音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
2006年8月31日。鴨川の納涼床。
水面を撫でる夜風には、ほんのわずかに秋の気配が滲んでいた。しかし盆地特有のねっとりとした夏の湿潤な空気はまだ夜の底に澱んでおり、川沿いに等間隔に並ぶ提灯が朱色の光を黒々とした水鏡へと落としている。せせらぎに混じってどこからか聞こえてくる三味線の音と、対岸の先斗町を行き交う人々のざわめきが、この場に不思議な非日常感を漂わせていた。
私はこの間の夏着物を着てきた。墨黒の綿紅梅に金糸と銀糸の蛍。帯留めは銀細工の虫籠。羂索さんは黒のハイネックノースリーブに涼しげな白のカーディガンと、ロングスカートだ。
「蛍だね。いい趣味だ。お父上の見立てかな」
「ありがとうございます。仰る通り、父が誂えてくれましたの。……あ、そうだわ。羂索さん、蛍ってどうして熱を出さずに光るのかご存知? 前に調べたのに、すっかり忘れてしまって」
「ルシフェリンという物質が、ルシフェラーゼという酵素の働きで酸化される。そのときのエネルギーがほとんど全部光に変わるから、熱として逃げる分がないんだよ。冷たい光と書いて、冷光」
「……ふふ、なるほど」
『菜緒葉ちゃん、絶対わかってない顔だぁ』
脳内でマコくんが呆れている。わかってますわよ。冷たい光。この人の指先みたいなものでしょう。
仲居さんが冷酒の片口を置いていく。私は片口を取り、彼女の切子の盃に七分目まで注いだ。
「お酌なら喜んで」
「手慣れてるね」
「禪院の女の嗜みですわ」
嘘ではないけれど本当でもない。お父様の晩酌にお付き合いするのは、たいていマコくんの方だった。マコくんは「あの人酒癖悪いんだよなぁ」としきりに愚痴って、お父様が大きめの仕事をする前日以外はすすんで行かない。私は、あんまり気にしたことがなかった。一定以上の年齢の男性は、お酒を飲むとみんなああなるモノかと思っていたのだが。
先付は鱧の落としだった。湯に潜らせた白い身が、皮を残してくるりと反り返り、花のように開いている。梅肉の赤と薄く削った出汁氷が、涼やかさとガラスのような透明感を添えている。伝統的な鱧落としを夏らしく現代的に仕立てた一品だ。
『骨切り、一寸に二十四か……いや二十六はあるな』
羂索さんへの警戒心はありつつも、料理への関心も同じくらいにありそうなマコくん。少しはこれで気分転換ができればいいのだけれども、なんて私は考えていた。
この時の私は羂索さんのことがそんなに怖くなくなってきていた。五条悟の方が一万倍恐ろしかった。
だから普通に雑談していた。
「牡丹鱧と言うらしいね。熱湯に落とすと、骨切りの刃目に沿って花が咲く」
「熱湯に沈めて咲かせるなんて、随分と乱暴な開花ですわよね」
鱧はとても骨の多い魚なので、皮1枚を残して3cmに24〜26回の切れ込みを入れて口当たりを良くする。すると湯通しの時に皮側のコラーゲンが熱で縮んで、白い牡丹の花のように開くのだ。新鮮な物を上手に骨切りしてすぐに湯引きしないと花は上手く咲かない。だから我が家では出入りのお魚屋さんが、いつだって骨切りの処理が済んだ状態で届けてくれている。
「……なんだか可哀想ですわ。思ってませんけど」
「まあ、美味しいからね」
口溶けは雪のようなのに、意外なほどに脂が乗っている。秋が近いからだろうか。梅の酸味もちょうどよかった。
「そういえば羂索さん、この間、とある女性と任務をご一緒したんですけれど……」
私は小動物を使った絶命の縛りについてお話しした。羂索さんはこれを非常に高く評価した。
「そういう発想は嫌いじゃない。差し出す物が自分じゃない所が、一番賢い」
「私は、よそ様の命を勝手に捧げるなんていうのは趣味じゃありませんけどね」
『そうだそうだ! 手ずから餌をやってるペットを特攻させるとか、サイコの所業だよ!! 普通は可哀想で躊躇うって』
そりゃあ動物好きのマコくんなら躊躇うだろうが、冥冥さんは根っからお金目当ての呪術師なのだから、それ位はやってのけるでしょうに。
『うう、カラスは人間並みに賢いんだよ……』
——ちなみに『予測』によれば、真希ちゃんの大暴れのときに禪院家を空けていた36人も、あの後真希ちゃんに殺されてしまっていたようだった。そしてその時にお手伝いをしたのが、まだ見ぬ冥冥さんの弟くんだ。その周辺の映像については呪霊の直哉を起点に無理を押して深くアクセスしようとしすぎて何度か頭が狂いかけたので、よく知っている。
私は『予測』の中の真希ちゃんを憐れんでいるし、大好きだった時期もある。大人の私が酷い女だったのもわかっている。今だって性根は外道だ。だから弟が同じような状況で殺されたら、私も同じことをする。
けれども知り合いをみんな殺された記憶が蘇り「天秤の釣り合いを取るためにあの子の未来の仲間を全員殺してやろうか」と一度も思わなかったと言えば、間違いなく嘘になる。今の真希ちゃんはなんの罪もないカワイイ女の子でしかなく、憂憂くんは生まれてすらいない。だから、起きていない罪で他人を裁く邪悪さを普段は認識しているのだが……。
冥冥さんは台風に殴りかかる馬鹿ではなく、台風の進路を売りさばく賢者なのだ。本当に、呆れちゃうほど器用でいらっしゃる。
でもまあ「そんなことは誰も知らないままの方がいいな」と思うので、私はそれをマコくんにも羂索さんにも話す気はなかった。
「私は私の目に映る世界をなるべく美しく愉快にしたいんですの。そこに特攻兵の屍を転がしたくはありませんわ」
「……ふうん」
羂索さんは面白そうに目を細めた。
「君は本当に、途中までは私と気が合うね」
羂索さんは切子の盃を置き、欄干の向こうの暗い河原へ視線を投げた。
「今でこそこうやって風流にお酒を飲んで浮かれているけれど、平安の昔、ここは都の外だったの。帝ですら抑えきれなかった暴れ川でね、氾濫すれば大勢が亡くなり、行き場のない遺体が流れ着くような、生と死の境界だった場所だよ。罪人が首を刎ねられ、浮浪者や異形の者たちが身を寄せる……貴族たちが恐れた不浄と忌みの地。それが、いま私たちが足をつけているこの河原の本当の姿だ」
見てきたような口ぶりだった。多分、本当に見てきたのだろう。
「で、床の下を流れているのは、みそそぎ川という細い水路。鴨川から水を分けて、五条の手前でまた戻すの。名前の由来は禊だとか。穢れの河原の上に禊の水を通して、その上で私達は鱧を食べてる」
「……『残酷な事実を上書きするのは得意だろう』と仰るんですの?」
「まあね。付け加えるなら、江戸の頃には、洪水で流された小屋を片付けたり、喧嘩で出た死体を始末したりする組織が、床の商いの裏にちゃんとあった。涼しい顔の床の下には、いつも片付け係がいるんだよ」
そう、床は拭かなければならない。
そして、拭くのは女だ。
どこかで聞いた、あるいはどこかで思った言葉が浮かんで、私は器に視線を落とした。
「……実のところ昔の私は、どちらかと言えば片付け役の立場だったんですのよ。いえ、厳密にはこの私ではないのですけれども。常に反実仮想の中で生きておりますもので、偶に区別が曖昧になります。幼稚だとお思いでしょうけれど、私は死体のなるべく少ない世界を作ってみたいんですの」
羂索さんは少し冷めた声で言った。
「菜緒葉、君ってそんなにいい子だったっけ?」
顔を上げると、その目は私の中の真実を全部見抜いているように見えた。
「あら、全部お見通し? ——戦争中に特攻を命令した人は、殆どが生き延びたそうですわ。本当にずるい。上も下も死体だらけで誰も安全じゃないというのは、ちょっぴりロマンチックかもしれません。でも、そこまで破滅的になるには、世の中には価値があるものが多すぎます。今あるものを、もっと味わい尽くさないと」
「……」
「羂索さんも骨の髄まで堪能なさってね。ここのコース、美味しいでしょう?」
本当に、職人の業が光る涼やかな料理ばかりだった。鱧の落としの次は、賀茂茄子の揚げ出しに万願寺唐辛子を添えた炊き合わせ。焼物は川の上に相応しく鮎の塩焼きで、青い蓼酢の苦みが夏の終わりを舌に刻む。落ち鮎にはまだ少し早いが、身には秋の脂がうっすらと乗り始めていた。
しばらく色々な話をしながら食事をした後、薄く輪切りにしたすだちが一面に浮かぶ冷やし蕎麦が出された。淡い緑のつゆに、すだちの香りが立つ。今日が本床の最後の夜で、明日からは後涼みになるのだと、器を置いてくれた仲居さんが教えてくれた。
『すだち蕎麦はすだちの皮の苦みが出る前に食べ切るのが正解。ほら、早く!』
マコくんに急かされて、すだちを一枚ずつ沈めながら啜る。冷たくて酸っぱくて、少しだけほろ苦い。
「……あ、そういえば」
すだちの輪切りを箸で突きながら、ふと思い立って羂索さんを見る。
「羂索さんも浴衣を着てきてくれたら、お揃いで楽しかったのに。あそこの親子もカップルも友達同士も、みんな浴衣ですわよ!」
「そうだね」
彼女はどこか遠くを見るような目で微笑んだ。
「じゃあ、閉じない領域を完成させられたら、マコくんと君の好きな服を着て、今度一緒に遊んであげるよ」
「あら、なんでもよろしいんですの? ……それ本当になんでも?? 逆バニーでも??!!」
逆バニー。マコくんの前世記憶の中にある、魅惑のファッションだ。『予測』も現在もマコくんの知識も全部ひっくるめた上で、私の知る中で、最もエッチなファッションである。
「ぎゃく、ばにー……?」
千年を生きた怪物は「逆バニー」という未知の単語を口の中でそっと転がしながら、心底不思議そうに首を傾げている。
そう言えば、いつ発明されたファッションだったんだっけ。
『おーい菜緒葉ちゃん!? 君は正気か???』
「……もう、しゃーないですわね。なら順バニーで妥協して差し上げますわ。人妻バニーってはっきり言ってすごく人気があるんですから」
頭の中でマコくんが『君は何を言っているの??』と悲鳴を上げているのにも構わず、その時の私はなんだか「今年の夏がこのまま終わらなければいいのに」と切なく思っていた。
◇
五条に対抗して印を組んだ一瞬、頭上の抜けるような青空を旋回していた一羽のカラスと、不意に視線が交錯した。
冥冥さんの共有視覚、その端末。
巻き込めば間違いなく弾け飛ぶ。
——可哀想に。
一抹の同情は胸を掠めたが、結んだ指先を解く気など毛頭ない。私の覚悟はそんな安いものではない。カラスの視界をジャックしているであろう冥冥さんへと向けて、私は薄く微笑んでみせた。
「——領域展開」
世界というキャンバスに、私の呪力をぶちまける。
私とマコくんが構築する領域の基本コンセプトは至ってシンプル。切り刻んだ素材を、最高に『美味しく』調理するための厨房だ。
もしも人間を傷つけることができないマコくんがこれを展開したなら、飛び交う斬撃はただのポップなカットアップとなり、愉快な音MAD空間が広がったことだろう。
でも、私は違う。
人の肉を躊躇なく切り刻める。
だからこの領域は、死の厨房だ。印さえ刻み終えれば、領域崩壊後にも傷が開く遅延斬撃。そして刃の周辺での呪力の精密なコントロール。これらを重ねて『落花の情』を無効化し、反転術式の効きも悪くする。
さらに私は、この領域の必中効果に細かく偏執的なチューニングを施していた。呪力を一切持たない存在——無機物やそれに等しい者にすら強制的に反応するように。
理由はただひとつ。
甚爾くんのような、呪力を持たないがゆえに世界から外れた透明な存在を、システムのバグやエラーではなく「そこにいる一人の尊い人間」として、この世界に正しく定義し直すためだ。
呪術界が彼らを透明人間として扱うなら、私の領域だけは、愛をもって彼らを捕捉し、平等に裁断する。
結界の殻で空間を分断しない。世界そのものを下敷きにした、開かれたキャンバス。
発動の瞬間、私の目に映るすべての空間を巨大な繭のように密になったホップファイブレーション構造——黄金の光輪が埋め尽くしていく。美しくも狂気的な光の鎖が編み目のように複雑に絡み合い、視界に映るすべてを巨大なフードプロセッサーへと変貌させた。
凄まじい破壊の暴風が吹き荒れる。
『真・世界斬』によって真っ二つに割れたプールの跡地が、不可視の刃と光の鎖によって徹底的に蹂躙されていく。コンクリートの破片も、ひしゃげた鉄骨も、目に映るすべての物質が容赦なくサイコロ状に切り刻まれ、原形を留めない微塵へと還っていく。上空を飛んでいたあのカラスも例外ではない。微弱な呪力ごと必中対象として捕捉され、悲鳴を上げる間もなく、ポンッ、と手品のように乾いた音を立てて真っ赤な血煙に変わった。
そして、私の領域が牙を剥く最大の標的。
目の前でまさに自らの絶対宇宙を広げようとしていた、五条悟の『無量空処』だ。
彼の領域が内側に無限の情報を広げようとするその瞬間、私は外側から世界ごと調理器に放り込んだ。「内側からの耐性を高めれば、外側からの力には脆くなる」——それは結界術における絶対のセオリーだ。
私の放つ必中の斬撃の嵐が、五条の展開した領域の外殻に群がり、嵐のような質量で削り、叩き割り、無惨に粉砕していく。
「さあ、メインディッシュの時間ですわよ、五条!!」
こんなに活きの良い、素敵な素材を調理するのは初めてだ。緊張する。
家の台所で取り扱うには壁のある食材というのは、数多ある。
ふぐ調理師試験は合格しているけれど、鱧は骨切り済みで届くし、すっぽんも捌いたことがない。フォンやデミグラスソース、胡麻豆腐は手間の関係上基本的に業務用を使用しているし、天ぷらを揚げる場合も、特別な日に限って一流の職人さんをお座敷に呼んで任せている。
そうした、普段は自分の手で触れられないような料理を、実験や趣味の一環として一から試行錯誤して調理するのが、私もマコくんも大好きなのだけれど——目の前に立つ五条悟は、まさにその究極系だ。
誰も捌いたことのない、毒も骨も規格外の、世界で一番厄介な素材。私の持てるすべてを注ぎ込み、彼をとびきり前衛的で、血の滴るような芸術作品に仕立て上げたい。
——そしてついに、無量空処が外から噛み砕かれた。
星屑を撒いたような真空が膨らみかけていた殻の外側に、何千本もの包丁の痕が同時に走った。伊勢海老の頭を包丁の背で叩き割るときのあの鈍く嫌な感触が、術式を通して指先まで伝わってくる。一度では割れない。二度目で筋が入る。三度目で筋が網目になる。そこから先は、刃が殻の中に潜り込んでいくのを、ただ見送るだけでよかった。
「ふふ……ふふふふふ!」
五条がよろめいた。
剥がれた殻の内側に溜まっていた星空が、行き場をなくして散っていく。領域の崩壊。同時に、展開者である彼の術式が焼き切れる。五条を覆っていた見えない層——無限に分割された距離の盾が、消えた。
五条の頰に、細い線が入る。脇腹に。喉元に。深くは入れない。入れる気もない。これは殺し合いではないし、何より五条は私の最高の素材だ。素材は最後まで生きのいい方がいい。
だから薄く細かく等間隔に、鰤の皮目に入れる隠し包丁の要領で、火の通りと味の入りをよくするための切れ目を何百回も繰り返す。そしてその切り口に、私の呪力を下味として擦り込んでいく。
可視の斬撃と、不可視の斬撃。割合はハーフ&ハーフ。刃が肉に食い込む『起爆』のタイマーは、触れた直後の0秒から、最長300秒後まで。規則性など一切ない、完全にデタラメな乱数調整。
それから、無言の攻防が続いた。
胸倉を掴まれた。
そう認識した時には、もう足が地面から離れていた。背負い投げ。視界の天地が入れ替わり、割れたプールの底が空の位置に来る。
受け身を取って、更にまた向かい合う。
けれども五条の腕には既に、パッと見でわかる蛍光イエローの露骨な切り取り線と、六眼でしか読み取れない不可視の線が縫い付けられていた。直後。ゼロ秒設定の不可視斬撃が弾け、五条の前腕から肘にかけて、3本の赤い線がすうっと走る。
血が吹き出しては傷口ごと塞がれるが、これで終わりではない。2秒後には可視斬撃が腕を削ぎにかかり、7秒後、15秒後、42秒後……果ては7分後まで、彼の腕にはいつ開くかわからない無数の時限爆弾がへばりついている。
五条は反転術式を全開にしていた。細い切れ目がぷつぷつと赤い玉を結び、結んだそばから皮膚が寄って塞がる。塞がった上をまた刃が走る。開いて、閉じて、開いて、閉じる。寸胴の底で延々とアクを吐き続ける骨を連想した。
それでも、閉じる速度が開く速度にわずかに追いつかない。擦り込んだ私の呪力が、傷口の中で彼の治癒を半拍だけ邪魔している。下味が効いている証拠だ。
なのに五条は少し笑っていた。
全然倒れる気配がなかった。
私も笑っていた。
マコくんなしの弱い女の私でも、意外とやれるものだ。
夢みたい。羂索さんもこれで無事にバニーガール衣装で私とデートしてくださることだろう。
攻防の最中、五条の周りに小さな光の円が浮かんだ。簡易領域だ。
一瞬、本気で理解が追いつかなかった。
御三家の五条が使う領域対策は、秘伝の『落花の情』だけだと踏んでいた。そして、この領域の刃は『落花の情』では防げない。対策は完璧なはずだった。だが五条はたぶん、マコくんの領域を経験した時点で、『落花の情』での回避不能性を予測していたのだろう。
だから簡易領域を使った。
簡易領域はシン・陰流の一門相伝の技だ。躯倶留隊に盗み見て真似ている人はいるけれど、私には使えない。領域を展開できない術師が、強者に一方的に殺されないために開く、ささやかな傘。術式のない者の希望。
それを、生まれた時から何もかも持っている最強の男が、誰かから盗み見て使いこなしている。それはなんだか酷く皮肉なように思えた。
「……小癪な人」
声に出して言ったら、五条は円の中で片眉を上げた。はっきり言って、『適応』は私の術式であり、マコくんの司る領分のはずなのだ。なのに五条は、私が人生の全部を使ってやってきたことを、遊びのようにやってのける。
でも、10秒も保たないはずだ。
簡易領域は所詮、傘。
嵐の中心でいつまでも差していられるものではない。私の領域の圧力が、円の縁を外側からじわじわと押し潰していく。
1秒。円の縁がたわむ。
3秒。光の線が一本、ほつれる。
5秒。五条に傷がつく。
7秒——
五条が私の至近距離で——
「……『赫』!」
目の前が真紅に眩んだ。
何が起きたのか、一瞬わからなかった。
焼き切れているはずの術式が、至近距離で炸裂していたのだ。
私は後ろに吹っ飛んだ。
視界が赤一色に染まる。空間そのものが拉げて、弾けて、私の体を紙屑のように押し潰す。
考えるより先に、『カットアップ・サンプリング・リミックス』が走っていた。
マコくんほどの精度はない。けれども、ここは私の領域の中だ。押し寄せる斥力の波形を細切れに刻み、拾い、並べ替える。
全部は無理だった。
半分だけ切り取って五条の方へ投げ返し、残りの半分を私が受けた。
割れたプールの壁に、背中から激しく叩きつけられる。肺から空気が全部押し出されて、声も出ない。コンクリートが背中の形に凹んで、そこからずるりと滑り落ちる。宙を踏もうとして、足が空を掻いた。受け身も取れず、瓦礫の上に転がる。全身の骨が折れそうに痛い。
——すっかり忘れてた。
マコくんの領域展開後もそうだった。
しくじった。
よろよろと起き上がって、五条を見た。
五条は忌々しくも案外平気そうにしていた。
いや——鼻から血が垂れている。それを拭おうともしない。
笑い方がさっきまでと少し違う。唇の端が必要以上に吊り上がり、瞳の焦点がほんのわずかに合っていない。
その様子を見て、気づいてしまった。
「あなた、まさか……術式の焼き切れを反転術式で治してるんですの?」
信じられなかったが、そうとしか思えない。
理屈はわかる。私も稽古や任務の事故で、必要に駆られて反転術式で頭を治したことは2回ある。けれども直後はテンションがおかしくなるし、中身がちゃんと元に戻っているかは、自分ではわからない。だから、必ず病院で診てもらうようにしていた。
それを、この人は。わざと。戦闘中に。
「正気ですの??? 早く試合を切り上げて病院に行きましょうよ! 言っちゃなんですけど交流会に命賭ける価値とかないですわよ!!」
叫んでしまった。
心配でしょうがない。
何をやっているんだこの男は!!
さっきまでどうやって骨切りしてやろうかと考えていた相手の脳を、本気で心配している自分がよくわからない。でも、素材が勝手に自分の中身を壊して作り直しているのを見て、平気でいられる料理人はいない。
そもそも私はマコくんとの約束半分、縛りを達成できなかった場合の不安半分、それからちょっぴり(?)の対抗心から五条に敗北を教え込んでやりたいだけで、別にヤバげな後遺症を負って欲しい訳ではないのだ。
五条は、鼻血を拭いながら答えた。
「ハイハイ、菜緒葉が降参したらな」
「あなたねえ!!」
ダメだ、この人。
テンションが完全におかしくなっている。
頭の片隅で、私の側の計算は勝手に続いていた。この反則技は、もう絶対に出てこない。当人に実害が出ている。同じことをもう一度やれば、廃人になる危険がある。領域をもう一度展開するのだって、当分無理だろう。
対して私の領域は、まだ生きている。
呪力の残量を数える。目盛りは減り続けているが、まだ十分戦える。なんなら、術式反転を使う余裕だってありそうだ。
勝てる——そう思いかけて、五条の目を見て気の緩みを投げ捨てた。
呪力の流れを、術式の構造を、相手のすべてを丸裸にする六眼。その神の如き瞳が、今、この世界で私だけを映している。
私なんかのためにここまで必死になる人がいるんだと思うと嬉しくて楽しくて、五条がまだ私にぶつけていない全部を吐き出させたくなる。
五条は私の気持ちを見抜いたような顔をした。
そして、その指が交差される。
私のテンションは、さらにまた上がった。
見て。
私の達成をもっと見て。
心の底から湧き上がってきたその感情に、少しぞっとした。
あんなすったもんだを繰り返したというのに、私はまだ承認に飢えていた。真男佳は私の中のこの空白を食べて育った。点をつけてほしい。合否を出してほしい。私のやろうとしていることが正しいのかどうか、確定して欲しい。一番すごい呪術師から見て、その基準に見合った人間になりたい。
真男佳は以前「主人の道具では主人の家を解体できない」という言葉を教えてくれたっけ。
そのことについてあの日以来何度も悩んだけれども、「家の外側に純粋な革命の道具が存在する」という発想を、私は結局どうしても信じきれない。
真男佳が得意げに引用したジジェクも「ハイチ革命を見ろ。奴隷たちは主人の道具も家も奪った」というようなことを言っていたっけ。
すべての人間の自由と平等を宣言したフランス革命は、「人間」の定義から植民地の黒人を取り落とした。ハイチ軍は『ラ・マルセイエーズ』を歌いながらフランス軍と戦った。
だから私も、かつて呪術界の奴隷だった禪院の女の端くれとして——
でもそれは、これまでの禪院家にいたみたいな、権力を振りかざして弱い人を虐げる呪術師ではない。
今まで見た中で一番楽しそうに呪術を使う人。もしかしたら、私の目標に一番近いのかもしれない人。その交差した指の先から、仮想の質量が膨れ上がる。五条は私に点数をつける。
虚式。
甚爾くんにつけられたのと同じ、決定的な点数。それが、破滅の光となって放たれる。五条の採点は、すべてを消し去る紫のインクで書かれていた。
実のところ、シン菜緒葉さんは本戦闘において乙骨に対する石流レベルの熱視線を五条に注ぎ続けて誘惑しまくってました…
その結果がこれです…
という訳で明日投稿予定の次回で後半戦決着! 今章は残り3話予定なのでもう少しだけお付き合いいただけたら…!!