ヤーナムの狩人とオラリオの導き手:啓蒙から始まる恋文字(れんじ)   作:もいもい130

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第28話:卒業試験、あるいは「親愛」の定義

 

ギルド資料室の窓から差し込む夕日は、どこか柔らかく、これまでの血生臭い特訓の終わりを予感させていた。

机の上には、山積みになった反省文と、ボロボロになったペン、そして空になった水銀弾の箱……ではなく、使い切ったインク瓶が並んでいる。

「……狩人さん。今日で、一通りのカリキュラムは終了です」

エイナ・チュールが、静かに教本を閉じた。彼女の眼鏡の奥にある瞳は、いつもの厳格な「教育者」のものではなく、一人の冒険者の成長を見届けた「導き手」の慈愛に満ちていた。

「最初は、名前すらまともに書けなかったあなたが、今ではこれほど難しい言葉を使いこなせる(方向性はともかく)ようになりました。……正直、驚いています」

「………………」

狩人は狩人の帽子を脱ぎ、机の上に置いた。剥き出しになった彼の表情は、ヤーナムの獣を追っていた頃の冷酷なものではなく、どこか憑き物が落ちたような、穏やかな疲弊を湛えていた。

足元の影では、使者たちが無言で、しかし寂しそうにエイナの足元に集まっている。彼らにとっても、この「定規が飛び交うお勉強会」は、いつしか心地よい日常の典礼となっていたのだ。

「最後に、卒業試験を行います。これに合格すれば、あなたはもう自由です。宿屋へ帰るなり、ダンジョンの深層へ逃げるなり、好きにしてください」

エイナが真っ白な紙を一枚、狩人の前に置いた。

「課題は……『私の良いところを、百個挙げること』。ただし、条件があります。『マジェスティック』『メンシス』『捕食者』『血塗られた』といった、あなたの不気味な造語や形容詞は一切禁止です。……等身大の、あなたの言葉で書いてください」

「…………百個だと?」

狩人は絶句した。

上位者を屠るための百の戦術なら、瞬時に思いつくだろう。だが、目の前の「若き導き手」の美点を、狂気に頼らずに百個も並べる……。それは、深淵を覗き込むよりも遥かに困難な試練に思えた。

静寂が資料室を支配する。

ペンを握る狩人の指が、かつてないほどに震えていた。

(……良いところ、か。……あの苛烈な定規の速さか? それとも、私の逃走経路を完璧に予測する上位者の如き勘の鋭さか……?)

脳裏を掠めるのは、いつも自分を叱り飛ばし、檻(資料室)に閉じ込めてきたエイナの姿だ。しかし、さらに深く記憶の澱を探れば、そこには別の光景があった。

深夜まで続く補習の間、眠気に耐えながらも自分の稚拙な文字に付き合ってくれた、細い指先。

「マジェスティック」と咆哮する自分を、変質者として突き放すのではなく、本気で「オラリオで生きていけるように」と案じてくれた、真っ直ぐな眼差し。

そして何より、誰もが「得体の知れない異物」として自分を遠ざける中で、彼女だけは「自分のファミリアの冒険者」として、正面から向き合ってくれたこと。

(……ああ。私は、この「導き」に救われていたのか……)

狩人の胸の内に、メンシス学派の陰謀ではない、純粋な熱が灯る。

影の中で使者たちが、ペンを持つ主人の手をそっと支えた。彼らもまた、主人の心に芽生えた「人間らしい情動」を、無言の祈りで祝福しているようだった。

狩人は、猛然と書き始めた。

* 文字を教えてくれたこと。

* 逃げ出した私を、諦めずに追いかけてくれたこと。

* 説教の声が、意外と心地よいこと。

* 怒ると少しだけ鼻に皺が寄るところ。

* ………………。

一文字、一文字を紡ぐたび、狩人の内側にあった「ヤーナムの孤独」が、オラリオの柔らかな光に溶けていく。

三十個、五十個、八十個……。

言葉は溢れ出し、もはや条件であった「百個」を越えても、彼のペンは止まらなかった。

数時間が経過した。

外はすっかり暗くなり、魔石灯の灯りが資料室を照らしている。

「……終わった。……導き手よ、これが私の……答えだ」

狩人は、文字でびっしりと埋め尽くされた十数枚の紙を、エイナに差し出した。

エイナはそれを、一つ一つ、丁寧に読み進めていく。

そこには、もはや「宇宙の真理」も「悪夢の主」も存在しなかった。

ただ、不器用な一人の男が、自分を「人間」として扱い、導いてくれた女性への、剥き出しの感謝と敬意が綴られていた。

『 ……九十八。あなたが淹れてくれたお茶が、ヤーナムの輸血液よりも温かかったこと。

 九十九。あなたが私を叱るたび、私は自分がまだ、この世界に存在していいのだと思えたこと。

 百。……エイナ・チュール。お前が、私の「導き」であってくれたこと。 』

読み終えたエイナの瞳が、微かに潤んでいた。

彼女は鼻をすすると、わざとらしく大きな音を立てて書類を整えた。

「……合格です。……というか、百個を大幅に過ぎています。書きすぎですよ、馬鹿」

「……済まぬ。……文字を覚えると、どうにも饒舌になってしまうらしい」

狩人は照れ隠しに、狩人の帽子を深く被り直した。

エイナは席を立ち、窓を開けた。夜のオラリオの風が、室内の澱んだ知性を洗い流していく。

「これで、あなたは自由です。明日からは、もうここに来る必要はありません」

「………………」

狩人は立ち上がり、出口へと歩き出そうとした。だが、その足は、かつて脱走を企てた時のような軽やかさを持たなかった。

彼は扉の前で立ち止まり、振り返ることなく呟いた。

「……エイナ。……明日も、私はここに来るかもしれない」

「え?」

「……文字の……。……あー、その、文法の、復習が必要になるかもしれんからな。……それに、使者たちが……お前の説教を聴かないと、夜も眠れぬと言っている」

影の中の使者たちは、そんなことは一言も言っていないが(そもそも喋れない)、主人の不器用な嘘を支えるように、一斉に「そうだそうだ!」と言わんばかりに激しく首を振った。

エイナは、一瞬驚いたような顔をした後、これまでにないほど、柔らかく、満開の花のような笑顔を見せた。

「……ふふっ。仕方のない人ですね。……いいですよ。ただし、明日は『お礼の手紙』の正しい書き方を教えます。あんな『内臓が震える』なんて表現、二度と使わせませんからね?」

「……承知した。……手柔らかに頼む、導き手よ」

狩人は、今度こそ本当の足取りで、資料室を後にした。

彼の心には、もはやメンシスの呪縛も、上位者の悪夢もなかった。

あるのは、明日またここへ来るための、マジェスティックではない、穏やかな「再会」への期待だけだった。

廊下を歩く狩人の背後で、使者たちが影の中で一列に並び、エイナの部屋に向かって、これまでで最も優雅な、音のない礼を捧げていた。

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