音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
全身のあらゆる関節、骨、そして肉の隙間に至るまで、際限なく重い鉛の錘をねじ込まれ、光の届かない漆黒の深海へとどこまでも沈下していくような時間だった。
呼吸の概念すら失われたその暗闇の中で、意識は鈍い痛みに苛まれ続けている。あの幼く繊細で、傷つきやすかった幼少期の菜緒葉ちゃんも同じ経験をしていたのなら──こんなに悲しいことはない。
どれほどの時間が経っただろうか。
際限のない下降の果てに、まず光が変わった。
遥か頭上から差していた青白い光の柱が沈むほどに細かく割れて、揺れて、いつのまにか葉洩れの光になっていた。深海の底が近づいているのではない。水そのものが、少しずつ夏の午後に置き換わっていく。そして足裏に硬いものが触れた。板張りの床だった。
気がつけば、見覚えのある部屋に立っていた。温かな木漏れ日が差し込む静謐な一室だ。部屋の片隅には使い込まれたアップライトピアノが静かに置かれている。そして壁には、1枚の板が飾られていた。
繭の見本板。白繭、黄繭、緑がかった野蚕──その中央に、ひとまわり歪んで大きい繭がひとつ、留められている。2匹の幼虫が一緒に作った玉繭。
ここでは、表に飾ってもらえるらしい。
「……壊れた菜緒葉の代わりに、本当はあなたがこの肉体を使って、そのまま人生を謳歌して死んでいく予定だったのよ」
不意に聞こえた声に振り返る。
そこにいたのは、今の俺とまったく同じ顔立ちをした、だが明らかに10年ほど年上の女性だった。
地味で落ち着いた紺色の着物。化粧気のない顔には鏡の中では一度も見たことのないような楚々として儚げな雰囲気を湛え、どこか寂しげだ。細い銀の鎖に繋がれたダイヤモンドだけが、陽光に照らされて豪奢に輝いていた。
女性はピアノの前に座り、鍵盤に指を置いた。ポロン、と単音が鳴る。少し間を置いて、もうひとつ。
旋律にはならなかった。
「……ピアノ、弾かないの?」
「弾けないのよ、習っていないから。磨き方なら知っているのだけれども」
女性は自分の指を眺めて、他人事のように言った。その目元も鼻筋も、さっきまでその人生の一部始終を追っていたのと完全に同じ姿だ。にもかかわらず、俺の直感は猛烈な違和感を告げていた。俺の知る菜緒葉ちゃんには毒がある。社会の定める女らしさとは別の、生身の女の子の情緒の産物みたいな毒だ。しかし目の前の女性にはそれがない。うわべを完璧に模倣した、人形のような静けさしかない。
「君は誰? 菜緒葉ちゃんじゃないよな……」
「……そうね。これが仮面であることは否定しない。私はね、術者の姿や思考回路を殻として被っておかなければ、他者と正常な意思疎通すらできない機構なの」
甘く嫋やかな声を聴きながら、俺は直感で理解した。この人こそが、残酷な世界への『適応』のために俺をこの世界に呼んだ張本人なのだと。
「君は本当の魔虚か」
「ええ、その解釈は間違っていない」
我が意を得たりとばかりに頷くと魔虚はピアノの鍵盤にそっと指を滑らせ、儚い音を響かせた。
「あなたには、どうしても忠告しておきたいことがあって」
「……何?」
魔虚は椅子の上から上目遣いでこちらを見上げた。ぱっちりしたつり目だ。色素が薄めの瞳の印象はどこか冷たく不穏で、直哉によく似ている。
「この記憶、別に捨てていいのよ」
魔虚は言った。
「どういうこと?」
「そもそも、この過酷な記憶と絶望を抱えて生きていくのが、菜緒葉にとっては辛くて堪らなかった。そしてあなたは、もっと生きたかった」
「……で?」
「なら、話は簡単でしょう? 菜緒葉のことは永遠に眠らせておいて、あなたは無限の呪力と『適応』の力を振るい、この世界で思うがままに万能の全能感を味わえばいい。わざわざ幸福な全能を失ってまで、あなたがこんな呪われた記憶を抱え込む必要が、一体どこにあるの?」
彼女はとんでもないことを言い出した。流石、菜緒葉ちゃんと同一の思考回路の持ち主だというだけのことはあって、どこまでもふざけている。
「必要しかないよ。全部抱える」
「……軽い! 軽すぎるわよ!」
俺の即答に、魔虚は思わず優雅な仮面を崩しかけて声を上げた。
「あの子だって、この悲惨な未来の全メモリを通しで観測したのは最初の1回きりよ!? あまりのショックと負荷に精神が壊れたから、復活時には私が慌てて封印を施したの!」
「それはありがとう」
「あー、もう、どういたしまして! ……で、塾講師呪霊やらゴキブリ呪霊やらをあなた達がバカバカ喰うせいで、ソイツらのせいで封印がまたボロボロに弱まって、最終的には好き勝手にアクセスされ放題になっちゃって……! こっちがどれだけ心配していたと……!」
「菜緒葉ちゃん、『予測』の内容のせいでだいぶ自己肯定感を下げて拗らせまくってたもんね」
たしか、真男佳を食ってからじわじわと『予測』内容が戻ってきたんだっけ。ただし、真希ちゃんがカワイイことと直哉の言動で傷ついたことについては、それ以前からはっきり覚えていたようだった。
魔虚はピアノの鍵盤を乱雑に鳴らした。
「そうよ。あなたにはこれ以上傷ついて欲しくない」
「言いたいことはわかった。……でもさぁ」
「……」
「今になって『アレって『予測』の一部だったのか!』とアハ体験状態になっているんだけど、実は呪霊食の副作用の悪夢とかで、俺も断片的にその光景を見せられていたんだよね」
「……」
「見せられた物についての色んなことに気づかず、これまでどれだけ的外れに論評していたのがよくわかったよ。だから、菜緒葉ちゃんが見ているものをちゃんと知れてよかった。今まで何も知らなかったことの方が、俺にとってはよっぽど恐怖なんだ」
魔虚は信じられないものを見る目でこちらを見つめた。
「……どうしてあなたは、そこまで強くいられるの?」
俺は壁の玉繭を見た。
最後まで羽化できずじまいだった、愛しい虫2匹。
「大事な人たちと一緒に生きていくためだよ。それが俺ならできると思って、君は俺を呼んだんじゃない?」
「もう。そんな優しいことを言うから、あなたは──」
魔虚は何と言ったのか。
風にそよぐ葉の音に紛れて聞こえなかった。
多分「私なんかに捕まっちゃったのよ」と言われたんだと思う。
別に、構わないのに。
「俺を大事な人達と巡り会わせてくれてありがとう。辛いことも沢山あったけど、生きてた頃と同じくらい楽しかったよ」
そう答えると、魔虚は何か言おうとして、結局何も言わずにピアノの鍵盤をひとつ押した。
その目から、涙が一筋つたった。
透明に光るその涙の綺麗さを見て、式神でも泣くのかと思った。
◇
重いピアノの蓋がパタンと閉まった瞬間、唐突に足元の床が消失した。
だが、落下していくのとは違う。暗い底に沈んでいた状態から、水面に向かって急激に浮き上がっていくような奇妙な感覚だ。深海から急浮上する時のように鼓膜の奥がツンと詰まり、やがてプツンと弾けて抜ける。無重力にも似た浮遊感のあと、不意に足裏が硬い何かを捉えた。
目を開けると、視界を埋め尽くしたのは暴力的なまでの白だった。
上も下も、奥行きすらも判然としない。影一つ落ちていない真っ白な虚無の空間。俺と菜緒葉ちゃんの、共有された生得領域。
方角すら曖昧なその中央に、無機質なプラネタリウムの投影機がポツンと鎮座している。無骨なダンベル型のボディがジジジ……と駆動音を鳴らし、巨大なレンズの奥で光を明滅させていた。
《あ、マコくんおかえり〜!》
呑気に言い出した真男佳の声を完全に無視して、俺は投影機の裏側へと急いで回り込む。
いた。
機械の足元に隠れるようにして、ひどく小さく蹲っている背中。世界で一番大事な相棒の姿を認めた瞬間、俺は床に膝をつき、その華奢な身体へとしがみつくように抱きついていた。
「菜緒葉ちゃん、菜緒葉ちゃん菜緒葉ちゃん菜緒葉ちゃん……!」
繋ぎ止めるように、何度も何度も名前を呼ぶ。腕の中に閉じ込めた体温だけが、今の俺にとって唯一の確かなものだった。
「マコくん、息くるし……」
胸元から漏れた抗議の声は消え入りそうなほどに頼りない。でも、俺は腕の力を緩めないまま叫んだ。
「五条の言ったこと聞こえてただろ! 表に出る権利も誰かとお喋りする権利も誰かを愛する権利も体も心も術式も、全部全部返すから! こんな重い荷物を玄関先に置き逃げしていくなよ! 宅配ボックスじゃねーんだぞ!!」
全てを俺に託して消えようとした彼女の身勝手な自己犠牲には、怒りと途方もない悲しみが込み上げていた。そしてそれ以上に、『予測』の内容だ。よくもあんな内容を、1人で背負い込んでいたものだ。こっちも泣きそうだった。俺の悲痛な叫びを受けて、腕の中の菜緒葉ちゃんは微かに肩を震わせた。
「……やめてよ。全部見ちゃったんでしょ、私が本当はどういう人間か」
ぽつぽつと自嘲するように紡がれたその言葉にはどうしようもない諦観と、自分自身への底知れない絶望がへばりついていた。
「大人の私がやりたくてできなかったこと、マコくんがほんの数年で全部成し遂げちゃった。で、大人の私がその代わりに十数年何してたかというと……」
「……」
「
ひどく冷たく、乾いた声だった。
「蘭太くんのことを、真希ちゃんを助けないくせに鬱陶しい正論ばかり叩きつけてくる嫌味なエリートみたいに脳内で扱ってたけど、真希ちゃんを助けなかった度合いで言えば、私の方が断然上ですわよね」
「……」
「彼は助けたがっている範囲の相手にはきちんと好かれていましたし、私なんかとは違って、目標に向かって着実に歩いている人だった。今にして思うと、あそこで自分の意見を話したとして、立場が悪くなった可能性はゼロですわ。……大人の私が被害妄想と保身で撤退せず、自分の考えを話していたら、何かが変わっていたかもしれないのに。何も言わなかった結果があの惨劇なら、私が死なせたようなものじゃありませんか」
それはどうだろうか、と俺は内心で首をひねる。
あの『予測』内の蘭太くんと真希ちゃんは、お正月にお年玉を渡すか渡さないかすら微妙な程度の遠い間柄だった。仮に菜緒葉ちゃん(大)が仏間で『蘭太くん、真希ちゃんには真希ちゃんの苦労もあるのよ』なんて上手いこと彼を納得させたところで、所詮は8月末の出来事だ。しかし渋谷でお父様が重傷を負うのは10月末。禪院家壊滅はさらに数日後。時期的に考えても、決定的な破局を回避するには手遅れだっただろう。
──けれど。
当事者である菜緒葉ちゃんが、そんなふうに冷静に割り切れるはずもない。
自分にできることがあったかもしれないのに、傷つくことを恐れてそれを試すことすらしなかった。その結果起きたのが、身内が殺し合うという取り返しのつかない最悪の事態だったのだから。
「おばさまも完全に被害者ですわ。死ぬほどのことをしていないのに殺された人は大勢いますけど、おばさまの不遇については完全に私が悪いですわよね。なのに最後の方は下剋上までしかけていましたし……」
音MADの断片的な映像を見ただけでは、おばさまが真希ちゃんに致命傷を負わされたということまではわからなかった。だから俺はてっきり、おばさまの首の傷は、扇のおじさまか別の禪院の誰かに与えられたものだとばかり勘違いしていたのだ。
違った。まさか真希ちゃんが、実の母親さえ手にかけていたなんて。
そして、おばさまがあの時忌庫の前に立ちはだかった本当の理由は、娘を助けたいという愛情なんかじゃなかった。そんなものが母娘の最後のやり取りになってしまった。
菜緒葉ちゃんは目から大粒の涙を零し、罪の意識に押し潰されるように言葉を絞り出す。
「真希ちゃんのことも。……大人の私がどれだけ悍ましい女だったか、マコくんは全部見たのよね。そして、大人の私が甚爾くんについてどう思ってたかも」
「『中学生を殺したカス』だっけ」
俺は敢えて誤魔化さずに言葉をぶつけることにした。ここで目を逸らしたり、優しい嘘で取り繕ったりしたら、この先ずっと彼女に嘘をつき続けることになる。
「事実じゃん」
「でも、それだけが事実じゃないでしょう。本当は何年も前にあのことを思い出してた。実際の甚爾くんは思ってたのと全然違うから、マコくんとの出会いで全然別人になったんだと都合良く思うことにして、現実から都合よく目を逸らしたせいで大変なことになった! 私がもっと賢く行動していれば、甚爾くんはあんなことにならなかったかもしれないのに……!」
ぽろぽろと零れ落ちる終わりのない懺悔に、俺は小さく息を吐く。
「俺だってあの頃は、いい人と悪い人の境界線って、もっとはっきりあるものだと思ってたよ」
善悪の境界線は自分のことで一杯一杯になっている間にいつのまにか踏み越えてしまって、いつのまにかに取り返しのつかなくなるものだ。そのせいで、俺も最後まで甚爾くんをわかってあげられなかったけれど。
でも、菜緒葉ちゃんはきっとその深い負い目があったからこそ、俺に甚爾くんを譲ってくれたのだろう。
そして菜緒葉ちゃんは、『予測』内での言動が俺にバレたら、呆れられて怒られたり、心底嫌われたりすると思って、ずっとずっと怖がっていたんじゃないか。大人の直哉が怒ってああしたみたいに。いや、あれは怒った訳ではなかったか。
「私は直哉を、傷つけた……」
もっと適切な、それでいてどうしようもなく重い形容で、菜緒葉ちゃんは嘆いた。
「たしかに、よく殺されなかったよなぁ」
「……」
少しの重苦しい沈黙。俺は彼女の背中に回した腕に、もう一度ぎゅっと力を込めた。自分の体温を、彼女の冷え切った心臓に直接流し込むように。
「そして、直哉と真依ちゃんのことも……」
「ああ、アレね……」
ここ数年の菜緒葉ちゃんの態度は直哉にいささか厳しすぎやしないかと思っていたが、ようやく合点がいった。
「直哉はやっぱりやったんだと思う日は、直哉が近くにいるだけでなんだか嫌悪感で吐き気がしますの。今ここにいる直哉がやった訳ではないんだから、もう少し優しくしてやらなきゃって頭ではわかっているのに……そういうことをする人間だって思うだけで、なんだか生理的に無理で……。で、真依ちゃんから見たら、そんな奴を野放しにして自発的にくっついてた大人の私だって最悪でしょう。そりゃ、禪院家ごと壊滅もさせて欲しくなりますわよ」
「……」
「逆に直哉がそんなことする訳ないって思う日もあって、そういう日は、疑う自分の姉としての非道さが許せなくて……」
菜緒葉ちゃんの苦悩は、姉として、そして人間として至極まっとうなものだった。家族を信じたい気持ちと、疑わしすぎる状況証拠の狭間で引き裂かれていたのだ。
「もし……もしも私の知らないところで、直哉が真依ちゃんに取返しのつかない非道な真似をしていたとしたら、私、もう申し訳なさで生きていけませんわ……! なのでこんなヘボ姉はやっぱり引き続き引きこもって、代わりにマコくんに無限の呪力で無双ゲーを続けてもらった方がいいんじゃないかと思いますの!」
彼女の悲壮感はすでに致死量に達しようとしていた。直哉のやらかし疑惑に対する辛さはわかる。痛いほどにわかるけど。
だが。
俺の中で、さっきから一つの猛烈な違和感が主張を続けていた。
「いやいやいやいや、ちょっと待ってストォォップ!!」
俺は菜緒葉ちゃんの華奢な肩を両手でグワシッと掴むと、彼女の身体から自分を引き剥がし、勢いよく立ち上がってパパンッ!と大きく手を叩いた。
乾いた破裂音が、無限に広がる無音の白い虚無の空間に反響する。彼女をすっぽりと覆い隠そうとしていた悲壮感と重苦しい空気を、物理的な音の暴力で無理やりぶち壊すように。
「な、なんですの急に!?」
唐突な大音声にビクッと肩を跳ねさせ、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げる菜緒葉ちゃん。その双眸に浮かぶ困惑を見下ろしながら、俺は肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、大きく深呼吸をしてから言い放った。
「俺、ずっとその件について考えてたんだけどさ……」
「だ、だからなんですの? 人がせっかく人生の総決算みたいな懺悔を……」
「菜緒葉ちゃん(大)が真依ちゃんの遺言による皆殺しリストから除外されなかった理由! それ、直哉にされた非道を野放しにしてたクソ女への恨みとかじゃなくて……単に真依ちゃんが、菜緒葉ちゃん(大)単体のことを心底嫌ってただけって線はない?」
俺の言葉に、菜緒葉ちゃんは素っ頓狂な声を上げた。
「はいーーー????」
「だって考えてみろよ! ちょっと落ち着いて、真依ちゃんが高専に旅立つ直前の出来事を思い出しなさい!」
「えっ、はい!? ちょ、マコくん!?」
俺は唖然とする菜緒葉ちゃんに背を向けた。
視線の先では、《わぁ、感動の再会だね〜。お涙頂戴って感じだ》などと空気を読まない声がほざいている。俺は無慈悲に拳を振り上げ、真男佳のダンベル型のボディを全力でぶん殴った(恐ろしくいい音がして、駆動音が一時的に沈黙した)。
そして、何もない真っ白な空間の奥から、ガラガラガラッ!と車輪の音を響かせて、会議室にあるようなホワイトボードを引き摺り出す。
手にした黒のマーカーのキャップを吹き飛ばし、キュキュキュッ!と乾いた摩擦音を立てて素早くイラストを描き殴る。
薄暗い廊下の隅。柄の悪いドヤ顔を浮かべた直哉が、半泣きで震える真依ちゃんを壁ドンしながらネチネチとハラスメントを働いている構図。そこに、ちょうど通りかかった大人の菜緒葉ちゃんが乗り込んだ、あの決定的なシーンである。
「見るに堪えないカスですわね! ド不快ですわ! 今すぐ消し去りたいですわ!」
ホワイトボードの絵を見た瞬間、さっきまでの悲劇のヒロインぶりはどこへやら。菜緒葉ちゃんは即座に往年のキレを取り戻し、容赦のない罵倒を放った。
そこへ俺は、記憶に焼き付いているあの決定的なセリフを、これでもかとばかりに過剰な装飾付きで書き加えた。
そう。あの光景の中の直哉は、真依ちゃんへの陰湿なハラスメントを見咎められた瞬間、悪びれるどころか菜緒葉ちゃんに向かってこう言い放ったのだ!!
『先に俺の部屋で待っとけやハニー♡ こっちの用が済み次第、たっぷり可愛がって抱いたるからな(キラキラーン✨)』
「……えっ? そ、そんな言い方でしたっけ!? ハニー??!!」
「ニュアンスは完全にそれだったよ! 完璧に手慣れた、ド深夜のアダルトな格好つけ方をしてた!」
「えー……嘘ですわ……」
「で、これさぁ。真依ちゃんから見たら、完全に大人のドロドロした愛憎関係を見せつけられてる構図だよね!??」
菜緒葉ちゃんが乗り込んでくるまでの場面で、直哉が真依ちゃんに性的に手を出そうとしていたかというと、ぶっちゃけ微妙だと俺は思う。漏れ聞こえてきた会話の内容はとんでもない暴言のようではあったが、性的ではなかったからだ。距離の近さは異常だったとはいえ、菜緒葉ちゃん自身も男嫌いな傾向がある癖して、無意識に異性へのパーソナルスペースがバグっていたりする。禪院姉弟の距離感など、まあそんなものだろう。
だが、問題はその後だ!
真依ちゃんの前で、直哉は自分達の偽装恋人関係の爛れた部分をノリノリで仄めかした。よりによって、繊細で多感で潔癖な、ギリギリ中学生な年齢の女の子の前でだ。
大人の直哉──略しておと直哉のセクハラは、純粋な性欲というよりはマウントと嫌がらせ、そして菜緒葉ちゃんに対する歪んだ所有欲の誇示に過ぎない。だが、そんな裏事情など真依ちゃんからしたら知ったこっちゃないのだ!!
「直哉はあの一言に、『付き合いたての頃の初々しい菜緒葉ちゃんを連想させる真依ちゃんを前菜に、後で嫉妬心バリバリの菜緒葉ちゃんをメインディッシュに楽しむのも美味いで!』という、最悪な裏の意味をこめてしまっていたんだ!」
「で、でもっ、大人の私はこの光景にちゃんと怒って『直哉の部屋なんて行きたくありません』って毅然と言い放ったんですわよね!? 本来ならそんな生意気な女中、即刻クビですわ、クビ。でも私、真依ちゃんを守るために頑張りましたの。善人の権化、慈愛の女神のような振る舞いではありませんこと?」
「まあね。直哉の性格を考えたら、下手したら真希ちゃん並みの目に遭ってもおかしくない綱渡りだったと思う。……でも直哉はむくれて『勝手にせえや』とか吐き捨てて、菜緒葉ちゃんのほっぺを軽くペチンと叩いて退場しただけだった。何故なら相手が仲良しの菜緒葉ちゃんだから!」
真依ちゃんが至近距離で目撃させられたのは、聖女デカ菜緒葉ちゃんの勇気による尊い救出劇などではない。
「あれ、事情を知らない第三者から見たら完全にただの痴話喧嘩だね! それも、子供からすればもう二度と関わりたくないタイプの、生々しい大人のイチャイチャ付き」
「……ん? ちょっと待ってくださいましマコくん!! 客観的に見て、私と直哉の間にそこまで薄汚れたアダルトな雰囲気が醸し出されてましたかしら!? あの後の我々の予定、テレビ見て漫画読んでお風呂入って、ただ一緒に寝るだけですわよ!?」
「いや、それでも傍から見たら十分アダルトなんだってば」
「マコくんがどこまで『予測』を細かく見たかは知りませんけれど、少なくともこの時期の甚壱くんは、私と直哉が夜中に枕投げしかしてないクリーンな関係だってことを完全に察して、生温かい目で見守ってくれてましたわよ!? スーパー健全な関係ですの!! 噂好きの他人視点ならともかく、理解ある人から見れば健全なオーラが滲み出してたはずですの!!」
「君ら、枕投げは絶対してねーだろ」
「……そ、それは、まあ。言葉の綾っていうか……たとえですわ!」
「そもそも、菜緒葉ちゃんは未来の自分の色気をちょっと舐めすぎ! 菜緒葉ちゃん(大)みたいな美女と深夜に同じ部屋に入っておいてテレビ見てるだけの成人男性なんてのはなぁ、血の繋がった家族じゃなきゃ重度のED認定されるレベルだからね!? 真依ちゃんは『なんつースケベで爛れた従兄と女だ』って、2人まとめて軽蔑しながら事の成り行きを見守ってただろうね!」
「(ポッ……♡)」
あろうことか、菜緒葉ちゃんは自分の容姿を褒められたことに反応して、頬を朱に染めてニヤニヤし始めた。
……照れとる場合か。さっきまでこの世の終わりみたいに泣いていたくせに、この子はたまにアホすぎる。だが、そのアホさが今はひどく愛おしく、救いだった。
「そして続き! 真依ちゃんに対して、菜緒葉ちゃんがその後にとった行動! あれを振り返ってみて!」
「慈愛の女神ムーブ2ですわね」
「いや。トータルで見ると、特大の地雷を踏み抜いてないか?」
本当は、こんな残酷な事実はあまり口にしたくない。しかし、ここで曖昧な慰めを口にするより、真実を突きつけた方がトータルでは彼女の魂の傷が浅くなりそうなので、心を鬼にして言うぞ!
俺はそう決心して息を吐き、ホワイトボードに向き直る。そして、天使の羽が生えたキュートな菜緒葉ちゃん(大)と、うるうるお目目な真依ちゃんのイラストを、キュッキュッと描き足し始めた。
直哉のハラスメントから救出(?)した真依ちゃんを、安全地帯である厨房へと連れ出した菜緒葉ちゃん。菜緒葉ちゃんが綺麗にカットされたマンゴーを泣き崩れる真依ちゃんに差し出して慰めるという、一見するとたいへん心温まるシーンである。
「で、ここからが本題だ。この時、自称・慈愛の女神である君が真依ちゃんにかけた慰めの言葉リストを書き出してみよう」
俺は黒マーカーを走らせ、彼女が口にしたセリフを箇条書きにしていく。
① 「私はね、奥様──真依ちゃんのお母様にはいつもお世話になっているの。あの方もね、私が新人の頃、仕事で大きな失敗をして御膳所の隅で泣いていた時に、こうしてこっそり食べ残しのマンゴーを切って慰めてくれたことがあるのよ。甘いものを食べれば、男達の嫌な言葉なんて少しは忘れられるって」
② 「そもそも呪術高専へ行ってしまえば、こんな小さい場所の人間関係なんて、きっとすぐにどうでもよくなりますわ。向こうでお友達を作って一人前の呪術師になって自活し始めれば、この家を出て真希ちゃんと2人暮らしするのだって視野に入ってくるでしょう。みんな色々言ってるけれど、本当は羨ましいのよ。嫉妬して真依ちゃんの陰口を言ってるだけなんだから」
③ 「奥様だっていつもは厳格な方だけれど、きっと心の中では、あなたのことを誰よりも誇らしく思っていらっしゃるはずですわ。真希ちゃんのことについても……厳しくしないと示しがつかないからそうしているだけかもしれないって、たまに思うことがあるの」
④ 「次期当主──はアレだけど、真希ちゃんはきっとあなたと奥様の居場所を作りたくて、きっとあの子なりに考えているのでしょう。だから2人で一緒に、きっと立派な呪術師になってね」
書き終えたボードを指し示し、俺は振り返った。
「さて、菜緒葉ちゃん。客観的に見てどう思う?」
「ど、どうって……我ながら完璧なフォローではありませんこと? 美味しいスイーツに、身内の温かいエピソード、そして未来への希望を提示する完璧なコンボ……」
自信ありげに胸を張ろうとする彼女を遮り、俺はマーカーの尻でボードの『①』をガンッと叩いた。
「まず、①! 君は『予測』内のおばさまの、真希ちゃんへのムーブを思い出せ! 『真希みたいになっちゃダメよ』とか、一般社会なら即座に精神的虐待認定されるようなワードを吐き捨てていたんだぞ!」
「あ……」
菜緒葉ちゃんの口から間の抜けた声が漏れる。
未改革禪院家のおばさまは長女に対してあの冷酷な態度だったのだから、次女への態度が劇的にマシだったとは考えにくい。そんな毒親とも言える母親が、姉に対してあんな態度をとる一方で、直哉の愛人(と目されている女)にはこっそり果物を切って優しく慰めていた──その事実は、真依ちゃんにとって心温まるエピソードどころか、絶望的なほどショッキングな事実だったのではないか。
「次、②! 『みんな本当は羨ましくて嫉妬してる』って言ったけどさ……ぶっちゃけ、一番嫉妬してたのって菜緒葉ちゃん自身だよね?」
「うっ……そ、それは……」
痛いところを突かれ、菜緒葉ちゃんは視線を泳がせた。しかしすぐに少しだけむくれたように口を尖らせる。
「私だけじゃありませんわ。呪力と術式がある後輩は大体は内心ジェラってるっぽい感じでしたわよ。だからおばさまを忌庫の前に立たせる作戦が成功したんですわ。……男社会の苦労へと自分から踏み出していけなかった、ただのヘタレの自己責任だと思われるかもしれませんけど。でも、親の言うことを真面目に聞いて、大人しく家事をやってるすぐ横で、ぼんやり『自分よりスペックは下だろうな』って思ってた相手が、男と対等に渡り合って外の世界に羽ばたいていくように見えるのって……正直、結構きついんですのよ」
吐露されたのは、禪院家という閉鎖的な男尊女卑の環境で生きる女たちのドロドロとした、しかし切実な本音だった。
「そりゃそうだろうね。その気持ちは痛いほどわかるよ。……でも俺が言いたいのは、真依ちゃんには、君が100%の善意だけでその言葉を口にしていないことが、うっすらバレてただろうってことだ」
「……」
「それに、俺が見た内容によれば……どうもあの真依ちゃんは、呪術師になること自体、そこまで積極的じゃなかったっぽいぞ」
「えっ、ありましたっけそんなシーン?」
「多分、菜緒葉ちゃんの記憶に抜け漏れがあるんだと思うなー。『予測』って、菜緒葉ちゃん視点以外のシーンを見るのが滅茶苦茶難しかっただろ? ちょっと掠った程度の内容だと、脳が処理しきれずに忘れちゃうのかも」
俺の指摘に、菜緒葉ちゃんはハッとしたように目を見開いた。
「そして最後の④も完全にアウト! 真依ちゃんからすれば頼りの真希ちゃんに理不尽に置いていかれて『真希のバカバカ! もう知らない!』って大泣きしたいくらい傷心だったはずだ。そこに『2人で一緒に立派な呪術師に』なんてプレッシャー、傷に塩を塗るようなモンだよ」
ついでに言えばつい先ほどまで、直哉から「生きてるだけで存在が真希ちゃんの足手まといだ」的なことをネチネチ言われていた直後なのだ。真希ちゃんがいる間はわざわざそんなことを言いに行かなかっただろうにね。よくあんな語彙力豊富に悪口を思いつくよなアイツは、と関係ないところで感心してしまう。
「で、極めつけのトドメがこれだね」
俺はホワイトボードに『反転術式』とでかでかと書き殴り、ぐるぐると赤い丸で囲った。
その瞬間、菜緒葉ちゃんは「ヒッ」と短い悲鳴を上げてその場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
「……こ、これはもしかして、ちょっとヤバかったかもなーと、ちょろっと思ってはいたんですのよ……」
「ちょろっとじゃねーよ、激ヤバの核地雷だよ」
あの『予測』の中の菜緒葉ちゃんは反転術式のアウトプットがどれほど稀少かを知らなかった。
しかし真依ちゃんの立場になって考えてもみろ。無理やり呪術師を目指さざるを得なくなり、プレッシャーで押し潰されそうになっているところに、修行ゼロのいち女中が、自分の使えない高等テクニックをあっさりと披露してきたのだ。
無意識の特大マウントを喰らった真依ちゃんの心情──察するに余りあるね。
実際、あの時の真依ちゃんは直哉に詰められていた時以上に号泣していたし。
「つまり慈愛の女神・菜緒葉ちゃん(大)は真依ちゃん視点だと『女の武器でいじめっ子の直哉と上手いことやり、母親の愛を横取りし、的外れな慰めでプレッシャーをかけ、呪術の才能でマウントをとってくる嫌味な女』っていう、だいぶアレな映り方をしてたんだ! だから菜緒葉ちゃんは直哉の連帯責任とかじゃなく、普通に素で嫌われてたの!」
身も蓋もない結論を突きつけられた菜緒葉ちゃんは、顔を覆った指の隙間から「嘘ぉ……私、無自覚なフレネミーでしたの……?」と絶望の声を漏らしている。
フレネミーというか、そもそも
「直哉の真希ちゃんに対する『真依ちゃんに聞いてみよか』っていう煽りについても、『真依ちゃんは俺と菜緒葉ちゃんのオトナなシーンを目撃しとるで。ま、真依ちゃん死んどるから聞けへんやろけど(笑)』という、アイツなりの強烈な皮肉だったんだよ!!」
そう言い切って、俺はマーカーを無造作に放り投げた。カラカラと音を立てて転がったそれは、白い虚無の中へ溶けるように消えていく。
沈黙が降りた。
──勿論、本当は自分の言葉が根拠薄弱なことはわかっている。
俺の語った推論が100パーセント正しい保証なんてどこにもない。これが正しくても、直哉が更に追加の罪を犯していたという可能性だってありうる。真依ちゃんが本当に菜緒葉ちゃんを憎んでいたのか、直哉の言葉の真意がどこにあったのか、事の真相を確かめる方法はもう永遠に存在しない。これはただ、散らばった事実の断片を、最も直哉の罪が軽くなるように繋ぎ合わせただけの、都合の良い詭弁だ。
けれど。
何もしなかった自分を呪い、身内の惨劇の全責任を背負い込んで心が壊れかけていた彼女には、この馬鹿馬鹿しい詭弁が、泥沼から引き上げるための蜘蛛の糸になるはずだ。
「だから菜緒葉ちゃん、俺達の直哉を信じてあげようよ」
俺は崩れ落ちた彼女の前にしゃがみ込み、その震える小さな肩にそっと両手を置いた。
まあ、俺個人としては『予測』内のおと直哉のことも信じてるよ。「ガキにオトナにしてもらってんじゃねーよ」って話になるし、俺の考えでは、仮にアイツが真依ちゃんに本当に手を出していたら、アイツの性格上真希ちゃんへの煽りはあの程度では済まないだろう。
ま、いずれにしてもアイツの性格の悪さが諸悪の根源の一部であることは、揺るぎない事実なんだけれど。
「……マコくんは優しいですわね」
顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした菜緒葉ちゃんは、真っ赤な目で俺を見つめた。彼女はきっと、俺が彼女を救うために必死で理屈をこねくり回したことに気づいている。
「優しくなんかないよ。俺だって、君と同じくらいズルくて狡猾な人間だ」
俺は自嘲気味に笑い、さっきまでのコミカルな空気を完全に捨て去って告げた。
「白状すると、俺もさっき五条に保身の大嘘をついたばっかりだよ。五条の脳みそを弄ろうとした件について、『自衛だもん!!』で押し通した。流石の五条も、本当のところを知ったら俺を軽蔑するだろうな」
「……最低ですわね」
「そう、最低。俺だって結局禪院家だもん」
彼女の抱える深い虚無に寄り添うように、俺はわざと悪びれずに笑ってみせた。立派なヒーローでも完全無欠の聖人でもない。ズルくて間違えて、保身に走る、同じ穴の狢。
だからこそ分け合えるものがある。
「だから、ひとりで全部持っていこうとするな」
そう囁きながら俺は彼女を強く抱きしめ直した。触れた肌から、流れるように『予測』の凄まじい負荷が俺へと流れ込んでくる。
痛い。重い。息が詰まる。
けれど、それでいい。菜緒葉ちゃんが勝手に背負い込んだものを奪い取り、もらったものを返し、俺が本来持つべきだったものを返してもらう。
2人でなら、どんな重い荷物だって、きっと背負って歩いていけるのだから。
「……私は女ですわよ。何もできない、ただの女。なのに〈女〉として真っ当に生きることさえ、ままならない」
ぽつりとこぼれ落ちた菜緒葉ちゃんの声には、不安と恐怖が沈殿していた。
「みんなそうなの。あんなに強かった真希ちゃんでさえ、禪院家を本当の意味で壊すことはできなかった。本人はすべてをぶち壊したつもりだったでしょうけれど……禪院家というシステムを壊すというのは、中にいる人間を物理的に皆殺しにすることじゃないでしょう? 彼女が理不尽に抗い、強くなるほど、皮肉なことに『呪いと暴力で強者を削り出す』という禪院家のやり方が正しかったのだと証明する形になってしまう」
「……」
「よそへお嫁に行くのだって駄目。今度は無意識のうちに少しマシになっただけの禪院家を再生産することになる。どこまで行っても呪いからは逃れられない。大人の私は恋の幸せで目を曇らせることができなかったから、全部見えてしまった。そして、男を愛せないのは〈女〉としての欠陥。だから、最初から詰んでるんですの。この家に女として生まれた時点で、どう足掻いても駄目だったのよ」
絶望的な自己分析だった。
だが。
「性別なんて、全く関係ないよ」
俺はきっぱりと、一切の迷いなく断言した。
こればかりは誰が何と言おうと譲れない。身をもって経験した俺だからこそ言える絶対の真実だ。男としての人生も、女としての人生も、その両方の重みと理不尽を、俺は知っている。
「忘れちゃった? 君の術式は、『自分自身の本来の実力以上の物は絶対に実装できない』っていう制約がある。つまり、得意不得意の差こそあれ、俺たちの根源的なスペックは完全に同じなんだよ」
驚いたように顔を上げる菜緒葉ちゃんを、俺は真っ直ぐに見つめ返す。
「俺ができることは、大人の菜緒葉ちゃんにだって絶対にできたはずなんだ。ただ、周りのあまりにも酷い環境のせいで心が擦り切れて、絶望しちゃって、なかなか上手く立ち回れなかっただけだよ。それに……俺は、大人の菜緒葉ちゃんが『何もしてなかった』なんて、これっぽっちも思ってない」
あの『予測』の中で見た悲惨な結末。最後は理不尽な暴力によって全部なくなってしまったけれども、俺はあのもう1人の菜緒葉ちゃんをずっと見ていた。
まあ、完璧な聖人とはいかなかったかもしれない。理不尽な環境で生き残るために必死で「普通」に合わせようと取り繕って、自分を見失っている部分もあった。
でも、菜緒葉ちゃんは間違いなく、周りの色んな人を幸せにしていたのだ。
あの恐ろしい『予測』の凄惨な光景。
真希ちゃんが一撃で真っ二つにして殺した、菜緒葉ちゃんの物言わぬ亡骸──血の海となった凶行の現場で、その冷たくなった亡骸に縋りつくようにして息絶えた女中さんがいた。有紗さんだ。菜緒葉ちゃんが気にかけて、面倒を見ていた子の1人。彼女は菜緒葉ちゃんに抱きつき、髪を撫で、手を握ってから息絶えた。
彼女は菜緒葉ちゃんの特別な相手という訳ではなかったし、旦那さん共々死んじゃったんだから、そんなことは何の救いにもならない?
菜緒葉ちゃんが優しくして、献身を捧げた相手は全員死んだんだから意味はなかった?
──そんなふうには、俺にはとても思えない。
有紗さんが斬られた時点で、菜緒葉ちゃんは既に死んでいて、遺体は冷たくなっていく途中だった。呼びかけても応えない、もう何も返せない死体だ。それでも、斬られた彼女は、残された時間を使って、なんの役にも立たない場所へ這った。使い道として、それ以外を選ばなかった。
あの極限状態の中でそれでも最期にそうしたいと思われるほど、あの菜緒葉ちゃんは確かに誰かに慕われ、愛されていた。彼女が最善を尽くし、必死に労働を続けた成果は、ちゃんと報われていたのだ。
彼女が何にもしていなかったなんて、俺は少しも思わない。
「君は頑張ってたよ」
俺の言葉に、菜緒葉ちゃんの瞳から再び大粒の涙が溢れ落ちた。しかしそれは先程のようなどす黒い絶望の涙ではなく、長年張り詰めていた糸がようやく解けたような、静かな涙だった。
俺の腕の中にすっぽりと収まった彼女の背中を、宥めるように優しく、何度も撫でる。
そして──。
俺の腕を通して流れ込んでいた、気が狂いそうなほど膨大な情報の濁流が、嘘のように凪いだ。
全てのリソースの受け渡しが終わったのだ。
覚悟していたよりも俺側のダメージは断然低い。脳が焼き切れるような熱も、ゆっくりと引いていく。
菜緒葉ちゃんはこれから、あの凄惨な『予測』の内容をゆっくりと忘れていくだろう。そしてこれまでのように自由に『予測』へアクセスすることもできなくなる。
だがそれでいい。彼女はもう背負わなくていい。五条の言うことじゃないけれど、これからはもっと普通の女の子らしく、馬鹿みたいに笑って青春を過ごすべきなのだ。
「よし菜緒葉ちゃん、一緒に五条のところへ戻ろっか!」
俺が明るく声をかけ、立ち上がろうとした。
その瞬間だった。
《その必要はないよ。──着席》
キィィィィンッ!!
真っ白な虚無の空間に、耳の奥の神経を直接削り取るような不快な高音が走った。
「っ……!?」
視界がぐらりと揺れた。
いつのまにか、俺の背中は座り心地のいいふわもこソファに深く沈み込んでいた。菜緒葉ちゃんの手を固く握ったまま、2人並んで、まるで映画館の特等席にでも座らされたように。
「真男佳、テメェ……!」
《先生って呼んで。せんせい。できるよね?》
空間の中央。ぽつんと鎮座していたプラネタリウムの投影機が、いつの間にか無数の白い糸に取り囲まれ、巨大な繭のようなものに覆い尽くされている。その異様な光景に、俺は息を呑んだ。
声のトーンは相変わらず軽薄だ。だが、そこに込められた明確な悪意と支配欲が、肌を粟立たせる。
《ようこそ、最終講義へ。まずは答え合わせから行こうか。── まず、シン菜緒葉さん。君は俺のこと、いったい何だと思ってた?》
「は?」
《いやいや、責めてる訳じゃないんだ。純粋な興味だよ。魂の整体師? 生理痛を軽くしてくれる便利な機械? 思い出を都合よく再生するプロジェクター? 八つ当たり用のサンドバッグ? ガキ共をオルグするためのお手伝い要員? それとも、ちょっとお喋りでクールなプラネタリウム?》
「……全部でしょう。何を今更」
菜緒葉ちゃんは俺の手を握り返しながら、強気に言い放った。
《うん。そうだよね。君にとってはそうだ。じゃあさ》
ジジジ、と駆動音が鳴り。
巨大な繭の隙間から覗くレンズの奥で、毒々しい光が明滅した。
《どうして、そのプロジェクターに『何を再生させるか決める権利』が、君だけにしかないと思ったの?》
ぞわり、と背筋を悪寒が駆け抜けた。
次の瞬間、果てしなく広がっていた白い空間が反転した。