音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
利害一致の可能性
視界の端に紺色のセーラー服の裾がある。
理子はまだ立っている。こちらに背を向けて何か言いかけている。あるいは、こちらが何か言いかけている。夢の中の夏油は、いつも口を開きかけている。何を言うつもりだったのかは起きてしまえばわからなくなるし、夢の中にいるあいだはわかっている気がする。
一緒に帰ろう、だったかもしれない。
現実にはその言葉を言う暇はなかった。
銃声が鳴る。
理子の後頭部に小さな穴があく。
穴は黒くて、縁だけが妙に鮮やかな赤をしている。
夢を見るたびに銃声の出どころが変わることに、夏油はちゃんと気づいていた。気づいたうえで、今度こそ正しい場所を突き止めれば間に合うのではないかと考えている。銃声がどこから鳴るのかさえわかれば、そこに呪霊を配置すればいい。盾になる呪霊ならいくらでも持っている。持っていたのだ。あのときも。なのに失敗した。失敗した失敗した失敗した。
理子が倒れる。倒れる音はしない。
代わりに拍手が聞こえる。
ぱらぱらとまばらに始まってすぐに揃う。何十人分もの掌が同じ間隔で打ち合わされる。誰が叩いているのかは見えない。薨星宮には夏油と理子と、少し離れた場所にうつ伏せになった黒井しかいないはずなのに、拍手は四方の闇から、途切れることなく続く。
祝福されている、と夏油は思う。
何が祝福されているのかは、わかりたくない。
◇
教室の窓の外を見ると、ぱらぱらと雨が降っている。居眠りをしてしまったのは、夜にあまり眠れていないからだろう。同時にあの日の家庭科室で禪院菜緒葉が調理中に言っていたことを思い出した。
——準1級以上の呪霊料理は、食べたあとに怖い夢を見ることがありますの。個人差がありますけれど。
親友は「脅してんの?」と笑って返しただけだったし、夏油も気にもしなかった。悪夢などあの任務が失敗した日から毎日のように見ている。呪術師の感覚からすれば、ほぼノーリスクだ。
続けて天内理子のことを考えた。考えないようにすると余計に考えるので、最近は最初から考えることにしている。
彼女は夏油が知る限り、最後まで自分で何かを選ぶ機会を与えられなかった。同化を受け入れるかどうか。友達にさよならを言うかどうか。黒井と一緒にいるかどうか。
そのすべてをあの男が一発の弾丸で先に決めてしまった。悟が高専の結界の中で倒れたとき、夏油はもう、理子に何かを差し出せる立場ではなかった。ただ抱えて走り、降り、追いつかれ、蹴り飛ばされ、床に這いつくばって、それを見ていた。
見ていたのに、何もできなかった。
自分が生きているのは、あの男が「殺すと面倒そうだから」と判断したからだ。支配下の呪霊が、術者の死で一斉に放たれるかもしれない。そのリスクを避けるために生かされた。強かったからではなく、厄介だったから。
親友は生徒指導のために呼び出されていた。厳密には連行されていた。帰りのホームルームが終わるなり夜蛾は無言で五条の襟首を掴み、そのまま廊下を歩いていった。五条は抵抗しなかった。抵抗する必要がないとでも言いたげな顔で、足だけを動かしていた。
それから3時間が経つ。
交流会の団体戦で五条悟と禪院菜緒葉は異常なまでにハイレベルな呪術戦を繰り広げた。両者死にかねないような戦いだったそうだ。さらに五条家と禪院家の不仲が事態をややこしくした。京都校からも禪院家からも、五条家宛に抗議文が届いたらしい。五条家の側も禪院家に抗議しようとしたが、結局やめたとかなんとか。理由は得た物と失った物の釣り合いだろう。
ドアが開いた。五条は伸びをしながら出てきて、夏油の姿を見つけると、大きく手を振った。
「え、待ってたの? 傑ってヒマなの?」
「悟が停学になったら、明日から任務の相方がいなくなるからね。聞いておきたかったんだ」
「なんないなんない。反省文50枚と、あと……なんだっけ。京都に菓子折り持って謝りに行けって。俺が。菓子折りって何買えばいいの? とらや?」
「悟が選ぶと絶対に揉めるから、私が選ぶよ」
「やりー」
五条はまったく懲りていなかった。3時間怒鳴られた人間の顔ではない。むしろ少し肌艶が良くなっているようにさえ見えた。
並んでみると、よくわかる。
夏油が自分自身の無力に絶望した任務を境に、彼は変わった。そして菜緒葉との戦闘で、さらに変わった。
最強という形容すら物足りない。
最強を超えた最強。
それが五条悟の現在位置だった。
——俺達、最強だし。
少し前まで、五条はそれを口癖のように言っていた。任務の割り振りに文句をつけるときも、夜蛾の小言を聞き流すときも、理子の護衛を引き受けたときも。2人で最強だった。どちらかが欠けても、残ったほうが最強で、それで何も困らなかった。
しかし今、並んで歩いている五条悟はひとりで最強を超えている。
禪院の男と女がそのためのパーツとなった。
そして件の団体戦の当日、夏油はと言えば北関東の廃病院で2級の群れを掃除していたのだった。取り込むときの味はいつもどおりだった。吐瀉物を拭いた雑巾を丸めて、そのまま飲み下す味。物心ついたころから毎回同じで、これからも同じはずのモノ。
呪術高専に戻ってきたときにはもう何もかもが終わっていて、五条は医務室の前の廊下で、そわそわと待機していた。しかし五条の気配は一層研ぎ澄まされていて、自分がどんどん差をつけられていることを自覚せずにはいられなかった。そのせいで、暗闇のなかで同じ場所を延々と足踏みしている気分だった。
隣を歩く自分のことを、この男はどう見ているのだろう。
夏油はそれを考えかけて、やめた。
「でさ、傑。聞いて」
五条が口を開いた。
3時間叱られた直後とは思えないほど、弾んだ声だった。
「閉じない領域ってメッチャ小さい領域を作って外殻をガチガチに固めればどうにかなるんじゃないかって気づいてから試したくて仕方なくて! あと、菜緒葉が復活したら極の番の開発にも付き合わせようと思っててさぁ。アイツ縛りが超上手いの。傑も一緒にやろうよ」
「極の番……」
「オマエはあるけど俺には何もないじゃん」
——禪院菜緒葉の強さは本当だったのだろう。しかし彼女はその戦いのあと2日間眠り続けて、目を覚ましたときには呪力の大部分を失っていた。戦いで無茶をしたせいらしい。何をどう無茶したのか五条に訊くと、「なんか縛り? 破ったとかで」と要領を得ない答えが返ってきた。五条自身もよくわかっていないらしかった。 あれでは元の等級を維持できない。だから今なら、と夏油は思おうとした。そして惨めになった。
個人トーナメント戦の初戦で、菜緒葉の弟——あの男の従弟と五条がぶつかっている。京都校の他の生徒は完全にお通夜モードだったのに、彼自身は姉の仇討ちのつもりか鬼気迫っていて——自分がもし彼と当たっていたら、手持ちの一番強い呪霊を祓われる覚悟で回さないと負けたかもしれない。今回は使っていなかったが、領域の効果によってはさらにもう1体。
菜緒葉はその弟より才能がある。
力を失っている状態ですら、あの女は意味不明な芸当を繰り返していた。どうして六眼もないのにあの程度の僅かな呪力で準1級の呪霊を核だけ残してすり潰せていたのかがわからない。そして雰囲気も底知れなかった。言動と発想の異常性は一旦置いておくとして、見た目は小柄でかわいらしい少女だ。なのに呪力の質は悍ましく、そして呪霊という存在をただの食料としか思っていないような顔をしていた。
「そういえばさ」
五条の声で、夏油は我に返った。渡り廊下が終わって、寮の前の濡れた砂利道に出ていた。五条はサングラスを少しずらして、雨上がりの夕陽のほうを見ていた。青い目が傾いた光を受けて、宝石のように光っている。
「傑に言ったことあったっけ。六眼で人間がどう見えてるか」
「いや。聞いたことはないね」
「呪力が色で見えんの。サーモグラフィーみたいな感じ。赤いのとか青いのとか、混ざってたり濁ってたり。で、それがけっこう綺麗なんだよね、人間って」
五条は砂利を蹴りながら何でもないことのように言った。
「花っぽい。いろんな色で、いつもそよいでて。雑魚は雑魚なりに咲いてるし、手ぇかける価値もない、さっさと引っこ抜きたい雑草みたいなのがあっても、まあ、花は花。綺麗だなーって思うし、基本は踏まないようにしてやろうとも思うけどさ」
そこで五条は、少しだけ言葉を探した。
「花に自分のこと分かって欲しいなんて、思わないじゃん」
夏油は黙っていた。
五条がこの種の話をするのは珍しかった。自分の目に何が映っているかを、五条はふだん説明しない。
「でさ、菜緒葉は昔っから違ったんだ。ガキの頃に一回会ってんだけど、なんかすげー気持ち悪くて。インフルのときに見る夢みたいな。全然、花に見えなかった」
「……花じゃなかったのかい」
「虫を大事に飼ってる花なのかな。——まだわからない。本当に訳わかんねーんだよ、アイツ。花みたいに笑うけど、すぐ切り刻んでくるし、何考えてんのか全然わかんねーの」
五条は、そこで少し笑った。
「だから、アイツからまた呪霊買取の依頼があったら、応えてやってよ。なるべく急いで、また強くしたい」
「……」
夏油は笑い返すタイミングを逃した。
五条が禪院菜緒葉について話すとき、花という言葉を使いながら、明らかに花の話をしていない。花に見えなかった女が、花みたいに笑って、自分を切り刻んだ。五条はそう言った。それは自分を理解している相手について語る声だった。理解したい相手に向ける声だった。
じゃあ、彼にとっての今の自分は?
訊いてみればいい。彼ならきっと正直に答えてくれる。
だからこそ、怖くて訊けなかった。
夏油は短く笑った。何がおかしいのか、自分でもわからなかった。
「傑?」
五条がサングラスをずり下げて、夏油の顔を覗き込んでいた。
「なんか顔色悪くない?」
「ただの寝不足さ。大丈夫だよ」
夏油は笑った。自分でもよくできた笑顔だと思った。それ以上顔を覗き込まれる前に、話を変えた。
いや、もっと最悪の話をした。
「……悟」
「ん?」
「少し気になったんだけど、あの日手を叩いてた連中も、花に見えたのかい」
五条は少しだけ首を傾げた。それから、天気の話でもするように答えた。
「見えたよ。すげー汚い色だったけど。花は花」
夏油は「そうか」とだけ言った。
あのとき五条は言った。
傑、こいつら殺すか。
今の俺なら多分、何も感じない。
たしか「意味がない」と夏油は答えた。
答えられたのが、今でも不思議なくらいだ。
そのことについて、まだ後悔はしていない。
「……じゃあ、禪院さんの連絡先、教えてもらえないかな」
何のために連絡を取りたいのかは決まっている。本当はあの異常者にはあまり近づきたくない。けれども親友とあの女が勝手に仲良くし始めて、これ以上差をつけられては堪らない。だから、まだ誰にも言っていない秘密を悪魔のようなあの女に打ち明ける。そして取引をしよう。
「おっ、よっしゃー! 教えていいか聞いてみる!」
嬉しそうに言う親友の横顔を、夏油は少々疲弊しながら眺めた。
◇
「菜緒葉さん! 俺、ずっとあなたのその天使のような微笑みと悪魔的なカリスマの虜なんです! あとは悪戯っぽい笑顔と、ふとした時に見せる底なしの慈愛にも! 俺、専業主夫になって菜緒葉さんが呪力を増やすためのリハビリを全力でサポートします! だから……俺を菜緒葉さんのモノにしてください! 結婚を前提にお付き合いを!」
朱に染まる夕暮れ時の禪院家。同年代の少年が、俺の目の前で膝をつき、勢いよく頭を下げていた。彼は俺が若手向けの勉強会で面倒を見ている子のうちの1人で、かつては非術師を「猿」とか呼んじゃうタイプのクソガキだったのだが、だんだんと心を入れ替えて改心して行ったという経緯がある。天性の術式センスを腐らせなければ、将来は間違いなく『炳』に加入するであろうポテンシャルの持ち主だ。というか『予測』では現にそうなっていた。しかし立場に胡座をかいて真希ちゃんの恨みを買うような言動しかしていなかったことも一因となってか、真依ちゃんが殺害された当日は留守にしていたのにかかわらず、惨殺されることになる。
そんな彼が真っ当な道を歩み始めてくれたこと自体は喜ばしい。とはいえこの熱烈すぎる求愛に対して俺がどう返答すべきか困惑していると、隣に立っていた双子の弟・直哉が呆れたように息を吐いた。
「……まあ、姉さんの圧倒的な魅力と恐ろしさに骨抜きにされるんはしゃーないわ。意外と見る目あるやん。天使の皮被った悪魔やって気づいとるあたりも、なかなか筋ええね」
少年がぱっと目を輝かせた瞬間、直哉はその肩をバシッと叩き、ニヤリと底意地の悪い笑みを浮かべた。
「けどなぁ、オマエより姉さんの方が家事上手いやろ。しかも姉さんは本調子やないから、横に立つ男には護衛程度の戦闘力はあって欲しいんやわ。具体的には俺レベルでな。ほら、その有り余った情熱、俺が稽古で全部発散させたるわ。来い!」
「えっ、ちょ、直哉さん。俺はまだ菜緒葉さんのお返事を——!」
「ええから来いって! 姉さん、コイツ鍛え直してくるわ!」
俺が曖昧に手を振るより早く、直哉は少年を連れてびゅーんとどこかへ行ってしまった。
あの子、なんで直哉の前で告って来たのかな?
直哉のいないところで告ったら後が怖いからかな。
現実感のないままとりあえず自室に戻り、ひとりで座布団のうえに座って優雅にお茶を飲んでいると、菜緒葉ちゃんが話しかけてきた。
『……ふふふふふ。ついに来ましたわねっ、マコくん!』
生得領域に意識を沈めると、ふかふかのマゼンタピンクのソファの上で、黒い袴姿の菜緒葉ちゃんがお気に入りの紅葉模様の扇子で口元を覆いながらドヤ顔をキメていた。
背景にはネオン管で『HAPPY LUCKY MOTEKI』と書かれた文字が怪しく、しかし誇らしげに光り輝いている。真男佳は依然不調だが、生得領域の飾りつけは俺たちの精神の安定に呼応するように、少しずつ自由度が戻ってきているのだ。
真男佳はあれ以来喋らない。色々話したいことはあるが、当分はケージの中でおとなしくしていてもらおう。クソッ、俺達が万全なら、適当な特級呪霊を新しい核として迎え入れ、コイツをリストラしてやれるのに。
だが、それよりも今は菜緒葉ちゃんの方が問題だ。
「ついにモテ期が来てしまいましたわ……! 男たちが我々の魅力に屈し、跪く時代が到来いたしましたのよ!」
高らかに宣言する菜緒葉ちゃんの隣に、俺も腰を下ろした。
「……菜緒葉ちゃん。念のため聞くけど、君、さっきの子と付き合いたかったわけじゃないよね?」
「当ったり前ですわ! 誰が自分の完璧な生活リズムを乱すような居候を欲しがりますの! 私は私自身の自由がいちばん大切です。でも、モテるのはすごーく嬉しいですわっ。誰からも見向きもされない惨めな女だなんて思われたら、夜も眠れませんもの!」
出た。彼氏は全く欲しくないが、モテない奴だと思われるのだけは自身のアイデンティティが許さないという、面倒くさすぎる乙女心!
男に興味がないくせに禪院家に適応するために偽装彼氏と仲良くし続けた結果とんでもないことになった女の人を俺は知っている——というか、『予測』での菜緒葉ちゃん自身がそうなのだが、都合の悪いもしもの未来の記憶はもう忘れ始めているのだろうか。
そしてそもそもだ。
「菜緒葉ちゃん、よく聞きなさい。」
「なぁに、マコくん」
「恋愛って、告白されてワーイってなって終了じゃないんだよ。長年俺に社交を任せすぎて承認欲求を拗らせて、勘違いしてない?」
「何をですの?」
菜緒葉ちゃんはきょとんとした。
事の重大性を全然わかっていない顔だった。
「告白されたら、その相手と付き合うかフるかを決めなきゃいけないんだ」
「……わかってますわよ?」
「いーや全然わかってないね」
俺が落ち込んで引きこもり気味だったのが根本の原因なので言う気はないが、あの子が告白してきたのは、明らかにここ3ヶ月での菜緒葉ちゃんの距離設計ミスである。俺が折角清楚系を演じているのに、菜緒葉ちゃんがサド心に任せて先月の反転講座(臨死体験付きルナティックコース)に応募して来た彼を踏みつけながら「がんばれがんばれ」などと囁いたばかりに、彼は開けるべきではない扉を開けてしまったんだ……。
まあ、今回は直哉がどうにかしてくれたからいいけれど、あと一歩で大変なことになるところだった。
「ねえ菜緒葉ちゃん。男だらけの武闘派集団の中で、女が恋愛感情のいざこざを起こすとどうなると思う? 一瞬で集団全体の雰囲気が最悪になるんだよ。俺はサークルクラッシャーにはなりたくないね!」
菜緒葉ちゃんはパチリと扇子を閉じて、冷酷な女王様のような眼差しになった。
「それって、勝手に色情に狂って自滅していく男が愚かなだけですわよね? 勝手に雰囲気が悪くなっている方の自業自得なんじゃありませんの? 私の責任ではありませんわ」
彼女の言い分はきついが、見事な正論でもある。たしかにこれは自制心を失う男の側の問題であり、自業自得っちゃ自業自得だ。
しかし、今の俺たちの目的は何だ!?
「俺達の短期目標は、禪院家の構造改革と、真希ちゃんや真依ちゃんを含む後進の女の子たちが安全かつ快適に過ごせる健全な環境作りだろうが!」
今は呪力枯渇による弱体化中とはいえ、誰も「禪院菜緒葉」という存在には逆らわない。しかし前例である俺がお行儀よく、かつ圧倒的な品格を保っておかないと、偏見を助長し後輩たちの進路に悪影響を及ぼしてしまいかねない。女性術師でも正当に評価され、理不尽な差別を受けない環境を作るための不可侵の象徴として、俺は君臨し続けなければならないのだ。菜緒葉ちゃんはなんとも言えない表情を浮かべた。
「それはまあ、たしかに……」
「わかってくれた? だから俺は圧倒的な神聖さと親しみやすさを両立したマスコット兼マドンナの位置付けを保ちたいんだよ。手には届かないが、みんなの心の癒やし! それが理想のポジションな!」
「政治的配慮の行き届いたマドンナ戦略……。クレバーで悪くないと思いますわ」
なんとか説得に成功し、俺が胸を撫でおろしていると、菜緒葉ちゃんが思い出したように手をぽんと打った。
「そうですわ、政治的配慮といえば……夏油先輩が、私(あなた)のメアドを聞きたがってますわよね」
告白のせいで頭から飛んでいたが、さっき五条経由で「傑がお前のメアド教えていいか聞いてるんだけど」と連絡が来ていたのだ。
「きっとあの呪霊フレンチの感動が忘れられずに、次のケータリングの予約をしたいんだろうなぁ。あの人の能力と影響力は戦略的にどうしても我が家に取り込みたいし、俺達の呪力の早期復活のためにも、絶対にお父様の許可を得ないと……!」
「あの方、何か強いストレスでも抱えていらっしゃいますの? 泣きながら呪霊フレンチを貪り食う姿は、見ていて少々憐れでしたわ」
……まあ、将来は呪詛師になる予定だし、相当の心の闇を抱えているんだろう。しかし、下手に無知な他人が首を突っ込んで不用意な慰め方をすれば、かえって彼を心理的に追い詰めることになりかねない。
そこで俺は一旦このメンタルケアの件を、彼の唯一無二の親友である五条に託すことにしていた。別れ際に「夏油先輩のこと、あなたの方でちゃんと話を聞いてカウンセリングしてあげてね」と念押ししたのだ。あの時は五条も「任せろ」と言いたげな真面目な顔で頷いてくれたはずだった。
……請け負ってくれたのは大変結構なのだが。
俺のガラケー(買い直したばっかり)には、五条からのクソどうでもいいメールが一日に何度も着信していた。
五条は俺たちがまた強くなって復活するのを心待ちにしているのか、それとも単に友達が少ないのか、俺が家で安静にしているのをいいことに、暇つぶしのようにメールを送りつけてくる。
そして俺(というか主に菜緒葉ちゃん)もちょこちょことどうでもいいことを返信している。現在、世はまさにFLASH動画の黄金時代。俺の前世の小学生時代の記憶を頼りに、五条にはネットの海に眠る名作の数々を教えてやっているのだ。この辺りでインターネットリテラシーとネットミームの素養を叩き込んでおけば、比較的初心者向けのドナルド・マクドナルド*1などを経由し、五条も立派な音MAD職人・あるいは中毒者として健やかに育ってくれるかもしれない。
しかし、そういうガチでくだらないやり取りの連続の中で、俺たちはある致命的な事実に気がついてしまったのだ。
「私、思うんですけど……五条って別に悪い奴じゃないし、面白いですけど、根本的にカウンセリング向きの人間ではないのでは?」
「俺もちょうどそれを痛感してたところだよ。もし俺がプライベートな深い悩みを抱えて絶望していたとして、相談相手の第一候補にアイツを選ぶ世界線は絶対に存在しない!」
「家入先輩も、サバサバとしたタイプですわよね。他人のドロドロした闇に自分から深く踏み込むタイプではなさそう……。私思ったんですけど、呪術高専って専属の心理カウンセラーとかは置かないんでしょうか?」
「呪術界は慢性的な超・人材不足だからなー。真っ当な倫理観を持ったプロのカウンセラーなんて配置したら、少年少女に心を削る危険すぎる任務を強要している現状を知って、『即刻全員引退しなさい』ってドクターストップがかかりまくって、業界自体が数日で崩壊するんだよ。きっと!」
やっぱり、対症療法ではなく、業界の構造自体を根本から変革する『人類総術師計画』の推進しかないんだよなぁ……と、俺は現実世界に戻ってすっかりぬるくなったお茶を啜りながら、深い深い溜息を吐き出した。
生得領域の中で菜緒葉ちゃんも『 HAPPY LUCKY MOTEKI 』のネオン管の前でコクリと頷いている。
ただし足元の現実はひどく泥臭くてシビアだ。数日前の五条悟との規格外の激闘のせいで、我が禪院家は現在進行形でてんやわんやの大騒動の渦中にある。俺が大人しく引きこもっているのも、優雅な休息などでは決してない。
昨日の、家に帰って早々にスタートした息詰まるような詰問会議を思い出す。幸い、多重人格については完全に隠し通せていた。あの場で菜緒葉ちゃんがブッパした閉じない領域や俺の本体、菜緒葉ちゃんによる人斬りについては、「実はこっそり一人で極秘に練習していたり、術式の全貌を隠していましたの。テヘッ」とかわいく誤魔化した。
無茶をしすぎたことについては問い詰められたが、動機の一つである「甚爾くんの最強さを証明したかった」という話をすると、甚壱くんとお父様は「コイツならやりかねんな……」と言いたげな表情になった。
だが、問題はそこからだ。
いくら動機が通ろうと、五条相手に無茶な大立ち回りを演じた結果体力を使い果たして寝過ごし、再度出涸らしになっている事実は誤魔化しようがない。
俺は文机の引き出しを開け、レターオープナー用の小さなナイフを取り出した。
『マコくん? 何をするつもりですの?』
「ちょっと、今の自分の現在地を確認したくてね」
『なるほど! 手首を切り落とす勢いでガッと言っちゃいましょう♡』
「縛りバフつき絶好調モードの時と同じことをしろと?!」
そんなやり取りをしながら自らの左手首の薄い皮膚に刃を当てた。骨に届かせるくらいはしてもいいだろうと覚悟を決めながら、深く引き切ると、どばっと赤い血が流れ落ちた。鋭い痛みを感じると同時に『反転術式』を回そうと試みると、目眩と吐き気が脳を激しく揺らす。傷が塞がると同時に、まるでカラカラに干からびた水道管に無理やり圧をかけたような嫌な感覚が遅い、心臓がドクンと跳ねる。落ち着くまでには十数秒かかった。
我が家で最も優秀な反転術師であるこの俺が、こんな錆びついたような状態というのは、家全体にとっての一大事だ。多分現時点の実力は、弱めの特級あるいは強めの1級1匹を一撃で祓った瞬間ガス欠を起こす——ピーキーな2級といったところだろう。1級の調理は単独だとしんどい。見方は人によるだろうが、俺が推薦を出す側としてこれまでにしてきた判断と同様の基準を適用するなら、1級推薦は出さないレベル。それでも元の経験値のおかげで数ヶ月かけて継続的に呪霊を食べ続ければ等級を元に戻せて、いつも通りに家の仕事も回せるようになるだろうという体感はあるけれど、俺が弱っている間に致命的な大怪我をして帰らぬ人になる身内がいるかもしれないのだ。
「菜緒葉ちゃん、夏油先輩についてのお父様との交渉、絶対成功させようね!」
『ええ、マコくん! 夏油先輩との提携を、あの人に認めさせてやりましょう!』
出涸らしから、再び圧倒的な1級へ。
立ち止まっている暇はない。俺たちの胃袋と野望をかけたリハビリ作戦は、ここから本格的にスタートするのだ。
ちなみに昇級に関する主人公の判断基準を置いておくと、将来もしも原作通りの展開となり、東堂や冥冥の代わりに教え子5人の1級推薦を五条から依頼されたとして、虎杖以外はOKしないかなくらいの水準で見てください。
あと、活動報告更新しました〜
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