音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
唖然とした沈黙は3秒くらい続いた。
3秒というのは思っていたより長い。
押し入れの暗がりで、真依ちゃんの涙だけがまだ律儀に頬を下りていた。顎の先でまるくなって、迷うみたいに一瞬ふるえてひと粒、着物の膝に落ちる。藍の地に、もっと濃い藍の点がひとつ増えた。
おばさまは口を半分開けたまま私を見ている。真希ちゃんは私と妹の顔を2回ずつ見比べて、最後に私のところで目を止めた。期待している目だった。蓋を開ける前の、お菓子の缶を見る目。
言ってしまった。言ってしまったものはもう引っ込められない。言葉というのは、口から出た瞬間に私のものではなくなるから。
でも考えてみれば、引っ込める必要なんて微塵もないのだった。
一度家を出て、真依ちゃんに普通の女の子の休日をプレゼントする。私も外の空気を浴びて、その間に真依ちゃんへのスパルタ教育をストップする方法を考える。縛りの詳細を詰めてもいいし、おじさまの側だって、妻子が出て行ったとなれば危機感でいっぱいになり、少しは反省するだろう。完璧な作戦だ!
「今から東京に行きましょう。新幹線なら2時間ちょっと。上野の動物園には、キリンもゾウもいます。パンダもいますわ。泊まりがけで、3日ほど」
「……菜緒葉。あなた、本気で言ってるの」
「本気ですわ」
「だって、東京って」
「日本の首都ですわね!」
「そういうことじゃなくて……」
おばさまは額に指を当てた。それから、私ではない何か──たぶん、この家の柱や梁や、何十年ぶんの台所の湯気のようなものに向かって、ひとつずつ数え始めた。
「でも、台所の仕事が……。それに来週の頭には衣替えでしょう。蔵の虫干しもまだで……」
おばさまの言葉の中に、旦那さんの名前は中々出てこなかった。要するに、この人の頭の中の優先順位は、台所>衣替え>蔵>>>(越えられない壁)>>>夫、らしい。
……うん、知ってましたわ!
「大丈夫ですわ、私に任せて! 段取りはゆかりさんたちにお願いしてきますし、献立は3日分書いて置いていきますわ。おばさまが3日いないくらいで回らなくなるような台所じゃありませんもの」
この言葉を口にしながら、実はちょっとだけ後ろめたかった。そうなるように具体的な折衝をしたのはマコくんで、私は横で「楽しそうですわねー」と眺め、たまにアイデア出しをしていただけだ。でも、マコくんはこういう時のために頑張っていたのだからきっと許してくれるだろう。
「でも、あなたは療養中で」
「療養ですもの。気晴らしが必要ですわ」
「当主様が何て仰るか」
「お父様は、私が楽しそうにしていると機嫌がいいんですのよ」
これは本当だ。お父様は私やマコくんがにこにこしていると、理由を訊かずに上機嫌になる。訊かないでいてくれるのが優しさなのか、興味がないだけなのか。どちらでも、今日の私には都合がいい。
おばさまは何か言いかけて口を閉じた。それから押し入れの中の娘の顔をしばらくじっと見た。真依ちゃんの前髪が、涙で額に貼りついている。おばさまの指が、それを一筋ずつ直した。
「……上野のパンダ。テレビでしか、見たことがないわ」
ひとりごとのように呟いてから、おばさまは真依ちゃんの顔を覗き込む。
「真依。行きたい?」
真依ちゃんは私のほうを見なかった。さっき私を指差したのと同じ小さな右手で、母親の袖を掴んだ。皺になるくらい強く。それからこくりと1回だけ頷いた。2回目はなかった。1回で足りると思ったのか、2回頷いたら私の手柄になってしまうと思ったのか。
どちらでも良かった。真依ちゃん自身の答えを聞けたからだ。
「ナオハ、ナオハ」
背中を引っ張られて振り向くと、真希ちゃんの目が真ん丸になっていた。ビー玉みたいに、そこに部屋の明かりが全部映っていた。
「キリンって、首ほんとに長い?」
「真希ちゃんを5人縦に積んでも、まだ届きませんわ」
「……すげえ!」
感心したような真希ちゃんの後ろで、押し入れの中からか細い声がした。
「……おかあさん。しんかんせんって、はやい?」
私に訊いたのではない。母親の袖を引いて、母親の耳にだけ届くように訊いた。私に聞こえてしまったのは、私の耳のほうの手落ちだろう。
「速いわよ。窓の外がびゅーって流れるの」
「……ふじさん、見える?」
「晴れていればね」
富士山なら、京都から乗れば右側の窓ですわ。席は私が取りますから、窓際にしましょうね。三島を過ぎたあたりがいちばんキレイで、晴れていれば──。
喉まで出かかったその言葉を、私は飲み込んだ。黙って真依ちゃんを座らせればいい。窓の外に富士山が出てきたら、私は反対側の窓を見ていればいい。それはとても正しいことのように思えた。正しくて、少し寂しい。正しいことは、大抵少し寂しい。
「でもさぁ、父さんに怒られない?」
真希ちゃんが小声で訊いてきた。
「大丈夫! おじさまには、私からお話ししますわ」
「ほんと?」
「ほんとですわ。私、おじさまとのお話は得意なんですのよ」
「ふーん。ならいいや」
真希ちゃんはニカっと笑った。
お話しする、というか、縛りでねじ伏せるのだけれど。
それは5歳児の前では言わない。
淑女には、言わないことが沢山ある。
台所へ寄ると、ゆかりさんはお玉を持ったまま二つ返事で頷いた。鍋からは昆布と鰹の匂いがして、格子窓の光の中で、湯気が白いレースみたいにほどけていた。
「はいはい、3日ね」
「おじさまには『反省しないと永遠に帰ってこないぞ!』って脅す予定ですけどね。急なお願いで、ごめんなさい」
「いいのよ。お土産は雷おこしでいいわよ。それと人形焼き」
ゆかりさんはそう言ってから、お玉で鍋の縁をこん、と叩いた。
自分の部屋に戻って、荷物をどうしようか考えた。
着替えは向こうで買えばいい。今の私はそれなりにお金がある。株は「リーマンショック寸前に売るのが良かった気がする! 使おうよ前世チートを!」と熱弁されて無許可売却を禁じられているのだが、月毎の収入と禪院経由の手当だけでもそれなりなのだ。だからデパートに入って、おばさまと双子のぶんも一緒に揃えてしまえばいい。真希ちゃんには動きやすい服がいい。走るために生まれてきたような子だから。おばさまには──おばさまには、何がいいだろう。あの人が自分のために何かを選ぶところを、私は一度も見たことがない。真依ちゃんが何色が好きなのかは、私はまだ知らない。だからそれは向こうで、本人に選んでもらおう。知らないことを知らないままにしておけるのは、少しだけ贅沢なことだ。
携帯を帯の間に挟む。そういえば昨夜、夏油先輩に「東京に行ける日を3日以内に連絡する」と約束したのだった。ちょうどいい。約束というのは、守れる場所まで自分で歩いていけば、たいてい守れるものなのだ。
それから、帰ってきた後のことも考えた。
台所で、廊下で、詰め所で、この3日間がどんなふうに語られるのか。誰が誰を連れ出したことになるのか。「奥様が娘を連れて逃げた」になるのか。「療養中のお嬢様の気まぐれに、気の毒な奥様が付き合わされた」になるのか。
どちらになるかは、たぶん今日、私がどんな顔でこの家を出ていくかで決まる。
箪笥の前を2往復して、ふと手が止まった。
「あっ」
──最高にいいことを思いついてしまった。
思いついてしまったので、もう思いつかなかったことにはできない。
今日の私は、そういうことばかりだ。
箪笥のいちばん奥、たとう紙にくるんだ箱の蓋を持ち上げると、甘い色がふわりと立ち上がった。
生成り一色。
卵の殻の内側みたいな、焼く前のメレンゲみたいな、どこまでも柔らかくて、どこにも逃げ場のない黄色みがかった白。ジャンパースカートの胸元から裾まで、波のようなフリルとトーションレースが何段も重なっている。袖にはピンタック。編み上げのリボンは鎖骨の間で蝶になって止まる。頭には大きなリボン。靴と靴下とパゴダ傘まで同じ色で買い揃えた。
カスタードクリームみたいに甘ったるいロリィタファッション。
パニエを2枚使ってドカンと裾を膨らませると、ちょっと手に負えないくらいカワイイ。
これは呪術高専に入って最初の任務報酬で、マコくんが買った服だ。
障子を閉め切って、誰の気配もないのを確かめてから、鏡の前で裾をつまんでくるりと回る。それだけのための服。マコくんは回るたびに「俺は今この瞬間のためにTS憑依転生をしたんだ……」と小声で言っていた。私もこの服が大好きだった。袖を通すと、魔法少女の戦闘服みたいに、背筋のどこかがしゃんとする。
とはいえ、この格好で禪院家の廊下を歩いたら、何を言われるかわかったものじゃない。「それでもどこかで着よう」の「どこか」は、決めないまま夏が終わった。
──決まりましたわ。東京です。
背中のリボンを結ぶのに、少し手間取った。いつもはマコくんがやってくれる。見えない場所の蝶々結びを指の感覚だけで結ぶのは、知らない人と手をつなぐのに似ていた。蝶の羽を左右揃えて、そっと引き絞る。
ようやくシンメトリーを完成させた後、鏡の前で、もう一度くるりと回った。裾が遅れてついてきて、レースが光をこぼした。
怖くない、と言ったら嘘になる。
怖いです。すごく怖い。
お腹の底のほうが、氷を飲み込んだみたいに冷たくて硬い。
この格好で、あの廊下を歩くのだ。
◇
廊下は、詰め所へ向かう躯倶留隊の人たちで混み合っていた。
わざと混み合う時刻を選んだ。
縁側の硝子戸越しに、秋の日差しが斜めに射し込んで、磨き込まれた床板の上に長い光の帯を何本も敷いている。蜂蜜を細く垂らしたような光だった。庭のどこかで金木犀が咲き始めたらしく、廊下の角を曲がるたびに、甘い匂いが濃くなったり薄くなったりした。
この家にもこんな匂いがするのだと思った。毎年咲いていたはずなのに、私は今年はじめて気がついた。
その光の帯を一本ずつ踏んで、私はおばさまたちの先頭を歩いた。
光、影、光、影。踏むたびにパニエがしゃらしゃら鳴る。
すれ違う人がまず目を逸らす。二度目に振り返る。三度目に、まだ見ている。若い人がひとり、柱に肩をぶつけて「いって」と言った。柱は何も言わなかった。この家の柱は、何百年もそうやって、黙って人の肩を受け止めてきたのだろう。
「菜緒葉ちゃん、なにそれ……」
「お出かけ着ですわ♡」
「お出かけ……?」
「どこに!?」
「東京ですわ♡」
「東京??!!」
答えるたびに小さく手を振る。パニエがさわさわと鳴る気がする。
視線が刺さるのが気持ちいい。驚いている顔というのはどうしてこう可愛いのだろう。眉が上がって、口がまるくなって、そこから何も出てこない。巣の中で餌を待っている雛みたいだ。
この人たちはきっと沢山噂する。
夜には家中が知っているだろう。
お嬢様が、フリフリの服を着て、真希と真依と母親を連れて、正面から出ていった、と。
コソコソではなく。正面から。
背中のすぐ後ろでは、真希ちゃんが私の裾を握っている。歩くたびに握る手に少しずつ力が入っていく。見上げると、真希ちゃんはぽかんと口を開けている若い人たちに向かって、なぜか得意げに胸を張っていた。
その後ろで、真依ちゃんが母親の袖を握っている。下を向いて、床の光の帯ばかり見ている。光の帯だけを選んで影を踏まないように、小さな足で跳んでいた。
おばさまは風呂敷包みを2つ抱えて、いつもより少しだけ俯いて歩いていた。いつもより少しだけ、というのはつまり、いつもとそんなに変わらないということで。私はそれが、なんだか悔しかった。
お父様は高専の弁償の件で総監部。扇のおじさまは祓除で四国。直哉は京都校の寮。その代わり、廊下の突き当たりには甚壱くんと信朗様が並んで立っていた。
むさ苦しい年上の男の人たち。私の苦手なものランキング、不動の第1位だ。2位とは大差がついている。ちなみに2位はゴーヤ。
いつもならここでマコくんに代わってもらう。真っ白な世界で膝を抱えて、その間に全部が終わっている。
今日はそれができない。
私は右手で左の手首を一度握って、離した。
大丈夫ですわ、と自分に言った。大丈夫ではないとき専用の、大丈夫ですわ、だった。
「……びっくらポンだぜ」
信朗様の第一声はソレだった。
今更気づいたけど、この人も音MADの登場キャラだったのか。全然気づいてなかった。
一方甚壱くんの視線は、私の頭のてっぺんからつま先まで1往復した。眉間の皺が1本増えた。
「……なんだ、その珍妙な格好は」
「おはようございます。……ご安心くださいな、スカート丈はふくらはぎの真ん中ですわ。パンチラの心配はございません」
皺がもう1本増えた。甚壱くんはもっとニコニコした方がいい。さもなくば、アカン顔がもっとアカンことになってしまって一大事だ。
「本日から3日間、東京へ参ります。療養中の気晴らしに、おばさまたちに付き添いをお願いしまして。行き先は上野の動物園と、あとはまあ、色々です」
「今朝は療養をサボって早朝から台所に立っていたと聞いたが」
「ふふ、実は元気が出てきたので、療養の第二段階に移りましたの!」
「当主には」
「お父様には、私から申し上げます」
「扇には」
「おじさまにも、私から」
柱の陰から、何人かがこちらを覗いている。聞こえるように言った。
付き添いをお願いしたのは私。連れ出したのも私。誰かが責められるならそれは私。
わかってる。
今の私はもう、弱くも可哀想でもなくなった。代わりに、力と裏表の罪を背負うことができる。大好きな弟と同じ立場だ。
いつだったかは何故だかもう思い出せないけれど、その方法で心の奥底からあの子に救われた日があった気がする。
記憶はぼろぼろと薄れて行くのに、手首を引かれるあの感触は依然鮮明だ。
あの時の直哉みたいに、私は大事な人達の手を引いて。楽しい場所へと連れて行ける立場になった。
責任は私が取る。
甚壱くんは私の後ろの3人に目をやった。おばさまが会釈をした。甚壱くんはそれに、同じくらい小さく顎を引いて返した。それからまた私に視線を戻した。
「その格好で新幹線に乗る気か」
「ええ」
「とんでもなく目立つぞ」
「目立つように着てますもの!」
短い沈黙があった。
甚壱くんの目は、何かを量っているようだった。私の言ったことと、私の着ているものと、私の後ろにいる3人を載せて、計量の針が止まるのを待っている目。
その針が止まる前に、信朗様が肘で甚壱くんの脇腹を小突いた。
「まずは『似合う』くらい言ってやれよ、甚壱。……それ、下妻物語のヤツ?」
「ご存知ですの!?」
「映画館で観たからな」
「ええ、ええ! カワイイでしょう?」
「超絶カワイイよ。──五条に勝った記念ってことで、楽しんで来い」
「わーい!」
両手を上げてしまってから、ロココのお姫様ファッションには似つかわしくなかったと思った。でも、上げてしまった両手を下ろすのももったいなくて、そのまま少しだけ跳ねた。パニエがふわんと揺れた。
甚壱くんは長い息をひとつ吐いた。
「……帰りも、表から帰ってこい」
それだけ言って、背を向けかけた。
表から。
裏口ではなく、表門から。
こそこそではなく、正面から。
この人は、ちゃんとわかっているのだ。
その袖を、私の後ろから伸びた小さな手が掴んだ。
「おじさんも行く?」
真希ちゃんだった。
甚壱くんは袖を掴まれたままで固まった。
「……行かん」
「キリンいるのに?」
「行かん」
甚壱くんは壊れ物でも扱うみたいに不器用に真希ちゃんの指を1本ずつ外して、今度こそ信朗様との話に戻っていった。信朗様が肩を震わせていた。
「行ってらっしゃい、菜緒葉ちゃん」
「お土産、待ってます」
「東京で変な男に引っかかるなよー」
柱の陰から、ぱらぱらと声が飛んできた。金平糖を撒くみたいな声だった。
真希ちゃんが振り返って、大人たちに向かって両手を振った。
私もとびきりの笑顔で手を振り返した。
これが今の禪院家だ。
私とマコくんが少しずつ、作り変えている最中の。
◇
門の外、石段の先では、呼んでおいた車が待っていた。運転手さんがトランクを開けて、私の格好を見て一瞬だけ手を止めた。プロなので、すぐに平静を取り戻した。
おばさまの風呂敷包みが2つ。片方には着替え、もう片方には双子のお昼寝用の毛布と、私の魔法瓶。中身は作り置きの呪霊ジュースだ。出汁ではない、正真正銘のジュース。
真希ちゃんが後部座席に飛び込んで、真依ちゃんが母親の手を離さないまま続く。おばさまが助手席に回る。最後に私が身をかがめた、その時。
「──菜緒葉さんっ!」
門の内側から、道着に裸足の草履で、男の子が走ってきた。
つい先日、告白してきた子だった。返事を聞く前に直哉に首根っこを掴まれて、稽古場へ引きずられていった子。
厳密には告白のお返事をしそびれたのはマコくんなのだが、そのマコくんは寝ている。私が出ていくと早速知って、返事を聞きたくなったのだろう。
「あ、あの……! こ、告白の、その、返事は……」
彼は私の想像通りに言いかけた。
しかしそこまで言ったところでその視線が、私の顔から下へ滑った。アイボリーのドレス。裾のレース。靴。パゴダ傘。
それから顔に戻ってきて。
「……うおっ、かわいっ……!」
私は照れた。
盛大に照れた。
頬がかっと熱くなって、パゴダ傘の柄を握る手に力が入った。耳の奥で、自分の血がごうごう鳴るのが聞こえた。さっきの廊下で浴びた視線は気持ちよかったのに、これは全然違う。何十人ぶんの「なにそれ」より、たったひとりの「かわいっ」のほうが、ずっと重い。できたての鼈甲飴を素手で受け取ってしまったみたいに、熱くて、硬くて、火傷してしまいそうなのに落とすこともできなくて、逃げ出したくてたまらない。
でも、代わってくれる人はいないのだ。
私は石段から門へと戻った。
「結論から申し上げますわね」
「は、はい」
「私、呪術界の改革を成し遂げるまでは、恋愛のことは考えられませんの」
マコくんならもっと上手い言い方を知っているのだろうけれど、私には思っていることを順番に並べることしかできなかった。好き勝手に並べて、並べて、並べ終わったら、それでおしまい。
言ってしまってから、彼の顔を見るのが怖くなった。
泣かれたらどうしよう。怒られたらどうしよう。
なのに彼は、なぜか胸を打たれたような顔をした。
「……改革を、成し遂げるまでは」
男の子は、私の言葉を一音ずつ確かめるみたいに繰り返した。
「普通、こういう時って、『タイプじゃない』とか、『他に好きな人がいる』とか、そういうのじゃないですか」
「……『普通』の基準がよくわからないけれど、そういうのが多いと聞きますわね」
「断る理由がクールすぎます! 俺、呪術界と天秤に載せてもらえたんですね。……フラれてこんなに嬉しいの、初めてです!!」
初めて、と言われても。
そもそもこの子は、人生で何回フラれるご予定なのかしら。
私はというと、ほとんど逃げ出したかった。
そんなに立派なことを言ったつもりはなかったのだ。
私なら、失恋したらマコくんに泣きついて3日は引きこもる。なのにこの子は3日どころか3秒で顔を上げてしまった。
「でも、意外ですわ。あなたが私を、だなんて」
「い、意外ですか」
「意外ですわよ。お祭りのとき、浴衣を褒めてくれなかったじゃありませんか」
「あ、あれは……!」
「先月なんて、訓練とはいえ踏みつけにしてしまいましたし」
「あれは……その、ありがとうございました……」
「……ありがとう?」
「いや、違、反転のコツが、掴めたので! そういう意味で!」
たぶん、そういう意味だけではない。追及していじめると楽しそうだったけれど、今日はやめておいた。
「浴衣を褒めなかったのは、あの日は弟を連れてってて!」
「ああ、楽しそうにスーパーボールすくいをしてましたっけ」
「アイツ、俺が菜緒葉さんに何か言ったら絶対家で言いふらして1週間はネタにし続けるし、直哉さんもいたし……。それに、甚壱さんがお目付役で来てたじゃないですか!」
「ああ、いらっしゃいましたわね」
「甚壱さんの前で女の人に『綺麗ですね』とか言ったら、軽薄な不純異性交遊野郎だって思われるじゃないですか! 甚壱さんにそう思われたら、俺は生きていけないので……!」
……はい? 浴衣を褒める程度で、軽薄ってことになります??
あと、不純異性交遊ってキスより先からだと思ってたんですけど、服を褒めたらアウト? もしそうなら、私は不純同性交遊を3日に一度はしていることになるんですけど!!
というか、そもそもだ。
「……普通に甚壱様ご本人が、真っ先に褒めてくださいましたわよ? あの人も不純異性交遊野郎なんですの??」
「甚壱さんはいいんですよ! 甚壱さんなんで!」
理屈が1個も通っていない。なのにそれは、彼の中ではぴかぴかに磨かれた真理らしかった。男の子の世界には、いつだって私の知らない掟がたくさんある。たぶんその掟は、ラムネの瓶の中のビー玉みたいに外からは取り出せない場所にしまってある。
男の子はそこで一度唇を結んで、門柱から手を離した。まっすぐ立つと、私より頭ひとつ以上背が高い。それなのに、声は小さくなった。
「それで、その……好きになった理由も、見た目が先じゃないんです」
「えっ、何?」
「一昨年、言ってくれたじゃないですか。俺達の座っている寒々しく孤独な椅子は──呪術師としての地位は、実は世界のすべてを変える装置なんだって」
男の子は声をひそめた。車の中の子たちにも、おばさまにも聞こえないくらいに。
「兄貴が死んだの、俺が9歳の時で。兄貴は15で、『そのうち炳に上がる』って言われてて、自慢の兄だったんです」
「……」
「滅茶苦茶よくある話で、呪霊の等級が見立てよりひとつ上だった。遺体は帰ってきたけど、顔は見せてもらえませんでした」
滅茶苦茶よくある話。そういう言い方を覚えるまでに、この子は何回、同じ話を自分の中で繰り返したのだろう。角が取れて丸くなって、手のひらで転がせるくらいになるまで。
金木犀の匂いが、風に乗って門の外まで流れてきた。甘い匂いだった。こういう話を聞くには、甘すぎる匂いだった。
「葬式で親父は、誉れある死だって言ってて。俺たちのことなんか知りもしない猿のために死ぬのの、何が誉れなんだって。なんでこんな家に生まれたんだろうって、俺はずっと」
猿、と言ってから、彼は少しだけ気まずそうに唇を噛んだ。
私の頭の隅で、黄色っぽいタイルの壁がちらりと光った。磁器の骨壷。分骨用の小さな器。冷たい陶器の手触り。指先から体温を吸い取っていく、あの冷たさ。一番最近経験した、亡骸を燃やして骨を拾うだけの、あまりにも侘しいお葬式。
「でも菜緒葉さんは、そういう俺を怒らないで、意味もなく『貴族』をやらされるのは辛いだろうって言ってくれました。アレがなかったら多分、俺はずっと、呪うべきじゃないものを呪ってたと思う」
「……」
「今も呪霊を祓うのなんかは全然楽しくないけど……菜緒葉さんのおかげで新しい世界を思い描けるようになって、毎日が楽しいんです」
その言葉に、息が止まりそうになった。
あれを言ったのは私だ。マコくんじゃない。
マコくんが言い淀んだ隙に、私が勝手に浮上して、勝手に歩いていって、勝手に喋った。
あの夏祭りの夜に甚壱くんしか浴衣を似合うと言ってくれなかったのを、私は全部自分の中身のせいにした。でも、この子が褒めなかった理由は弟と直哉と甚壱くんだった。私の中身なんて1個も関係なかった。
マコくんの作った清楚な看板じゃなくて、大して性格が良くない私の言葉を拾い上げてくれている人が、少なくとも1人はいた。
拾い上げて、2年もちゃんと持っていてくれた人が。
「……ありがとう」
言えたのはそれだけだった。
喉の奥が詰まった。パゴダ傘のフリルの縁が風で小さく揺れていた。それを見ているうちに、喉の奥で固まっていたものが少しずつ溶けて、もう少しだけ言葉が出てきた。
「残酷な質問をしたのに、教えてくださってありがとう。私、告白されたのは生まれて初めてで……本当は、ものすっごく嬉しかったんですのよ」
男の子は耳の先まで真っ赤にして、ぶんぶん音がしそうな勢いで頷いた。それから、急に顔を上げた。
「……俺、正直、ちょっとほっとしてるんです」
「ほっと?」
「菜緒葉さんが、俺なんかのために立ち止まるような人じゃなくて。……そういう人を好きになったんだって、今わかったんで」
それから彼は、ぎゅっと拳を握った。
「お、俺も、革命のために戦います!」
「えっ」
「終わるの待ってるとかじゃなくて、一緒にやるんで! そしたら、ちょっとは早く終わるでしょう」
「え、ええ……? それは、まあ、人手は多いほうが……」
「ですよね!」
彼は、心の底から納得した顔で頷いた。
その頷き方を見て、私は何かとても大事なことを見落としている気がした。
「……その後でまた返事を聞かせてください! 失礼しますっ! お気をつけて!」
言い終わる前に、もう背中を向けていた。脱げかけた草履を引っかけ直して、来た時よりずっと速く遠ざかっていく。走っていく背中は、さっきここへ来た時よりひとまわり大きく見えた。失恋した人の背中ではなかった。どちらかといえば、志願兵の背中だった。
これってもしかしなくても、返答保留として解釈されていないか。
……マコくんが起きたら、絶対お説教されるやつですわ。
道着の白が門の向こうに消えるまで、私はパゴダ傘を握ったまま立っていた。消えてからも、少しだけ立っていた。
車に乗り込んだ瞬間、真希ちゃんが身を乗り出してきた。
彼女はとても耳がいいので、会話の内容が聞こえていたのだろう。
「ナオハ、フったの?」
「……さあ、どうでしょう」
「フったんだぁ!」
「まっ、真希ちゃん! シートベルト!」
「フったんだー、フったんだー」
「真希」
助手席から、おばさまの低い声がした。真希ちゃんは首をすくめて座り直し、それでも小声で「フったんだぁ」と言った。ルームミラーの中では、おばさまの口の端が、ほんの少しだけ持ち上がっていた。
「京都駅まで」
運転手さんに告げると車が動き出した。
門が後ろへ流れて、白い塀が流れて、屋敷の甍が坂の向こうへ沈んでいく。瓦の照り返しが濡れたように眩しく光るのを、私はずっと振り返っていた。振り返ってから、振り返っている自分に気がついた。それから、奥の窓際の真依ちゃんが1回も振り返っていないのにも気づく。真依ちゃんは小さな手を膝の上に揃えて、ずっと前の窓を見ていた。フロントガラスの向こうには、まだどこにも着いていない道が、秋の光の中にまっすぐ延びている。
やっぱり、真依ちゃんのほうが私よりも強い。
真ん中の席で、真希ちゃんがブレスレットの光る手で妹の手を勝手に握った。真依ちゃんは振りほどかなかった。握り返しもしなかった。ただ、振りほどかなかった。それで充分なのだと、2人とも知っているみたいだった。
私も前を向いてシートに背中を預けた。
パニエがふくらんで、少し窮屈だった。
胸の内側に向かって、こっそり言っておく。
──マコくん。
あなたが寝ているあいだに、私、家出しましたのよ。
すごいでしょう?