音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
現在の俺たち——「禪院菜緒葉」はお父様からの厳命により、通学や任務をはじめとする外部活動を一切休止し、自宅療養の身となっている。「出涸らしの状態で外を出歩くなど言語道断。しばらくは家の中で、料理と食事と遊びと睡眠以外はしないでよろしい」とのことだった。実に甘やかされた、至れり尽くせりの生活だ。
だが、俺たちがこうしてのんびりしていられるのは、お父様が面倒な政治的調整を一手に引き受けてくれているからだ。
五条悟という御三家の嫡男との間で起こした規格外のドンパチ。当然ながら総監部や呪術高専の先生、そして五条家からの問い合わせや苦言が殺到しているはずだ。それらの矢面に立ってのらりくらりと躱し、あるいは当主の権力でねじ伏せ、「娘は療養中である」と外部との接触をすべてシャットアウトしてくれているのは他ならぬお父様なのだ。
夏油の件についての進言もそうだが、何よりお父様には改めてしっかりお礼を言わねばならない。
夕食後、俺はお父様に時間を取ってもらい、当主の私室へと続く長い廊下を歩いていた。
その時だった。
『マコくん。今日は、私にお父様とお話しさせてくださいな』
生得領域の奥底から、菜緒葉ちゃんが静かに、しかし断固たる意志を持ってそう言ってきた。菜緒葉ちゃんとお父様のしっかりしたやり取りは、ほぼ10年ぶりになる。
——ファイトだよ、菜緒葉ちゃん!
俺は体の主導権をそっと彼女に譲り渡した。緊張しながら、菜緒葉ちゃんはお父様のお部屋に入った。
「この度は、私の無茶のせいで大変なご心配とご迷惑をおかけいたしました。外部への様々なご対応、お父様がお引き受けくださっていること、心より感謝申し上げます」
菜緒葉ちゃんが丁寧に頭を下げると、お父様はしばらく黙って不思議そうにした。
「……菜緒葉」
「はい」
「何故だろうな。随分と久方ぶりにオマエと直接会ったような気がするぞ」
2人で共有している心臓が跳ねた。これまでの応対が概ね俺という別人によるものだったことを感覚だけで言い当てるのだから、恐ろしい男である。だが、菜緒葉ちゃんは表面上動じなかった。
「お酒の飲み過ぎで時間の感覚がおかしくなっていらっしゃるんじゃありませんの?」
「減らず口を」
お父様は手酌で盃に酒を注いだ。
「お注ぎしますわよ」
「いい、自分でやる。……ところでだ。五条のクソガキが明日家に来る」
菜緒葉ちゃんは少し首を傾げた。
「ふーん。どうしてですの?」
「一昨日、五条家に向けて正式な抗議の書状を送ってやったからな。謝罪じゃね?」
しれっと言うお父様に、菜緒葉ちゃんは眉を吊り上げる。
「ちょっとお父様! 何度も言ってあるでしょう。あれは若さゆえに双方熱くなってやりすぎただけですわよ! 向こうの家からは、そこまでの書状は来ていないのでしょう?」
「……まあ、そうだが」
「なら、そんなみみっちい抗議を取り下げてくださいな! 恥ずかしいからやめて。禪院家の当主が、子ども同士の喧嘩で目くじらを立てて抗議文を送っただなんて……世間から器が小さいと思われますわ!」
非難する菜緒葉ちゃん。対するお父様は、どこかバツの悪そうな顔をして、不満げに口を尖らせた。
「だがなぁ……。オマエ、2日も目を覚まさんかったんだぞ? 下手したら戦闘中に死ぬか廃人になってた。こっちが勝ったとはいえ、親として、文句の一つも言ってやって何が悪い」
友達におもちゃを取られた子供が拗ねるみたいな顔だ。この人にはこういうところがある。五条家のこととなると、途端に大人げがなくなるのだ。
対する菜緒葉ちゃんは、それはもう晴れやかに、満開の向日葵のような笑顔を咲かせた。
「お気遣いは嬉しいですけれど、私だってただやられていたわけじゃありませんのよ?」
「あん?」
「私も五条を膾にしかけましたもの♡ あー、楽しかった!」
甘ったるく菜緒葉ちゃんが言うと、お父様は凍りついた。盃を手に持ったままでゆっくりとこちらを見る。ようやく娘の隠し持っていたイカレっぷりに気がついたらしい。
「……オマエ、誰に似たんだ」
お父様が心底理解できないというような声で言った。『あなたでしょうね』と、俺は内側で即座にツッコミを入れた。呪術師はイカレていないと務まらない職業だと最初に教えてくれたのはこの人だ。 菜緒葉ちゃんは答えず、ただ機嫌よく笑っていた。答えなくても伝わると思っているのか。それとも、伝わらなくても別に構わないと思っているのか。彼女の隣にいるはずの俺にも、その真意は完全にはわからない。
それでも。
菜緒葉ちゃんがこうして自分の足で座り、自分の声でお父様と喋っているのを内側から見守っているのは——悪くない気分だった。
悪くないどころか、ずっとこれが見たかったのだと、実感した。
「娘ってのは知らんうちに成長するものだなぁ。……人斬ったのもオドロキだが、一番はアレだ。閉じない領域。訳わからんわ」
「ふふ、秘密の特訓の成果ですわ」
「秘密にするな」
「乙女には秘密が付き物なのに」
お父様は大きな溜息をついて、それきり追及しなかった。この人は昔から、娘の隠し事を知っていて泳がせる。呪霊料理のときもそうだった。厨房を壊したときもそうだった。わかっていて、黙っている。それがこの人の優しさなのか、ただの面倒くさがりなのか、俺にはいまだに区別がつかない。
菜緒葉ちゃんは、ふと姿勢を正した。 膝の上で手を重ねると同時に、さっきまでの軽口の調子が消えて、少しだけ神妙になる。
「あまり詳しくは言えませんが、私なりにこの家や呪術界を良くするために色々考えてのことです。今は学生の身で、ここ数日間はお父様や直哉や、みんなに助けてもらってばかりですけど。……でも、見ていてください。すぐにまた、前の何倍も強くなりますわ。どんな特級呪霊からも、お父様を守れるように」
その真っ直ぐな言葉に、お父様は盃を持ったまま少しだけ黙った。その表情に一瞬僅かな照れのようなものが浮かんだような気がしたが、次の瞬間、お父様は盃に手酌で酒を注ぎながら、あっさりと言い放った。
「いや、別に1人で勝てるし」
「むっ」
可愛げのない返しに、菜緒葉ちゃんが頬を膨らませるのを感じた。
——ともあれ父娘の久々の対面は上手く行った。「そう言えば、呪力を戻すために夏油先輩の協力を仰ぎたいんですけれども」と菜緒葉ちゃんが言ったら、それもサクッと予算が下りた。それ以上のことは明日の五条の様子や今後の夏油との付き合い次第らしい。
まあぼちぼちという結果だろう。
それから一緒に、魔法少女モノのアニメを見た。
「ところで、だ。俺はいつも不思議に思うんだが」
「はい?」
「なんでこういう番組の主人公は正体が誰にもバレないんだ。毎週毎週クラスメイトの目の前でいなくなって、直後に全く同じ声と顔をしたやつが派手な服を着て出てきているんだぞ。親も気づかん。教師も気づかん。設定がガバガバすぎるだろう」
酒のツマミ代わりのいちゃもんのような文句。だが、菜緒葉ちゃんはテレビ画面を一瞥すると、ぴしゃりと言い放った。
「わかってませんわね、お父様」
「ん?」
「ガバガバではありませんわ。『見ている』と思い込んでいる人ほど、目の前の真実がわからないんですの」
「……そういうもんか?」
「そういうものなのです。思い込みというバイアスは、人間の目をあっさりと節穴にします。だからこの作品の脚本は、何ひとつ破綻していません。むしろ一番リアルに人間心理を描いているところですわ」
「いやいや、それにしたって何十話も気づかんのは流石に無理があるだろう。アホなのか?」
お父様がせせら笑うと菜緒葉ちゃんはクスリと悪戯っぽく笑い、父親に向かってとびきり甘い声で言った。
「あら。何十話どころか——10年気づかない方だっていらっしゃいますわよ?」
お父様は怪訝そうな顔で目を瞬かせた。
「……何の話だ?」
「さあ?」
菜緒葉ちゃんは満面の笑みで首を傾げ、テレビ画面へと視線を戻した。
秋の夜長。
禪院家の当主の部屋には、テレビからの萌えボイスと、お父様の「おい、何の話だコラ」というぼやきだけが、平和に響き続けていた。
◇
「この度はお宅の娘さんの腕を吹っ飛ばしたりして、すみませんでしたぁ!」
秋晴れの空とは裏腹に、重苦しい空気が立ち込める禪院家の広大な客間。その下座において、190センチを超える長身の男が窮屈そうに長い脚を折りたたんで正座していた。
五条悟が、我が家にやってきたのだ。
黒いサングラスの奥で何を考えているのか読めないあの最強の男が、殊勝にも床に両手をついて頭を下げている。彼の手元には、老舗和菓子屋の最高級羊羹が、熨斗をつけられた状態で恭しく置かれていた。
昨晩、菜緒葉ちゃんに「みみっちいから抗議なんてやめて」と怒られたばかりだというのに、やはり最大戦力にして愛娘を傷つけられたことに対するお父様のムカつきは全く収まっていないらしい。
「……フン。よくもまあノコノコと来られたものだな。嫁入り前の大事な娘の腕を吹き飛ばしておいて」
「いやいや、当主殿? そっちの娘さん、俺が謝る間もなく自前の反転術式でニュルッと腕を生やしてましたよ? むしろドン引きしたくらいなんですけど」
「そういう問題ではない。たとえ治ろうが、娘の玉の肌に傷をつけたという事実そのものが問題なのだ。親の心というものがわからんのか、この唐変木が」
お父様はジロリと五条を睨みつける。
ちなみに直哉は現在この屋敷にはいない。夜明け前、お父様の采配によって生け捕り必須の呪霊討伐を押し付けられて出発していったのだ。采配の理由は多分、自分が五条にネチネチと文句を言う時間を直哉に邪魔されたくないからだろう。
「ていうかさぁ……」
五条は正座の姿勢に限界が来たのか、少しだけ膝を崩して胡座に移行しながら、不満げに口を尖らせた。
「あの戦い、俺じゃなきゃ1000回死んでるね。最終的に負けたの俺の方だし、禪院家の方がヤバいんじゃないか?」
「……ほう? そういえばそうだったな」
その言葉を聞いた瞬間、お父様の不機嫌だった顔に、パッと悪戯っ子のような意地悪な笑みが浮かんだ。
「そうだった、そうだった。うちの可愛い娘が、あの『六眼』と『無下限』を併せ持つ五条家の神童殿に……正面から堂々と打ち勝ったのだったなぁ! ガッハッハ!」
さっきまでの親の心配はどこへやら、急に機嫌が良くなったお父様が豪快に笑い声を上げる。勝者の余裕というやつだろう。
だが五条はサングラスの奥の蒼い瞳を細め、恨みがましく付け加える。
「……あの、忌まわしいアクメブレードでな」
「ん? 今、なんと言った?」
——言うな五条、それ以上は絶対に言うな!!
術式反転『偽・退魔の剣』の性能については「正のエネルギーによるマッサージみたいなものですの!」と必死に誤魔化してきた。それでも薄々勘付いてる人はいそうだが、お父様は気づいていない。実の娘がそんな淫らな技を開発しているなんて、想像すらしていないのだ。
そこで俺の危機を察知した菜緒葉ちゃんが体の主導権を握り、完璧なお嬢様スマイルで強引に会話に割り込んだ。
「なんでもありませんわ、お父様! 五条様は敗北のショックで、まだ記憶が少々混乱していらっしゃるのよ」
「してねーよ。俺の脳は常に新鮮だっつーの。だいたいお前、あの時、直哉に撮影まで迫って——」
「あっそうだわ!!」
菜緒葉ちゃんはパンッと両手を強く叩き、五条の声をかき消した。
「せっかく五条様が美味しそうな羊羹を持ってきてくださったんですもの! お切りして、皆でいただきましょうか! お茶も淹れ直しますわね!」 「……菜緒葉。今こいつ、何を言いかけた?」
「さあ? きっと東京の方特有の、高度なブラックジョークですわ!」
菜緒葉ちゃんは一切の動揺を見せずに首を傾げた。その完璧なすっとぼけ具合に、五条は信じられないというような顔でツッコミを入れる。
「俺、東京生まれじゃないんだけど」
「あら、そうでしたの? 存じ上げませんでしたわ」
「絶対知ってるだろ。御三家の人間が知らない訳ないし!」
「ふーん。“正相”“連星”……」
「やめてやめてやめて」
今の俺たちではヒョロヒョロの短剣を3本出すのがやっとだろうが、五条は見事に焦ってくれた。菜緒葉ちゃんが得意げに胸を張ると同時に、体の主導権が戻ってくる。
「だいたいさ、そっちの娘だって領域展開してんじゃん。しかも、バグみたいな閉じてねーやつ。アレのせいで、東京校の放送設備、全部サイコロ状に切り刻まれて使い物にならなくなったんだけど?」
「その程度の被害でガタガタ言うな。ウチで全額きっちり払うし。……アレだ、勝った側の余裕というやつだな」
金の力で黙らせる、実に禪院家らしいソリューションである。五条は「うっざ……」と心底嫌そうな顔をした。さらにお父様は畳み掛けた。
「そもそもなあ。10年前にオマエが菜緒葉をキモいと言った時から、こちとらキレ続けてるんだ。謎に仲良くなってるみたいだが、ちゃんと謝ったのか?」
「いや、今も相当キモ……」
五条が言いかけたその瞬間。
彼のサングラスの奥にある六眼が、菜緒葉ちゃんの腹のあたり——正確には俺の存在をしっかりと捉えた。
「……いはキモいけど、ちょっと前よりは見れるようにはなってきたかな。あと、容姿で人を判断するのは良くないと思いまして?」
「はぁ?」
「人は見た目より心!!」
『五条、たまにはいいこと言うんですのね!』
菜緒葉ちゃんが謎に感激し始めたが、結局ビジュアルをディスり続けていることには変わりないので、お父様は普通にキレた。
「見れるとは何だ、見れるとは! うちの娘は天女のように愛らしいだろうが!」
お父様、違うんです。今アイツが言った「見れるようになった」というのは、菜緒葉ちゃんの顔の話じゃないんです。五条の目には、俺というコズミック寄生虫の形が、以前よりはマシな形に視えているという、ただの呪力的な報告なんです。
「菜緒葉はオマエのせいでしばらくの間『お見合い』という言葉を聞くだけで顔を真っ青にして倒れそうになっていたのだぞ! あの心無い言葉が、どれだけ娘のトラウマになったことか」
「……へえ」
五条はジト目でこちらを見た。
俺は目を逸らした。
お父様、それも違うんです。
菜緒葉ちゃんが将来結婚したくないと言うので、五条の態度の悪さを盾に、お見合い恐怖症を装ってただけなんです……。
「羊羹を切ってきますわ!」
俺は逃げるように席を立った。
◇
そんなこんなで客間での胃が痛むような探り合いとすっとぼけを終え、五条を玄関へと案内する帰り際。五条が背後で言った。
「あのオッサン、本当にオマエの正体に気づいてないの?」
投げかけられたその問いに、俺は振り返って苦笑いを浮かべた。
「頻繁に関わるようになったのは、俺が菜緒葉ちゃんの中に宿ってからだからね。禪院ってのは、良くも悪くもそういう家なんだよ」
「……菜緒葉、寂しくないの?」
この問いには俺ではなく菜緒葉ちゃんが答えた。
「親子といえども独立した他人ですから。それに、最近じゃあなたもいますもの。退屈はしませんわ」
菜緒葉ちゃんが普段より何倍も柔らかく温かい声でそう言うと、五条は考え込むように黙った。その沈黙に漂う微妙な気まずさを払拭したくなり、俺は切り出す。
「……あ、そうだ! 帰りについでに、本物の俺んち見てく? 菜緒葉ちゃんの生得領域に不法侵入して色々盗み見たと思うけど、その実物だよ」
五条は首を傾げた。
「ああ、エロゲのあるオタク部屋?」
「ちげーよ! 乙女(TS)の神聖な聖域にオマエみたいな不敬な男を招待する訳ないだろ! 台所だよ、台所!」
俺は五条を誘い、母屋から少し離れた敷地の奥へと進んだ。そして広大なシステムキッチンの手前で足を止める。かつて署名を集めて決死の思いで改装した本家用の御膳所と賄い場に続く、第三の台所。ただし男児厨房に入らずの決まりは今も据え置きだ。直哉は6歳のときにおばさまから追い出されて以来、台所と名のつく場所の敷居を一度も跨いだことがない。可哀想に、ああ見えてガチの横紙破りはできないタイプなのだ。
「五条、一応言っとくけど、ここ男は——」
俺が言い終わる前に、五条は悠々と暖簾をくぐっていた。ためらいゼロ、所要時間はわずか1秒だった。歴史と伝統は一瞬で破壊された。
「うわ、何ここ、研究所?」
「もうっ、最後まで聞けよ〜」
「何を?」
「……いや、何でもなーい」
五条が期待通りに驚いているので、ルール違反は良しとしておいてやる。
この場は壁から床に至るまで全面にステンレスが張り巡らされ、無機質で清潔な銀色の光を放つ最新鋭の調理設備が整然と並んでいる。換気ダクトがダクト音を低く響かせ、さながら現代の食品加工工場か極秘のバイオラボの様相を呈していた。
今は仕込みの真っ最中だ。
割烹着に衛生マスクと手袋を身につけた女性たちが、静かに、しかし流れるような手つきで作業を進めている。彼女たちの手元にあるのは大根や魚ではなく、等級の低い呪霊の肉片だ。
実のところ、ガッツリ美味しくする以外の工程はなるべく属人化させないように研究している。これはその一環だ。香草やスパイスと共に特殊な袋に入れられた赤黒い呪霊の肉塊が瞬時に真空引きされ、ピッチリと密閉されていく。
作業をしていたうちの1人、遠い親戚のみやこちゃんが見知らぬ男の侵入に気づいて、小走りでこちらに向かって来た。
「あ、あの。ここは、殿方は立ち入り禁止で……」
みやこちゃんがおずおずと五条を見上げて声をかける。五条は心底面倒くさそうに首を傾げた。
「え、なんで?」
「昔からの決まりでして……」
「誰が決めたんだよそれ」
五条は腰を折って、みやこちゃんの目の高さまで顔を近づけた。長い指先で黒いサングラスをすっと下にずらし、宝石のように澄み渡る蒼い瞳で、至近距離からみやこちゃんの顔を覗き込む。
「ダメ?」
「…………」
みやこちゃんは口を開けたまま完全にフリーズした。そして数秒の沈黙の後、彼女は頬を真っ赤に染めて言った。
「……勿論構いません♡」
「おー、サンキュ」
五条がサングラスを戻すと、みやこちゃんはふらふらと夢遊病のような足取りで自分の作業台に戻っていった。すぐ隣の二人組が「ちょっとみやこちゃん!?」「なんて言われたの!?」「顔近すぎでしょ!」と袖を引っ張り合い、小声で黄色い悲鳴を上げている。
「オマエんち、無駄な決まり多いね」
五条が言ってくる。人目もあるのでお嬢様口調に戻り、頷いた。
「現在進行形で潰してる最中ですのよ」
「これはなんで放置してたの」
「順番があるんです。急激な変化は軋轢を生むから」
「ふーん。俺が今、3秒くらいで普通に潰せたけど」
「あなたのは力技で破っただけですわ」
脳内から菜緒葉ちゃんが声をかけてくる。
『……五条ってそんなにカッコイイかしら。みやこちゃん、目がおかしいんじゃありません?』
菜緒葉ちゃんは両者に対してナチュラルに無礼だった。
彼女は直哉から「男の顔は甚爾くんこそが至高」と教え込まれているし、好みのタイプは真希ちゃん(大)なので、系統の全然違う五条の顔面には一切興味がないのだろう。下手に「カッコイイよ」と答えて「マコくんも五条みたいなのがタイプなんだぁ」と揶揄われては堪らないので返事に迷っていると、五条が訊いてきた。
「で、真空パックにした肉はどうすんの?」
その問いは渡りに船だった。
「あっちの低温調理器で65度を保ったまま12時間加熱するとね、呪力を損なわずに肉質だけがトロトロになるんです! 美味しくするには私の術式によるもう一手間が必要なんですけれど……うちには呪力や術式があるけど呪術師を目指さなかったり目指せなかったりした人が多いので、ここで才能を発揮してもらってるんですのよ。ここの男子禁制は、忌庫の女子禁制とのトレードでの廃止を目標にしています。そうすればきっと、女の人が前線に出るのも、戦いが嫌いな男の人が別の仕事をするのも、いずれは他の家みたいに簡単になります! あと、女性部隊の新設や給与テーブルの抜本的改革にも手をつけやすくなりますわね!」
自慢する気で喋ったが、五条に通じているのかどうかは判然としなかった。五条は流しの前で足を止め、センサー式水栓から温水が出るのを確認すると、嬉しそうにした。そして傍らに鎮座する巨大な業務用冷蔵庫に目を向けた。
「開けていい?」
「ちょっとだけね。冷凍庫の方は呪霊の核を保管してるからダメです」
五条が重い扉を開けると、そこには管理用のバーコードシールが貼られた真空パックが整然とナンバリングされて並んでいる。
五条はそれを見つめたまま、いまいち解釈しかねる声で俺たちを呼んだ。
「……マコ、菜緒葉」
「ん、何ですの?」
「オマエら滅茶苦茶頑張ってるね」
ついこの間演習林の真ん中で「この家を潰してやろうか」と言い放ったのと同じ口で、五条は言った。俺はコイツへの恨みの数々をまるきり捨て去った訳じゃないけれど、やっぱり感謝の気持ちも抱いていた。だからほんの少しだけ誇らしく笑った。
「でしょう?」
◇
嵐のような男を玄関で見送り、ようやく平穏を取り戻した廊下を歩いていると、中庭に面した縁側に小さな影を見つけた。
真希ちゃんだ。
5歳になったばかりの彼女はちょこんと縁側に腰掛け、自分の小さな手首をじっと見つめていた。その手首には、真依ちゃんが構築したブレスレットがキラキラと秋の陽光を反射している。
だが、その表情はどこか陰り、小さな眉が八の字に下がっていた。
「真希ちゃん」
声をかけて近づくと、彼女は跳ね上がるように顔を上げた。
「ナオハ!」
ぱっと顔を輝かせたものの、すぐに思い出したようにハッとして、周りをチラチラと見回す。そしてトコトコと駆け寄ってくると、俺の着物の裾をきゅっと掴んだ。
「ゴジョーサトルに勝ったの、おめでとう! 具合はもう大丈夫……?」
上目遣いに俺の顔を覗き込んでくる。俺と五条の戦いについての噂は、どうやら幼い彼女の耳にも入っていたらしい。
「平気ですわ。この通り、怪我なんてどこにもありませんでしょう?」
クルリと一回転してみせると、真希ちゃんはほっと胸を撫で下ろした。だが、依然としてその瞳には暗い影が落ちている。
「真希ちゃんこそどうしたの? 浮かない顔ですけど」
「あのね……母さんにはナオハ具合悪いから内緒ねって言われたんだけどね……」
そう言って真希ちゃんが切り出した言葉に、俺は激怒した。