NieR:Automata JUSTICE   作:うぇいかた

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UA7000超え、お気に入り60ありがとうございます。

今回はSEED世界での話です。13話の続きになります。
この話から始めて入った読者は1話と13話から読む事を推奨。

人類に栄光あれ、蒼き清浄なる世界のため


Phase21 「対極ナル世界」

◇

 

 

 

ジブラルタル基地の無機質な通路には、空調の低いモーター音だけが這うように響いていた。

 

 

シンは鉛のように重い足を引きずりながら歩いていた。ただ宛てもなく薄暗い区画を彷徨うかのように……。

 

 

裏切り者(アスラン)を討った。 ザフトから逃亡した反逆者を、自分の手で。

 

レイも議長も言った。

 

 

ーーーー

 

“あれは正義の執行であり、ザフトを守るための、ひいては世界を守るための正当な行為だ”

 

ーーーー

 

 

頭では理解している。理解しなければならないと、自分に強迫的なまでに言い聞かせている。

 

だが、デスティニーのコックピットから降りた瞬間から、シンの両手は微かに、しかし止まることなく震え続けていた。

 

アロンダイトの切先が、グフの装甲を容易く貫き、動力部を叩き割ったあの感触。 操縦桿を通して手のひらに伝わった、確かな「破壊」と「死」の振動。 爆炎が網膜を灼き、海へと墜ちていく機体の残骸。

 

そのすべてが、何度も何度も脳内でフラッシュバックする。

 

---ーー---

 

『シン、やめるんだっ!!お前はそんなことのために力を手に入れたのか!?』

 

---------

 

アスランの言葉は、裏切り者の詭弁だ。聞く耳など持つ必要はなかった。自分を真っ向から否定し、あまつさえ誰よりも平和を望んでた議長の想いを踏み躙った、倒すべき敵だったのだから。

 

 

だが、あの機体には………

 

(……メイリン……)

 

 

喉の奥から、血の味がするほどの後悔がせり上がってくる。 なぜ、彼女が乗っていたのか。 なぜ、アスランと一緒にいたのか。

 

彼女は、ミネルバのオペレーターだった。 出撃のたびに、いつも彼女の声がコックピットに響いていた。

 

『ソードシルエット射出します!!』

 

『デュートリオンビーム照射します。』

 

『インパルス、発進どうぞ!』

 

どんな無茶な要求をしても、彼女は必死に食らいつき、的確なデータリンクでシンの背中を守ってくれた。何度も戦果を上げられたのも、ピンチを抜け出せたのも、彼女のサポートがあったからだ。

 

控えめで、いつも少しおどおどしていて、けれど誰よりも真面目にブリッジの席に座っていた、先輩の妹。

 

それを自分は、怒りの激情に身を任せ、光の翼で追い詰め、大剣で串刺しにした。

 

「ごめんな……」

 

誰もいない通路で、シンは壁に手をつき、嘔吐感に耐えるように呻いた。

 

「ごめんなさい……メイリン……ッ」

 

謝って済む問題ではない。命を奪ったのだ。

自分の手は、どれだけの血を吸えば気が済むのか。両親とマユを守れなかった。あの凍てつく冬のベルリンでステラを喪った。

 

力があれば、誰も死なせずに済むと思っていた。誰も悲しませずに済む世界を作れると信じていた。 それなのに、自分の手で、仲間を、恩人を殺し、新たな悲劇を生み出している。

 

(お……俺は……ル……ルル……ルナに、どんな顔をすればいいんだよ……!?)

 

彼女の家族を殺した。自分の手で……。その事実がシンの呼吸を浅くし、視界をぐにゃりと歪ませていく。狂ってしまいそうだった。いっそ、自分もあの海に沈んでしまえばよかったとすら思う。

 

 

 

----------

 

 

同じ頃……ルナマリアは自室のベッドの端に力なく座り込んでいた。

 

タリアの懐で、子供のように泣き喚いた。涙が枯れ果てるまで泣いたはずなのに、目の奥はまだ熱く、心臓にはぽっかりと風穴が空いたような虚無感だけが残っている。

 

部屋の半分は妹“メイリン”のスペースだ。

綺麗に畳まれた制服。デスクの上に置かれたままの、読みかけの電子書籍端末。彼女が愛用していた、少し甘い香りのするコロン。 つい数時間前まで、そこに妹の体温があった。妹の生活があった。

 

それが、唐突に断ち切られた。

 

(隊長……どうして!?)

 

彼が脱走兵になった事など、未だに信じられない。信じたくない。 あんなに不器用で、真っ直ぐで、優しかった人が。

 

どうして自分の大切な妹を連れて行ったのか?何故、メイリンは彼に協力したのか?それとも、巻き込まれただけなのか?

 

 

真実は海の底だ。 今となっては、誰にもわからない。 わかっているのは、妹が裏切り者として処理され、撃墜されたという冷酷な事実だけ。

 

(シンが……撃った)

 

その事実が、彼女の心を幾重にも引き裂く。 彼を憎めばいいのか? 妹の仇として?

 

いや、違う。

 

シンは軍の命令に従っただけだ。ザフトの兵士として、議長の意志として、彼は最も過酷な役目を押し付けられた。 彼だって、メイリンを撃ちたくなどなかったはずだ。

 

(じゃあ、私は誰を憎めばいいの? アスラン? 議長? それとも……気づけなかった私自身?)

 

わからない。 思考の海で溺れそうになりながら、彼女はふらふらと立ち上がった。この部屋にいると、メイリンの気配に押し潰されて息ができない。 逃げるように部屋を飛び出し、冷たい基地の通路へと足を向けた。

 

 

 

基地内の連絡通路。 照明が落とされ、非常灯の青白い光だけが点在するその場所で。

 

二人の足取りが、同時に止まった。

数十m先。 俯き、壁にすがるようにして歩いていたシン。

 

人形のように、力なく歩みを引きずっていたルナマリア。

 

互いの姿を視認した瞬間、時が止まったような錯覚に陥った。 シンは心臓を鷲掴みにされたように息を呑んだ。 目の前にいる。

 

今、世界で一番顔を合わせたくない、しかし、一番謝罪しなければならない人でもある。

 

赤いザフトの制服は皺だらけで、いつも勝気に整えられているはずのショートヘアは乱れ、その瞳は、ひどく腫れ上がっていた。 泣いていたのだ。自分が、彼女をここまで泣かせた。

 

「あ……あぁっ……ル、ナ……」

 

シンの口から、掠れた声が漏れた。 逃げ出したい。踵を返して、地の底まで逃げ隠れてしまいたい。 だが、そんなことは許されない。彼は一歩、鉛のような足を前へ踏み出した。

 

ルナマリアもまた、彼を見つめたまま動けなかった。 怒りが湧くと思っていた。妹を殺した男の顔を見れば、ぶん殴って、泣き叫んで罵倒しまうのではないかと。 しかし、彼女の目に映ったシンは、あまりにも小さく、壊れそうだった。

 

彼は罪人のように肩を震わせ、今にも泣き出しそうな、歪んだ顔をしていた。 彼もまた、傷ついている。 自分と同じように、大切なものを自らの手で壊してしまった絶望に、押し潰されそうになっている。

 

「……シン……」

 

ルナマリアの声が、震えながら通路に響いた。

 

その瞬間、シンの中で張り詰めていた最後の糸がプツリと切れた。 彼は膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えながら、ふらつく足取りでルナマリアへと近づいていく。 数歩の距離が、永遠のように感じられた。

 

彼女のの目の前まで来ると、シンは耐えきれずにその場に崩れ落ちた。 軍人としての威厳も、F.A.I.T.Hとしての矜持もない。ただの、絶望した一人の少年として。

 

「ごめっ……ごめんなさい……ッ!」

 

床に両手をつき、シンは嗚咽を漏らした。

 

「俺っ……俺が……! 止めたのに……帰ってこいって、何度も言ったのに……ッ! メイリン……メイリンまで、なんで……!」

 

涙が次々と床に落ち、小さな水たまりを作っていく。

 

「ルナの……大事な……妹を……家族を俺が……ッ! ごめんなさい……!!許してくれなんて言えない……でも、俺……ッ!」

 

シンの悲痛な叫びが彼女の耳を心を打つ。 彼の背中は、あまりにも小さく、震えていた。 命令に従い、裏切り者を討ち果たした英雄の姿など、そこには欠片もない。

ルナマリアは、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。 そして、震える両手を伸ばし、彼の肩を、その背中を、強く抱きしめたのだ。

 

「……あ……」

 

シンが息を呑む。 殴り飛ばされると思っていた。罵倒されると思っていた。 だが、ルナマリアの腕は温かく、彼女自身もまた、激しく震えていた。

 

「もう……いいの……」

 

ルナマリアの声も、涙で完全に崩れていた。

 

「シンは……悪くない……。命令だったんでしょ……? 仕方なかったじゃない……っ」

 

「でもッ……俺の手で……俺がデスティニーで……ッ!」

 

「やめて!!」

 

ルナマリアは彼の胸板に顔を埋めて叫んだ。 妹がどうやって死んだのか、それ以上言葉で聞きたくなかった。

 

「……わからないのよ……私も……。隊長がなんであんなことをしたのか……メイリンがなんで一緒に行ったのか……。何が正しくて、誰が悪いのか……全然、わからないの……っ‼︎」

 

ルナマリアの目から、再び大粒の涙が溢れ出し、シンの赤い軍服を濡らしていく。

 

「ただ……メイリンがいなくなった……。もう、いない……っ。それが、悲しくて……苦しくて……っ」

 

シンの両手が、力なくルナマリアの背中に回された。 彼女の細い体が、震えている。自分が壊した日常の重さが、そこにあった。

 

「うぁぁぁぁぁっ……あぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

 

シンは子供のように声を上げて泣きじゃくった。 ステラと家族を喪った時のように。自分の無力さと、取り返しのつかない罪の意識に苛まれながら……。

 

ルナマリアもまた、彼の背中を強く掴み、声を上げて泣き崩れた。 互いに傷つけ合い、互いに何かを喪った者同士。 正義も、大義も、明日への希望も、今の2人には何の意味も持たなかった。

 

ただ、今だけは互いの体温だけが、自分たちが辛うじて「人間」であることを証明する唯一の縋りであった。

冷たい金属の通路の片隅で、二人の慟哭だけが、いつまでも、いつまでも響き続けていた。

 

 

--------

 

 

 

 

同時刻、同基地内 

 

最高評議会議長のために用意された豪奢な執務室は、分厚い防弾ガラスを叩きつける夜雨の音だけが支配していた。間接照明の重苦しい影の中、ギルバート・デュランダルは革張りの椅子に深く身を預け、手元のクリスタルグラスを静かに揺らしている。

 

「……アスラン・ザラの死亡確認は、取れていないようだね?レイ」

 

 

その声は、重責を背負う若き部下への労いと、微かな失望を精巧にブレンドした甘い毒だった。その視線の先で、直立不動の姿勢をとるレイ・ザ・バレルが、僅かに伏し目がちに報告を続ける。

 

「申し訳ありません、ギル。ですが……不確かな事があります。あの時の爆発そのものが異常でした」

 

「異常?」

 

「はい。デスティニーがグフの動力部を貫き、致命的な誘爆を起こしたのは間違いありません。ですが、撃墜した機体の残骸……その破片すらも、一切発見されていないのです。まるで、爆発の瞬間に空間そのものが歪み、奴と機体を『吸い込んだ』かのような……」

 

彼の報告に、デュランダルの手がピタリと止まった。理と証拠を重んじるレイが「吸い込まれた」などという非科学的でオカルトめいた表現を用いること自体が異常事態だ。脳内では、無数の計算式と仮説が瞬時に構築されては破棄されていく。

 

デスティニーの過剰な出力が、未知の量子干渉を引き起こしたのか?

あるいは、“アスラン・ザラ”という存在そのものが、この世界の因果律から突如として弾き出されたとでも言うのか?

 

「……なるほど。興味深い現象だが、今は置いておこう」

 

デュランダルはグラスを机に置き、ふっと微笑を浮かべた。その笑みには、一切の温度がない。

 

彼が死んでいようが、異次元に消え去っていようが、もはや関係はない。彼が「ザフトを裏切り、逃亡の末に撃墜された」という事実さえあれば、台本は完璧に機能する。

 

「重要なのは、“不穏な因子”が1つ消えたということだ。さてと……」

 

デュランダルは立ち上がり、ガラス越しに広がる嵐の夜闇を見下ろした。その双眸に映っているのは、眼下の基地ではなく、世界の全てをチェス盤に見立てた狂気の青写真だ。

 

「ジブリール、君には、これから大いに働いてもらうよ。最も醜悪で、最も愚かな“絶対悪”としてね」

 

ブルーコスモスの盟主たる男。奴を逃がし、泳がせ、世界中にその醜悪な牙を剥かせ続ける。人々が絶望し、恐怖に震え、己の無力さを呪うその極致に至るまで。

彼らが真に「争いのない世界」を、血の涙を流して渇望するその瞬間まで。

 

「君の意志など関係ない。最高の火付け役となる運命(さだめ)なんだからね。この世界を蝕む“呪いの螺旋”を断ち切り、万人が役割を全うする『究極の救済』を完成させるために」

 

静かな独白は、冷たい雨音に溶け込み、世界を覆い尽くす絶対的な支配の予兆として執務室に滞留していた。

 

 

---------

 

一方、冷暖房が完備された豪奢な来賓室にて

しかし、その部屋の隅にあるカウチソファで膝を抱える少女は、ガタガタと激しい震えを止めることができずにいた。

 

雨でびしょ濡れになったドレスの上からタオルを羽織り、焦点の合わない瞳で虚空を見つめている。

 

 

『ミーア!! 俺と一緒に来るんだ!! このままでは君も、議長に消されるぞ!!』

 

 

アスランの悲痛な叫びが、鼓膜にへばりついて離れない。

銃を向けられ、追いつめられ、それでも自分を案じて差し出されたあの手。

どうして。どうしてあんな恐ろしいことを言うのだろう。

 

『違う!! 議長はそんな人ではないわ!!』

 

彼女はあの時、咄嗟に叫んでしまい、アスランの手を拒んでしまった。

議長が自分を殺す? そんなはずはない。“あの方”は誰よりも平和を望み、争いのない世界を創るために、自分を見出してくれた恩人なのだから。

 

その平和の象徴として、自分は「ラクス・クライン」になったのだ。だから、アスランにはザフトに留まって欲しかった。議長に頭を下げて誤解を解けば、争いのない世界で笑い合える日々が送れるのだから…きっと。

 

「……ううっ……ひっ……」

 

しゃくり上げるような嗚咽が、静かな部屋に響く。ミーアは震える指先で、懐から一枚の古びた写真を取り出した。水滴で滲みそうになるそれを、慌ててタオルの端で拭う。

写真に写っているのは、ラクスではない。

 

目は細く小さく、癖の強い黒髪ロング。鼻の頭から頬にかけてソバカスが散っている。どこにでもいる、目立たない、誰も振り向いてなどくれない少女。

 

それが“ミーア・キャンベル”の本来の容姿だった。

 

「……いや……戻りたくない……」

 

写真の中の自分を見つめながら、彼女はギリギリと奥歯を噛み締めた。

 

ラクス様に憧れて歌手になるのが夢だった。彼女の歌に救われ、自分もまた歌で誰かを笑顔にしたかった。

 

だが、現実は残酷だった。

何度オーディションを受けても、審査員の目は自分を通り越して別の誰かを見ていた。自分の見た目に対しての陰口が聞こえてくる。落ちて、落ちて、すり減って。その度に、憧れの人の歌を聴いてはボロボロと泣きながら自分を慰めた。

 

そんな泥のような日々の果て。あの日、デュランダルから声をかけられた時のことを思い出す。

 

『君の歌声は、世界を救う力になる。私に、君の人生を預けてくれないか?』

 

あの優しい微笑み。あの甘く響く声。

生まれて初めて「自分」を肯定され、強烈に求められた瞬間だった。

 

顔にメスを入れ、声を張り上げ、呼吸のタイミングまで仕草を真似た。激痛も、己を失う恐怖も、彼から与えられる「ラクス」としての賛美の前では快楽に等しかった。

 

鏡の前に立つたび、そこに「誰もが愛するラクス・クライン」がいることに、彼女は狂おしいほどの喜びと優越感を感じていた。兵士たちが自分の歌で涙を流し歓声を上げ、世界が自分の歌と言葉に熱狂する。

 

アスランの手を取って逃げれば、自分はまた、この写真の「ただの地味な女の子」に戻ってしまう。

 

ラクス様の美しい皮を剥がされた自分など、世界中の誰が愛してくれるというのか。

誰も愛してくれない。現に、あの優しかったアスランでさえ、結局は「本物のラクス」の幻影を求めて自分のもとから去って行ったではないか。

 

「私は……ラクスよ。ラクス・クラインなんだから……っ!」

 

ミーアは写真を胸に強く抱きしめ、声を殺して泣き崩れた。彼女は気づいていない。否、気づかないふりをしているのか。

 

自分が議長の使い捨ての駒でしかないことを。この心地よい豪奢な来賓室が、決して外へ出ることの許されない金色の鳥籠であることを。

 

そして何より、「本物のラクス・クライン」が再び世界の表舞台に立った時、己という存在がどのように処理されるのかという、逃れられない末路に。

 

彼女の流す涙は、平和を憂う聖女のものではない。ただ、偽物の自分を手放す恐怖と、いつか必ず訪れる「用済み」の烙印への絶望的な怯えだった。

 

窓の外では、残酷なまでの雷鳴が轟いている。

 

運命という名の巨大な歯車は、少女のささやかな承認欲求も、戦士たちの慟哭も、すべてを無慈悲に轢き潰しながら、議長の描くの平和と救済へと冷酷に動き始めていた………。

 

 

---------

 

同時刻、ジブラルタル基地外縁。

サーチライトの白刃が交差する光網の死角を縫うように、一つの影が音もなく滑り込む。

 

漆黒のタクティカルスーツに身を包んだ男は、ザフトの厳重な警備システムを欺き、見事に外縁部の潜入ポイントまで到達していた。岩陰に身を潜め、手元の極秘通信端末の暗号化キーを素早く叩く。

 

「……こちらJ.A。無事に潜入した。これより、このジブラルタルにて………っ!?」

 

彼が暗号通信を繋ごうとした、まさにその刹那。

歴戦の戦士である彼の全身の産毛が、一斉に逆立った。

 

(――後ろだ!)

 

殺気はない。足音もない。生命の鼓動すら、呼吸の気配すら感じられない。だが、確かな「質量」が、己の背後数メートルの位置に突如として出現した。

 

通信端末を泥濘に投げ捨てると同時に、ホルスターから軍用拳銃を抜き放つ。流れるような動作で振り返りざま、見えざる影の眉間へと銃口を突きつけた。

 

「!? 誰だ!!」

 

鋭い呼気を吐き出した男の目に映ったのは、この厳戒態勢の軍事基地には絶対的に不釣り合いな存在だった。

 

「ご安心ください。私は貴方の敵ではありません」

 

土砂降りの雨に打たれながらも、その少女は一切の動揺を見せず、ただ静かに立っていた。

 

黒い髪を無造作に二つ結びにし、大きな丸眼鏡をかけている。付け襟のあるネクタイに白いブラウス、黒のミニスカート、そして太腿まで覆うは黒いサイハイブーツ。完全なモノトーンの出立ち。

 

奇妙なことに、これほどの豪雨の中にあって、彼女の衣服も、肌も、濡れているように見えなかった。まるで、この空間から完全に「浮いて」いるかのように。

 

そして彼女の傍らには、彼女自身の背丈の半分はあろうかという、不気味なほど巨大で真っ白なトランクが置かれていた。

 

「民間人が入れるような場所ではないぞ!! 貴様、何者だ!」

 

男の銃口はピタリと少女の眉間を捉えている。引き金を引くのに躊躇いはない。

 

だが、彼女の瞳は、向けられた銃口を見るでもなく、警戒してる目の前の男を見るでもなく、どこか「もっと遠くの次元」を観察しているように凪いでいた。

 

「私はただの『記録者』でございます。親しみを込めてくださるなら、“アコール”とでも呼んで頂けると幸いです」

 

「記録者だと……?」

 

「ええ。本来ならば、この時間軸(タイムライン)に私が直接干渉することはありません。ですが……看過できない特異点が発生しました」

 

アコールは丸眼鏡を中指でクイッと押し上げ、手元の白いトランクを軽くポンと叩いた。

 

「貴方が探そうとしている“あのお方”は、すでにこの世界(ブランチ)の座標には存在しません。彼の存在確率は、ある強烈なエネルギーの奔流によって、全く別の並行世界へと弾き飛ばされました」

 

「……何を寝ぼけたことを。暗号通信のつもりか?」

 

男の眉間には深い皺が刻まれる。地球軍のエクステンデッドか?

この少女の纏う空気は、人間が持つそれと決定的に乖離している。

 

「暗号などではありませんよ。オーブ連合首長国国防軍一佐“レドニル・キサカ”様」

 

「ッ……!?」

 

キサカの指が引き金に掛かる。

一切の身分証を持たず、コードネーム“J.A(ジャック・アトラス)”としての任務。顔をも割れてないはず。それなのに、この得体の知れない少女は容易く言い当てた。

 

「警戒なさらないでください。私はただ、記録の帳尻を合わせに来ただけ。……そう、あの方の『消失』が、この世界にどのようなバグをもたらすのか。あるいは、デュランダル氏が描く“運命(デスティニー)”が、“あの方”が不在の盤上でどう狂っていくのかを、ただ見届けるために」

 

少女の唇が、初めて僅かに弧を描いた。

それは、水槽の中の昆虫を観察するような、圧倒的上位者としての酷薄な笑み。

 

「お伝えすべきことは伝えました。貴方は、貴方の役割を全うしてください。……いずれまた、次元の境界が交わる時にお会いしましょう」

 

「待て! そのトランクの中身は何だ!!」

 

キサカが叫んだ瞬間、少女の足元から泥濘が波打ち、空間そのものが陽炎のように歪み始めた。 

 

「これですか? ……ふふっ」

 

アコールは白いトランクを撫でた。

 

「これは『特異点の欠片』。……あちらの世界で不要になった、けれど、こちらの世界を終わらせるには十分すぎるほどの、“悪意の塊”ですよ」

 

雷光が閃き、キサカの視界が真っ白に染まる。

激しい雷鳴が鼓膜を打った直後――そこにいたはずの少女の姿は、巨大なトランクごと完全に消失していた。

足跡一つ、残さずに。

 

「……幻覚、などではないな」

 

銃を下ろしたキサカの額から、雨水とは違う冷たい汗が流れ落ちる。

 

“アスラン・ザラは別の世界へ弾き飛ばされた”。

 

“不要になった悪意の塊”。

 

少女の残した不可解な言葉の羅列が、キサカの脳裏にねっとりとこびりつく。

 

議長の野望、シンとルナマリアの慟哭、ミーアの絶望。それらすべてを嘲笑うかのような、全く別の巨大な影がこのC.E.(コズミック・イラ)の世界を覆い始めようとしているかのように、雨はいっそう激しさを増してジブラルタルの地を叩き続けていたのだった。

 

 

 

 

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