音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
意識が浮かぶより先に舌が味を拾った。泥を煮詰めて灰を混ぜたような、強烈なえぐみ。焦がした醤油の香りの奥に、粘りのある生臭さがへばりついている。飲んだ覚えのないどろどろの液体が気管に入りかけて、むせて跳ね起きようとした私の肩を、上から強い力で押さえつける手があった。顎を掴まれる。マグカップの縁が、口の端へ強引にねじ込まれる。
「暴れんな。まだ半分残っとる」
焦点の合わない視界に、白い天井と、クリーム色のカーテンレールと、包帯まみれでズタボロかつひどく顔色の悪い直哉が映った。むせ返るような消毒液の匂いが、ここが呪術高専の保健室であることを告げている。状況が呑み込めない。咳き込みながら、言葉がばらばらに飛び出した。
「まって、ごじょ、五条は、交流戦は、マコくん、マコくんは——」
「飲んでから喋れや」
傾けられたマグカップの中身が、容赦なく舌の上へ流し込まれていく。いや、流し込まれるというより、胃袋へ直接叩き込まれるような乱暴さだ。吐き出そうと首を振っても、顎を固定する指の力が強烈で身動きが取れない。痛い。この子は加減というものを知らない。
最後の一滴まで飲み下させられ、ようやく手が離れた。私はむせ返りながら枕に倒れ込み、濡れた口元を袖で拭う。
舌に残る強烈なえぐみの奥に、焦がした醤油の香りがした。禪院家の冷蔵庫にストックしていた呪霊出汁の味だ。同時に呪力量の増える感覚があり、胸の奥で小さな揺れが起きた。深い水底で誰かが寝返りを打つような、微かな波紋。
「マコくん」
気がつけば声に出して呼んでいた。返事はない。
「マコくん。ねえ、マコくん!」
揺れは一度きりだった。いつもなら私の声に応えてくれる温かい気配が、今はひどく遠い。いるのはわかる。微かな繋がりは感じるのに、厚いガラス越しのように声が届かない。私は胸の上の毛布を、爪が食い込むほど強く握りしめた。
「菜緒葉ちゃん——ほれ」
ドサッ、と膝の上に重いものが落ちてきた。
見れば、丸ごとの赤いりんごだった。
「起きて切れ」
「……え?」
「とっとと切れ言うとるやろ。耳ついとんのか」
「待って、まずは状況を——」
「とにかく今すぐ切れや!!!」
怒鳴られた。有無を言わせない、悲痛なまでの圧。私は弾かれたように枕元の果物ナイフを掴み、大急ぎで赤い皮に指先を滑らせた。
完璧な8等分にしてウサギの形に剥くつもりだった。だが——次の瞬間りんごは不格好な6切れと、崩れた2つの欠片に分断されて無惨に転がった。芯の処理も甘く、黒い種が残ったままだ。
指先が完全に冷え切っていた。
嫌な予感に急き立てられ、己の内側を探る。
——呪力が、ない。
いや、正確には激減している。
海のように満ちていたはずの私の呪力総量が、干上がった水溜まりのように縮小している。
直哉は私が切り刻んだ不格好なりんごを鷲掴みにし、大急ぎで一切れを口に放り込んで飲み込んだ。
「……よし。これで今日の料理ノルマ完了や! 菜緒葉ちゃん、君、丸2日寝とったんやで。あと1分遅かったら、3日目に突入しとった」
2日寝ていた。
そう言われた瞬間、血の気が引いた。
マコくんが私のために結んでくれた最初の縛りの内容が脳裏にフラッシュバックする。
『一日でも術式を使った料理をしない日があれば、呪力量を半分にする。その代わり、料理をしている最中の呪力操作の成長率を早める』
私が昏睡状態で料理をしなかった日が、 丸2日。1日料理をサボれば呪力は半分、2日できなければさらにその半分。
つまり、呪霊を食べてこれまでコツコツ増やしてきた呪力総量は、4分の1にまで下がったのだ。少なくとも、ここ5年くらいで増やしてきた量は完全に吹っ飛んだと言ってもいい。
「……うそ」
数字という残酷な事実が突き刺さる。隣に座る弟の呪力が、肌をジリジリと圧している。いつもは意識すらしない風のようなそれが、今は私を圧殺しそうなほど巨大に感じられた。
「うそ、うそ、だって」
「落ち着け」
「落ち着ける訳ないでしょう! 出てってよ、こんな、こんなの——!」
ヒュー、ヒューと喉が鳴り、息が上手く吸えなくなった。吸っても吸っても、酸素が胸の底まで届かない。視界の端がチカチカと明滅する。
せっかく五条に勝ったのに、全部無駄にしてしまった。
しかも見られている。直哉に。二度と背中を追う側には留められまいと、必死に強がりながら接してきた弟に、この空っぽになった無様な有様を見られている。マコくんがいたから、ようやく先を行けるようになってきていた。そのマコくんが眠り、呪力も大方失い、ここにいるのは空っぽの私だけ。
「今すぐ出てって!」
声が裏返った。悲鳴に近かった。
「五条と戦う前に私言いましたわよね! 足手まといは指を咥えて無力を噛み締めてなさいって! ええ、そうしますわよ!」
「落ち着いて、菜緒葉ちゃん」
「昔みたいに思ってるんでしょう、弱いくせにって、女のくせにって! 今なら何言われても言い返せないもの、あなたそういうの大好きでしょう!? ほら、言いなさいよ、早く——」
「だから、落ち着けや」
冷徹な声に遮られた。
「冷静になれ。できるやろ。菜緒葉ちゃんは頭ええねんから」
褒めているのか、命令しているのかわからない口調だった。だが、その声には不思議な引力があった。私は何度かしゃくり上げ、ようやく細い息を吐き出した。だんだんと、過呼吸の波が引いていく。
落ち着いて周囲を見渡すと、枕元に豪華な果物カゴが置かれていることに気づいた。見覚えのある先輩の丸文字で『京都校一同♡』とメッセージカードが添えられている。その優しさに、また少しだけ目頭が熱くなった。
直哉が、今度はカゴから立派な梨を取り出して私に渡してきた。
「次や。これの皮、剥け。途中で切らんと1本で繋げて剥くこと」
「……は?」
「縛りの分の料理カウントはさっきのりんごで足りとる。こっからは練習や。今の菜緒葉ちゃんの少ない呪力で、どこまで細こう繊細な制御ができるか」
「今、そんなこと」
「呪力が仰山ある時の制御とない時の制御は全然別もんやろ。できる? 菜緒葉ちゃん」
直哉は私の手に無理矢理梨を握らせた。上から、自分の手を重ねて。
「泣きながらでええから手ぇ動かせ」
直哉は鬼だ。目を覚まして5分も経っていない姉に、干上がった呪力の底をさらわせて果物の皮むきをさせるなんて。
それでも、私の指は言われたとおりに動いた。指先に微量の呪力を這わせる。動かさなければ、また過呼吸で息ができなくなりそうだったから。呪力の刃を、皮一枚ぶんだけ薄く入れる。薄く、小さく、均一に。私の不格好な作業を、直哉は横で黙って見ていた。口出しもせず、瞬きすら忘れ、ただ一心に見守っていた。
途中で1度切れて舌打ちされたが、残りの皮は途切れずに一本で垂れ下がった。白い上掛けの上に、薄緑の螺旋が美しいとぐろを巻いた。
「……できましたわ」
「良かったぁ」
直哉は心底安堵したように息を吐くと、それだけ言って、枕元にあった薄っぺらい百均のまな板の上で、梨を乱暴に半分に叩き切った。片方を自分で齧り、もう片方を私の口元に突き出す。
種の周りをくり抜くような繊細な真似はしていなかった。直哉はお坊ちゃまでキッチンに立たないから、果物の正しい切り方なんて知らないのだ。
「紙皿とフォークくらい用意しておきなさいよ、気が利かない子」
つい憎まれ口を叩いて八つ当たりしてしまったが、直哉はいつものように噛みつき返してはこなかった。
お互い無言で梨をかじった。梨は冷えていなくて、少しぬるかった。ぬるいけれど、甘かった。噛むたびにしゃりしゃりと音がして、その音を聞いているうちに、胸の中で暴れていたものが少しずつ静かになっていった。
芯をゴミ箱に捨てて手を拭いたあと、直哉がぽつりと言い出した。
「菜緒葉ちゃんが寝とる間に包丁持たせたんやけど、意識ないと料理とカウントされへんみたいやわ」
「……そう」
たぶん、まな板の上に大根か何かを置いて、私の手首を掴んで、上から押し下げたのだろう。何度も。何の意味もない、ただの人形遊びだ。直哉が何を考えてそれをしてくれたのかを想像すると少しだけ悲しかった。
「呪霊食のほうも、家に連絡して菜緒葉ちゃんが作ってたジュースの作り置きを何個か持ってこさせて、寝てる間に少しずつ飲ませたんやけど、焼石に水で。しかもいつもと比べてクッソ不味いし」
「……見た目はほぼ同じですけど、あれジュースじゃなくて出汁ですわよ」
「えっ」
「静止させた呪霊の核以外をペースト状にして、核は冷凍庫にしまってありますの。基本は煮物やカレーの隠し味に使って、火を止める直前に投入して味と呪力の調整をするんです。そのまま飲んでも、ただの醤油っぽい味の泥水ですわ」
「…………」
「でも、しょげないでね。私が寝ている間、必死に縛りを満たそうとしてくれた気持ちは本当に、本当に嬉しいから」
「……別に、しょげとらんわ」
弟は気まずそうに目を逸らし、拗ねたような顔をした。
「ところで、姉さん達のことは……悟くんとメッチャ色々話したわ」
「直哉、私のしたことに怒ってるの?」
「当然や。悟くんも菜緒葉ちゃんも姉さんも揃いも揃って最悪やと思ったし、悟くんについては個人戦で殴った。全っ然殴り足りんけどな」
「もうやめてあげて。概ね私が招いた事態ですわ。あの人は巻き込まれただけ」
行き違いがあったとはいえ、紛らわしい状態だったのは事実だ。私の中身をバケモノだと誤解した五条が、私を助けるつもりでああいうことをした。私は私で、五条を叩きのめすつもりでああいうことをした。
気遣われたの自体は滅多にないことなので嬉しかったし、あの後マコくんとも和解したっぽいので結果オーライだ。
とはいえ直哉が五条を殴れたということ自体は、姉として少し痛快で嬉しかった。おぼえたばかりの展延でどうにか五条の術式を削り取ったということだ。最終的には負けたのだろうけれども、ちゃんとした勝負にはなっていたみたいだ。直哉にとってもいい経験になったんじゃないだろうか。
「でもな、姉さんと悟くんは、菜緒葉ちゃんが悪いとはあんまり思っとらんかったみたいやね。悟くん、反省しとったわ」
「あの人達は優しいんですのよ」
「姉さんはともかく、悟くんが優しいか?? ——でも、たしかにな。前に御三家の集まりで会ったときとは、全然ちゃう感じになっとったわ。前は人間のフリしとるだけの化け物みたいな雰囲気やったけど……今はちょっと人間っぽい。きっと、あの傑くんとかいう同級生のおかげやないのかな」
夏油傑——まだ熱っぽい頭の片隅で、彼が今後辿るであろう道筋をぼんやりと思い出した。彼が呪詛師になれば討伐指令が下るだろう。その時は、私が手ずから排除して未来の憂いを断とうと、ひそかに計画していた。
けれど、本当にそれでいいのだろうか?
今回の戦いで気づいたことがある。五条悟にとっての夏油傑は、おそらく私にとってのマコくんや、マコくんにとっての甚爾くんと同じように、魂の底から寄りかかれる絶対的に大切な存在なのだ。それを奪うよりもいい方法を、私は探せるんじゃないだろうか。
「菜緒葉ちゃん……。悟くんにあんなことしてたのに、好感度自体は意外と高いんやね」
「あんなことって、どれのこと?」
「チッ、まあええわ。思い出すだけで吐き気する」
直哉は心底おぞましいものを思い出したかのように顔をしかめた。たしかにものすごく見栄えの悪い勝利ではあったが、みっともなくても勝ちは勝ちだ。五条には変態と思われたかもしれないが、私はあまり気にしていない。
私に答えることは放棄した直哉は、視線を窓の外へと移した。私たちはしばらくの間、言葉を交わすことなく、ただ蝉の遠鳴きだけを聞いていた。やがて直哉が、どこか呆れたような、それでいてひどく複雑な溜息をついた。
「……それに、俺も悟くんにちょっとだけ感謝してる部分もあるしな」
「五条に? あなたが?」
私が驚いて問い返すと、直哉は視線を窓に向けたまま、ぽつりと言った。
「菜緒葉ちゃんが、あんなに肩の力抜いて気持ち良さそうに寝てたの、いつぶりやろかって思ったわ」
「……何、言ってるの?」
予想外の言葉だった。そういえば、穏やかなだけの夜なんて何年もなかった気がする。
けれどもそれを直哉が気にしていたなんて、考えたこともなかった。他人の状況への想像力を嫌がらせにばかり使う子だと思っていたし、そもそもこの子はメンタルが馬鹿みたいに強くて、私を気にせず毎日楽しくやっているイメージだった。
「言うたまんまや」
直哉が私に向き直った。
「菜緒葉ちゃんはいつも全然寝ないから。俺はいつも置いてかれて。置いてかれる前に戻ったみたいやと思った」
「……置いて行ったのはあなたの方でしょう?」
反射的に言い返す。
相伝の術式を持ち、天才と持て囃され、男として禪院家の次期当主の座を約束された直哉。弟の背中がどんどん遠ざかっていくのが恐ろしくて、追いつけなくなるのが悔しくて、私は必死に足掻いてきた。それがすべての発端だった。それなのに。
「でも、姉さんが来てから、菜緒葉ちゃんは全然話してくれなくなったやん。相伝が出ただけで勝ったつもりになってはしゃいで、嫌われるようなことをした俺が悪いんやけど」
直哉はそう言った。
たしかに私は直哉と話すのが一時期からだいぶ嫌になってしまっていたが、それは嫌悪や憎しみのせいではなかった。
「別に嫌いになった訳じゃありませんわよ。どう接していいかわからなくなっただけで」
私と同じ立場で、直哉とそれまで通りに接することができる人間なんて、たぶんいない。私の直哉への教育はハッキリ言ってゴミだったし、献身は最終的に私たち両方の破滅に繋がる。それを私は知っていた。知っていて、どうすればいいのかわからないから、マコくんに任せた。上手く説明できる気がしなかった。説明しなくても、私にはマコくんがいて、現にマコくんは最高に上手くやっていた。
けれども直哉にはそんなことは関係ないようだった。
「俺からするとおんなじやわ」
「……」
たしかにそうかもしれない。
寝てしまう前にも考えたけれど、私は『予測』や音MADの直哉にかかりきりになって、目の前の弟の気持ちをあまり深く考えなくなっていた。昔はそうじゃなかったはずなのに、一体いつからこんなことになってしまったんだろう。
「それから姉さんがどんどん強なって、菜緒葉ちゃんが引きこもりまくって、2人で俺の知らん術ばっか覚えて。いつか振り返りもせんと、どっか行ってまうんやろなって。ずっと思とった」
「……」
「せやから今、ちょっと安心しとる。最低やろ?」
取り繕えばいくらでもましな言い方があるのに、怒って欲しいのだろうか。
私は、別に最低とは思わなかった。
私の方が、コンプレックスと怨念は何十倍も強い。直哉にどれだけ勝っても、私が負けて辛かった時の半分の鬱屈も示していないように見えていた。まっすぐ未来に向けて努力を重ねる弟は昔みたいに周囲を蔑まなくなった分ものすごく立派で、私は逆に惨めさを掻き立てられていた。けれども、本当に何も思っていなかった訳ではなかったらしい。
それが嬉しかったし、幸せだった。
思わず笑ってしまった。
もう二度と無邪気に私の前に立てない体にしてやれた。私自身も弱くなってしまっているのが最悪だけれども、小さい頃の願いがようやく叶った。
「ようやく私と同じ場所にまで堕ちてきてくれたのね」
そう言うと、少し叱られた。
「一応言っとくけど、堕ちっぱなしは嫌やからね」
「え?」
「今度こそ2人で並んで戦お。……前に出たら引き戻す。後ろに下がったら引っ張り上げる。手ぇ掴んで一緒に走らす。それで、一緒に姉さんを元気にしよう」
「……直哉」
「俺、もう菜緒葉ちゃんに置いてかれんの嫌やねん」
それを聞いた途端に、さっきとは違う涙がこぼれ落ちた。息は苦しくならなかった。ただ止めどなく溢れた。
私は弟の制服の胸元を掴んで、額を押しつけた。直哉の体がびくりと固まる。数秒、両手のやり場に困ったように宙に浮いていた腕が、ぎこちなく私の背中に回された。力の加減がわからないらしく、骨が軋むほど強く抱きしめられ、それから慌てたように緩む。
「……泣くなや。俺が泣かしたみたいやん」
「あなたが泣かせたのよ」
「……せやね」
私たちはおよそ10年ぶりに、ようやく仲直りをした。
その時、空気の読めない派手な音を立てて、保健室のスライドドアが勢いよく開け放たれた。
「直哉、菜緒葉は起きたー? 依頼通りに傑を呼んできたよ!!」
白い髪。黒い制服。丸いサングラスをかけた五条悟が、保健室の入口で片足を上げたまま完全に硬直した。その後ろからは穏やかな笑みを浮かべた夏油傑が顔を出している。
「……うわ」
心底ドン引きした五条の声が保健室に響いた。直哉の腕が私の背中に回ったままガチガチに固まった。
「えっ、何。いい歳した姉弟でそんなにベタベタしてんの? そういう一族? ……ごめん、俺達、出直した方がいい?」
「悟、扉を閉めよう。見なかったことにするのがマナーだ」
「殺すぞ五条悟!! 今のは姉弟の歴史的な和解の瞬間やぞ!!」
直哉が立ち上がり、怒号を上げた。私はといえば、感動の涙で濡れた目元を毛布でごしごしと乱暴に拭いながら、大急ぎで身なりを整えた。寝起きな上に弟と抱き合っていた(語弊があるが事実だ)せいで、髪もどこかしら跳ねているに違いない。最悪のタイミングだ。せっかくの美しい姉弟愛の余韻が、このデリカシー皆無の先輩のせいで木っ端微塵に粉砕されてしまった。
「……ごきげんよう、五条。そして夏油先輩」
私は極力優雅に見えるように背筋をピンと伸ばし、微笑みを浮かべて見せた。
「病室に入るときはノックくらいしてくださいまし。基本的な教養の問題ですわよ! ……そもそも五条、あなたは私に完全敗北し、降伏した身でしょう。敗者に口なしという言葉をお忘れ? 勝者である私にもう少し敬意を示し、平伏から入ってもいいのではなくて?」
「やーい、負け犬ー! 泣かしたろか!」
「こら直哉、お黙りなさい」
調子に乗って五条を煽る直哉の頭を速攻で叩き伏せる。バシッという思ったよりもいい音がしたが、弟は頑丈なので放っておく。
痛いところを突かれた五条は、「ゲッ」とあからさまに顔を引き攣らせ、ズルズルと後ずさった。
「い、言っとくけどなぁ菜緒葉、俺が負けたのはオマエが卑怯にも動画を撮って俺の家に送りつけようとしたからだから!」
「あら、どんな手を使おうと勝ちは勝ちですわ。それが呪術師というものでしょう? 言い訳が見苦しくてよ、五条」
「クソッ、復活したらあのクソ技の対策練って再戦挑むから待ってろよ! ……! あ、そうだ! そもそも俺はお見舞いに来てやったんだぞ! 直哉に言われた通りに、わざわざ傑を連れてきてやったんだから感謝しろ! ほら傑、出番出番」
五条がヤケクソ気味に夏油の背中をポンと叩いて前に押し出した。
押し出された夏油は、先ほどの「見なかったことにしてあげよう」という余裕の態度はどこへやら、爽やかだが明らかに強い警戒を含んだ笑みをこちらに向けていた。
「体調は大丈夫かな、禪院さん。悟が色々と迷惑をかけたそうだけど。彼も反省しているようだし、どうか穏便に願えないだろうか」
「ええ、おかげさまで。お気遣い感謝いたしますわ、夏油先輩」
黒い長髪に、耳には特徴的なピアス。物腰は柔らかく、言葉選びも丁寧な好青年に見える。しかし、彼が今後呪詛師として道を違え、テロを起こす可能性がある人物だと思うと、自然と身構えてしまう。
だが、緊張しているのは私だけではないようだった。夏油の側の方が、むしろ私に対する強烈な困惑と、得体の知れないものを見るような畏怖を抱いているのがありありと伝わってきた。
彼は少しだけ私のベッドから距離を取りつつ、信じられないものを見るような目で私を見下ろした。
「……悟からある程度の話は聞いたよ。君の、その……独特すぎる戦術についてね。まさか、音MADとやらを作るほどの弟への不健全で異様な執着を抱えているだけでなく、人間の神経を直接焼き切って快楽に堕とすという、あまりに恐ろしい術式反転を使いこなすとは」
「…………はい?」
「おまけに、最も理解し難いのが……呪霊を好きこのんで食べるという行為だ。君はいったい、どうしてそんな悍ましい真似を……」
「ち、違いますわ夏油先輩! それは致命的な誤解です!!」
私は布団を跳ね除けんばかりの勢いで身を乗り出した。
——五条悟、あなたはいったいお友達に何をどう吹き込んだの?
「音MAD制作はあくまで純粋に直哉を愛でるための趣味であって、決して変態的な執着などでは……! それに術式反転だって、なるべく効果を高めようとしていたら結果的にああなってしまっただけで、私自身に特殊な性癖があるわけでは断じてありませんわ! 呪霊食だって、あれは美味しく調理して……そう、調理すれば美味しいんですのよ!?」
必死に弁明すればするほど、夏油の目が「やっぱりヤバい奴だ」という確信に染まっていくのがわかった。横で五条が「ほらな、言っただろ傑。こいつマジで頭おかしいんだって」とヒソヒソ耳打ちしているのが腹立たしい。
私は藁にもすがる思いで直哉を振り返った。
「ちょっと直哉! なんでこの人を呼んだのよ! 私の尊厳を削り取って辱めるため!?」
「ちゃうちゃう。落ち着きぃや菜緒葉ちゃん」
直哉は得意げな顔をした。
「俺かて、本当は菜緒葉ちゃんには傑くんのことは教えたくなかったんやけどな。コトここに至っては、背に腹は代えられへん!」
「……?」
「傑くんはなぁ! なんと、『呪霊操術』の使い手なんや!!」
歩く食材庫。
選び放題の、呪霊のフルコース。
私の失われた呪力を、マコくんを起こすための呪力を一気に取り戻せるかもしれない、究極の宝の山が、今、私の目の前に立っている。
いや、それだけではない。
彼をゲットした瞬間、私の計画は一気に前進するのだ!!
私は無意識のうちに、唇を舌で舐めていた。熱っぽい視線が、自然と夏油の全身を舐め回すように動く。
「え、ちょ……禪院さん? なぜそんな、餓狼のような目で私を……?」
夏油がドン引きした顔で半歩後ろに下がった。五条はニヤニヤしていて、とても楽しそうだった。
「……夏油先輩♡」
私は、自分でも驚くほどの甘い猫撫で声を出した。ベッドからゆっくりと降り、ふらつく足取りながらも、歩く食材庫へと歩み寄る。
「私、今、とっっっってもお腹が空いてるんですの!!!!!」
◇
気がつくと、俺は見知らぬ部屋のど真ん中に立っていた。整然と並ぶ無機質なステンレスの調理台、壁際に鎮座する年季の入ったガスオーブン、そしてやたらと数の多い計量カップとボウル。窓の外はすっかり茜色の夕焼けに染まっており、どこかでカラスがアホみたいな声で鳴いている。どう見ても学校の家庭科室だ。
そして目の前の調理台には、白い器が4つ、恭しく置かれていた。
いちばん下に、琥珀色に透き通った黄金のジュレが薄く一層。その上に、ほぐした真っ白な甲殻類の身を乳白色のクリームで和えたサラダ。その表面は黒く艶めく粒で隙間なく美しく覆われている。周囲、白いクリームの小さなドットが完璧な等間隔にぐるりと並び、それぞれの中心に黒い粒がひとつずつ。仕上げに小さな金箔がひとひら、計算し尽くされた角度で上品に添えられている。
俺の片手には、味見用であろう銀のスプーンが握られていた。
舌に残るのは濃厚な甲殻類の香りと、微かな磯の匂い。そこに上質なバターの芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。匂いだけで言えば、東京のど真ん中にあるミシュラン三ツ星の名店の厨房にワープしたかと錯覚するレベルだ。
これ、
キャビア・アンペリアルに似てない?
前世の元カノが、これを看板メニューにしている某超高級フレンチレストランでプロポーズをして欲しいと遠回しに仄めかしてきたので、ディナーのコース料金を調べたことがある。一人5万円以上という値段を見て「東京ってこわい……」と震え上がった、あの忌まわしき記憶が蘇る。
ただし、目の前のそれからは、むせ返るようなドス黒い呪力がモヤモヤと立ち昇っていた。
そして、白いドットの中心に乗せられた黒い点が、一斉にこっちを見た。
目玉だ。全部、生きた本物の目玉だ。
『やったー! マコくんおかえりなさいっ♡♡』
頭の中で聞き慣れた声が響くと同時に、パーン! と派手なクラッカーの弾ける音がした。
同時に、俺が沈んでいた間の菜緒葉ちゃんの記憶が一気に流れ込んでくる。五条との激闘、一応の勝利、寝過ごしによる呪力激減の悲劇、そして直哉との仲直り。
それから——。
……菜緒葉ちゃん。これ、何?
今、一番手前の目玉とバッチリ目が合ったんだけど
『準1級呪霊の目玉ですわ! 飾りのクリームのドットに一粒ずつ、ピンセットで丁寧に乗せましたの。実際のお料理は模様が目玉っぽいだけですけど、こちらは正真正銘、採れたてほやほやの本物の目玉ですから、圧倒的に格が違いますわよ♡』
格の問題なのだろうか。有名店の秘伝レシピ完コピを、よりにもよって呪霊でやるのか。本物にしてはいけないタイプの意匠だと思う。
落ち着いて生得領域に目を向けると、『祝⭐︎マコくん復活』のカラフルな垂れ幕と、インスタ映えしそうなホログラムの風船、それから大量のクラッカーとくす玉が設置されていた。その空間の中央で現実の俺と同じジャージ&エプロンにポニーテール姿の菜緒葉ちゃんがノーマルなパイプ椅子に座り、ハムスターのケージを抱えている。しかし、中でカラカラと回し車を走っているのはちっちゃなふわふわのハムスターではなく、変わり果てた姿となった真男佳だった。可哀想に、知能が残ってるかも怪しい有り様だな。
『マコくんが寝ている間に、私、夏油先輩の養殖場から購入した新鮮な呪霊を3体も調理しましたのよ! まず甲殻類っぽい2級。硬い殻をトンカチで叩き割って香味野菜とグツグツ煮出して、濃厚なビスク風のジュレにしました。脚の身はほぐして蟹のサラダ風に。2体目の2級はお腹に卵みたいな物をびっしり抱えていたので、はらわたを割いて塩漬けにしてキャビアに見立てましたの!』
……そのキャビア(偽)、なんか微かに蠢いてない?
『ふふ、新鮮な証拠ですわ! 噛むとプチッと弾けて、中から濃厚な呪力が溢れ出しますのよ。で、最後が準1級。頭が巨大なカリフラワーみたいな形で、そこに目玉が百個くらい密集して生えてましたの。頭はブイヨンでくたくたに煮込んで裏漉ししてなめらかなカリフラワークリームに。目玉はサッと湯通しして飾りに。無駄がないでしょう?』
狂気のSDGsである。持続可能な呪術界の実現に向けて、この女は最前線を突っ走っている。
『本当は1級も欲しかったんですけど、今の私の呪力だと、下処理の途中で絶対に呪力切れを起こしちゃうんですもの。準1級でも直哉と夏油先輩の補助付きでギリギリでしたわ。3体で合計5時間かかりましたし』
5時間。窓の外が夕焼けなわけだ。
つまり俺が寝ている間に、菜緒葉ちゃんは夏油から呪霊を買い上げ、5時間かけて解体・調理し、その過程で呪力を多少取り戻し、ようやく俺を起こしてくれたのだ。
『呪力が減っててショックでしょうけど、回復メニューは美味しく作ったから、どうか元気を出して。マコくん……』
少ししゅんとして眉を下げる菜緒葉ちゃんに、俺は心の中で思い切りハグを返した。
2日の昏睡で呪力は激減したが、8分の1にまで落ち込む瀬戸際だったので、まだマシな結果だ。リスクと引き換えの成長の恩恵はこれまで散々得てきた。幸い、影響が出ているのは呪力量だけ。今は生きて帰れた幸運と菜緒葉ちゃんの献身的なアシストに感謝しつつ、またコツコツと胃袋から成長していけばいい!
俺は体の主導権を握り、周囲を見渡した。
五条と直哉が別の机で突っ伏して爆睡していて、そして夏油も五条の近くの椅子に座って、何やら焦点の合わない目で虚空を見つめ、ブツブツと呟いている。
記憶によれば調理中、夏油先輩は呪霊が暴れないよう術式で服従させ続け、直哉は途中まで調理のアシスタント(という名の雑用)をしてくれていたらしい。ちなみに五条は興味津々な態度で横から口を挟んで冷やかすばかりで、特に何の役にも立っていなかったようだ。っていうか五条、どうして菜緒葉ちゃんにとんでもない負かされ方をしたのにあんなに好意的なの?
ともあれ、俺は夏油へと向き直り、深々と頭を下げた。
「夏油先輩。この度は貴重な食材の提供と長時間の立ち会い、本当にありがとうございました」
「……いや。もう20回目なんだけど」
夏油先輩は、砂漠で三日彷徨った遭難者のようなカスカスに掠れた声でそう答えた。
え?
『残りの19回は私ですわよ。茹でる、裏ごしする、盛り付ける等、工程がひとつ終わるたびに、感謝を込めてきちんとお礼を言っておきましたの』
それは流石に……律儀すぎない??
『だって5時間もありましたから、ほぼ初対面の男に振る話題なんて私にはありませんし、間が持ちませんもの。それに取引先との良好な関係構築は基本でしょう?』
夏油先輩は額を押さえて、深く長い息を吐いた。未来のテロリストにはとても見えないような、穏やかで理知的な青年の顔が、心なしか二回りほどゲッソリと痩せこけて見える。
無理もない。彼は5時間、自分のゲットしたポケモンが後輩の手でバーナーで炙られ、ミキサーにかけてペースト状にされていく様を、ルンルン気分の実況解説と過剰な感謝の言葉付きで見せられ続けていたのだ。血飛沫(紫や緑色)が飛ぶたびに「ああっ、もったいない!」とボウルで受け止める少女の姿は、さぞかしトラウマものだっただろう。
それにしても、呪霊を何体もストックしていて、値段交渉に応じてくれて(フィールドバックされた記憶によれば、どうも取り込み時の任務報酬と同額でOKしてくれたようだ。俺が夏油ならこの5時間の拘束料金も請求しちゃうね!)、文句を言わずに付き合ってくれる。
これぞまさに、俺たちが掲げる『人類総術師計画』のためには絶対に引き入れたい最強のB2Bサプライヤーじゃないか!!
直哉はおそらく、俺達の出会いが起こす化学反応を恐れて夏油先輩の術式についての情報をずっと内緒にし続けていたのだろう。だが、『呪霊操術』遣いの存在は、俺たちの計画を数十年単位で前進させてくれるチート級の逸材だ。
とはいえ悪しき心の持ち主を仲間に引き入れるのはどうかとも思っていたが……ガチの悪人に五条が肩入れするだろうか?
今ならまだ間に合う!
こんな超絶有能な逸材が将来テロリストになるなんて、呪術界にとっても俺たちにとっても大損失すぎる!!
闇堕ちなんて絶対にさせるわけにはいかない!!!
たしか、前世の職場では、構造的なストレスを抱え、モニターに向かって虚無の顔をしている同僚には、まず声をかけてガス抜きをするのが鉄則だった。
「あの、夏油先輩」
俺は後光の差すようなお嬢様スマイルを浮かべ、努めて優しく、敏腕産業医のような穏やかな声を出した。
「何か困ったことや悩んでいることはありませんか? 呪術師という孤独な生き方において、誰かに話すだけで楽になる心の重荷もあるはずです。私でよければ、なんでも力になりますわ!」
夏油先輩はゆっくりと顔を上げた。
変な前髪の奥の暗い瞳が、俺の顔と俺の背後で瞬きを繰り返す目玉のキャビア・アンペリアルを交互に見た。
「……今現在、私の心に最も重くのしかかっている最大の悩みは、君だよ、禪院さん」
「えっ、私ですの? 私、そこまでの粗相をしましたか?」
「君の存在そのものが私の常識に対する最大の粗相だよ。君はいったい、何をどうしたらその……冒涜的なバケモノたちを、そんな……狂気のフランス料理に仕立て上げようと思えるんだい? 私はこの5時間で、自分の呪術に対する価値観が音を立てて崩れ去るのを感じていた。頼むからこれ以上、私の脳を破壊しないでくれ」
ひどく疲弊した声だった。なるほど。彼自身、『呪霊操術』という特異な術式を持つがゆえに、呪霊という存在の悍ましさを誰よりも知っているのだろう。あるいは手駒である彼らを生きたまま調理するという発想の飛躍に、戸惑いを隠せないのかもしれない。
頭を抱える夏油先輩の近くで、不意に「んぁ……?」と間の抜けた声がした。机に突っ伏していた五条が、むくりと起き上がったのだ。
「おはようマ……菜緒葉。——起きたんだ。これ食ったら完全復活できそう?」
五条は夏油の方を見て、途中で小声になった。どうやら俺の多重人格周りのことは夏油には話していないようだ。助かった。ナイス判断だ、五条。
「ビミョーですわ。まだ不調かも。菜緒葉ちゃんがあなたの分も作っておいたから食べていいですわよ」
囁くように声を潜めてそう言うと、五条はニヤニヤと揶揄ってきた。
「オマエのその取ってつけたようなお嬢様口調、キッツー」
「……もう、そんなこと言うならあげないぞ!」
五条は俺の文句をスルーして調理台に近づいた。そして彼が無造作に銀のスプーンを手に取り、呪霊フレンチに手を伸ばそうとした瞬間——。
「気安く触んなや泥棒猫!! これは菜緒葉ちゃんが5時間かけて作ったメシやぞ! 赤の他人が菜緒葉ちゃんより先に食おうとするなや!! ……わー、姉さんおはよ!」
「おはよう直哉!」
直哉が居眠りから起きた。コイツ、俺と菜緒葉ちゃんが寝たきりだった間はずっと頑張って起きてたっぽいんだよな。かわいい奴め。
目覚めた弟との幸福なハイタッチの後、俺は優雅にスプーンを手に取った。一口すくい上げ、口に運ぶ。
プチッとキャビア(偽)が弾け、芳醇な海鮮の旨味と、暴力的なまでの呪力が胃袋にドバドバと流れ込んできた。目玉のプリッとした弾力のある食感が、なめらかなカリフラワーのクリームと絶妙なハーモニーを奏でている。視覚情報さえ脳内で全カットすれば、本当に三つ星レベルの超高級フレンチだ。干上がった呪力タンクに、極上のエネルギーが染み渡っていく。
「うん、美味しい。最高ですわ。直哉もこっちに来て食べなさい」
「よっしゃ!!」
俺がにっこりと微笑むと、直哉は尻尾を振る犬のように飛んできた。
「んんっ! うっま!! なんやこれ、めっちゃ濃厚やんけ!! ワインとか合いそうやねー」
「ねー」
未成年飲酒を仄めかしながら美味しそうにバクバクと呪霊料理を頬張る俺たちを見て、夏油は椅子から力なく滑り落ち、両手で顔を覆って床にうずくまってしまった。その痛々しい姿を見かねて、五条が野次を飛ばした。
「おいおい傑、そんなにショック受けるなって。いくら自分のペットを食材にされたからって、そこまで落ち込むことないだろ。お前も一口食ってみりゃいいじゃん、ほら」
五条はからかうような軽いノリで自分達用に用意されていた3つ目と4つ目の皿を手に取った。そして、机の上に皿を置く。
夏油は目の前で俺たちが「美味い美味い」と幸せそうにスプーンを動かしているその光景を見て、何かを諦めたような、覚悟を決めた殉教者のような悲壮な顔をした。
そして震える手でスプーンを受け取ると、意を決したように、それを口に運んだ。
——瞬間。
夏油先輩の全身が、高圧電流を浴びたようにビクンッ!! と激しく硬直した。
背筋がピンと反り返り、見開かれた目が天井のシミを捉えたまま、ピクリとも動かなくなる。
「傑。おーい、傑〜? 大丈夫かー?」
「う……美味い……」
ポツリと漏れた掠れ声と共に、夏油の目から、大粒の涙がツーッと零れ落ちた。
それは声にならない、魂の底からの慟哭に見えた。
「なんだこれは……私が今まで食べていたあれらは一体……。ただの苦行ではなかったのか……。呪霊を食べるという行為が……こんなにも、幸福なものだったなんて……っ!」
夏油は感動のあまりついに両手で顔を覆って滝のような涙を流して号泣しながらスプーンを動かし始めた。
「傑!? どうしたんだよ、急に泣き出して! たしかに美味いけど泣くほどか!?」
五条が激しく動揺して肩を揺さぶるが、夏油先輩はもう誰の声も聞こえていないようだった。彼は半ば放心したような顔のままでスプーンを狂ったように動かし、一心不乱に皿の上の呪霊フレンチを涙と共に胃袋へとかき込み続けた。
俺と直哉は、スプーンを咥えたまま顔を見合わせた。
「……なんか、私の料理、夏油先輩の心にめちゃくちゃ刺さったみたいですわね」
「せやな……なんか知らんけど、命救われたみたいな顔しとるわ」
なぜ彼がそこまで号泣しているのか、この時の俺たちには知る由もなかった。
ただ一つ確かなのは、未来の最悪の呪詛師の胃袋を、俺たちが完全に掌握したということだ。
——特級コンビの狂騒を見守っている俺を、直哉はとても優しい顔で見ていた。それに気がつくと、なんだか胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、複雑な気持ちになった。
俺や菜緒葉ちゃんにとって直哉はいつだってなんだかんだで弱みを見せたくない相手だった。ここ数年はそこから更にお互い背負う物が増えて、何を考えているかを見抜くのがだんだん難しくなっていた。
昔はあんなに無邪気に笑いかけてきたのに、いつしか分厚い壁ができているように感じて——あんなに身近だったはずの弟が遠くにいるようで、どこか寂しい気もしていたのだ。
俺が眠っている間、菜緒葉ちゃんと直哉はおよそ10年ぶりの仲直りをしたらしい。それは本当に喜ばしいことだ。
けれど、そうなったら菜緒葉ちゃんの代わりに姉をやっていた俺はどうなるのか。
「直哉、私ね……五条に自分の正体について聞きましたの」
喧騒を背に、切り出す声が不安に揺れた。俺は菜緒葉ちゃんの中にいる式神に宿った存在だった。直哉はそれを知って俺と接していた。ただの多重人格ではなく、俺の存在が菜緒葉ちゃんの術式が招き寄せたモノなのだと知ってなお、俺を姉として扱ってくれていた。
「あなたは——」
そう言いかけて言葉が止まる。何から言い始めればいいかがよくわからなくなったのだ。ごめんと謝るべきか、それとも受け入れてくれてありがとうと言うべきか。俺という存在が、直哉にとってどう映っているのかを知るのは、恐ろしいことだった。けれども直哉は気にするそぶりもなく、柔らかい口調で言った。
「悟くんがどう言おうが、姉さんは俺の姉さんやからね」
風が吹き抜けた。家庭科室の薄手のカーテンがふわりと揺れ、直哉の髪を揺らす。
彼の言葉には、一切の迷いがなかった。式神に宿った前世の記憶だろうが、別の人格だろうが、そんな呪術的な定義はどうでもいいと言わんばかりの、揺るぎない肯定だった。
「直哉……」
「姉さんの正体は学習塾の任務の時から知っとる。だから悟くんと戦う前、一緒に逃げようって言うたんや」
あれは単なる怯えや逃避ではなかった。五条悟という規格外の目に俺の正体が晒され、最悪の場合、祓われるか引き剥がされるかもしれない。直哉はそれをしっかり危惧して、俺を守ろうとしてくれていたのだ。
それに対する俺と菜緒葉ちゃんの反応は、今思えば雑すぎた。
「ごめんね」
俺が目を伏せて謝ると、直哉は小さく笑って肩をすくめた。
「でも、姉さんが逃げるところなんて想像つかんからしゃーないわ。姉さんは昔から無茶ばっかりして、普通やないこと考えて、最後は何だかんだで上手くやってまうんやから」
困った人やわ、と付け加えるその声には隠しきれない親愛が滲んでいた。年相応の、普通の男子の笑顔だった。その笑顔が『予測』の中でも繰り返し菜緒葉ちゃんに向けられていたものだということに気がついた後で、ふと、気になって直哉に訊いてみた。
「ねえ、直哉。人間として生きるのは楽しい?」
今の俺は人間のように振舞っているけれど、厳密には人間ではない。そういう存在として、直哉には是非とも訊いてみたかった。禪院家は、直哉にとって楽しい場所とは言い切れない。昔も今も。自分自身を焼くような呪いを抱えて、憎しみを押し殺してひとりの人間として生きるのは、未だに面倒くさいことだらけだろう。それでも今の俺や菜緒葉ちゃんの存在は、直哉にとって、普通に生きていく上での心の支えになっているだろうか。
直哉は少しだけ目を丸くした後、夕日に照らされた顔に、今日一番の屈託のない笑みを浮かべた。
「姉さんと菜緒葉ちゃんがおるからな」
——その答えは、すごく嬉しかった。
自分の内側に視線を向けると、菜緒葉ちゃんもとても幸せそうに笑っている。
それを見ながら、自然と、俺の口元からも笑みがこぼれた。
「私も、あなたと菜緒葉ちゃんのおかげで、楽しいですわよ」
これにて今章は完結です。
長くなりましたが、お付き合いくださった皆様、本当にありがとうございました。皆様のお気に入り・投票・感想・ここすきに心を救われています! 誤字のご指摘もありがとうございます!
第6部は再びよわよわからの復活からの玉折キャンセル編(仮題)です。
前半で扇ファミリー、後半で夏油をどうにかする予定です。
2週間以内くらいには続きを投稿しますね!
引き続きよろしくお願いします。