ヤーナムの狩人とオラリオの導き手:啓蒙から始まる恋文字(れんじ) 作:もいもい130
宿屋の窓から飛び降り、華麗な着地を決めてそのままダンジョンへ逃げ込もうとした狩人の前に、その「天敵」は立ちはだかった。
「……どこへ、行くつもりですか?」
「…………ッ!?」
路地の出口。そこには、書類の束を抱え、冷徹な微笑を浮かべたエイナ・チュールが待ち構えていた。彼女の後ろには、ギルドの武装職員数名が、逃走経路を完全に遮断するように並んでいる。
「神々が騒いでいるのは自業自得ですが、あなたはまだ、重大な義務を一つ忘れています」
「……義務だと? 私は……ただ、静寂を求めているだけだ」
「ギルドの登録書類、見直しましたよ。あなた、名前のサイン以外、全て代筆ですよね? つまり、この街の言葉の『読み書き』ができない」
エイナが、一通の書類を突きつける。そこには狩人が適当に書いた、歪な文字の残骸が並んでいた。
「オラリオで生きていく以上、契約書や掲示板が読めないのは致命的です。あなたがまた『マジェスティックな勘違い』で国際問題を起こさないよう、今日からみっちり勉強していただきます」
「……断る。私には、学ぶべき真理は既に——」
「座 り な さ い。」
影の底へ逃げ込もうとした狩人の襟首を、エイナの指が、まるで上位者の拘束術のように的確に掴み取った。
数時間後。ギルドの個人指導室。
そこには、ミノタウロスを素手で解体する男が、小さな机に向かってペンを握り、ガタガタと震えている異様な光景があった。
「違います。その文字はもっと角を丸く。……ほら、また筆圧で紙が破れましたよ!」
「…………ぐ、……む……」
狩人は、狩人の帽子を脱がされ、剥き出しの頭を抱えるようにして机に突っ伏していた。
ヤーナムの狂気には耐えられても、エルフの少女が教える「基礎文法」という名の拷問には、精神(啓蒙)が耐えられない。
その足元では、使者たちが無言で、しかし全力で主人の手助けをしようと動いていた。
一人の使者は、消しゴムのカスを拾い集めては、それを「供物」のように机の端に積み上げている。
もう一人の使者は、エイナの指導を真似て、自分の指先で影の中に「クケケ」と読める(ように見える)不気味な象形文字を書き殴っていた。
「……おい、よせ。その文字は呪われている。……消せ、今すぐ消すのだ……」
「狩人! 私の目を見てください! どこを見てるんですか!」
エイナの定規が机を叩く。その音に、狩人は「ヒッ」と短く息を呑み、再び震える手でペンを握り直した。
「……マジェスティック……。これが、私の受けるべき罰だというのか……」
「変な単語を使わない! ほら、次は『私は二度と神様を泣かせません』と十回書いてください。……使者さん(?)たちも、主人の邪魔をしない!」
エイナには見えていないはずの使者たちが、あまりの熱気に押されたのか、ピタッと動きを止めて正座した。
狩人は、自分を慕う異形たちが、人間の少女の「教育」という名の神威に屈服していく様を見て、本当の絶望を知った。
ダンジョンの深層へ逃げることすら許されず、狩人の「真理を求める旅」は、いつの間にか「ひらがなとカタカナの習得」という、最も困難な試練へとすり替わっていたのである。