音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
とりあえずDX日輪刀と並ぶ時空の歪みということでご容赦ください…!
今回は久々に禪院扇の出番です。
本作での扇の術式設定はもっと早く明かす予定だったのですが、VS扇のときにやりそびれたので、ここでサクッと開示しちゃいます!!
躯倶留隊レビュー
禪院扇 星1.5
・機嫌を取っておけばラク
・最近話しやすくなった
・教育熱心すぎてなんだか怖い
◇
夜明け前の子供部屋は寝息と障子一枚向こうの庭の虫の声の気配でできている。真依はその中で、誰よりも早く目を覚ますことに慣れてしまった子供だった。
隣の布団では真希が掛け布団を蹴り飛ばし、寝間着の裾から腹を出して大の字になって寝ている。真依は姉を起こさないように布団を抜け、文机の前に正座し、父からもらった木箱の蓋を開けた。箱の中は升目に仕切られていて、升のひとつひとつに父の几帳面な字で日付を書いた紙片が貼られている。
昨日までの升目には様々な形にカッティングされた色とりどりの宝石が宝物のように納められており、今日の升は、まだ空いている。
毎日一粒。
それが真依に課された最初の日課だった。
目を閉じて、掌を上に向ける。
呪力を練るとき、真依はいつもお腹の底にある温かい水たまりから、細いストローで少しずつ吸い上げるところを想像する。吸い上げたものを掌の上の一点に集めて、そこに「ある」と決める。ないところに、あるものを置く。それだけのことが、真依の小さな体にとってはひどく重い。一点に呪力が溜まっていくにつれて、鼻の奥のもっと奥、目と目のあいだの骨の裏側が、ぎゅうっと内側から押されるように痛み始める。痛みが熱に変わり、熱が耳の奥で脈を打ち始めたころ、掌の真ん中に、ちいさな硬いものの手触りが生まれる。
目を開けると、薄い紫の小さな水晶玉が乗っていた。障子越しの薄青い朝の光を吸い込んで、粒の芯のあたりだけがほんのりと明るい。昨日のものと、たぶん同じくらいの大きさだ。真依が息をつくのと、上唇にまでぬるいものが伝うのが同時だった。
「まいー、もうやってんの?」
寝ぼけ眼をこすりながら真希がティッシュを持ってきて、真依に手渡した。
術式を自覚したのは前の誕生日のことだ。それまでの真依は、呪霊が見えるだけで何もできない子供だった。走るのも木に登るのも新しい遊びを見つけて大人に褒められるのも全部真希が先で、真依は後ろから「まってよ」と言うだけの役だった。呪霊が見えても、見えるだけではどうにもならない。むしろ、見えない真希に手を引かれながら、震えて見ているだけのことの方が多かった。だから掌に最初の粒が生まれた日、真依は、これでやっと自分にも真希にないものができたと思ったのだ。
最初の頃は、本当に楽しかった。
父の言いつけ通りに毎日小さな宝石を作るのは幼い真依にとってはちょうどいい宿題で、出来上がった粒は毎日少しずつ大きく、少しずつ透きとおっていった。10粒貯まると母がハンドメイドアクセサリー用の土台に嵌めてくれるので、3人であれこれ相談しながらデザインを考えるのが大好きだった。
だが、父が桐の小箱を持ってきて、升目に日付を書き始めたあたりから変わった。それまでの宝石は、作った日に母と真希のところへ行った。今はまず升に入れられ、夕食のあとに父に灯りにかざされ、昨日と比べられる。
ティッシュを鼻に突っ込む自分の隣に心配そうに座っている真希の手首に光る色とりどりの粒を、真依はじっと見つめる。
——そうしなければ、真依はこの先の1日を耐え抜くことすらままならない。
◇
同じ日の夜。京の外れの住職を失って久しい廃寺の境内に、蒼い光が一閃した。呪霊の輪郭が肩口から腰へ斜めにずれ、ずれた断面が燃えることもないまま白く発光し、次の瞬間には全体がほどけるように黒い灰となって崩れた。夜風が灰をさらい、苔むした石段の上をなめるように運んでいく。
扇は手にしていた刀を優雅に振り下ろし、刀身に纏わりついていた蒼い炎をスッと霧散させる。そして刃を鞘に収める。澄んだ鍔鳴りを聞きながら、扇は柄に巻いた鮫皮の、指に馴染んだざらつきを確かめた。
——扇の生得術式は『構築術式』だ。平安の昔から伝わる、由緒だけは正しい術式である。自身の呪力を元に、文字どおりゼロから物質を作り出し、作り出した物質は術式を解いた後も消えずに残る。残る代わりに、燃費が凄まじく悪い。
どれだけ必死に呪力操作の効率を高め、修練を積んだところで、扇の生来の呪力総量では、鼻血を流しながら等級のきわめて低い呪具刀を1日1本構築するのが関の山だった。
少年時代の扇は絶望し、実の兄達にさえ己の術式を明かさなかった。『灯』に放り込まれて燻っていた14の冬から、19の春までのおよそ五年。毎日のように構築した刀はしょっちゅう折れて捨てられてもなお扇の私室から溢れ、やがて離れの土蔵の一階を埋めた。父や兄たちは、末の弟が刀剣の蒐集に凝っているのだと思っていたらしい。見る目のない安物ばかり集めて、と陰で笑われていたことも知っている。扇は訂正しなかった。燃費の悪い外れ術式で鈍刀を量産しているのだと知られるくらいなら、目利きのできない蒐集家だと笑われる方が、まだ耐えられた。術式は魂の鎧だ。相伝を持って生まれた兄たちの前で、その鎧が紙でできていると明かす理由はどこにもない。
しかしそれでも扇は諦めなかった。非相伝の落伍者として嘲笑われ、踏みつけられたままで一生を終える気など、微塵もない。何が何でも当主になり、相伝の術式を持つ恵まれた兄達に、自分を認めさせようと、心に誓っていた。
19の春に、扇は縛りを結んだ。作れるのは己の意志に応じて瞬時に消すことのできる炎のみ。炎には形がなく、いずれ必ず消える。構築術式の存在意義である万能性と永続性を扇は自分の手でドブに捨て、その代わりに燃費を極限まで絞り上げた。結果として生まれた炎は、呪力による発火とも自然の火とも違う、奇妙な性質を帯びた。消えることを前提に構築した炎が、術式の底に残った構築の名残のせいで、今度はなかなか消えなくなったのだ。真空に置いても揺らぐだけで、風を叩きつけても形を保ち、扇が命じない限り燃え続ける。
手応えは確かにあった。
だが、それでもまだ足りなかった。
特級に足を突っ込んだような強力な呪霊を相手にするには、火力が心もとなかったのだ。
そこで扇は山のように自作していた刀のうちの1本を引っ張り出した。そしてその刀を中心に、構築した炎を纏わせるという第二の縛りを結んだ。自ら生み出した刀は自身の呪力がよく馴染み、炎の形状操作や出力のコントロールを飛躍的に向上させた。
ついでに試行錯誤の過程で研ぎ澄まされた呪力操作を使って、シン・陰流の術師の足運びを盗み見ては真似、御三家に伝わる対領域の『落花の情』を居合に組み込んだ。触れた呪力に反射で刃が走る。雑魚ならこれだけで片がつく。
全く使い物にならなかった厄介な術式を、自らの血を吐くような努力と執念で1級レベルまで押し上げた。その強烈な自負こそが、扇の精神の拠り所であった。
しかし、次期当主には選ばれなかった。
兄の直毘人が選ばれた。
何故だ、何故だ、何故なのだ──。
扇は長年その怨嗟の問いを胸の奥底で燻らせ、暗い情念を抱えて生きてきた。
──しかし、それも過去の話だ。
呪霊食による呪力量の底上げ、それに合わせて組み直した新しい縛り、終わりのない調整の積み重ね。すべてが実を結び、今の扇は呪術師の界隈では「最強の炎遣い」とまで呼ばれている。
「扇様、お見事です! あの巨体の呪霊を、文字通り一刀両断……いやあ、眼福にございます!」
帰り道、月灯りの差す道を歩きながら、背後を追う男──躯倶留隊の隊員である健太郎が、感嘆の声をあげながら揉み手をした。
扇は顎を突き出すように高々と上げ、鼻で短く笑った。
「ふん。あの程度の雑魚、赤子の手をひねるようなものだ」
「いやはや、流石は特別1級でいらっしゃる! 我々躯倶留隊の者からすれば、まさに神業、雲の上の御業ですよ! いやー、今日の討伐記録を書く手が震えてしまいそうです!」
健太郎は身振り手振りを交えて大袈裟に褒めてたたえた。扇の機嫌は、それを受けてすこぶる良くなった。数年前まで、躯倶留隊の連中は扇と目を合わせることすら避けていた。それが今は、向こうから寄ってくる。扇には友と呼べる相手がいない。兄とは喧嘩ばかり、同輩の術師とは手柄を競い合う間柄で、酒を酌み交わすような相手は生まれてこのかた一人もいなかった。だから部下が向けてくるこの種の機嫌取りと世間話のあいだくらいの言葉が、扇にとっては人生で初めて手に入れた談笑に近いものだったのだ。
「そういえば扇様」
と、健太郎は少し遠慮がちに、しかしいかにも世間話といった風を装って口を開いた。
「実はうちの菜々も少しずつ大きくなってきましてね。親バカとお笑いくださって構わないのですが、できればうちの子も菜緒葉ちゃんのように聡明で優しく、芯の強い女性に育ってほしいなぁなんて夢を見ておりまして」
健太郎は数ヶ月前に娘を授かったばかりだ。扇の姪である菜緒葉がまだ単なる台所の下働きだった頃から親しくしていた縁で、名前に『菜』の字をもらったのだという。
扇は「ほう」と目を細めた。
「それでですね、やっぱりああいう強くてしっかりした子に育てるには、幼児教育みたいなものって早いうちからやっておいた方がいいんでしょうか? 私は躯倶留隊で、妻も元は本家の洗濯係ですが、娘にはなるべくいい教育を受けさせてやりたくて。扇様のお宅ではどうなさってるのか、ちょっとだけご教授いただけないかと」
「ふむ……」
扇は足を止めず、だが一気に声を太くして説法モードに入った。
「良いか、幼児教育を甘く見てはいかんぞ。人間の脳というのは、3歳から5歳までの間にその8割が完成するのだ! その黄金期に何を詰め込むか、何を切り捨てるかで、人間の器の大部分が決まると言っても過言ではない!」
「は、ハァ! 8割ですか! それは一刻の猶予もありませんね!」
「我が家の場合を教えてやろう。まず、テレビなどの下世話で俗悪な娯楽は厳しく制限している。見せて良い番組は、幼児用の英語教育番組が基本だ! 音声は常にネイティブの英語音声のみ! アニメーションを見せるにしても、発音が正確で情操教育に配慮されたディズニー作品以外は論外だな。日本の低俗なギャグアニメや変身ヒーローものなど、脳の細胞を破壊する毒素でしかない!」
「で、ディズニー縛りですか……! ちなみに、アンパンマンとかは……」
「論外だ!! ああいう頭部を分け与える暴力的な発想は、子どもの倫理観を歪ませる!」
「ひぇっ……!」
健太郎は冷や汗を流した。
「当然、それだけではない! プロの家庭教師を招き、平仮名、片仮名、そして小学校低学年レベルの漢字ドリルを毎日欠かさず叩き込んでいる! 美しい文字は洗練された精神の表れだ! 習字の先生を呼び、さらに指先の繊細な神経を発達させて脳のシナプスを劇的に増加させるため、ピアノの専門指導者もつけている!」
「ピ、ピアノの先生まで……! 私の給料では電子ピアノを買うので精一杯ですよ!」
「そして何より重要なのは呪術の英才教育だ! 真依にはこの私が直々に! 手ずから呪術の基礎訓練を叩き込んでいる! 特別1級呪術師の私から直接指導を受けられるのだ、これ以上の幸福があろうか! ……ちなみに呪術指導の間、真希には、家の雑用や掃除の手伝いをさせたり、庭で適当に遊ばせたりしているぞ。まさに適材適所というヤツだ!」
実のところ、健太郎は片頬を引きつらせながら聞いていた。
(……いやいやいや! 5歳の女の子に英語とドリルと習字とピアノとスパルタ呪術訓練!? 詰め込みすぎだろ! 真希ちゃんの方もまさか『適材適所』とか言って放置されてるんじゃないだろうな?)
だがここで正論をぶつければ扇の機嫌を損ね、最悪の場合「我が家の教育方針に異論があるのか」と炎を浴びせられかねない。
愛しい妻と娘とのこれからの幸せな人生のため、健太郎は瞬時に世渡りスキルを発動させた。
「いやあぁぁぁ! 流石は扇様! いやはや、エリート中のエリートの御家庭はスケールが違いますねぇ! 庶民の私には爪の垢を煎じて飲むことすらおこがましい! いやー、勉強になりました! うちもせいぜい、英語のCDを流しながらひらがなドリルをやらせてみます!」
「うむ。教育とは親の覚悟なのだ。金と情熱をどれだけ注げるかで決まる」
健太郎の現在の収入は一般的なサラリーマンよりはやや上という程度である。
一方の扇は特別1級呪術師としての指名手当に加え、精鋭部隊『炳』の隊員手当、さらには当主の弟としての莫大な一族の配当金がある。教育資金など、文字通り湯水のように注ぎ込めるのだ。
扇は自分の言う覚悟というのが所詮は金額の桁の違いでしかないことに気づいていない。気づく必要もなかった。部下は感嘆し、夜風は心地よく、家に帰れば妻と娘たちが待っているのだから。
根にある選民思想は何ひとつ変わっていない。変わったのは、それを剥き出しにする必要がなくなったことだけだ。
陰口は減り、下の者が子育ての相談をしに来るようになり、家では少なくとも週に一度は夕食を家族4人で囲むようになった。圧倒的な実力と、一族を導く父としての威厳と、余裕ある強者の立場。扇は、そのすべてを手に入れたと信じていた。
「父さん! おかえりなさいーっ!」
門をくぐった途端、玄関から弾丸のように小さな影が飛び出してきて、扇の袴にがしりとしがみついた。真希だ。扇は一瞬よろめき、それからぎこちなく、しかし満更でもない手つきで、娘のサラサラとした髪に手を置いた。
「うむ……ただいま戻ったぞ、真希」
真希の手首で、小さな粒の輪がじゃらりと鳴った。赤、桃、紫。玄関の電灯の光を受けて、粒のひとつひとつが芯の方からほのかに光を返す。真希はこのキラキラした腕輪を大層気に入っており、風呂に入るときすら外したがらずに駄々を捏ねるらしい。
その奥の廊下には、双子の妹である真依が妻に抱きついたままぽつんと立っていた。
「……おかえりなさい、お父さん」
真依の声は消え入りそうなほど細く、弱々しかった。彼女の小さな鼻にはティッシュが詰められており、そこから赤い血が薄く滲んでいる。目の下にはクマができ、全身から疲労のオーラが滲み出ていた。
「真依。また鼻血か。この程度の術式行使で粘膜を痛めているようでは、先が思いやられるぞ」
「……っ、ごめんなさい……お父さん……」
真依はビクッと肩を跳ねさせ、小さな身体を縮こまらせてうつむいた。
家族4人で夕食を摂るようになったのは、去年からだ。以前の扇は下の者と食卓を囲めば飯が不味くなるとばかりに自室で一人で箸を取っていたが、姪から「家族団欒の時間を設けた方が、教育的にも精神衛生的にもよろしいですわよ。おじさまの改心をポジティブに示す絶好の機会ですわ!」と強く勧められ、素直に従った。扇はこの姪の合理性に一目置いている。
妻は夫の歩み寄りに今更何の感慨も示さなかったが、扇は「これだけ自分が歩み寄ってやっているのだから彼女もそのうち感謝するだろう」と楽天的に考えていた。
お通夜のような食卓で、呪力を持たない真希だけが、空気などお構いなしによく喋る。
「父さん! 今日ね、ツミキとメグミんちに遊びに行って、すっごくデッカいカマキリを見つけたんだ! これくらい! 緑色でカッコよくてね、父さんみたいだった!」
真希が身振り手振りを交えて無邪気に今日一日の大発見を報告する。娘のとりとめのないお喋りに対し、扇は威厳を保とうと腕組みをしたまま応じた。
「……ほう。カマキリか。カマキリは昆虫界における捕食者であり、無駄のない洗練されたフォルムを持つ。オマエが私に例えたのは、強者としての本能を感じ取ったからだな。うむ、良い着眼点だ」
「えっ? ……う、うん! カッコよかったの!」
真希は少し難しそうな言葉に首を傾げつつも、嬉しそうに頷いた。
「それでね、そのあと帰ってからゆかりさんがお洗濯ものをたたむのを手伝ったんだよ! ちゃんと角と角をピッタリ合わせてたためたの!」
「うむ。手伝いをしたのは感心だな。……で、真希」
扇はスッと目を細めた。
「手伝いをしたのは良いが、今日の分の平仮名と漢字のドリルは既に終わらせたのか? ピアノの復習と、習字のおさらいは完璧なのか?」
真希の弾んだ声がピタッと止まった。彼女は気まずそうに目を泳がせ、つむじを見せるようにうつむいた。
「あ……ドリルは、あと3ページ残ってて……ピアノは、ちょっとだけ……」
「なに? 残っているだと?」
扇は声を低めた。
「やるべき義務を果たさずに娯楽や手伝いに興じるとは本末転倒だ。お手伝いなど誰でもできる。お前に求められているのは、基礎教養の完全な習得だ。食事が終わったらすぐに部屋に戻り、残りのドリルを終わらせなさい」
「……はぁい」
真希の元気だった声が、しゅんと萎んで小さくなった。
扇は満足げに頷くと、今度は隣で黙々と白米を噛み締めている真依に視線を向けた。
「真依。今日は宝石を作ったか」
真依はビクッと体を震わせ、お椀を持つ手を止めて小さく頷いた。
「……はい、アメジストをひとつ。真珠の層も2枚重ねました……」
「ほう。で、どのくらいの大きさだった? 昨日より大きかったか? 内部の透明度は向上しているのか?」
矢継ぎ早に繰り出される詰問に、真依は泣きそうな顔で縮み上がった。
「きのうと……おなじくらい……です……」
「同じ? 昨日と同じでは成長していないのと同じだぞ!」
扇はコンと箸を食卓に置いた。
「昨日と同じ密度のものを作って満足していてどうする! もっと呪力の底を意識し、精神を研ぎ澄まして限界を引き伸ばせといつも言っているだろうが!」
「うぅ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
──扇は、自分が父親として娘たちの話を真剣に聞いているつもりでいた。現状を把握し、的確に指導し、正しい方向へ導いているという自負があった。実際には、娘たちのお喋りの中から、自分の描いた理想図に関わる評価可能な数字だけを抜き出しているにすぎない。
扇にとって家族とは、自分の思い描く家の形に嵌まるべき部品だ。部品が嵌まっている間は愛おしく、嵌まらないとわかった瞬間に苛立ちの対象になる。扇自身はそのことにまったく気づいていない。相伝を持たない末の息子に対して父が持っていた関心も、概ね同レベルだったからだ。
食後、真希が母の袖を引いた。
「お母さん、お皿さげるの手伝う!」
妻の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「ありがとう、真希。助かるわ」
それを見て、真依が慌てて腰を浮かせた。
「わ、私も……お皿、運ぶ……」
「真依は駄目だ。まだ今日の修練が残っている」
扇は即座に制した。皿運びなど誰にでもできる雑役に、術式持ちの娘の時間を割く必要はない。いや、本当は女なら家事もやった方がいいとは思っているのだが、真依に両立の能力はないという冷ややかな認識を持っている。
真依の膝が、ゆっくりと畳に戻った。その横で、両手に空の飯茶碗を重ねていた真希が、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ、真依の分のお手伝い、私がやる!」
真希は手際良く食器を重ねた。
扇は真希の歯を見せて笑う顔を見た。それから、正座し直した真依のことを見た。双子の娘を見比べて、ほんの一瞬、苛立ちとも疲れともつかない感情を抱いた。
奥の間で、扇は真依と向かい合った。
膳の前にいたときよりも真依の顔はさらに白い。妻は従順に見えて気の強い女で、扇自身もそうだ。真希は夫婦の血をそのまま継いで、よく動き、よく喋る。なのに真依には、どこを探しても気迫というものが見当たらない。
畳の上に、今朝の紫の粒と、先月から育てさせている真珠が一粒、並べてある。扇は真珠をつまみ上げ、白熱灯にかざした。
「照りが足りんな。真珠層の重なりが不均一だ。急いで作った雑さが出ている。……だがまあいい。さあ、この真珠を呪力で包み、畳から浮かせてみせろ」
扇は畳の上に真珠を置き、命じた。真依は畳の上に正座し、小さな両手を真珠にかざして必死に呪力を注ぎ込んだ。彼女の額から大量の汗が吹き出し、鼻に詰めたティッシュの隙間から再び赤い血がツーッと垂れ落ちて畳に染みを作る。
姪に真依の術式を打ち明けたのは、姪が呪術高専に入ってまもない頃のことだ。『炳』の中で相伝を持たないのは、扇と姪の二人だけだ。同じ種類の苦労を知っている相手に、扇は生まれて初めて自分の術式を明かし、娘の術式を明かし、教育の相談をした。
姪は少し目を丸くしたあと、構築術式の燃費の悪さを気の毒がるでもなく、「でしたら、毎日宝石を一粒作らせてはいかがです?」と言った。鑑別書がなければ売れもしないだろうと扇が渋ると、「売るためではありませんわ。真依ちゃんに、自分の力が綺麗な形になる喜びを覚えさせるのが先ですのよ。毎日見比べれば上達が目に見えて変わりますし、女の子はキラキラしたものが大好きなんですから」と、生意気そうに人差し指を振ってみせた。
けれども真依の作れる物のサイズはあまりに小さい。そして菜緒葉が娘たちへの呪霊食投与に関する検討を15歳以降に先送りにしていることが、扇の苛立ちを深めた。他の子供達は、6歳以上であれば縛りによって副作用の悪夢をなくした低級呪霊食を認可されているのに、出遅れが大きすぎる。
それについて二度目の相談をしたのは、1ヶ月ほど前だ。伏黒甚爾の死の報せのあと、姪は暗く物憂げな影を纏うようになり、週末に本家へ呪霊食の作り置きに来ても口数が減っていた。扇はそれを気遣うつもりで挨拶だけで済ませることが多くなり、その分、自分で娘の修練を詰めた。姪に会えたとき、扇は娘の石の小ささをこぼした。姪は少し困った顔をして、その厳しさを訝しむように首を傾げたが、限界まで追い込んでいるわけではないと言えば一応は納得したようだった。
「では構築量を控えめにして、物に呪力をこめて操る方向へとシフトしてはいかがです? 呪力操作は練習すればするだけ結果がついてきますし、どの方向に技術を伸ばそうとも無駄にはなりませんもの。真珠でも育てて、大きい物を操るのに少しずつ慣れて行くとか」
菜緒葉は心なしか普段より甘い声でそう言った。扇は娘に構築の量を控えさせる気などさらさらなかったが、提案自体は良いと思ったので、追加で採用した。
自分で作った物に呪力を込めて動かすこと自体は扇にしてみれば基礎中の基礎だ。コツを掴めば難しくない。
そして呪力操作については努力の分だけ結果がついてくる分野だという姪の認識にも、扇は全面的に賛成していた。自分がそのおかげで成り上がったようなものだからだ。
しかし──。
「うぅ……っ……あ、上がれ……あがれぇ……!」
1分、5分、10分と時間は経過して行くのに、真珠はまったく動かない。
真依が必死に念じる。しかし、真珠は畳の上でピクリとも動かない。微動だにしないのだ。
「何をしている! 呪力を外に押し出すのではなく、真珠の内部の呪力と外の呪力を引き合わせるのだ! 自分の体の一部だと思って操作しろ!」
「……っ、うぅ……できない……お父さん、できないよぉ……」
「できないではない! やるのだ! 集中しろ!」
扇は苛立ち始めた。幼少期は落ちこぼれ扱いされていた扇でさえ、この程度のことはできたのだ。扇には真依の不器用さが理解不能であり、もどかしくてたまらなかった。
「集中力が足りん! 気合いがなっておらんのだ!」
扇の顔が怒りで赤く染まりかけたその瞬間だった。
「あなた」
静かで、しかし氷のように冷ややかに通った声が背後から響いた。振り返ると、背後に妻と真希が立っていた。妻はいつも通りの無表情に近い落ち着いた顔つきだったが、その瞳には決して引かない断固たる意志が宿っていた。
「……何だ。今は真依の重要な修練の最中だぞ。下がっていろ」
扇が不機嫌に一喝するが、妻は動揺しなかった。
「そろそろお風呂と寝かしつけの時間ですから」
「なに? まだ8時を少し過ぎたばかりではないか! 今日のノルマが全く達成できておらんのだぞ! あと1時間はやる!」
扇が声を張り上げて反論した。しかし妻は扇の威圧を完全に無視し、静かに畳へと足を踏み入れると、限界を迎えて倒れそうになっていた真依の肩を優しく抱き寄せた。
「真依はもう限界です」
「何を愚かな!」
真依がまだ限界でないのは扇にはわかっていた。プロの呪術師なのだから、我が子の本当の限界くらいは見極められる。足りないのはやる気とモチベーションだ。扇から見ると、真依は単に甘えているだけだ。
しかし妻は全くそれを理解しなかった。非術師にはどうせわからないだろうと扇は思った。
そして扇は、硬い表情をしつつも真依と違って一切怯えていない真希の顔を見つめた。
「……オマエたちの術式の有無が、逆なら良かったものを」
扇は自分が何を言ったのかにあまり頓着しなかった。事実を述べたつもりだった。活発で、負けず嫌いで、よく喋り、よく動く真希に術式があり、大人しく気迫のない真依が呪力を持たずに手伝いに回っていれば、全てが丸く収まった。それだけのことだ。悪気など皆無である。
しかし真希は何を言われたのかよくわからないという顔で立ち尽くし、真依の目にはみるみるうちに涙が溜まった。
妻は、ゴミでも見るような瞳で扇を見た。
「行きましょう、真依」
「あ……お母さん……ううっ……うわぁぁぁん!」
真依が、母の胸に顔をうずめて泣き出した。妻は娘を抱き上げ、一度も振り返らずに出ていった。
ぱたん、と襖が閉じられる。
奥の間に、扇ひとりが残された。畳の上で、照りの足りない真珠が白熱灯の光を鈍く返している。
「……なぜだ」
扇は拳を畳に叩きつけた。
「なぜ、私の思い通りにならんのだ。私は間違っていない。完璧な教育を与え、完璧な指導をし、真依を立派な術師に育てようとしているのだぞ。なぜ誰も、私の情熱を理解せんのだ……!」
夜の静寂の中、最強の炎遣いとなったはずの男の虚しい叫びは誰に届くこともなく、ただ夜闇へと吸い込まれていったのだった。
◇
お風呂から上がってしばらくした頃には鼻に詰めていたティッシュは取れたが、呪力を絞り尽くした疲労感だけは、真依の全身にまとわりつくようにして残存している。
寝室にはふかふかの布団が並べて敷かれていて、真希はもうその片方に陣取り、掛け布団の端を持ち上げて真依を待っていた。
「真依おそーい。お布団ポカポカだよ」
真希が無邪気な声で笑い、掛け布団をペラッとめくって妹を迎え入れる。布団は2つあるのに、どちらかの布団に入ってくっついて寝るのが双子の日課になっていた。
「……ポカポカっていうか、あついんだけど」
真依は少しだけむすっとした顔を作りながら、姉の隣にごそごそと潜り込んだ。布団の中で足がぶつかる。真希の足は、いつも真依より少しだけ温かい。
暗闇の中で、真希がしばらく黙っていた。
いつもなら、ここで修行の愚痴と父の悪口が始まる。布団の中でこしょこしょと言い合う父の悪口は、双子にとって毎晩の小さな楽しみで、誰にも言っていない秘密の儀式だった。今日はそれが、なかなか始まらない。
「……父さんの言ったこと、気にすんなよ」
ようやく真希が言った。声が、いつもより少しだけ小さかった。
「逆ならよかったってやつ。あれさ、父さん疲れてただけだって。母さんもそう言ってた」
真依は黙っていた。
母はそんなことを言わないと思う。言ったとしても、それは真希のために言ったのだと思う。
「でもさー」と、真希は寝返りを打って天井の方を向いた。「なんだかんだ言って、私、真依がちょっとうらやましいんだよなぁ」
「……え?」
「だって修行つけてもらえるじゃん。呪霊と戦うための修業なんだろ? 命がけなんだから、そりゃきびしくもなるって。私もちょっとやってみたいもん、呪術」
あっけらかんとした声だった。真依は言葉を失った。あんな酷いことを言われたばかりなのに、真希はまだ、父の厳しさの裏の愛を信じているのか。
「私さ、ナオハみたいになれたらなって思うんだ。ナオハって、ちっちゃい頃から家のお手伝いもして、修行もして、両方やってたんだってさ。そんで今はみんなに好かれてて、すっごい強い。……私、呪力ないし、なれるかわかんないけど。大きくなったら、ナオハみたいに両方やれたらいいなって」
「……」
「父さんも……ほかにも、色々言う人いるけど、私はぜってー負けねぇ。何を言われたって、絶対自分をキライになってちぢこまったりしない! だから真依も、父さんの言うことなんか気にしなきゃいいんだよ!」
真希の瞳は天井を見たまま、暗闇の中でも星みたいに光っているのがわかった。自分とまったく同じ目鼻立ちをしているのに、そこにあるのは、真依には一生持てそうにない種類の、能天気でまっすぐな強さだった。
真依は家の手伝いをほとんど免除されている。父は最初「菜緒葉は両方やっていた」と嫌がったけれど、母が庇ってくれた。真希も自分でやってみれば、そのうちわかるはずだ。両方なんて、絶対に無理だ。相伝の男の子が家の仕事をやらされていない時点で、そんなことは決まっている。
それに、真希がお手伝いをどう思っていようと、関係ない。父の顔色を毎日うかがって、その機嫌の波を皮膚で感じながら生きている真依には、父が家事を見下していることくらいはっきりわかる。
それに気づかない真希はただのアホで、猪突猛進なだけなのか。それとも心のどこかで、まだあの父に好かれることを期待していて、だから見ないふりをしているのか。玄関で父に抱きついたときの姉の顔を、真依は思い出す。あれは見ないふりをしている顔ではなかった。本当に、ただ嬉しそうだった。
それがいちばん嫌だった。
真依はもうとっくに、修行へのやる気なんて失くしている。畳の上の白い粒をじっと見つめて、動け、動け、と念じ続けるだけの時間は、5歳の真依にとって、宝石作りの何倍もつまらなかった。そのうえ、うまくいかないたびに頭の上から大きな声が降ってくる。
術式がわかった当初、真依はその弱さが惨めすぎて、真希には一生内緒にしようかと思っていた。宝石作りのおかげでその気持ちは一度は消えていたけれども、やっぱり将来強くなれる気なんて微塵もしない。そもそも、呪霊と戦いたくもない。
本当に、父の言う通りだ。
術式の有無が逆の方が良かったのかもしれない。
なのに真希があまりに明るいので──
「真希のバカ! バカバカバカ! もう知らないっ!」
そう言いながら真依は暗い布団の中に完全に頭を埋め、丸まった。
真希はしばらく困惑していたが、しばらくすると、もぞもぞと探るように手に触れてきた。
真依の小さな手の甲に硬くて小さな粒の輪が当たって、じゃらりと鳴る。
真依は姉の手を振り払えなかった。
◇
翌朝。
降り注ぐ朝日すら、扇にとっては眼球を焼く忌々しい光でしかなかった。
彼はすこぶる不機嫌だった。眉間には深いシワが寄っている。
完璧な教育を施そうとしただけなのに妻には逆らわれ、真依には泣かれ、挙句の果てに自室に引き上げた後も腹の虫が治まらず、ほとんど一睡もできなかった。
何度考え直しても、扇の中で自分が間違っているという結論だけは一度も出てこなかった。出てくるはずがない。間違っていないのだから。
そこへ、朝一番の呼び出しである。
差出人は禪院直毘人。現当主にして実の兄、そしてこの世で最も顔を見たくない男。
どうせまた酒臭い息を吐きながら、人を小馬鹿にした顔で、くだらない用事を言いつけるに決まっている。
扇は舌打ちをし、苛立ちを隠そうともせずに本家の廊下をずかずかと進んだ。
普段のこの時刻、本家は稽古前の張り詰めた静けさに満ちている。若い者は壁際に寄って道を空け、扇の姿を見れば深々と頭を下げるのが当然だった。それが今朝は、あちこちの縁側や渡り廊下の角に若造どもが固まって、祭りの夜店のような声を上げている。扇が真横を通っても、彼らは興奮のあまりその存在に気づきすらしない。
中でもひときわ騒がしい一団の顔ぶれを見て、扇は顔をしかめた。
姪が月に一度開いている、若手の勉強会に参加している連中である。禪院家の次代の幹部候補を今のうちに手懐けておくのも悪くないと踏んで扇が名義だけ貸し、場所の便宜を図ってやった集まりだ。
「おい、聞いたか!? 一昨日の東京校と京都校の姉妹校交流会でさ、菜緒葉さんが、あの五条悟に勝ったらしいぞ!!」
「マジかよ!? あのチート野郎に!?」
「ああ! 京都校からの報告で間違いないってさ! これで江戸時代の御前試合の無念が晴れたんだ! 当主同士の相打ちから数百年……ついに、ついに俺たち禪院家が、あの憎き五条家の上に立ったんだ!!」
「うおおおおおおっ!! 菜緒葉さん万歳!!」
「禪院家最強!!」
「呪術界の覇権を握り、呪術全盛の時代を再び甦らせるのは、俺たちの世代だぁぁあ!!!」
若き術師たちは、まるで自分たちが五条悟の首を取ったかのように拳を突き上げ、歓喜の声を上げていた。
「あ、でも……。決め手については妙な噂が流れてるよな。淫らな技を使ったとか」
「アレだろ。無下限を攻略したはいいけど人の肉は斬れないから、服だけ切り刻んだんじゃない?」
「絶対それだ!!」
「おのれ五条悟……! 清純な菜緒葉さんに汚らわしいモノを見せやがって……!」
何故か被害者の五条悟に激昂し始めた者までいる。かなり見込みのある若手だと思っていたが、女の趣味がどうかしているのではないか。扇の若い頃と比べると随分とチャラついているようにも思えた。
扇は柱の陰で足を止め、鼻で笑った。
そもそも、彼らは少し盛り上がりすぎている。
たしかに菜緒葉は強い。だが、正面から殴り合って五条悟に勝てるほどではない。淫らな技などというのは負けた側の取り巻きが流した下世話な噂で、実際は交流会特有のルールの穴でも突いたか、相手の油断につけ込んだかのいずれかだろう。どちらにせよ、子供の喧嘩の勝ち負けを家の歴史に接ぎ木するのは若者特有の浅はかさである。
扇の冷ややかな視線をよそに、若者たちの話題は御三家の歴史的勝利から、徐々に菜緒葉という個人の魅力へとスライドしていった。
「いやでもさ、あの人は本当にすごいよな。あんなに強いのに全然気取らないし」
「わかる。俺、女と喋るのって本気で怖いんだけど、菜緒葉さんとだけは同性の先輩と話してるみたいに自然に喋れるんだよな。こないだも術式の運用について相談に乗ってくれてさ」
「しかも顔がいい。あの、たまに見せる生意気そうな笑顔がたまんねぇよな……」
「お前、菜緒葉さんをよくそんな危ねえ目で見られるな……! 命知らずというか、正気かよ?」
「事実かわいいだろ! 禪院家一の美少女だぞ!」
ここまでは、まあ年頃の男子らしい、微笑ましい──あるいは軽薄な噂話の範囲内だった。しかし彼らの会話はここから突如として、扇の理解の範疇を遥かに超えた、おぞましくも奇妙な次元へと暴走し始めた。
「でも菜緒葉さんって趣味がちょっと……いや、かなりエキセントリックじゃない?」
一人のおとなしげな少年が、周囲を窺うように声を潜めて言い出したのだ。
「ああ、例のキチガイホームビデオ*1な」
「あれヤバいよな。この間なんて、俺、見ちゃったんだよ。菜緒葉さんが真顔でノートパソコン開いて、カタカタと動画編集してるところ」
「うわ、マジか。何作ってたんだよ?」
「それがさ……直哉さんの動画をもとに、パソコンで細かく音声のピッチをいじって、『ヤマダ電機』のテーマソングを歌わせてた……」
?????????
扇はクラクラと眩暈を覚えた。
脳内に巨大なクエスチョンマークが乱立する。一体何の呪術的儀式なのだろう。
「最初はさ、直哉さんの傲慢な態度を罰するための、聖女の鉄槌……つまり嫌がらせだと思ってたんだよ。でも違うんだ。直哉さんがマトモになりつつある今でも、あの趣味は一向に終わらない。アレってどうも、菜緒葉さんなりの愛情表現らしいんだよな」
「えっ? アレが愛情表現? ってことは……」
「そうだよ。つまり、もし万が一、菜緒葉さんとお近づきになって付き合ったり結婚したりしようもんなら……日常の会話はもちろん、寝言、果ては夜の営みの声まで全部録音され、生きた楽器として謎の変な電波ソングの素材にされるハメになるに違いない……」
「……!!」
「いくらかわいくても、流石にそれは……人としての尊厳が……」
若者たちがゴクリと生唾を飲み込む中、一人が口を開いた。
「だけど、こないだ蘭太くんに聞いたら『それでもいい』って言ってたぜ」
「はあぁっ!?」
「ああ。今度、菜緒葉さんに一本……いや、有効打をたった一発でも入れられたら、その時、真正面から『好きです』って告白するつもりだって、目をキラキラさせて語ってた」
「マジかよ……! 男らしく、武を持って思いを伝えるってコト……!?」
「すげえ……断末魔や悲鳴を録音されて、キチガイホームビデオの新作素材にされることすら、愛ゆえの本望だってことか! 蘭太の奴、漢だぜ……!!」
ここにいない少年の狂気じみた、しかし純粋で命がけの覚悟に圧倒され、集団は感動と共に頷きあった。
しかしその空気をぶち壊すように、別の者が鼻で笑った。菜緒葉に想いを寄せていそうな言動の散見される、チャラついた少年だ。
「いや、どう考えても無理じゃん」
「……おまっ、俺達がせっかく蘭太の覚悟に泣いてるのに!」
「現実を見ろよ。あの五条悟に勝つ女だぞ? 蘭太の奴が有効打を入れられるわけねーだろ。5秒で全身の骨を複雑骨折させられて終わりだよ。俺ならもっとクレバーに行くね」
彼は得意げに髪をかき上げ、芝居がかった声で演説を始めた。
そしてガキ共の色恋沙汰など心底どうでもいいと思いながら立ち去ろうとした扇は、その演説に含まれるとんでもない爆弾発言を耳にしてしまった。
「アイツが幼馴染の地位に甘えてウダウダやってる間に、俺は先に菜緒葉さんに告るぜ。そしてこうプレゼンするんだ。『菜緒葉さん! 俺は専業主夫になります! あなたのような最強の女性が外で思い切り戦えるように、俺が家をピカピカにし、完璧な栄養バランスの飯を作り、あなたの3歩後ろを歩いて徹底的にサポートする、新時代の男になります!』ってな!!」
周囲からは当然ブーイングの声が上がった。
「なっ……お前、禪院の男としてのプライドはないのか!」
一人が怒りに満ちた顔で少年の胸ぐらを掴み上げる。しかし掴まれた当人はどこ吹く風で、ヘラヘラとした笑みを崩さない。
「あの可愛くて賢くて最強で、しかもちょっと狂ってる菜緒葉さんと付き合えるなら、男のちっぽけなプライドも人権も肖像権もドブに捨てるね! そもそもだぞ?」
少年は掴まれた手を優しく払い落とすと、得意げに論破にかかった。
「あの菜緒葉さんが男を術式の強さみたいな常識的なスペックで選ぶと思うか? 売りにすべきは、現代の多様性社会に適応しているという希少性だ!」
「なんだと!? 自分が戦いから逃げる口実を、多様性なんて流行りの言葉で綺麗にコーティングするな!」
「うるせえ、時代遅れの筋肉ダルマ共が! 菜緒葉さんが激しい戦闘のあとに求めてるのは、圧倒的な癒やしと完璧な家事スキルだ!! 俺は昨晩も肉じゃがの練習をしたんだよ!!」
別の少年が割って入り、懐から折りたたまれた刺繍入りのハンカチを取り出して広げながら言った。
「下心見え見えの肉じゃがごときで菜緒葉さんのハートが掴めるか! 俺は手芸と裁縫の腕なら花嫁修業中の姉貴顔負けだ!! これからの時代、家事スキルはセールスポイントじゃなくて結婚生活の前提なんだ!」
「そうだそうだ! ウチの親父も『家事なんて誰でもできる』とかほざいてるけどよ、実際は卵焼きすら焼けない雑魚だから夫婦仲が冷え切ってるんじゃないかな……」
「俺はシフォンケーキ作りの達人だぜ!!」
若者たちはもはや呪術とは何の関係もない、極めて低次元な論争に熱を上げ始めていた。
柱の陰でそのすべてを聞いていた扇は、わなわなと全身を震わせていた。
女の3歩後ろを歩く?
専業主夫……?
新時代の男……??
家事などという雑役は下等な女がやるもの。男は常に強く、女を従え、家を統べるもの。それが禪院家の絶対のルールであり、宇宙の真理だったはずだ。
それがどうだ。
この屋敷の次代を担うべき若い男たちの性別感覚、そして武人としてのプライドが、少し見ないうちに根底からメチャクチャに破壊されているではないか。
若者たちが「俺の作ったオムライスの方が卵がフワフワだ!」などと叫び合う声を背中に浴びながら、扇はこれ以上この狂気の空間に耐えきれず、逃れるように足早にその場を立ち去った。
「誰も彼もが狂っておるわ! そもそも菜緒葉のヤツ、何故直哉を使って家電量販店の曲を作る!! 意味がわからん! ……ああ、頭痛がしてきた……」
こめかみをギリギリと締め付けるような頭痛を押さえ、フラフラとした覚束ない足取りで、扇はようやく目的の部屋──本家の奥にある、当主が身内や側近のみを呼ぶための広間へと辿り着いた。襖を開けると、そこには既に先客の姿があった。
「遅かったな。扇」
そこに待ち構えていたのは同様に呼び出されていた甚壱だった。
血縁上は扇の甥にあたる男だ。どう見ても歴戦の山賊か野武士にしか見えない無骨な老け顔をしており、顔には深い傷跡まで刻まれているが、実際の年齢は扇よりも年下である。
それにもかかわらず、甚壱は昔からナチュラルに扇を呼び捨てにしてくる。腕が立つからと言って調子に乗っているのだろう。相伝持ちというのは、どいつもこいつもこうなのだ。
「……遅い? 肝心の呼び出し人が来ていないではないか」
「ああ。それは……昨晩から飲んだくれていたせいでまだ起きていないらしい」
甚壱はつまらなそうにした。
朝一番に人を呼びつけておいて、当の本人は高鼾。いかにも直毘人のやりそうなことだった。
それから数分間、部屋には重苦しい沈黙が降りた。
扇は昨夜の妻との口論や、先ほどの若者たちの異様な言動のせいで全く会話などする気分ではなかったし、甚壱も元来お喋りな男ではない。
しかし、どうにも間が持たなくなったのだろう。甚壱がふと、ただ沈黙を埋めるための適当な話題のような雰囲気で口を開いた。
「そういえば扇。最近、家の方はどうだ?」
「……な、何が言いたい」
「いや? 別に深い意味はないが」
甚壱からすれば「最近暑いな」程度の意味しかない、共通の話題が皆無だったからこそどうにか絞り出した世間話のつもりだったのだろう。
しかし扇にとってそれは傷口に塩を塗り込み、さらにタバスコをぶちまけるような痛烈な質問だった。
扇は動揺を悟られまいと、ことさらにマウントを取りにいった。
「我が家は極めて順調、いや、完璧だ。真依には私が直々に、血を吐くような呪術の修練をつけている。一切の妥協も許さぬ、完璧な管理体制だ」
「……」
「何か文句があるか? オマエのような独り身のむさ苦しい男には、家庭を統べるこの崇高な苦労と喜びは到底理解できまいがな!」
「別に理解したくもないのだが……」
甚壱は冷めきった表情を浮かべた。
「見本はどうせ菜緒葉だろう。直哉よろしくピアノを習わせている暇があったら、皿でも洗わせた方がそれらしいんじゃないか」
扇が言い返そうとした瞬間、千鳥足で部屋に入ってきたのは、現当主・禪院直毘人だった。
その手には大きな瓢箪が握られており、明らかに昨夜から一睡もせずに飲み明かしました、というフラフラっぷりである。
この酒浸りのろくでなしが当主なのかと、扇はギリッと奥歯を噛み締めた。しかも、この男は菜緒葉の教育者でもある。先ほど廊下で聞いた若者たちの狂態を思い出し、扇は内心でこの親バカが娘を甘やかすからバタフライエフェクトで周囲の男まで頭がおかしくなるのだと猛烈に毒づいた。
直毘人は上座にドカッと腰を下ろすと、瓢箪を呷り、口元を手の甲で拭った。そしてひときわニヤニヤとした笑みを浮かべて言った。
「さて、良いニュースと悪いニュースがあるんだが……どちらから聞きたい?」
扇と甚壱は顔を見合わせた。朝から呼び出しておいて、随分と古典的なもったいぶり方である。
「……ならば、良いニュースから聞こう」
甚壱がため息交じりにそう答えると、直毘人は待っていましたとばかりにこれ以上ないほどの満面のドヤ顔を見せつけた。
「我が自慢の娘、菜緒葉が! あの生意気な五条のクソガキに勝ったぞ!!」
「「…………」」
沈黙が落ちた。
直毘人は「どうだ、驚いて声も出まい!」という自慢げな顔をしているが、扇と甚壱の目は完全に死んでいた。
知っているどころの話ではない。廊下はすでにその話題で持ちきりであり、お祭り騒ぎになっているのだ。今更もったいぶって発表されるような鮮度のニュースではない。
「……で? 悪いニュースというのは何だ」
甚壱が冷淡に先を促す。
直毘人は瓢箪を下ろし、ヘラヘラとしていた酔眼を一瞬で鋭く細めた。
先程までの陽気な酔っ払いの気配が嘘のように霧散する。
広間の空気が目に見えて冷えた。
「……ここから先はまだ一部の者しか知らん。外部はもちろん、この家の連中にも絶対に漏らすなよ。いいな」
扇も甚壱も、思わず居住まいを正して頷く。直毘人がこういう顔をする時は、大抵本当にろくでもないことが起きているのだ。
「……昨晩、直哉から連絡があった」
直毘人は忌々しそうに、言葉を絞り出すように言った。
「試合後、五条のガキを退けた菜緒葉だが……極度の呪力枯渇と疲弊によりその場で倒れたらしい。そして……まだ目を覚まさない」
扇は腰を浮かしかけた。隣で、甚壱の気配もわずかに硬くなる。
直毘人の顔にあるのは、娘の身を案じる父親の憂いだけではなかった。もっと冷たく、もっと実務的な、当主としての計算の色だ。扇の背筋を、嫌な予感が這い上がる。
菜緒葉が倒れた。目を覚まさない。
一昨日からずっと。
つまり──。
直毘人は深刻な顔つきのまま、最も重い事実を告げた。
「