中で腹に凄まじい痛みを感じた、というよりも、視界が唐突に反転したのだと錯覚した。音が先に来て、一拍遅れて内臓が破裂したかのような衝撃が全身を貫いてきた。
蹴られたのだと脳が理解するまでに、数秒を要した。
息が吸えない。肺が完全に潰れたように酸素を拒絶し、腹の底で何かが決定的に壊れた生暖かい感触があった。口の中に、濃い鉄の味と胃液の酸っぱさが一気に込み上げてくる。
「甚爾くんのことなんて何も知らないくせに」
弟が馬乗りになってくる。
頭上から降ってきた声は傷ついた子供のようだった。
──よくできました。
激痛で霞む意識の底で、菜緒葉は歓喜に震えた。
期待通りだ。嬉しかった。
自分の存在そのものをどれだけ中傷されても平然と受け流していた男が、他人の、しかも正論の悪口を言われただけでここまで激昂する。その矛盾の理由や、彼が密かに抱いていた菜緒葉への歪な信頼の欠片など、今の彼女にはどうでもよかった。ただ、この怒りが自分を終わらせてくれるならそれでいい。
痛みに掠れた声で、菜緒葉は更にとどめを刺すことにした。
「あんたも禪院家も、本っ当に気持ち悪い」
首に手を回され、それが強く絞まる。プラチナのチェーンが切れた。首の後ろで一瞬だけ強く食い込んで、それから急に軽くなった。
石が星のように瞬いて遠ざかり、見えなくなる。一番価値のあったそれを追いかけたくて、拾い上げたくて、それが案外未練だったことを思い出してしまった。
視界が霞む中。菜緒葉は震える右手をゆっくりと持ち上げ、自分を殺そうとしている直哉の顔に触れた。
やっぱりかわいい弟だった。
菜緒葉も男だったらこの顔だ。
こんな風に生まれたかった。
だから、もしも来世があるのなら、次は男に生まれ直すことができますように。
◇
──鐘の音がした。
カメオガラスのランプは点いたままだった。腐蝕の分だけしか光を通さないガラスは、点いていても部屋を明るくしない。菜緒葉は床の上に横たわったまま、その暖色のぼんやりした灯を眺めていた。
喉で息が擦れる。唾を飲み込むたび、胎の奥で鈍い痛みが動いた。これくらいの痛みは前に直したことがある。遠足帰りの交通事故。中学生の頃の呪霊退治。だから大丈夫だ。
直哉がどうして自分を殺す気を途中で完全に失くしたのかは、よくわからない。一時的にカッとなって手を上げたくらいの調子で済ませてこようとしている気配すらあり、意味不明だった。
慈悲だと思おうとした。愛ゆえだろうか、とも。
思おうとしただけで、思えはしなかった。
まさかペンダントが壊れて泣いたとか、ついつい顔に手を伸ばした程度で、何か感じるような普通の男だとは、信じられない。直哉は頭がおかしい。だから、弾かれるように離された手の理由は、結局わからずじまいだった。
ただ──最も目立つ首元の痣を手始めに消した菜緒葉に、直哉は何故か尋常でない反応を示した。
「なんで、なんでなん……。おかしいやろが、なんで……」
その反応に菜緒葉は心底傷ついた。
「馬鹿にするのも大概にして。私、これくらいの簡単な呪力操作もできない程の雑魚じゃないんですけど……」
「……菜緒葉ちゃん」
「そんな顔しないでよ。少しでも後悔してるなら、代わりにサクッと治してくれる? 内臓の方は、時間がかかって難しいの。あなたの方が何倍も上手いんでしょう」
直哉は酷く表情を歪めただけで、全く治してくれなかった。
つまり、菜緒葉への暴力を後悔した訳ではないのだ。
代わりに直哉は尋ねた。
「菜緒葉ちゃん、呪術師になりたかったん?」
「今更ね。なりたかったけど、術式がないうえに女だから、無理でしょ」
「……」
「術式がある人とない人なら、ある人の方が強いのは常識的に考えてわかるわよ。真希ちゃんじゃないんだから、私勝てない戦はしないの。みんなに優しくされたいし、料理の方なら絶対に自信があったから」
「……」
「身の丈を弁えて生きるって大事だものね」
「……」
東京へ行った日、コイツは夕食をどこで食べてきたのだろう。あれで菜緒葉は完全に心が折れてしまった。直哉にはその気持ちはわからないだろう。
「今はあんたの顔を見たくないから、さっさとどっか行って」
直哉はそれで、何も言い返さずに出て行った。
元々甚壱に呼び出されていたらしい。
さっき聴こえた非常時の鐘は、その仕事の関係だろうか。呪術師同士の符丁は菜緒葉にはわからない。
内臓の治療は時間がかかった。お腹の辺りから出した呪力を集中しながら頭を使って別の形に変換しながら回すようなイメージで治療を行うプロセスなのだが、痛みのせいで上手く集中できない。2回失敗して、3回目でようやく成功した。死のうとしていた自分がどうしてこんなことをしているのかと思うと心底アホらしかったが、結局は女のヒステリーというやつで、別に大して本気で死にたかった訳でもなかったのかもしれない。
そう思いながら立ち上がった。
立ち上がれてしまうのが自分の一番嫌なところだと思った。髪は撫でつければ直るし、着物の合わせは指が勝手に整える。
合わせを直す指が、襟の内側でいつもの細い感触を探して、空を掻いた。鎖はもうなかった。
石と切れた鎖を探したが、結局見つからなかった。知らないうちに直哉が持って行ったのだろう。
──その後、本来の当番からどれだけ遅れて御膳所に着いたのかは自分でもわからない。サボることを取りやめたのは、厨房こそが菜緒葉の聖域だからだ。料理だけが誇りだったし、こういう時にできそうなことが仕事以外に思いつかなかった。
誰にも叱られなかった。そうなるだろうとは思っていた。叱られないための名目は用意してあったし、叱る女中頭の権威についても、元々直哉のせいで極限まで危うくなっていたそれを、菜緒葉自らが更に叩き落としたのだ。
とはいえ菜緒葉は普段通りを装えてはいない。明らかにどこかおかしかったはずだ。しかしそのおかしさ以上に、周りの様子がおかしかった。
「菜緒葉さん……っ」
有紗が抱きついてきて啜り泣き始めた。
彼女は何かがあるといつも菜緒葉に頼る。躯倶留隊にいる今の旦那さんに片想いし始めた時のアプローチも、結婚するかどうかの最終判断も、全部が菜緒葉頼りだった。
菜緒葉は訳のわからぬままにとりあえずその背を撫でた。
嗚咽に交えて有紗は言った。
「扇様が……扇様が、亡くなられて。乱心した真希が、殺したって。それで、躯倶留隊と戦闘中だって……」
「…………え?」
扇が死んだ。
真希が殺した。
菜緒葉は女中頭を見た。
女中頭は出汁を漉していた。
晒を張った笊の上へと柄杓で静かに湯を渡している。晒に落ちる湯の音だけが、いつもと同じ調子で続いていた。
数日前に蔵で菜緒葉と応酬をして以来、この人と菜緒葉は目を合わせていない。今も合わなかった。女中頭は誰とも目を合わせず、笊の中の鰹の湿りだけを見ていた。
娘が夫を殺したのに、この人は出汁を漉している。
──ああ、と菜緒葉は思った。
わかってしまった。
殺されなかったのは愛でも慈悲でもない。復讐だ。この後に来るものを、見物させるために置いていかれただけだ。「女は3歩下がって歩け」と偉そうに説く男の、その3歩後ろは菜緒葉の特等席だ。生まれたその日にこの家の外からこの家を見る席に座らされたのが始まりで、それからずっと、菜緒葉の席は決まっていた。直哉は最後まで、菜緒葉をその席から動かさなかった。それだけのことだった。手を離したことに優しい理由なんてない。幕が上がる前に、見物人を殺す興行主はいない。
なぁんだ。
本当にみっともない。
真希はただの殺人鬼になった。伏黒甚爾と変わらない。
叶わない夢をいきがって語って全力を尽くした結果がこれだなんて、笑える。
それなのに、どうして女でも頑張ればどうにかなるかもしれないなんて、あの娘はくだらない夢を見せてきたんだろう。
頼んだ覚えはなかった。泥にまみれて立ち上がるところなんて、見せてくれと頼んだ覚えは一度もなかった。
偽物の家族といた頃よりはマシ。
ヤクザに売られるよりはマシ。
手をつけられて捨てられた娘よりはマシ。
真希が視界に入ってきただけで、菜緒葉の自己欺瞞の数々が全部狂った。「恵まれている」という満足を壊されて、「最悪」という正しい読みだけが残って、しかも壊した本人はこの屋敷の中を血で汚しながら歩いている。
真希なんて、直哉に殺されればいい。
そう思った瞬間、喉の奥で何かが鳴った。
笑い声だった。
笑いはいつまでも止まらなかった。
◇
逃げようか逃げまいかについては、その後で一応話した。呪術師達が想定の何倍も真希を相手に手こずっているらしいのが、呪力が膨れ上がっては消える気配からわかったからだ。
けれども女中頭には全く避難する気がなかった。直哉や扇からの扱いのせいで判断力が鈍っているのではないかと思ったが、結局どちらについても、菜緒葉に責任がないとは言いきれないことだった。
それに、菜緒葉自身も漠然と、厨房が他のどこより安全な場所なのかもしれないとも思っていた。ここは料理をする場所だ。暴力から最も離れた場所だ。
そう思い始めると、菜緒葉にはもう抗弁のしようがなくなった。女というのは結局、台所で野菜の皮でも剥いているのがお似合いな身分だ。戦いのことは男にでも任せておいて、もしもこの場所に呪力による戦闘の気配が近づいてきたら、そのときにまた逃げればいい。人員の出し渋りのせいで、屋敷に待機している呪術師は大勢いる。どうにかなるだろう。どうにかなってしまうだろう。明日も明後日もその先も、この家は何も変わらない。
そう思った。
終焉が訪れたのはその数分後だった。終焉は菜緒葉にとっては前兆がなく、酷く唐突なものだった。
菜緒葉は呪力探知が得意だ。真希の一般人並みの微弱な呪力さえ、頑張れば感じ取れる。だから、戦いの気配が近づいてきたらわかる気でいた。
けれども、
「──」
真希の携えた、ボタボタと鮮血が滴る刀の呪力以外、上手く感じ取れなかった。そして、その呪力は──。
女中頭の前に一歩足を踏み出して呪力を放出しようとした手を、菜緒葉は思わず下ろしてしまった。
真希がどうして父親を殺したのか、今更わかってしまったからだ。
もはや恨みや憎悪すら通り越した、徹底的な虚無と暗黒を宿した表情の真希に、菜緒葉は尋ねた。
「…………真依ちゃんは?」
それが菜緒葉の最期の言葉になった。
◇
◇
禪院真希は菜緒葉を即死させた。
痛みを感じず、そもそも自分が死んだということにすら気がつかないくらいの一瞬で。
真希なりの慈悲のつもりだった。
こういうことになってから、この家の誰1人として、真依の名前を出さなかったからだ。妹を案じたのは唯一菜緒葉だけだった。だが、だからと言って見逃すという考えはなかった。真依は「全部壊して」と言った。菜緒葉を例外にしろとは一言も言わなかった。そもそも真希はついさっき、彼女の男──実際は弟で、しかもまだ死んでいない──を殺してきたばかりだったのだ。
元々の真希は対呪霊となると安定性を欠いていたものの、それでも純粋な攻撃力で言えば準1級程度の実力があった。しかし実力に反して4級にとどめられてきたので、特別1級術師がどの程度の負傷で死ぬかということを、厳密には理解していない。経験の浅さに反して真依の死と引き換えに先ほど得たばかりの力はあまりにも強く、そして直哉の状態はあまりにも凄惨だった。
ほんの数時間前には真希の火傷を馬鹿にしていた顔が、真希を散々嘲笑していた整った顔が、おそらくは自分でも相当の自信があって派手に装っていたのであろうその顔が、真希の火傷よりもよっぽど酷いことになっていた。
完璧な破壊であり、取り返しのつかない毀損だった。
いい気味だ、と思えれば良かったのに。
真希は別に何も感じなかった。
直哉への恨みはあった。1級術師になって吠え面をかかせてやりたい相手の代表格だった。けれども真依が死ぬまでは殺したい訳ではなかったし、もっと恨みのある相手は大勢いた。
たとえば躯倶留隊は日頃から真希を全く相手にしていなかった。「
甚壱は直哉の100倍賢い男で、機嫌を取るべき相手とそうでない相手の違いをわかっていた。真希は勿論、機嫌を取られない側だった。最後はお仲間と何やらご大層に気遣い合っていたが、首を落とした。お仲間の術式も相当に厄介だったので、直哉を仕留めた帰りにこちらも念のため首を落としておいた。今頃は揃って冷たい池の中だ。
その、首を落として殺した彼らと同じくらい、直哉は終わって見えた。
直哉は「どうすんの?」と言っていたが、答えはこれだ。
皆殺し。
去年乙骨憂太に家の問題解決を手伝おうかと言われた時には、真希は断った。自分で家を変えるのでないと無意味だと思ったからだ。しかし結局は後輩に頼った。直哉の言っていたことは的を射ていた。金魚の糞。金魚の糞なりに慎重に立ち回れば良かったのに、真希は判断ミスを繰り返した。そのせいで総監部に逆らう謀叛人として扱われる隙を作り、真依まで死んだ。
実家に戻るべきではなかった。いや、真依を犠牲にしないと強くなりきれないとわかっていたなら初めから上を目指さなかった。真依は本当は戦いを好まず、禪院家で一緒に落ちぶれたがっていた。そのことに最近まで気づけていなかったのは、認められたいという気持ちが先行していたからだ。
誰に?
父親のことは何年も前から諦めていた。
でも──。
真希は母親を見つめた。真希の存在を恥だと思っていた母親だ。板場に溢れた菜緒葉や他の女中達の血に心底怯え、そして完全に錯乱している。ただ自分を罵るだけの母親に、真希は尋ねた。
「あの時なんで『戻れ』って言ったの?」
この女は父親が犯そうとした凶行を止めようとしてくれていたのだと信じたかった。この家の女衆を束ねる彼女なら、裏で何が起きているか知っていたはずだから。しかし母親は長い沈黙の後、怯えと戸惑いの混じった顔で問い返しただけだった。
「……何の話?」
真希が思っていたよりも何倍も、扇は妻を相手にしていなかった。そもそも、女中頭の権威はとっくに失墜していた。直哉と菜緒葉のせいだ。だからこの女は、自分のもうひとりの娘が既にこの世にいないことすらまだ知らないのだ。
しかし真希が受け取ったのは、母親は自分達を少しも愛していなかったし、庇おうともしなかったという結論だった。
真希の中で、僅かに残っていた何かが音を立てて崩れ落ちた。
「……」
「……いや! いやぁ! いやよ、いっ──」
母親の口から出かけた言葉は、喉元から噴き出した朱い飛沫に呑み込まれた。真依が命と引き換えにして作った刃が、母親の柔らかい喉笛を躊躇いなく真横に薙ぎ払ったからだ。
真希が名前すら覚えていない女が真依を呼んだのに、実の母親はそうしない。真希の事情を聞こうともせず、ただ罵って存在を否定するだけのその声を、これ以上聞きたくなかった。
この女は非術師だから絶対助からない。即死はしない。きっと長く苦しんで死ぬだろう。
けれども真希はとどめを刺せなかった。
いや、刺さなかった。
真希は真依の亡骸を抱いて禪院家を出た。
──強い男も弱い男も弱い女もみんな死んだ。強い女だけが生き残った。
それが禪院家の終末だ。
『予測』は術式を持たない代わりにそれに相応する呪力のみを持って生まれた場合の菜緒葉の人生をシミュレートする。
その人生のシミュレートは、これにて終了。
けれどもこれまでにそうであったように、『適応』に必須な周辺情報についても、最も重要な点に限っては、
6歳の禪院菜緒葉は、そもそもこう願っていた。
──二度とこんな目に遭わなくていいのなら、何でもします。そのためなら、死んでもいいです。そして、直哉と一緒に、両面宿儺みたいな最強の呪術師になれますように。
つまり『予測』の主目的は禪院直哉と禪院菜緒葉が共に強くなることだ。そのために必要な関連要素──真希と真依の最後の約束、禪院家と真希の戦闘の全メモリ、直哉の最期も、断片的ながらも『予測』の対象となる。
そして、真希と真依の母親──女中頭が最後の力を振り絞って近くにあった包丁を手に取り、死にかけの直哉にとどめを刺した。
この時点で、6歳の女児の心は壊れた。
大人の自分が碌に諌めず長年甘やかしてきた弟が恩人を傷つけ、その結果、恩人が弟を殺す。そこに大人の自分の責任を感じないのは、幼い菜緒葉には難しかった。
父親に娘として扱われず、弟に姉として扱われず、男の3歩後ろをついて歩いて図に乗らせるだけの未来予想図。こんなものを見たかった訳ではなかった。
そもそも、自分の家が悪の一味みたいなしょうもない滅び方をするなんて、常人に受け入れられる事態ではない。
相続問題について大人が話し合いひとつせずに馬鹿なことをやらかしたせいで、事情を知らない一族まで全滅?
そんなのは絶対におかしい。
女中の菜緒葉は長いあいだ誇りを持って禪院家に仕え、弟を愛し、食事を用意していた。その時点で真希から見れば同罪なのかもしれない。それでも、真依には精一杯優しくしていたはずだ。それなのにどうして殺されたのだろうか。弱いから成敗されても仕方なかったのだろうか。
幼い菜緒葉にはそこが納得できなかった。強者生存が禪院家の理だということを子供なりに理解していたが、それでもおかしいと思った。
しかし、直哉が真依と同じようなことをされたらどういう気持ちになるかを想像するだけで、菜緒葉はどうしても真希を完全に悪くは思いきれなかった。女中の菜緒葉が巨悪を犯さずに済んだのは、性格や人格が優れていたからではない。単に無力で、真希ほどには頑張れていなくて、そして弟の死体を見ずに済んだだけだ。恨みはしても、憎みきれない。
よって幼い菜緒葉には、真希を最大の脅威として判定することができなかった。
私もそうだった。関連して入手した死滅回游に関する『予測』の中には、私とよく似た存在が現れている。ジャッジマン──死滅回游の覚醒型泳者である日車寛見のパートナーだ。彼女は領域内に閉じ込めた相手の過去の罪業を遡る目と、それを罰するための術式、術者同様の価値観や思考回路を持っていた。
私も菜緒葉が美しいと思った物を美しいと感じるし、善悪の概念も菜緒葉と共有している。顔を見た相手を憎むのは難しいことで、それが一時は信仰すらした相手であれば尚更だ。
そもそも『予測』の終端で菜緒葉が死んだのは、真依の名前を咄嗟に口走った結果の不運にすぎない。即死でなければ菜緒葉は確実に生き残り、直哉を含めて息のある者を全員治療して回っていただろう。それどころか、菜緒葉が本気で呪術師を目指していれば、戦闘の結果すら変わっていたかもしれない。全ては反転術式が稀少だと知らなかった菜緒葉の愚かさと、女の才能を拾うことに向かない禪院家の体制の問題だった。
禪院真希は禪院菜緒葉の敵ではない。
そしてこの『予測』の負荷によって壊れた禪院菜緒葉の代わりに、私は彼女の式神として、最大の脅威を指定しなくてはいけない。
さて、壊滅の発端は総監部の通告を利用して娘を殺しにかかった扇とそれに同意した甚壱だが、彼らが適応対象とすべき最大脅威かというと、違う。大人の菜緒葉と彼らの違いは、手段の暴力性だけだった。渋谷事変の元凶である五条の解放は、必ず制止すべきだ。男と交渉できる地位さえ手に入れられれば、話し合いで解決できる。
全てを狂わせたのは直毘人の死だ。
そこで直毘人を殺した特級呪霊──漏瑚の戦闘記録2件を中心に『予測』を広げる。
結果──『適応』は不要。
最大の脅威は漏瑚に非ず。
術式を実装しなければ太刀打ちできないのは、両面宿儺と五条悟だけだ。そして両面宿儺については、五条悟がいなくなった瞬間から受肉体の死刑執行が確定する。渋谷事変のもう1人の主犯である夏油傑についての戦闘記録は入手できなかったが──五条悟以外が処刑人になれば、結果は変わるかもしれない。
そうだ。
五条悟さえいなければよかった。
五条悟が渋谷事変で死んでいれば、禪院家の壊滅は起こらなかった。
五条悟が渋谷事変以前に死んでいれば、渋谷事変自体が起こらないか、別の形で進行していたかもしれない。
五条悟が伏黒恵を引き取る前に死ねば、後継者争いはもう少し穏やかに進行し、直哉も初手で幼児を殺そうとはしなかっただろう。
そして何より、五条悟が伏黒甚爾を殺す前に死ねば、直哉は絶対に喜ぶ。
推奨方針──禪院家が五条悟のいなくなった穴を埋め、仮に死滅回游が起こればそれを利用し、この国の覇権を握る。
たとえば最初に100点を取り「以後、泳者による総則追加には禪院家の同意を要する」とでもした後、殺人以外の方法で得点を得るためのルールを追加、その後は結界内に理想郷を作るための法を加えればいい。
菜緒葉はとにかく無力に恐怖して、この方針を受け入れた。
そのための術式が欲しいと願った。
私は叶えた。
同時に、五条悟の殺し方を彼女に見せた。
無下限呪術を破られ、両断されて死ぬ五条悟の姿を菜緒葉に見せた。
◇
私の術式実装の工程は、本来ならこれで終わりのはずだった。
しかし非術師に殺されたせいで、直哉が呪霊になった。ジェンダーや生殖そのものにまつわる恐怖を司る呪霊を除けば、呪霊には性別がない。だから菜緒葉自身に纏わる『予測』と同じ精度で、菜緒葉は桜島での出来事を観測することができた。〈男〉でない禪院直哉というのは、菜緒葉と限りなく同一存在に近い。
直哉が呪霊になったことを、菜緒葉はそこまで悲しまなかった。
理性を失って人を大勢殺しているのなら辛くて仕方なかっただろうけれど、直哉の精神は生前そのままだった。真希や周囲の術師を付け狙いはするものの、非術師を一切殺していない。だから、直哉が生き返ったみたいで嬉しかった。なんなら、大喜びした。
呪霊の直哉は人間だった時よりも明らかに可愛かった。菜緒葉は面食いだが男の顔に本質的にはそこまでの関心がなく、直哉の容貌についても「自分の男版が褒められていると嬉しい」というナルシスティックな感情以外は曖昧だった。だが、虫は本気で好きだ。芋虫も蛹も。可愛くて仕方ない。下手くそに人間の真似事をしていた頃より、ずっといい。
人間でいるのはしんどいし、人間ごっこはつまらない。
わかる。
本当に、よくわかる。
『予測』の中での人生は少しも楽しくなかった。
女の生き方は死にたいくらい退屈だった。
直哉にとっても、男でいることも人間でいることも、辛かっただろう。
だからこそ、虫になってからの方がなんだか生きやすそうだった。
人間としては完全に破綻した弟が、人間をやめて、本来の形になって、速くなって、人間の時より断然強くなって。それを良かったわね、いい子ね、と褒めてやることは、もう絶対にできなかったのだけれども、それでも女中の菜緒葉がもしも生きていたら、きっとこう言っただろう。
──よくできました。
ただ、女中の菜緒葉といた13年のいつよりも、呪霊の直哉はなんだか楽しそうに見えた。そのことだけが悲しかった。禪院家を出て、感情のままに人を追いかけるのは、直哉にとっては幸せだったのだろう。
甚爾のことは家の外までは追いかけられなかったから。
半ば正気を失っている6歳の菜緒葉が「直哉が生き返りましたわ! やったーやったー! 直哉も真希ちゃんもがんばれがんばれ♡」と大はしゃぎしているのは、式神の私の観測回路にとっても、あまりにも痛々しく耐えがたい光景だった。菜緒葉がこの歪んだ狂気の中で幸せを感じられるのなら、いっそこの戦いが永遠に続けばいいと思った。
けれど、戦闘中に直哉と真希がこんな言葉を交わした。
「オマエが大人だったことあるのかよ」
「どうやろ。真依ちゃんに聞いてみよか」
……。
──。
いくつかの仮説は立てられるやり取りだが、私は。
私達は。
直哉と一緒に強くなりたかった。直哉の隣を歩くために頑張らなくてはいけない。だから直哉を信じたい。でも信じきれない。どうして禪院真依は菜緒葉を破壊から除外しなかったのか。その説明が、これで完全についてしまうからだ。真依はそんな男に媚びている女に慰められて、一体どういう気持ちだったんだろう。加害者の仲間を憎んだだろうか。殺したかっただろうか。全部壊したくて当然だ。最低だ。こんな光景を見て、直哉を助けたいとか禪院家を救いたいとか思える人間が、一体どれだけいるだろうか。決まってる、私達だけだ。私達はこの期に及んでも家族が大切だった。でも、女としては、やっぱり我慢できなくて。
菜緒葉の魂が完全に沈むと同時に、私は結論を出した。
〈女〉の精神は、絶対に禪院家には耐えられない。仮に私が菜緒葉の肉体をジャックして動かしたところで、思考回路が彼女と同一である以上、最終的には全く同じ狂気と摩耗の末路を辿るだけだ。私では、『適応』という役割を全うすることはできない。
だから私は私の代わりに生きてくれる〈男〉を探した。
私が『予測』の演算のために接続している、この世界のあらゆる因果と記録が完成されたひとつの正典として編纂され、格納されている上位階層──そこに漂う、ひとつの魂。禪院家や禪院直哉という存在の最も滑稽で魅力的な一部だけを都合よく認識し、心から愛してくれていた魂。
享年は『予測』の菜緒葉と同じ28歳。
スペックも菜緒葉と同程度。
社会で活躍する素質はそこそこあったのに、自分ではどうしようもない事情で高校に行けず、青春を楽しめず、親族の会社でまじめに働き、しかし回避不可能な不幸によって死んでしまった。
それほどの辛酸を舐めながらも、彼が『予測』の中の菜緒葉と決定的に異なっていたのは──死の瞬間まで、己の運命や世界を一切恨まなかったということだ。
私は心から思った。
──私達の代わりに。
どうかあなたにこそ、この器で生きて欲しい。