ヤーナムの狩人とオラリオの導き手:啓蒙から始まる恋文字(れんじ) 作:もいもい130
ギルドの地下室に監禁されること数日。狩人の精神は、もはや「宇宙の瞳」を求める高潔な志を忘れ、ひらがな五十音の迷宮で迷子になっていた。
「いいですか、狩人。昨日の復習です。……これは?」
「……『か』、だ」
「よくできました。では、そこに『れ』を足すと?」
「…………『かれ(帰れ)』」
狩人は虚無の瞳で答えた。もはや彼の頭にあるのは、自分を説教の的にする者たちへの「帰れ」という切実な願いだけだった。
エイナが資料を取りに席を立った一瞬の隙。狩人の足元の影から這い出した使者たちが、主人の苦悩を察して動き出した。彼らは主人が書きなぐった練習帳の文字を「神秘の呪文」と勘違いし、それを広めるべく壁を通り抜け、オラリオの街へと繰り出していく。
その夜。
エイナの監視を潜り抜け、ようやく宿に戻った狩人の前に、またしてもあの「執着の塊」が現れた。
「……続きを。……マジェスティックな、あの続きを教えて」
廊下の突き当たり、月光を背負って立つアイズ・ヴァレンシュタイン。
狩人は頭を抱えた。ここでメンシス神拳を振るえば、また翌朝にエイナの「お勉強会」が追加されるのは目に見えている。
(……そうだ。覚えたての文字で、意志を伝えれば……)
狩人は懐から、エイナに無理やり持たされた練習用の紙とペンを取り出した。そして、震える手で精一杯の拒絶を書き記す。
『かえれ(帰れ)』
……と、書くつもりだった。
だが、数時間の特訓で指先が麻痺し、さらに使者たちが横から「もっと力強く!」と言わんばかりに影を揺らした結果、その文字は致命的な変貌を遂げた。
狩人は無言で、その紙をアイズの鼻先に突きつけた。
『 か れ ( 狩 れ ) 』
「…………!」
アイズの瞳が、黄金色に輝いた。
彼女の脳内では、昨夜のミコラーシュの如き咆哮が再生される。
「素晴らしい(マジェスティック)……! 私を、人形ではなく、一人の『獲物』として認めてくれたのね……!」
「……!? いや、違う、それは——」
「わかった。……全力で、応える」
アイズが剣を引き抜き、凄まじい風の加護が廊下を吹き荒れる。
狩人は絶望した。文字という「文明」を使った結果、事態は昨日よりもさらに暴力的な方向へと加速してしまったのだ。
一方その頃、オラリオの目抜き通りでは、パニックが起きていた。
使者たちが「主人の教え」を広めるべく、街中の壁に、影の粘液で巨大な文字を書き殴っていたからだ。
『 あ い な ( エ イ ナ ) 』
『 ま じ ぇ す て ぃ っ く 』
「呪いだ! ギルドの受付嬢を称える、不気味な呪いの予言だ!」
「文字が動いてるぞ! 助けてくれ!」
翌朝、街中に溢れる「エイナ」と「マジェスティック」の文字、そしてボロボロになった宿屋の廊下を見たエイナ・チュールが、どのような顔をするか。
狩人は、アイズの剣をいなしながら、もはやヤーナムの終わりよりも恐ろしい「明日」を予感し、天を仰ぐのだった。
「……マジェスティック……。これが、言葉を持つことの代償か……」