音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
A.原作では伏黒の口に無理やり指を押し込んで受肉させる行動さえ「傷つける」にカウントされませんでした。扇が娘の将来のために行っているつもりの教育中に術式の副作用で出た鼻血は、「殴る・蹴る・剣を向ける・殺害する」を例示しての縛りにおいては、扇自身の暴力に該当しないと見るのが筋が通ります。
さらに前々回の口答えについては扇は主人公を困らせたいのでなく、従うべき方針がまだ一つの形として示されていない段階において、真依を想って方針の細分化を要求しているつもりでいます。主人公も自分に絶対服従の物言わぬ奴隷を作りたい訳ではないので、それに納得してます。
今回出てくる責任転嫁? 扇の側の自覚がゼロだし、扇に責任転嫁をやめろというのは呼吸を禁止するのに等しいので…
廊下の角で真依ちゃんが箱に負けかけていた。3段重ねの木箱。箱の高さのせいで、前がよく見えていない。ずり落ちてくる底を膝で押し上げては2歩進み、また膝を出す。おそらくは、貸し出していた呪具を磨いて呪具を忌庫へ戻す仕事だ。
まず「誰かに手伝いを頼めばいいのに」と思った。私なら仲良しの娘に頭を下げるけど、彼女の部隊に同性はいないので、同じ下っ端の、善良そうな男の人にでも言えばいい。助けを求めて半分こして、愚痴でも言い合えば廊下は半分の長さになる。あるいは専用の台車を貸してもらえるかもしれない。それが無理なら、多少面倒でも、運べる量に分けて複数回の往復をすればいい。効率的だ。私はそうやってやってきた。
それをしないのはできないということで、つまり、頼れる人がいないか、いじめられて無謀な量の仕事を押し付けられているのかしら?
もしそうなら、可哀想に。
15かそこらの女の子が、この家でたったひとり。それがどういうことなのか、私にも少しはわかるつもりだった。
「重そうね、忌庫の前まで一緒に持ちますわ」
返事は待たない。どうせ断ってくるだろうが、この調子で廊下の真ん中でずっとぐだぐださせておくのは気の毒だ。通行の邪魔だとか言われて、悪い人に絡まれる可能性もゼロじゃない。なら、大人の私が悪役を演じ、真依ちゃんのメンツを守る。それこそ完璧なソリューションである気がする。というのはジョークとしても、放置よりはまあマシだろう。
上の段をひょいと抜いて、隣に並んだ。
「ちょっと。勝手に触らないでくれる」
「あら、ごめんなさい。前が見えていないようでしたから」
「見えてるわよ。あんたの目が節穴なんでしょ」
真依ちゃんは箱の陰から、私を頭のてっぺんから足の先まで眺めた。値踏みというより検品だった。棚の奥から傷んだ果物を見つけたときの目。
「落とさないでね。中身、あんた如きの安い給料じゃ絶対弁償できないから」
落としそうなのはそっちでしょう、とは言わないでおこう。
同じ本家の娘だが、存在を消された忌み子の私の方が身分は圧倒的に下なのだから。
「気をつけますわ」
「気をつけるのは当然なの。それから、あとで誰かに訊かれたら、あんたが勝手にやったって言って。私が女中に手伝わせたなんて思われたら、たまったもんじゃない」
「ええ。実際、勝手にやりましたもの」
そう答えると真依ちゃんは小さく舌打ちした。思ったとおりの返事が来たのが却って気に入らないという顔だった。
とはいえ……思ったより軽いですわね、これ。
大体30キログラムくらいだろうか。サイズの割には重いが単に嵩張るだけで、ほんの少し呪力を回せば片手で行ける。もしかしたらこの子は、重さではなく、前が見えないことに負けていたのかもしれない。
「もうひとつ持ちましょうか?」
「結構よ。あんたに2つも持たせたら、私が楽してるみたいじゃない」
「楽をしたっていいと思いますけれど」
「女中はいいわよね。楽してても、誰も何も言わないもの」
言い返す言葉はいくつも浮かんだけれど、全部飲み込んだ。
この子はきっと誰かに当たらずにはいられないのだ。毎日、もっと上の誰かに更に酷いことを言われているのかもしれない。直哉なんかはちょっと言いそうだ。当たる先が私で済むならそれでいい。これまでこの子を避けてきた罰だ。真希ちゃんに何もしなかった罰だ。さいわい私は丈夫にできている。
並ぶと目線が上がる。10cmくらい。10cmあれば棚の上の段に手が届いて、男の人に頭を撫でられる回数が半分になる。たぶん。
真依ちゃんは綺麗だった。肌が瑞々しく、ノーメイクでも頬が内側から明るい。そしてなんだか色っぽい。
ついでに、同じ歳の頃の私がどうだったかを思い出そうとした。たしか、最も身近な男である弟から事あるごとに変な女だと呼ばれていた。その時点で推して知るべしか。
「……何ニヤニヤしながら見てんのよ」
ニヤニヤはしていないと思うが、していたのだろうか。
どうだっていい。この子はいつもこういう物言いをする。弟の毒舌のおかげで、私は大抵のことでは傷つかない体になった。
だから、そのままの笑みを保つ。
「若いって羨ましいなぁと思いまして♡」
「は? あんたも別に歳じゃないでしょ」
「いやいや。化粧ノリとかがあなた方とは全然違うんですのよ! 朝の5分が10分になり、10分が15分になり……いいですわねー、若さ! 青春! おまけに春から女子高生!」
熱弁していると、呆れられた。
侮蔑に満ちた声が言う。
「大して化粧してないじゃないの。そういうのに興味あったのね」
「パウダーはコスメデコルテのを使ってますわ」
お金があまりないので、普通に貰い物だが。
「へえ。似合わない」
「……」
「デパコス使っててその程度なら、使わない方がマシなんじゃない? もったいないわよ、パウダーが」
これは傷ついた。もう傷つかないと言ったが、前言撤回だ。いくらなんでもこれは酷すぎる。この年頃の子が興味を持ちがちなポイントメイクはともかく、スキンケアには結構こだわっている。
同期や後輩の女子には割とよく褒めてもらえるのだけれども──待って。あれが全部お世辞だったらどうしよう。
「……呪術高専だって、こっちは雑魚な真希のオマケなのよ。そんなに羨ましければあんたが行けばいいじゃない。制服着る? コスプレみたいでみっともないでしょうけどね」
「いい歳した大人に無茶言わないの。そもそも、そうなったら直哉の朝ごはんは誰が作りますの?」
我ながら気の利いた返しだった。
行きたかったに決まっている。制服。教室。放課後。もう持てる可能性がないモノを、この子は「行けば」の3文字で投げてよこす。20代半ばの女が高校なんてもう行けないことくらい、当たり前に理解している癖に。持っている側はいつもこうだ。なんて甘ったれた子なんだろう。
私に限らず、本当は呪術師という進路に憧れている女など山ほどいる。相伝として認定される術式を持っていなければ男でも苦労するのだから大抵の女は勇気を出せず、相伝を持っていたとしても親に反対されることが多いから、結局みんな諦めるだけ。男尊女卑の禪院家とは違って、呪術高専なら女の術師でも育ててくれるだろう。
そして、男だって普通は呪術高専には行かない。術式がない若い子は、本当は家を出てそっちに通った方が幸せになれるだろうに。
真依ちゃんはお父様に感謝すべきだと思う。
私の考えでは、お父様は真希ちゃんを中心にこの家に新しい風が吹くことを期待している。真希ちゃんが大成すれば直哉も反省して、我が家はマシになるはずなのだ。
仮にこの家で古くから言われていた言葉に従うなら、呪術師じゃなければ人間じゃない。そして、学校へ行ける真依ちゃんは人間扱いしてもらえている。私どころか、下手な男よりも。
お父様は、彼女をれっきとした本家の娘として扱っている。
それがどれだけ得がたいことか、この子にわかってほしかった。
わかって、少しでも楽になってほしかった。
でも、真依ちゃんは返事をしなかった。膝でまた箱を押し上げた。2段になって視界が開けたはずなのに、押し上げる回数は少ししか減っていなかった。
仮にも術師で、あんなにタフな真希ちゃんを雑魚呼ばわりできる真依ちゃんが女中の私より非力とは考えづらいので、もしかして下の段がものすごく重くて、200キロくらいあるとかだろうか。そんな重い呪具があるのかは知らないが、他に仮説は思いつかない。やっぱりもう一つ持つことを申し出るべきか悩んだ瞬間、角の向こうで足音がした。
考えるより先に箱は両手の中にあった。腰を落として肘を締めて、重そうに。誰に教わったのでもない。気がついたらこう持つ体になっていた。私に限らず女中というのはみんなそうだ。 男の面子を潰した仲間がどうなったかを経験から学んでいる。よくて折檻、最悪の場合は殺されるのだ。私は真希ちゃんみたいにはなれない。直哉から嫌われるのも、積み上げてきた地位を崩すのも嫌だ。
真依ちゃんは私の手元を見ていた。ような気がする。きちんと確かめなかった。自己嫌悪にはもう慣れた。慣れたものは、だんだん味がしなくなる。
「菜緒葉。それ呪具だろ、貸しな」
角の向こうから現れたのは『灯』の人だ。私の同期と結婚していて、その同期は妊娠して実家に帰っている。
「まあ。でも、お手を煩わせる訳には」
「いいから。女に持たせるもんじゃねえよ、危ねえし」
いったん遠慮して、もう一度言われてから渡す。箱が離れる瞬間に小さく息をついてみせるのも忘れない。
「助かりましたわ。指がもう、痺れてしまって」
「だろ。普通の女にこれはしんどいよ」
機嫌が良くなった。簡単でいい。
箱を持つ方が更に簡単だったことは、内緒にしておこう。友達の愛しい旦那さんなんだし、彼の気分を良くすることは、別にそこまで嫌じゃない。ただ、隣で2段の箱を抱えたまま立っている真依ちゃんの方を、彼が一切見ないことは気になった。
「あの、重そうにしてますし、ついでですから真依ちゃんの分もひとつ──」
「ああ、そっちは当番だから」
なるほどと納得した。
真依ちゃんはこの人のいる部隊の下っ端で、これは隊の仕事で、だから彼女が持っているのは当たり前。
そして私はこの人の奥さんの友達で、女中。呪具は女中の持つものではない。どうせ忌庫にも入れないのに、職掌外の配慮を示している。だから助ける。
この人の中では筋が通っているのだろう。
私なら、自分の当番じゃなくても仲間が困ってたら手くらい貸すし……そもそもマトモな目がついている人間なら、この子が箱3つを1人で運べる状態だったとは全く思わないだろう。当番の人数を増やすか、あるいは適切な作業方法を指示する必要がある。つまりは、当番のルールか職場環境か、あるいは新人が手際よく仕事をこなせるようにするための教育のいずれかに甚だしい問題があるのだ。
でもまあ、こういう結果になるだろうというのはなんとなくわかっていたし、ただ言ってみただけだ。言ってみたという実績が欲しかっただけだとも言える。それでも「ほら、私は言いましたわよ」という顔で真依ちゃんを見た。
真依ちゃんは私を見ていなかった。まあ、順当か。
「忌庫だろ。行くぞ」
男の人が先に歩き出す。片腕に1箱、空いた手は懐。真依ちゃんはその後ろを2箱抱えてついていく。 最初より箱がひとつ減り、少しだけ楽にはなっただろう。それでもやっぱり、3歩うしろ。
「では、私は御膳所に戻りますわね。お二人とも、お気をつけて」
完璧な角度で頭を下げた。相手は振り向かずに片手だけ上げた。
真依ちゃんは何も言わず、私に対するよりも何倍も高い声で自分の先輩に話しかけ始めたが、少し不快そうにされているだけだった。女中と同じ立ち居振る舞いを、下っ端とはいえ術師の端くれである彼女には求められずに済むということか。めでたい話だ。
真希ちゃんなら最初からこんな情けない真似はしないだろうが、真依ちゃんは私の同類なのだ。あるいは上位互換か。将来きちんとした呪術師になれば、彼女も上の機嫌を取る必要はなくなったと気づき、こんな声は出さなくなるだろう。それに、夕餉の鰆を、そろそろ味噌から上げなくてはいけない。
──。
冷たい床に頬がついていた。 目を開けると、同じ顔がこっちを向いて寝ていた。
「…………近いですわ」
生得領域だ。きららアニメのポスターが相変わらず頭の上をふよふよ漂っていて、背中の側には例の棚がある。真っ白なディスクが何百枚。そのうちの1枚だけがマコくんの指のそばに転がっていた。
無意識に『予測』のメモリを再生して、慣れない負荷のせいで疲れ果ててしまったのかもしれない。逆に私は、以前のメモリ再生の時のような心身の痛みを切実に感じることはなくなっている。
マコくんは、頬をツンツンしても全然起きてくれなかった。ただし寝顔は安らかだった。真男佳も少し大きくなってケージにガシガシ体当たりなどしているので、問題はなさそうだ。なんて無為な抵抗。これくらいの回復ならばむしろ歓迎できる範囲。良かった良かった。
さて、夢の内容を振り返ると大人の私は中々に酷かった。男の人の前で弱いフリをするのは自分をラクにする代わりに真希ちゃんみたいな人にもっと苦労させるので、気持ち悪い。私も命と職と住居がかかっていたので必死だったが、可哀想な真希ちゃんは私みたいなののせいで嫌われに嫌われて、あの後殺されかけたりするのだ。いい歳して年下と仲良くしようとして空回っているのもなんだかダサかった。本気で真依ちゃんを可哀想だと思って手を伸ばして、何を言われてもそれを全部環境のせいということにして、なんてダサい女なんだろう。
そして「可哀想な子」というフィルターを外して見ると、真依ちゃんは割と酷い。彼女は大人の私と同じように男に阿っておきながら、一応は親切にしようとした私に、お礼のひとつも言わなかった。これは大人の私より酷いんじゃないか。
直哉の件を抜きにしても、もともと素で嫌われていたのだと仮定して見直すなら、女中ごときがべらべらと生意気だ、とでも蔑まれていたのかもしれない。今の私から見ると術師としての真依ちゃんは真男佳を食べた任務の前の直蔵お兄様並みに弱そうなので、大人の私が無意識マウントを取っていたと思われてしまった可能性もある。あるいは単に、空回っている年上が心底ウザかっただけか。いずれにせよ、手伝ってくれと言われた訳でもないのに手を出したのは、大人の私のエゴだ。そこは仕方ないか。
最大の問題は、マコくんがそういえばチラッと言っていた気がするが、真依ちゃんは呪術高専へ行くことにあまり乗り気じゃなかったっぽいということだ。そう言われて見てみれば、明らかにそういう態度だったかもしれない。真依ちゃんが信じられないほどにつっけんどんだった理由の一部も、ここにあるように思う。
大人の私が、喉から手が出るほど欲しかったモノ。
それをあの子は心底嫌がっていた。
嫌がっていたから態度が冷たくなった。
……どうして?
それを考えながら、布団の中で本当に目を覚ますと、時計は3時55分を指していた。
早起きは嫌いだったはずなのに、体内時計がそういう形に固まってしまっているのか、いつもだいたいこれくらいの時間に目が覚める。障子の外はまだ青黒くて、夜の底がほんの少しだけ薄くなりかけていた。
そして朝のストレッチをしながら気がついたのだが、マコくんが起きないなら、今日の料理は私が作らなくてはいけない。いや、作りたいのかも。私は料理が好きだ。自分で食べるのが好きだし、好きな人に食べてもらうのはもっと好きだ。だから折角だし、朝食作りの仲間に入れてもらおう。動きやすい着物を選び、身だしなみを整えた後、割烹着を箪笥から取り出す。姿見の中の女は顔色が悪いものの、少しだけ楽しそうだった。
朝が早くて人がいないのをいいことに、鼻歌を歌いながらお庭を一周した。夜露で草履の先が濡れて、空の端が少しずつ杏色にほどけていく。それから台所に着いた。すると引き戸の向こうから、声が聞こえた。
「──非術師に何がわかる、ですって」
おばさまの声だった。
引き戸に掛けかけた手を、私はそっと下ろした。
「わからないわよ。わからないから訊いているの。5つの子が毎晩鼻血を出すのは、呪術師のおうちでは普通なんですかって」
「よくぞ言いました奥様! ……で、扇様は?」
「それでね。菜緒葉に責任転嫁するし、いい加減にそういうのをやめて欲しいと言ったら、気に入らんのなら出ていけ、って」
「まあ……」
「出ていけないのを知っていて言うの。最低」
「扇様のお茶の上で雑巾でも絞っておきましょうか」
「やめて。気づかれたら私が叱られるわ」
「気づきゃしませんよ、あの方は」
話の相手は古株のゆかりさんだ。
私は思わず息を潜めた。
「菜緒葉のおかげで手を上げなくなっただけ、前よりはいいのよ。それは本当。でも、手を上げない人が相手だと、こっちも言い返せるぶん長引くのね。昨夜は、真依が襖の向こうで起きていたと思う」
「あらあら」
「朝になって、何も聞いてないって顔をするの。5つの子が。……誰に似たのかしら」
今すぐ回れ右をして布団に戻り、マコくんが起きるまで二度寝を決め込みたくなってきた。実際何年もそうしてきた。でも、そういうのはやめようと思い直したばかりだ。
私は割烹着をその場で着た。
3回深呼吸をしてから第一声の台本を脳内で作り、引き戸をガラガラと開ける。
「……あの、おはようございます。目が覚めちゃったのでお手伝いしたくて。その、私の不行き届きのせいで家庭に波風を立ててしまって、ごめんなさい」
よし、言えた。
そう思っていると、おばさまは眉を下げて微笑んだ。
「安静にしていなさいと当主様の仰せなのに、あなたという子は……。あと、扇のせいなのは私も真希もわかってるから」
残念ながら、真依ちゃんの誤解は依然解けていないらしい。いや、真珠の件は元はと言えば私の提案だし、真依ちゃんの立場からするとやっぱり私にも責任はあるのか。
「今日は真依を連れて謝りに行こうと思っていたのよ。あなたに失礼なことを言ったそうじゃない。昨晩真希から聞きました」
おばさまがそう続けたので、私はどう答えるか悩んだ。子供を守ることと、子供に礼儀を教えることは、別の問題だ。昔はともかく今の私も、仮に直哉が目上の人を罵っていたら、絶対に謝らせる。
けれども母親も姉も私の味方をしているということは、傷ついたままの真依ちゃんの心にはどのように響いているのだろう?
マコくんに相談したいが、熟睡中だ。
少し悩んでから、ようやく答えた。
「……ヒマしているのでいつでも構いませんわ。真依ちゃんの気持ちが落ち着いた後でも……」
おばさまは菜箸を置いて、しばらく私の顔を見た。ゆかりさんが鍋の蓋を、必要以上に丁寧に閉めた。聞いていませんよ、という音だ。つまり聞いている。
「甘やかす訳にはいかないもの。朝餉が済んで片付けが一段落したら伺います。お部屋にいてくれる?」
「……はい」
これ以上断るのもどうかと思い、つい了承してしまった。
「それで、手伝いたいのよね」
「はい!」
こっちの「はい」は元気よく言えた。
「座ってできることだけよ。ゆかりさん、椅子を」
「はいはい。菜緒葉ちゃん、こっち。茄子切ってね」
調理台の端に丸椅子が置かれ、目の前に笊いっぱいの茄子が来た。
◇
朝食を終えても、マコくんの意識はすやすやと寝入っていた。
心の中でいくらSOSのサインを送っても、起きる気配は微塵もない。モールス信号まで試したのに。
オタク丸出しの部屋を可能な範囲で片付けて、一般の方にお見せしづらいフィギュアとポスターを押し入れにしまう。しまいながら「ごめんなさい」とフィギュアに謝った。あなたたちが悪いのではないのです。
やがて廊下からパタパタという子供の足音と、それを制するような大人の落ち着いた足音が近づいてきた。
トントン、と遠慮がちな、しかしどこか緊張感を含んだノックの音が鳴る。
「菜緒葉、真依を連れてきたわよ」
「はい、どうぞ。お入りになってくださいな」
前世でアラサー社会人だったマコくんの方がこの手の応対は得手だろうが、ここは私一人で対応するしかない。すっと息を吸い込み、マコくんお得意のスマイルを模倣する。
静かに障子が開く。おばさまと真希ちゃん、そしてその二人に両脇を固められるようにして、真依ちゃんが部屋に入ってきた。
しかし、その姿を見て、私の顔に張り付いた笑みが僅かに引きつった。
おばさまに背中を押されて進み出た真依ちゃんは、反省して萎縮している可哀想な幼子などでは断じてなかった。あからさまに不機嫌そうな顔でプイッと横を向いている。小さな両手で着物の袖を親の仇のようにギュッと握りしめ、ツンと顎を突き出すような、完全なる臨戦態勢。その小さな姿からは「私は絶対に悪くない」という強烈なオーラが立ち上っていた。
こんな強気な真依ちゃんをリアルで見るのは初めてだ。
「真依。ほら、昨日菜緒葉に酷いことを言ったでしょう。ちゃんと謝りなさい」
おばさまが静かに、だが圧を込めて促す。しかし真依ちゃんは口を真一文字に固く結んだまま、頑として顔を向けようとしない。
見かねた真希ちゃんが、ツンツンと妹の脇腹を小突いた。
「真依、謝れって。ナオハ悪くないって、母さんも言ってたじゃん」
「真希は黙ってて! いっつもナオハの味方ばっかり!」
「味方とかじゃねーし。ほんとのこと言ってるだけだし」
「うるさい!」
真依ちゃんは、姉の手をバシッと容赦なく払いのけた。
「真依」
「……やだ」
「真依!」
「だって私、まちがってないもん!」
バンッ、と小さな足が畳を踏み鳴らした。真依ちゃんはバッと顔を上げ、おばさまを、それから私を睨みつけた。
「なんで私があやまらなきゃいけないのよ! 泣かされたのは私なのに! お父さんもこの人のせいって言ってた!」
一切の妥協を許さない、5歳児のリアルな意地。おばさまが顔を覆い、真希ちゃんも気まずそうに目を逸らす。
真依ちゃんの視点からすれば、私の提案という余計なお世話が、ここ最近の災厄の引き金だったのだ。あの涙は被害者の正当な抗議であり、加害者側である私が謝罪を要求するなど言語道断。完璧なロジックである。
修行量が私の想定の2倍になっているのに、おじさま自身は私の提案を受け入れただけだと思ってこちらに責任転嫁してきているという前提を除けばだが。
ただ、それを証明する方法はなかった。当時の会話を録音していた訳ではないし、もしかしたら私が誤解を招く言い方をしていた可能性もある。最近は色々なことがあって忙しかったから、記憶は曖昧だった。それは真依ちゃんの教育に関する私の中での優先度が甚爾くんの死や五条との戦いと比べれば低かったということで、そこに責任を感じないほど厚かましくはなりづらかった。
そもそも、いくらおじさまがカスといえども、幼い真希ちゃんと真依ちゃんの前で露骨な悪口を言うのは常識的に考えてどうなのか。
「……あ、あのね真依ちゃん。辛い思いをさせてしまってごめんなさいね。修行内容については、あなたのお父様とのあいだに、少し行き違いがありまして……」
「いきちがいって、なに」
「ええと、その……思っていたのと、違うふうに伝わってしまった、ということですわ」
「じゃあ、やっぱりあんたのせいじゃない」
私は申し訳なさげに微笑めばこの場を穏便に納められると思っていたのだが、こんなおためごかしは、今の真依ちゃんにとっては火に油を注ぐだけの愚行だったらしい。絶対零度の鋭い視線が私を射抜いた。
これ、私へのヘイトがカンストしてませんこと……!?
窒息しそうな気まずい重圧と、明確な嫌われっぷりに耐えかねた私は、藁にもすがる思いで棚の中に置いたおやつ箱へと手を差し入れた。
「そ、そうだわ。真依ちゃん、これどうぞ」
取り出したのは、8月後半に大量に買い溜めしたドライマンゴーだ。
「これね、とっても甘くて美味しいの。真依ちゃんに差し上げますわ」
相手は5歳児だ。どれだけ意地を張っていても、甘い物を出せば、少しは毒気が抜けて興味を示すはず。完璧な懐柔策。己の機転を自賛しつつ、私は慈悲深いお嬢様オーラを全開にして包みを差し出した。
しかし。
真依ちゃんは、差し出された包みを一瞥するなり、鼻で「フンッ」と短く笑ったのだ。
「……いらない。私、マンゴーきらい」
「えっ」
予想外の冷酷な拒絶に、私の差し出した手が空中でピキッと石化した。
「マ、マンゴーが、嫌い……?」
「きらい。なんかあまったるいし、においも変だもん。……そんなのもらっても、ちっともうれしくない」
謝罪拒否からの、情け容赦のない二連撃。
おばさまが「真依! 菜緒葉がせっかくあなたの機嫌を取ろうと用意してくれたのに、なんて言い草ですか!」と声を荒らげる。
だが、真依ちゃんは全く怯まなかった。むしろ逆ギレの勢いそのままに、小さな指で私をビシッと指さしたのだ。
「この人っていつもそう! 自分が良いと思ったもの、勝手に『これがいいでしょ』って押し付けてくるじゃない!」
「え……」
「私のことなんてなんにも知らないくせに!」
——「自分の好きなものを押し付けてくる」「私のことなんて何にも知らないくせに」。
たしかにそうだ。呪術高専へ行きたかったのも、マンゴーが好きなのも私。「最初から素で嫌われていたのでは」という仮説はこの上ない爆発力で完全に立証されてしまった。
「真依、いい加減になさい!!」
本当にお怒りになったおばさまが、パシッと真依ちゃんの腕を掴もうとした。
だが、真依ちゃんは言い返した。
「お母さんもお母さんだよ! 私は私! ナオハみたいになんてなりたくない!」
そして、さらに加えて「ナオハなんてキライ! ついでに部屋もダサすぎ!」と涙目で叫ぶと、真依ちゃんはおばさまの手を力一杯振り払い、脱兎の如く廊下へ走り去ってしまった。
部屋までdisられてしまった。
フィギュアは押し入れにしまったのに……。
「あ、真依! まったくあの子は……! 菜緒葉、本当にごめんなさいね。私、絶対に連れ戻して、しっかり頭を下げさせるから!」
「あ、いいえ、おばさま、私は……本当に、お気になさらず……」
「ごめんナオハ。あいつ後でボコボコにしとくから」
「ボコボコには、しないであげて……」
顔を真っ赤にして深々と頭を下げるおばさまと、物騒なフォローを残して追いかけていく真希ちゃん。
パタパタという足音が遠ざかって、部屋の中が静かになった。
静かすぎて、障子の紙が光を吸う音まで聞こえそうだった。
私はぽつんとひとり、取り残された。
「…………マコくん」
孤独に呟く。
「マコくん。こういう時は、どう言えばいいんでしょう……」
マコくんは私の失敗した、あるいはする予定だった人間関係を全部繕ってくれていた。直哉、お父様、私が『予測』のトラウマで喋るのが嫌になっていた年上の男の人たち、それから蘭太くん。真希ちゃん。おばさま。
でも、聞いてみても返事はなかった。
ドライマンゴーを自分で4切れ食べる。これ以上はやけ食いになると思ってやめた。しばらくすると、パタパタと廊下を引き返してくる足音が聞こえた。顔を出したのは真希ちゃんだった。
「真依、おしいれ入っちゃった」
「……そうですの」
「母さんが、真希はあっち行っててって」
真希ちゃんが私の隣にちょこんと座った。
「真依はボコボコにしなかったよ。もう泣いてたから」
「それでいいんですのよ……」
そして真希ちゃんは、手元に残されたドライマンゴーの包みをじっと見て、ぽつりと言った。
「私、それ好きだよ。……だから、元気出しなよ」
子供に慰められてしまっている。
「私も双子なせいで、小さい頃はそれなりに嫌な目に遭ったつもりです。だから自分はいいお姉さんになろうとして……大成功している気でいましたの」
「……」
真希ちゃんは、静かに聞いていてくれた。
「ずっと、同じお土産をひとつずつ買っていたでしょう。同じ店で同じものを、同じ数だけ。喧嘩にならないように。それがいちばん公平だと思っていました。でも、今思うと真依ちゃんの好きなものを、ちゃんと考えてなかったんですの」
それは公平で、正しくて、だから楽だった。
楽なだけだったかもしれない。
「……真依はナオハの前ではあんまり言わないからわかりづらくてもしょうがないよ」
「でも、真依ちゃんはお喋りが……。じゃなかった、私とのお喋りが苦手なのに、ちゃんと確認しなかったのは大人の問題です」
「ナオハもそういうネガティブなこと言うんだね」
真希ちゃんの声には、責める響きも慰める響きもなかった。捕まえた虫をひっくり返して、初めてお腹の側を見た時みたいな発見の声だった。たしかにマコくんならこういうことは子供相手には言わないかもしれない。マコくんは子供の前では、困っていても困った顔をしない。大人の問題を子供に背負わせないというのは、たぶんそういうことだ。
「ガッカリしました? 普段の完璧マドンナな私とは、全然違って頼りなくて」
まあ、完璧マドンナ作戦とやらをやっているのも、マコくんの方なのだが。私はマコくんの作った看板を、今日は一人で掲げているだけだ。
「完璧マドンナ? いや、ナオハがそう思ってんならそれでいいけど……」
「……ん? 高嶺の花としての自己演出をしてたはずなんですけれども、違うの?」
「父さんは『反転術式習得の最短ルートとか抜かして若者を半殺しにしてるから顔の割には男が寄りつかない』って前に言ってたよ」
「えっ」
私はさっきおじさまの悪口を言うのを自重した。なのにおじさまはなんて最悪なんだ。私も真依ちゃんの前で色々ぶちまけてやればよかったかもしれない。
反転講座のルナティックコースは希望者のみだし、何人かはこれでセルフ反転術式の初歩をマスターしているというのに……。
「あと、時々急にボーッとして虚空を見つめたり、何もないところで百面相したり、ナオヤ相手には滅茶苦茶怖いじゃん」
これ、マコくんと私の脳内会議のことだ。
直哉相手に怖い、というのはよくわからないが。
でもそうか。マコくんの「禪院菜緒葉」の完璧っぷりは、私がマコくんに救われまくってTS美少女に脳を焼かれているがゆえの過大評価もあるのかもしれない。イメージの完全なコントロールは無理なのだ。
真希ちゃんが立ち上がった。
座っている私と、ちょうど目の高さが同じになった。
「普段のナオハはお日様みたいにキラキラしてるけど、今日はなんだか月みたいだ。でも、どっちも好きだよ」
5歳児の語彙で、5歳児の声で、まっすぐに。
真希ちゃんの存在は、私にとってはいつからかもうひとつの太陽だった。その眩しさを見て、私はちょっと泣きそうになりながら、自分なりにどうにか頑張ろうと思い直すことができた。
月なら月でいい。借りてきた光でも、夜道を少しくらいは照らせる。
マコくんみたいに、真希ちゃんみたいに、強くなりたい。
そしてありのままの私で、真依ちゃんに向き合おう。
「……教えてくれてありがとう、真希ちゃん。真依ちゃんのもとに案内して」
部屋の前まで来ると、中からおばさまの厳しい声が聞こえてきた。私はそれに構わず障子を開け放ち、部屋に踏み込んだ。
開いた押し入れの中で、涙目で膝を抱えていた真依ちゃんがビクッと肩を揺らす。おばさまも驚いて目を丸くしていた。
「菜緒葉……」
「おばさま、先程は私が悪かったのです。どうか真依ちゃんを叱らないであげてください」
そう言ってから私は真依ちゃんの正面に歩み寄り、彼女と同じ目線になるようにした。
「真依ちゃん。……ごめんなさいね。私、あなたが本当に欲しいものも、嫌いなものも聞かずに、勝手に『これがいいはず』って押し付けてばかりいましたわ」
「…………」
「私、ちっともあなたのことを見れていませんでした」
真依ちゃんは、大きな瞳を少しだけ瞬かせた。
「だから、今度はちゃんと聞かせて。……おじさまの命令とか、禪院家の決まりとか、私の勝手な提案とか、そういうのは全部抜きにして。真依ちゃんは今、本当は何がしたい?」
私の問いかけに、真依ちゃんはぎゅっと唇を噛み締めた。
言っても無駄だ。どうせ大人は聞いてくれない。そんな諦めの色が、5歳の小さな顔に浮かんでいる。
「……なんでもいいんですのよ。あなたの、本当のワガママを聞かせて?」
私がじっと目を見つめて促すと、真依ちゃんはやがて、ぽつり、ぽつりと心のダムを決壊させるように本音をこぼし始めた。
「……いやだ」
「ええ」
「修行なんか、いやだ。鼻血が出るのも、お父さんが怖い顔するのも、痛いのも……全部いやだ。私、呪術師になんかなりたくない」
「……」
「……お外に行きたい。真希と、お母さんと……前に絵本で見た、どうぶつえんに行きたい。キリンさんとか、ゾウさんとか、見たい。普通の子みたいに、遊びたい……っ」
ポロポロと、真依ちゃんの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「でも、ムリでしょ。お父さんが許してくれるわけないもん。修行しなさいって、また怒られる……。だから、どうせ言ったって……っ。
——その言葉を聞いた瞬間、私の中の意地と、マコくんから受け継いだ反骨精神が燃え上がった。
無理? できない?
そんな言葉、この私が許すもんですか。
私はバッと顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった真依ちゃんの両肩をガシッと掴んだ。
「できらぁ!!!!」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
私以外の全員が、唖然とした。