その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:ヤッくん

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10話 その配信、劇薬につき ―― 女王の陥落と修羅場の予感

――阿久津 魅夜(あくつ みや)視点――

 

 

ガシャンッ!!

 

 

安っぽい透明なガラスのコップが、冷たいフローリングの上で粉々に砕け散った。

 

「クソがァァァァァァァァ!!!!」

 

狭いワンルームに、アタシの喉を引き裂くような絶叫が木霊する。

 

「ふざけんじゃねぇ……ッ! 殺す……! ぶち殺してやるよォ、あの女ッ!!」

 

手の中で震えるスマホの画面には、銀行アプリの冷酷な数字が並んでいる。昨日まで、アタシの全能感を支えていた数千万円の預金残高。それが今、見るも無残な『千四百八円』という端数を表示していた。

 

原因は分かっている。三年間、アタシの裏方を支えていたマネージャーの女――サキだ。

 

事務作業が一切できないアタシをサポートすると称して、アタシの財布も、スケジュールも、そして「女王」としてのブランド戦略も、すべてを握らせていた。

 

炎上の火消しに必要だと言われ、印鑑とパスワードを預けたのが最後。今朝、アタシのアカウントが凍結されると同時に、サキは全財産を引き出し、連絡を絶った。

 

それだけじゃない。アタシがこれまで隠し通してきた反社時代の悪事、過去の因縁や、裏工作の記録まで、一斉にネット上にバラしやがった。

 

『魅夜、あんたはもう終わり。女王なんて呼ばれて、自分が特別な人間だと勘違いしたのが運の尽きね。……あ、このお金は、今まであんたのワガママに付き合わされた迷惑料として貰っておくわ。じゃあね、負け犬さん。せいぜい、そのボロアパートで野垂れ死になさい』

 

最後に送られてきたメッセージを思い出すたび、視界が真っ赤に染まる。

 

信じていた。背中を任せていた。それなのに、結局誰もがアタシを食い物にするだけのクズだったのだ。

 

(あォ!? 誰が負け犬だァ?! クソが! クソが! クソがぁ!!!!)

 

怒りに任せて壁を蹴り飛ばすが、足の指に走った激痛が冷酷な現実を突きつけてくる。ネット上には「前科者」「枕営業」といった中傷が溢れ、媚びを売っていた連中は一斉にアタシをブロックした。金がねぇ。味方もいねぇ。

 

女王なんて呼ばれてふんぞり返ってたアタシに残ったのは、割れたコップの破片と、電気の止まった暗い部屋だけ。

 

 

アタシが愛したのは、スマホの中の「数字」だけで。

アタシを愛したのも、都合よく踊ってくれる「数字」だけだったんだ。

 

(……虚しい。死にたい。いや、死ぬ前にあの女を地獄へ引きずり落としてやりたい。でも、もうアタシにはその力すら残ってねぇ……)

 

暗闇の中で、自分が「汚れたゴミ」のように思えてくる。

スマホのバッテリー残量が『2%』を示す。そのわずかな明かりさえ消えれば、アタシは正真正銘、この世から消滅する。

 

 

――その時だった。

 

 

コンコン、と。

 

 

静寂を裂くような、あまりに場違いで、どこか間の抜けたノックの音がした。

 

「……あァ!? 誰だよ、こんな時によォ……?」

 

アタシは這いずるようにドアまで行き、乱暴に鍵を開けた。借金取りか、野次馬か。誰でもいい、今のこの怒りをぶつけてやる。だが、そこに立っていたのは――。

 

「あ、魅夜さん。こんばんは。……って、真っ暗じゃないですか。停電?」

 

隣の部屋の住人、結城 悠(ゆうき ゆう)だった。

手にビニール袋を提げ、お花畑のような呑気なツラを晒してやがる。

 

「……テメェ。何の用だヨォ......アタシを笑いに来たのか? あァ!? 見ろよ、一文無しの女王様だぜ......ケヒャヒャ! 傑作だろォが......」

 

「笑いに来たんじゃないですよ。……バイトの常連さんから大量のジャガイモがもらちゃって。肉じゃが作ったんですけど、一人じゃ食べきれなくて。……魅夜さん、いります?」

 

「……は? 肉じゃが………テメェ、頭沸いてんのかヨォ? 恩を売って、後で高く売りつける算段なら無駄だぜ」

 

「あはは、そんなわけないじゃないですか。ただ、肉じゃが。……冷めると美味しくないですよ。火加減とか結構頑張ったんですから」

 

悠は、アタシの罵倒なんて聞こえていないみたいに、勝手に部屋に足を踏み入れてきた。身体から漂う、出汁の温かい匂い。

 

「何があったか知らないですけど、ポテチ食べながら毒舌を吐くいつもの魅夜さんに戻ってくださいね。あ、勝手に俺の部屋に入り込むのだけは辞めてくださいね」

 

悠は、袋の中からプラスチックのタッパーを取り出して続けて言った。

「お裾分けを持ってきたのは、俺がそうしたいと思ったからですよ、魅夜さん」

 

アタシを「女王」ではなく、ただの「隣人」として見ている。

この男の瞳には、アタシが失った「数字」の価値なんて、最初から一円分も映っていなかった。

 

「……バカ……てめぇ……適当なこと言ってんじゃねぇぞ……」

 

悠の瞳には、打算も、軽蔑も、同情すらなかった。

ただ、隣人を心配するだけの、純粋すぎて眩しくなるほどの「善意」だけがそこにあった。

 

(……あ。この男だけは、アタシの数字やお金じゃなくて、アタシ自身を見てる……)

 

自然と、アタシの瞳から涙がこぼれた。

 

「おい、悠。……呼び捨てだ」

 

アタシは悠には呼び捨てで呼んでほしいと思った。

 

「はい?」

 

「アタシが呼べっつったら呼ぶんだよォ。……ほら、早くしろよ……ッ!」

 

悠は少し困ったように頭を掻くと、優しく、本当に優しく、アタシの名前を呼んだ。

 

「はぁ……今日だけですよ。……魅夜」

 

 

ドクン――ッ!!

 

 

心臓が、今まで経験したことのない衝撃で跳ねた。

 

 

(ヤベぇヤベぇヤベぇ……っ、想像以上にヤベぇ.......。テメェ……ッ! その顔で、その声で……ッ! くっ、鼻血出そう……ッ!!)

 

 

名前を呼ばれることが、これほどまでにハレンチで、これほどまでに破壊力を持つなんて。

アタシの中の「女王」の仮面が粉々に砕け散り、ただの「一人の女」が露わにされる。

 

「……はい、これ。肉じゃがと、メモ。……魅夜、秘蔵のレシピだからみんなには内緒ですよ」

 

悠はそう言って、去っていった。

 

アタシは床に座り込み、タッパーから立ち上る出汁の香りに包まれる。

一口、口にする。温かい。じっくりと煮込まれたジャガイモが、口の中でとろけていく。

 

 

「……は……っ、あ、うぅ……っ……あァァァ……ッ!!」

 

 

(アタシが信じてきた「数字」は、アタシを温めてはくれなかった。でも、今この一口は、紛れもなく「本物」だ……)

 

悠が置いていったメモを、震える手でスマホの明かりに照らす。

そこには、殴り書きの、一生懸命に書かれた汚い文字があった。

 

 

『じゃがいもは、角が取れるくらいまで煮込むと、味が染みておいしくなります。by 悠』

 

 

「……なんだよ、これ。字、汚ねぇんだよォ……。なんで……アタシに何も求めてこねぇんだよォ……ッ!」

 

(信じられる奴なんていねぇ……そう思いてぇのに。テメェのせいで、諦めがつかねぇじゃねぇかよォ……ッ!)

 

アタシは、滲んでしまったメモをドライヤーで丁寧に乾かし、シワ一つないように伸ばした。

泣き笑いの中、アタシの瞳に、女王としての、いや、もっと恐ろしい「狂信者」としての光が宿る。

 

数字も金も失った。

だが、アタシは世界で唯一の『本物』が何かわかったんだ。

 

 

 

 

その数時間後。

 

アタシは、暗闇の部屋で予備のバッテリーを使い、配信用のライトを最強にしてライブ配信を開始していた。

 

カメラは、テーブルの上の料理とアタシの指先、そして「首から下の服」だけを映すように角度を固定している。アタシの顔は一切映っていない。だが、声だけでアタシだとわかるはずだ。

 

「ケヒャッ! 湧いてんねェ、ゴミ共。……見て、この肉じゃが。火加減、完璧だろォ?」

 

チャット欄が、見たこともないスピードで爆走していく。

 

《生きてたのかゴミ》

《引退配信しろ》

《元反社の犯罪者》

《きえろ》

《よくのこのこ顔出せたな》

《しーねしーねしーね》

 

(……ケヒャヒャ! いつもならキレる罵倒も、今は最高のBGMだぜ)

 

「悠。……おい、悠。コーヒー、お代わり。ブラックで、やっぱ砂糖は一個ね。あと、さっき言っただろ、呼び捨てにしろって」

 

「魅夜さん、ホントに元気になったなぁ。はいはい、コーヒー淹れますよ〜」

 

「呼び捨てで呼ぶんだよォ! あと敬語もやめろ……ほら、早くしろよ……ッ!」

 

「はいはい、魅夜。コーヒーいれるよ〜」

 

(くぅぅぅたまんねェェェェ! まじで鼻血出そう。悠の口からアタシの名前が……ッ! 録音、録音してぇ……ッ!)

 

カメラの外から聞こえる悠の声。

チャット欄が一時停止し、その直後に爆発した。

 

《え、今の男の声?》

《イケボすぎんだろ》

《呼び捨て!?》

《運命の刻印かよ!》

《誰だよその悠って!》

《特定班はよ》

《かわれ》

《いいから男うつせ》

 

「……あー、悠の淹れるコーヒー、香りがヤバい。脳が溶けそう。……ねえ、みんな。聞こえる? 豆を挽く音。これ、アタシのためだけに鳴ってる音なんだよねェ」

 

ミルが回る音がマイクに乗る。

悠がコーヒーを置くと、アタシはわざとらしく肉じゃがを一口掬い、カメラの死角にいる悠へ向けた。

 

「ほら……あー、しろ。あー。............食べさせろって意味だよ! 言わせんな! あとふーふーもしろ!」

 

「魅夜、ホントしょうがないなぁ。今日くらいは……いいか。ふー、ふー。ほら、魅夜。口開けて」

 

《あーん。その行為は、男女比が歪んだこの世界において、一生の服従と支配を誓い合う、画面が割れるほどに破廉恥で濃厚な愛撫に他ならない》

 

「……っ!」

 

(あ、あァ……ッ! 悠の吐息が、アタシに……。あんなに丁寧に、アタシが火傷しねぇように……っ。あァ、もう、その空気ごと吸い込みてぇよォ……!)

 

「ぱくっ――っあ、……は、ぁ……。……あったか、い……。……おいしい……」

 

(しあわせ。しあわせすぎて、おかしくなっちゃう。)

 

アタシの声は、自分でも引くくらいトロンとした、夢遊病者のような甘ったるい音になっていた。

 

チャット欄はもはや阿鼻叫喚の地獄絵図だった。

 

《あーん......だと!?》

《今すぐかわれ! 秒でかわれ!》

《えっちすぎるだろ死ね!》

《これって伝説上の行為だろ!?》

《どこに投げ銭すればいいの》

《特定班、いいからこの部屋の間取りから場所割り出せ! はやく!》

《くぁwせdrftgyふじこlp》

 

「………あ、これ、まだ熱いな。悠、ほら。もっかいふーふーして。もっと熱を飛ばせよォ」

 

「……熱い? ごめんごめん。ふー……ふー……。はい、これなら大丈夫かな?」

 

「あァ……最高。これだよ、これ。全人類、見てるぅ? アタシだけがこれを所有し、愛でてるんだよォ……ッ!」

 

アタシは、あの「字の汚いレシピメモ」を、カメラに一瞬だけ映した。

 

その紙切れは、今やアタシの部屋の最高級金庫――かつては何千万円もの札束が入っていた場所――の真ん中に、恭しく鎮座している。もはや、ここに入れる価値のあるものは、この紙切れとあの日の飲み残しのペットボトル以外にはない。

 

(金も、フォロワーも、もういらねぇ。テメェらみたいな『数字』しか見ない奴らには、悠の血管の良さも、この出汁の深みも、一生かかったって分かんねぇだろォ……ッ! キャハッ!)

 

配信画面は、もはや謝罪の場ではない。

この「世界一の宝物」を自分だけが占有していることを知らしめるための、巨大なマウント装置へと変貌していた。

 

「あ、そうそう。明日の夜、また新しい動画あげるから。タイトルは『献身的な飼い犬を脱がしてみた』……なんてね。ケヒャヒャ! 冗談だよ、悠。そんな、……そんな可愛い顔で困るんじゃねぇよォ!」

 

「冗談でもそんなこと言わないでくださいよ……」

 

(あァ、今の困り顔……全人類に見せてやりてぇけど、アタシだけのものにしておきてぇ……ッ! マジで興奮して鼻血出そう。あっ、鼻血出た)

 

もはや配信を続ける余裕なんてなかった。

 

「じゃあな、ゴミ共。指をくわえてアタシの幸せを見てろよォ! また明日なぁ!」

 

ブツッ、と配信を切る。

 

「俺、バイト明日早いんでそろそろ帰りますね」

 

「……テメェ。……その、……あー……。……えっと。……あ、明日も、……来て、くれる……?」

 

消え入りそうな声で漏らした本音に、直後、ハッと正気に戻る。

 

「――あァ!? 勘違いすんなよ! 掃除の続きをさせようと思ってたんだよォ!!」

 

「はいはい、わかりましたよ。……今日はゆっくり休んでよ、魅夜」

 

(あ〜ダメ、これ以上呼び捨てでアタシを呼ぶな。……死ぬ。心臓が溶けて死んじまう……っ!!)

 

 

 

 

一方そのころ。

 

《配信を見ていた、男の下着を毎日クンクンしている女性》

「……あの一瞬だけ映った男の人の服。この前、悠くんに貸してあげた服と色もサイズも一緒じゃない! あの人は、まさか私の悠くんじゃ!?」

 

《配信を見ていた、接吻(せっぷん)する夢を毎日見ているお嬢様》

「……あの一瞬だけ映った男性の唇。……見間違えるはずありませんわ。あの方は、まさかわたくしの悠様……っ!」

 

《配信を見ていた、ドローンで毎日ストーカーをしている女の子》

「…………あの型番のタッパー、先週悠さんが100円ショップで買ったものと一致してる。声紋も一致してる。……まさか、わたしの悠さん!?」

 

これから地獄の業火を纏った嵐が吹き荒れることは、まだ誰も知らない。




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