黎明に保護され、そこでメルヒェンと戦う少年少女たちへ割り当てられた個室には、それぞれ一つずつ鏡が設置されている。身嗜みを整える為に使われている鏡は、人一人の姿を全て収められるほど大きい。女の子なら、こういった鏡は喜ぶかもしれないが、対して男の子はどうだろうか。
最低限の身嗜みを整えることさえできれば、少し場所を取る全身鏡よりかは、頭を映せる程の、少し小ぶりの鏡を壁に設置すれば部屋のスペースも広くなるし、別の部屋へ鏡を回せるはずだ。
現にこの部屋の主のジャックも、この大き過ぎる鏡を後ほど別なものに変えようと思っていた。
部屋の模様替えには興味はないジャックではあるが、この大き過ぎる鏡は男の自分には過ぎたものだろう。そうも思っていた。自分を着飾る予定もないのだから、この鏡は必要ないだろうと。
一週間前のジャックは、確かにそう考えていたはずだ。
全身鏡の前に立ち、寝起きのくせっ毛を直しながらジャックは思い返す。だが、今ではこのぐらいの大きさが丁度いいと思えてしまうのは、ジャックが変わってしまったからなのだろうか。
少し長くなった髪を、丁寧に櫛で解かす。一週間前なら絶対しない行動だ。だが、これを怠るとすぐに髪が絡まり、またあの三姉妹の指導を一から受ける羽目になる為、出来る限り丁寧に解した。
「…………はぁ」
ため息を一つこぼす。いつもより少し高く、どこか幼く聞こえる声がジャックの口から漏れる。最初は喋るたびにどこか違うと、居心地の悪さを感じていたが、人間の慣れというものは恐ろしく、今では慣れてしまった自分に対してまた、ためいきをこぼしそうになった。
髪をほぐし終えると、櫛を起き、今度はハンガーにかけてある黎明の服を手に取る。体型も変わり、新しく降ろして貰った制服からは石鹸の香りが漂い、清潔に保たれているのが分かる。
袖を通して、ボタンに手を掛ける。新しい制服にも慣れたもので、今では数分で着替えることができた。
鏡に映る自分を見て、改めてジャックは鏡を見る。
鏡には、一人の女の子が映っていた。
水色の長髪を後ろへ降ろして、黎明の制服を着こなしている女の子だ。
背はアリスより少し低い程度だろうか。少し幼い顔つきで、ぱっと見の年齢は十代前半に見える。
少し古ぼけたヘッドホンを首にかけて、スカートを少し揺らしながら、どこか自信なさげに縮こまっていた。
ジャックが黎明に保護されて、既に数ヶ月の月日が経っている。色々な人たちとも知り合いとなり、ジャックと同い年ぐらいの女の子なら全員知っているつもりだ。だが、目の前の鏡の少女についてジャックは知らない。話したこともなければ、会う時は、こうして鏡の前に立った時だけだ。
「…………あはは……ははっ……」
試しに笑ってみる。すると、鏡の少女もぎこちながらも可愛く笑った。
……ただの現実逃避だというのは、ジャックが一番よく知っている。だが、こうでもしなければとても今の状況に対して耐えられる自信がない。
鏡の前に立っている時にのみ現れるのであれば、この少女はつまりジャックなのだろう。
だが、ジャックは生まれた時から男として生まれて、今まで男として生きてきた。では目の前の少女は女装したジャックなのだろうか。いや、そうではないのだ。
むしろ、そうだったらまだ良かった。女装しただけなら、それを剥がして出てくる中身はただの男なのだから。
鏡の少女が、ため息をこぼす。ふと、時計を見ると針は七時を指していた。
そろそろ、食堂で朝食の時間だ。いつも遅刻をしているのだから、早めに部屋を出なければ。
最後にもう一度鏡を見て、身嗜みを確認する。これならみんなにアレコレ言われたりしないはずだ。
「……大丈夫、大丈夫。視子さんも、今の所は命に関わるような事はないって言ってくれたんだし。いつか治るよ……だから、大丈夫」
笑って、ジャック。
そうやって、いつもと同じように、あの事件が起こる前のジャックの笑顔と同じように笑う。
あの事件から既に一週間。未だ原因や解決策は分からず、いつ元通りの日常を送れるか分からなかった。
急に変わってしまった生活に、みんなの態度。不安や恐怖が完全になくなったわけではなく、むしろ変わらない現状に少し大きくなっている気がする。鏡を見る度に、白雪姫のように気持ちが沈んだりする事もある。だけど、それでもジャックは何とか明るく振る舞おうと心掛けている。
みんなを不安にさせるのは嫌だから。だから、今日もジャックはいつも通りに振る舞う。
少しづつ、少しづつだ。
そうしてジャックは鏡に布をかけると、飾り気のない自身の部屋を後にした。
ジャックが『女の子』になって今日で七日目の朝の事だった。