音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
時刻は深夜2時。窓の外ではビル群の航空障害灯が赤くチカチカしている。東京の夜景に呆然とする俺が問い詰めるより先に、菜緒葉ちゃんが俺の寝ていた1日分の記憶をまとめてアップロードしてきた。
……。
…………。
……………………は???
家出は当日の思いつきだったようだ。お父様への報告は事後。扇のおじさまへの報告も事後。事後報告のフルコンボ。
前世の俺なら休みを取るときには2週間前に申請を出して、上長の機嫌がいいタイミングを狙って口頭でも一言添えていた。それが社会人の作法というものだ。それに対して、この子はなんつーワイルドさだ。俺ならこんな過激なことはできない。
でも、結果的にはそんなに悪くはないかもしれなかった。
俺は、真依ちゃんの件については八方塞がりだと思いながら寝落ちしたのだ。しかし菜緒葉ちゃんはそのあいだに体当たりで諸問題にぶつかって行った。俺の超絶プリティーなロリィタ姿は嘲笑されるかと思いきや意外とウケが良かったみたいだし、信朗も滅茶苦茶フォローしてくれたし、菜緒葉ちゃんの自信が取り戻される思わぬイベントまで発生していた。
とはいえだ、菜緒葉ちゃん。
俺が罪なTS美少女なら、君は大罪人だよ。
まさか菜緒葉ちゃんが、無意識に男子のハートを鷲掴みしていたとはな……。
『マコくん、怒ってます……?』
怒ってない怒ってない。
正直、これはこれでと思うのだ。
恋愛感情なんかは長くて2年もすれば冷める。だが、恋が冷めても理想は冷めないのだ。そしてその理想の部分に共鳴して、菜緒葉ちゃん自身を見てくれる家族以外の人が、禪院家にもちゃんといるのだとわかった。いいことだ。青春してんじゃん。そんなことで怒るほど、俺は野暮なTS美少女じゃないのだ。
『よかったー。じゃあマコくん、写真見て♡』
生得領域の底から言ってくる菜緒葉ちゃんに従い、パカっと携帯を開けて見ると、今日の思い出が沢山あった。駅弁、デパートの外観、レストランで撮った記念写真、試着の見比べ用のショット、ライトアップされた浅草寺、他にも色々。菜緒葉ちゃんは東京駅近くのデパートで服をいっぱい買い、真依ちゃんの好感度をほんのちょろっとだけだがアップさせることにまで成功していた。
さらに、告白の件で自信を得た菜緒葉ちゃんは、実はそれ以外でも絶好調だった。着信履歴を辿れば、直哉とお父様と扇のおじさまの名前がズラリ。菜緒葉ちゃんは新幹線のデッキからお父様、そして扇のおじさまを説得している。お父様はクソデカ溜め息と共に許してくれたし、おじさまとのやり取りも平和(?)に終わった。
『なぜ私の家族を勝手に連れ出した?』
「行きたかったんですもの、動物園。あと、縛りに従って今後の方針を話しますわね」
『……なんだ?』
「今日から3日留守、真依ちゃんの修行は1週間お休み。修行再開時には私とおばさまと真依ちゃん同席での相談をしましょう」
『1週間とは』
「今日を1日目に数えて、7日目の夕餉のあとまで。相談はおじさまのお部屋で。あと、私が帰ってくるまではもう掛けてこないでください」
『ふざけるな菜緒葉!』
「じゃあ2日目の夜か3日目の朝に、真依ちゃんへの謝罪と、みんながいなくて寂しいよ〜っていう内容のお電話ならしていいですわよ」
『何故そんな電話を。こちらは娘の将来を思ってだな……!』
「善意が必ずしも通じるとは限りませんわ。私の善意があなた方に通じなかったように」
『……』
「おじさまが反省の電話をかけてくれないと、私の静養したいという欲求はどんどん高まり、3日程度の東京観光では到底満足できなくなってしまうことでしょう。私が株に大成功して増やした全財産が尽きるまで、おじさまはひとりぼっち♡ という訳で、次のご連絡をたのしみにしていますわ♡♡」
ガチャン。
──と、そういう感じだった。
直哉はもう少し面倒だった。
『ひとりでお出かけ禁止って言うたやん。危ないやろ』
「ひとりじゃありませんわ。4人よ!」
『足手まといが3人プラスされただけやろドアホ。そもそも菜緒葉ちゃん、静養のためにお休み貰っとるんちゃうの。なんで人様のおうちの面倒事に介入しまくっとんねん』
などという攻防の末、お説教を深夜に先延ばししてもらったものの、それからしばらくは面倒だった。でも、そのお説教も日付が変わってしばらくで終了。
部屋は2つ取り、料理ノルマはデパートで買って冷蔵庫に入れてあるフルーツで処理。明日はお財布要員として着いて行きついでにパンダを見る日、明後日は家族水入らずで楽しんでもらい、その間に夏油先輩とのアポの予定だ。
直哉は自分も明日から来るとうるさかったが、コイツの真依ちゃんからの嫌われっぷりは俺たちと同レベルなので、菜緒葉ちゃんが必死に止めた。
という訳で、本調子でない俺の魂がスヤスヤ眠っている1日の間に、大体全部が片付いたぜ。
最高だ。
──そう言いたいところだが。
「菜緒葉ちゃーん」
『なんですの?』
「今更なんだけど、『予測』の真希ちゃんがなんで覚醒したのか君は理解してる?」
俺は負荷を負いながら再生したメモリを通じて、これまで放置していたとんでもない見落としに気がついてしまったのである。
「ほら……音MADしか知らない俺はなんとなく、真希ちゃんは最初からアッチ側の存在なのかと想像していたんだけど、全然違っただろ?」
真希ちゃんはすごく見込みのある子だった。それは認める。直哉に噛みつくあのタフさとガッツは最高だし、出奔前から躯倶留隊の新入りの中では体術でもモチベでも抜きん出ていたんじゃなかろうか。
でも、甚爾くんほど絶対的じゃない。おまけに政治的な立ち回りはまっすぐすぎてヘタクソというか、昔の直哉から男尊女卑を抜いてややマイルドにしたような具合だった。
だから直哉は甚爾くんに及ばない真希ちゃんを偽物扱いして虐めていたのだ。
火傷をして帰ってきた時点での彼女も、2級からギリギリ準1級くらいの風格に見えた。得意分野は対人戦闘だろうし、特級呪具を使い、更に知恵を巡らせれば1級中堅の呪詛師くらいなら無力化できるんだろうけれど──多彩な術式を持つ呪霊の安定祓除は難しいんじゃないかという塩梅。チラッと見た、彼女と扇のおじさまとの戦闘記録はまさにそんな感じだった。
メモリの関連箇所を総合して考えるのなら、1級査定任務というのは、禪院以外の1級術師との接触と成長性のアピールにより、昇級妨害を更に妨害することを五条が目論んだ秘策とかじゃなかろうか。
──つまり。
『優秀は優秀だけど、本来なら禪院家を壊滅できるほどじゃありませんわよね。でも、前に仮説をお話しませんでした?』
「ああ、扇のおじさまに殺されかけた真依ちゃんが、絶命の縛りで自分の命を釈魂刀に換えて真希ちゃんに渡した説だろ。で、真希ちゃんはそのときに憎しみの中で無理難題の縛りを結んだっていう」
呪物料理の情報提供と引き換えに、無理難題の縛りを成立させる方法について羂索に教わった直後のやり取りだ。
反転術式無効の特級呪具と無理難題の縛り、それから執念と少年漫画補正があれば、1級中位以上の実力があれば禪院家の壊滅は可能になるだろうという話を菜緒葉ちゃんとしていた。
「でもさぁ、準1級じゃ無理難題の縛りレベルの上昇補正だと厳しいよ。秘伝伝授の制限があった頃の躯倶留隊を全滅させるまでならともかく、甚壱くんと蘭太くんのタッグを無傷回避して直哉をボコるのは絶対無理。それに……」
『それに?』
「すごく言いづらいんだけど、菜緒葉ちゃん、大人の自分が真希ちゃんに殺されたときのことは覚えてる?」
『あのとき真希ちゃんはまるで鬼神のようでしたわね。五条の虚式の光みたいに綺麗で……』
そこかよ。
俺が真依ちゃんのメモリを無意識にフラッシュバックさせたことが影響してか、菜緒葉ちゃんの記憶は急速に薄れてきているようだ。
「忘れちゃったのか?? あのときの真希ちゃんにはなかっただろうが! 呪力が!!」
『……そうでしたっけ?』
「そうだよ。甚爾くんみたいになってた!!」
特級術師ともやり合えるレベルだった。
そして真希ちゃんがそうなった理由に、俺は既に辿り着いている。
『呪力の全てを後天的に捨てたってこと? そんなこと、どうすればできるんですの?』
そう言う菜緒葉ちゃんは珍しく俺より察しが悪かった。何も気づかないままの方が幸せかもしれない。この先は地獄だ。でもこのことは、菜緒葉ちゃんにも、それから直哉にも相談しないといけない。
「……双子は呪術上同一人物。じゃあ、双子の一方が全呪力を使い果たして死んだらどうなると思う?」
俺は恐る恐る尋ねた。
『……真依ちゃんが死ぬことで、真希ちゃんは完全な天与呪縛になった。そういうことですわね?』
「……ああ。真依ちゃんの命と呪力が全部消えて、はじめて真希ちゃんは完成したんだと思う」
あまりにも残酷で、救いのないカラクリだ。真希ちゃんは大好きな妹が生きている限りアッチ側には行けない。つまり、俺たちは解決不能な問題に手を突っ込んでしまっているのかもしれない。菜緒葉ちゃんの肩入れほどに、真依ちゃんは俺たちには感謝しないだろう。『予測』でそうだったのと同じように、恨まれる可能性すらある。
「……でもまあ、とりあえず明日は予定通り、盛大にお財布要員やってやろうよ。パンダ見て、美味いもん食ってさ」
『……ふふ。ええ、そうですわね!』
重苦しい空気はそこそこに、俺たちはひとまず明日のミッションに向けて、束の間眠りについたのだった。
◇
『お昼は何を食べましょうか? パンダの形をしたパンケーキのある、お洒落なカフェもありますようですけれど』
いや、ラーメンかカレーだな。
『えーっ! せっかくの動物園で、そんな色気のないチョイスですの?』
いやいや、客の半分は子供で、その大半がラーメンかカレーを頼む。だからこそ調理場もその二つの回転率と品質管理に一番命を懸けてるんだ。映えを狙ったメニューより遥かにハズレがない!
『夢がありませんわ……。では、ぬいぐるみくらいは買ってもよろしいでしょう?』
帰り際ね。朝一番に買ったら一日中それを抱えて歩く羽目になるし、テンションの上がった子供はぬいぐるみを抱えたまま走って、高確率で転んで汚す。帰りがけに「今日はいっぱい歩いて偉かったね」ってプレゼントするのが一番スマートなんだよ。
──なーんて。
脳内会話をしながらふと気がついた。
この体で動物園に来るのは初めてだ。
ワクワクして仕方ない。
昨日デパートで購入した動きやすい服とスニーカーは、広い園内を歩き回るのに完璧な機動力を発揮していた。厚手のライトグレーのパーカーとキャップに、裾をすっきりと絞ったジョガーパンツ、黒いリュックサック、クッション性の高いスニーカー。フリルで盛大に着飾るのも乙なものだが、TPOに合わせた機動力との両立こそが真の洗練というものだ。
前を歩くおばさまと双子の姉妹も、昨日買ったばかりの真新しい服を身に纏っていた。
真希ちゃんは着慣れない洋服が相当嬉しいらしく、案内板の前を通りかかるたびに「次はどこー!?」とぴょんぴょん跳ね回っていた。そのたびに、おばさまがハラハラした様子で袖を引いて引き戻している。
真依ちゃんは反対側の袖をキュッと小さな指で摘まんで歩いていた。昨日自分で選んだミントブルーのワンピースを着ていて、時折その裾を気にするように愛おしそうに指先で触れていた。しかし俺と視線が交錯しそうになると、弾かれたようにプイッと前を向いてしまう。和解の道はまだ遠そうだった。
パンダ舎の前には長い列ができていた。20分ほど並んでガラスの前に出ると、パンダは案外茶色っぽく薄汚れていて、おまけに観客の存在には一切構わず背を向けて寝ていた。
「えーっ!? 背中しか見えないじゃん!! こっち向けー!」
真希ちゃんの真っ直ぐな抗議の声が展示室に響き渡り、周囲の大人たちから「可愛いわねぇ」とクスクス笑いが漏れた。
「……もうおじいちゃんなんだって。ねむいんだよ、しょうがないでしょ」
真依ちゃんが説明板を見上げてポツリと言った。それから妙に大人びた納得の表情でその白黒の丸い背中をじっと眺めていた。けれどもすぐに「立ち止まらずに、順路に沿ってお進みくださーい!」という警備員さんの誘導の声に押されて、列の外へと押し出される。真希ちゃんは3歩歩くごとに後ろを振り返り、見えなくなるまでパンダの背中に向かって大きく手を振り続けていた。
──その後、ペンギンの側の遊歩道で真希ちゃんがトイレに行きたいと言い出したので、俺はおばさまの分の荷物も受け取った。
「……」
「……」
これで、俺と真依ちゃんは2人きりになってしまった。気まずい。しばらくの間何も喋れなかった。風が木の葉を揺らす音と遠くの子供たちの歓声だけが流れていく。低い木製の柵の向こうには、模造された岩場と浅いプールが広がっており、黒と白のキュートなペンギンが30羽ほど、思い思いの場所に佇んでいる。
真依ちゃんは手すりに両手をかけ、身を乗り出すようにしてペンギンたちを見つめていたが、やがて沈黙を破った。
「……きょうはフリフリの服じゃないんだ」
視線はペンギンのプールに向けたままだった。
「ええ。状況に合わせた装いを選ぶのも、嗜みの一つですわ」
「……うん。きのうの服は目立ちすぎて、一緒に歩くの、はずかしかった」
おとなしそうな顔をしてキレッキレの毒舌である。
でも、大人の余裕でニコニコしてみせた。
「あら。それは大変失礼いたしましたわね」
すると真依ちゃんは胡散臭いものを見るような顔をして、ひとつため息をついた。
「……ねえ、ほんとにしゅぎょう、お休みなの?」
「ええ、本当です。昨日を1日目として数えて7日目の夕ご飯が終わるまで、一切の修行もお勉強もお休みにしました」
真依ちゃんは手すりから片手を離し、小さな指を1本ずつ折って数え始めた。まだ半信半疑のような顔をしている。
「……そのあとは?」
「あなたのお父様とお母様と、真依ちゃんと私で。真依ちゃんがどうしたいのか、言いたいことを何でも言っていい席を設けます」
「……あの人は、人の話なんてきかない」
「無駄かどうかは実際に言わないとわかりません」
「あの人、ナオハの言うことなら全部聞く? 術師のお兄さんたちがそうウワサしてるよ」
「うーん。普段なら、その気になればもう少し強引な手も使えるんですけれどもね……」
生憎今の俺は弱体化中だ。
岩場の端では1羽の小さなペンギンが、水際で首を伸ばしたり縮めたりしながらウロウロと行き来していた。足先を冷たい水に浸けては怖くなったようにサッと引っ込める。そのすぐ後ろには、同じように様子を窺っている数羽のペンギンが列を作っていた。
真依ちゃんが呟くように言った。
「……そういえばお母さんが、ナオハに『ありがとう』って言いなさいって」
「あら」
「言わないけどね」
「別にいいですわよ。今回のは施しじゃなくてお詫びだから」
そう答えると、真依ちゃんは拍子抜けしたような顔で、もう一度こちらを振り向いた。
つぶらな瞳が静かにこちらを見上げる。
「まあいいわ。今回のことは、ゆるしてあげる」
「ありがとう」
「……あと、ナオハ、前よりはこわくなくなったから」
服のプレゼントで好感度が上がった、という声ではなかった。非術師のおばさまや天与呪縛の真希ちゃんと異なり、真依ちゃんはこちらの呪力減衰を明確に理解しているのだろう。
俺の今の呪力量は他の本家の術師と比べて大幅に見劣りする。質についても微妙だ。呪術高専入学後に外部の術師と絡む機会が増えるまではあんまり気づいていなかったのだが、真男佳の核やゴキブリのせいで傍目にはかなり異質でラスボスの風格すらあったらしいが──溜め込んだ呪力が吹っ飛び、真男佳も動作不良の今は、俺に負けじと1級をいっぱい食べていた直哉の方が断然凄まじい。
扇のおじさまが俺を舐め始めたのと同様の効果が、きっと真依ちゃんに対しても起きているのだ。
……あれ、つまり呪力が減る前の俺は、真依ちゃん視点だとだいぶ不気味だったり?
「真依ちゃんは勘がいいんですのね」
優しく褒めるように言うと、真依ちゃんの背中がびくっと震えた。
「そっ、そんなこと言って……ホントはこわがりだって思ってバカにしてるんでしょ!」
振り返った真依ちゃんの瞳には、ハリネズミのような刺々しい警戒が宿っている。
褒め言葉として受け取れなかったのだ。
女中の菜緒葉ちゃんと呪術高専入学寸前の真依ちゃんのコミュニケーションを見ていて気づいたことなのだが、この子は自分の弱さを見抜かれたことに過剰反応してしまうタイプなのだろう。プライドが高いのか、ある意味繊細なのか。そういうところは父親ゆずりかもしれない。いい方向にも悪い方向にも働く性質だ。
「馬鹿になんてしていませんわ。そもそもね、真希ちゃんや私たちがちょっとばかり怖いもの知らずすぎるだけです」
そう言うと、ジロリと睨まれた。
「……わたしたちって、だれ」
「わ、私と直哉ですわ!」
「……」
真依ちゃんは黙ってしまった。
菜緒葉ちゃんが生得領域からコソコソと言う。
『アレでは? 自分たちを基本シカトしてくる直哉に、この子は心底ムカついているのでは?』
俺も多分、そういうことだと思った。
現状の無視は、積極的な意地悪や暴言よりも何倍もいい。そこは直哉の成長だ。けれども何も知らないでいる相手からすると、そんなことは関係ない。帰ったら、双子に対する直哉の気持ちを今度こそちゃんと聞こう。
とりあえず、俺は展示場に視線を戻した。
足を出したり引っ込めたりして迷っている一羽のペンギンと、その後ろで首を伸ばして周囲を窺っている仲間たち。
「ほら、あの子たちを見てごらんなさい。みんな同じペンギンですけれど、迷わずさっさと水に飛び込む子もいれば、ああやって水際でじっと様子を窺っている子も、岩の上から周囲の安全を確かめている子もいるでしょう?」
「……うん」
真依ちゃんはペンギンの姿を目で追った。
「動物の群れの中でさえ、それぞれ性格や行動の違いがありますの。怖がりで慎重な個体が最初に天敵の気配に気づいて、群れ全体を危険から救うことだってありますわ。それと同じで、色々な性質や考えを持つ人がいるからこそ、世界や社会は成り立っているのです」
真依ちゃんはしばらくの間、無言でペンギンたちの動きを見つめていた。
「……それ、私の話?」
「ええ」
「……しゃかいとか、よくかんない」
たしかに、こんなに小さい子に社会構造も話は早すぎたかもしれない。
真依ちゃんはトスンと手すりに顎を乗せた。
水際の1羽は、相変わらず「入ろうか、やめようか」と迷い続けている。その横を、後ろからやってきたペンギンが、平然とした顔で通り過ぎて水へと飛び込んでいく。
「……じゃあ、こわがりのペンギンは、うみに入らなくていいの?」
真依ちゃんが呟いた。素朴な質問の形をしていたけれど、その言葉の裏に込められている意味はあまりにも重かった。
安易に「入らなくていいんだよ」と言えば、それは大嘘だ。世の中舐めてんじゃねーぞという話だ。しかし「海に入らなきゃダメだ」と言えば、ようやく聞き出したあの子の本音を、一瞬で踏みにじることになる。
少し迷ってから、俺は言った。
「入りたくなったら入ればいいですし、入らないで岩の上で見張っている子もいますわ。どっちを選んだって、お腹が空いたらご飯はちゃんともらえるんですのよ」
……なんだか半端な言い方になっちゃったな。
でも、禪院家が前線で戦う人以外も評価される場所を目指して色々やってきたのは、本当だ。
真依ちゃんは顎を手すりに乗せたまま、上目遣いの横目でこちらを見た。
その時、水際で散々迷っていたペンギンが、意を決したように「ポチャン!」と頼りない音を立てて水へと飛び込んだ。水中に入った瞬間、まるで漆黒の弾丸のような恐ろしいスピードでプールを横切っていく。
「……あ」
真依ちゃんが小さく声を漏らした。それから、すぐにフンと口を尖らせる。
「……おそいし」
言葉こそ手厳しい。けれど真依ちゃんの目は、水の中を弾丸のように自在に泳ぎ回る黒い影を、見失わないように最後までしっかりと追い続けていた。
「真依ー! ナオハー!」
人混みの向こうから、真希ちゃんの元気いっぱいの大声が響き渡った。おばさまに手を引かれながら、全力でこちらへと走ってくる。真依ちゃんは手すりからパッと手を離すと、「まってよー!」と真希ちゃんの方へと駆けて行った。
──真依ちゃんに前線で戦う才能がないのはかなり前から察していた。扇のおじさまの目から見れば、真依ちゃんよりスタートラインが下だった姪が上手くやっているなら、我が子は更に上を行くという認識になるのは不思議じゃない。しかし『予測』をフルで見てしまうと、それはあまりに都合のいい見解に思えた。虚勢を張ること自体は少しも悪くないが、下を見て自分を慰め続けるタイプは、成長が止まるのが早い。
そもそも、存在そのものが自分より強い真希ちゃんの足手まといになっておきながら、よくも『予測』の中のあの女は頑張る真希ちゃんを人前で雑魚だとか言えたものだ。
けれども「呪術なんか一切やめてしまえ」で済む話でもない。真依ちゃんの目には呪霊がはっきりと見えてしまう。見えてしまう以上、呪いと完全に無関係でいることは不可能なのだ。そして、呪術は呪霊を祓いまくってお金を稼ぐためだけの手段でもない。
一生呪いに怯え、恐怖に震えながら身を隠して生きるのか。
それとも己の達成を誇らしく思える瞬間を一度でも作ってやれるのか。
その差は呪術師としてのランクなんかよりも遥かに重要だ。
最初に真依ちゃんへ「宝石を作ってみたらどうか」と勧めた時も、俺は同じようなことを考えていたはずだった。
今は正直よくわからないが、大人としての責務は果たすつもりだ。
人混みの向こうで、真希ちゃんが真依ちゃんの手を力強く引き「次はあっち! ゾウさん! 大きいゾウさん!」と騒いでいる。
真依ちゃんは強引に引っ張られながら走りつつ、ペンギンたちのプールの方を、一度だけ振り返った。
◇
ホテルに戻った後、柿を剥いて皿に乗せた頃になって、客室のドアが控えめに二度トントンと鳴った。ドアを開けると、大きめの寝間着の上に薄手の上着を羽織ったおばさまが、カードキーを握りしめたまま立っていた。
「2人とも眠ったわ。……菜緒葉、少しだけお邪魔してもいいかしら?」
「ええ、勿論ですわ」
おばさまは部屋に入るなり、気まずさを払うように手早く動き始めた。備え付けの湯呑みを水道の水ですすぎ、手際よくティーバッグの緑茶をふたつ淹れる。
「あっ、ごめんなさい」
「こちらこそ。……昨日から、本当にお世話になりっぱなしで。何から何まで、本当にありがとう」
おばさまは深々と頭を下げた。
湯呑みから立ち上る湯気の向こうで下げられたその頭を見つめながら口を開きかけて、やめた。これは菜緒葉ちゃんが受け取るべきお礼だ。
肉体の主導権を返すと、菜緒葉ちゃんは湯呑みを両手で優しく包み込んだ。そして、少しだけ背筋を伸ばす。
「どういたしまして。……お礼をおっしゃるなら、真依ちゃんのあの『ムリ』っていう一口にカチンときた、私の大人げない負けん気に言っていただけますかしら?」
菜緒葉ちゃんが少しお茶目に言ってみせると、おばさまは余計に恐縮した。
「……その真依だけどね、さっき『ナオハのことは、ゆるしてあげた』って言っていたわ。あの子ったら、修行の厳しさは全部あなたのせいだと思い込んだままなのよ。本当にごめんなさいね」
「あの年頃では、父親は世界の半分くらいですから。それに、修行の提案をしたのは私ですもの」
でもまさか、号泣するまで続けて、姉妹で性格が逆ならよかったとまで言うとはね。相伝の直哉ですらギャン泣きするような修行はつけられていないというのに……。いや、アイツはそもそもほぼ泣かないが。
おばさまは湯呑みの縁を指先でなぞりながら、どこか遠い目をして語り始めた。
「私ね、若い頃はこれでもまあまあ野心家だったのよ。こんな薄暗い家の中で、ただの女中のまま一生を終えるなんて冗談じゃないって、ずっと思っていたわ。……だからあの人に目をつけたの。上しか見つめていなかった、あの人に。昔のあの人のギラギラした所を見ていると、自分の悔しさと重ね合わさって腹が立つと同時に、なんだか自分のことみたいに先が楽しみだったのよ」
「……わかりますわ」
菜緒葉ちゃんは迷うことなく即答した。
「上しか見ていない方の隣というのは、見ていて少しも退屈いたしませんもの」
「ええ、退屈だけはしなかったわね。でも、当主になれないと分かった途端、待っていたのは毎日毎晩の惨めな愚痴ばかり。何でもかんでも他人のせいにして、自己正当化を図る人だと気づいたわ。……今じゃ最強の炎遣いだなんて持ち上げられているけれど」
「なんというか、今更ですわよね」
「本当に今更よ。子供ができないのも全部私のせいにされ続けてきた。そうやって肩身の狭い思いをして、やっとの思いで産めたと思ったら、今度は双子の女の子でしょう? ……あの瞬間、ああ、私の人生はもう完全に終わったんだって思ったわ。『こんな子たち、産まなきゃよかった』って、一時期は本気で思っていたの」
「……私も、双子ですわ」
おばさまのお茶を啜ろうとした手が、途中で止まった。
「……あ。そうだったわね……ごめんなさい、私ったら」
「私の母も、きっと一度くらいはそう思ったはずですわ。……訊き出す前に、死んでしまいましたけれど」
「ごめんなさい、菜緒葉。そんなつもりじゃ……」
「謝られると困ってしまいますわ。気にせず、続けてくださいませ」
おばさまは少しの間沈黙し、窓の外の夜景を見つめてから言った。
「あの子達が生まれた日も、あなたは私を庇ってくれた。それから……外へ遊びに行くのはこれが20年ぶりなの。私はずっと、この家を出たかった。真希も真依も楽しそうで、あんな顔は初めて見た。だからね、あなたのおかげで初めて心から思えたわ」
「……」
「……産んでよかった」
──正直なところ、俺の中には蟠りがあった。
真希ちゃんはともかく真依ちゃんとはソリが合いそうにない。そして真希ちゃんと真依ちゃんの両方を強くするのは無理ゲー。真依ちゃんはそもそも呪術師になることについて消極的。直哉の言う通り、俺たちは面倒なことに手を突っ込んでいるんじゃないか。菜緒葉ちゃんは真依ちゃんに肩入れしすぎじゃないか。そしてそこまでしても、俺たちは将来真依ちゃんに逆恨みされて、殺意を持たれるんじゃないか。
でも、全部忘れることにした。
俺はこの言葉に応えたい。