その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:ヤッくん

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11話 その男、肉体美につき――アイラインの奥、隠しきれない疲労

ピコン、と軽快な通知音がスマートフォンの画面を揺らした。

 

開いたRINEのメッセージには、一枚の写真が添えられている。先日、雨の中で拾い、浅見 凛(あさみ りん)さんに預かってもらった白猫だ。

 

『――ということで、この子は私が正式に引き取ることになりました。名前は「ユキちゃん」です。凛とした雪のように白くて可愛いでしょう?』

 

写真の中の凛さんは、いつもの完璧な営業スマイルではなく、少しだけ肩の力を抜いた柔らかな微笑みを向けていた。

 

(凛さん、あの日もずぶ濡れになりながら猫を守ろうとした俺に、そっと傘を差し伸べてくれたっけ。まさに理想のお姉さんって感じだよな)

 

《浅見 凛。大手広告代理店に勤める敏腕ディレクター。男女比一対四の社会において、男性に頼らず自立した「強き女性」の象徴として同性からの支持も厚い。しかし、その実態は、周囲の期待に応え続けるために自己を削り続ける「献身」の塊である》

 

画面越しに返信を打ちながら、俺はふと、あの日を思い出す。

凛とした美貌でどこか近寄りがたい雰囲気もある凛さんだけど、ユキちゃんに向ける眼差しは、驚くほど温かかった。

 

彼女のような優しい人がユキちゃんの里親になったことが嬉しかった。

 

 

 

 

数日後。バイト先へ向かうため、都会の喧騒の中を歩いていた。

 

ふと視線を横に走らせると、人混みの中でも一際目を引く、洗練されたオーラを放つ女性が目に入った。

 

あ、凛さんだ。

 

凛さんは、緊張している様子の若い女性を連れ、取引先のビルの前で足を止めていた。後輩への指導だろうか。手際よく資料を指し示し、淀みのない言葉でアドバイスを送る姿は、まさに「仕事のできる理想の女性」そのものだった。

 

(相変わらず、綺麗な人だな……。日の光を浴びてキラキラと輝く横顔。街行く人々が思わず振り返るのも納得)

 

(あんなに凄い人が、俺にも気さくに接してくれるんだから、本当にいい人だよな)

 

凛さんの背中を見ていると、自然とこちらまで力が湧いてくる。

 

「よし、俺も負けてられない。今日もバイト、頑張りますか!」

 

心の中で自分に気合を入れ、再び歩き出そうとした。

 

けれど、すれ違いざま、一瞬だけ見えた彼女の表情が胸に引っかかった。

 

完璧に引かれたアイラインの奥、ふとした瞬間に零れたその瞳が、どこかひどく、乾いているように見えた気がした。後輩に微笑む唇の端が、僅かに震えていたような――。

 

いつもの余裕に満ちたオーラの下に、隠しきれない疲労の色が、薄い膜のように張り付いている。

 

(……凛さん、少し疲れてるのか? 無理はしてなきゃいいけど)

 

夕闇が迫る街角で、俺は彼女の背中を振り返ったが、凛さんはすでに戦場へと戻るようにビルの中へと消えていた。

 

 

窓を叩く激しい雨音を聞きながら、自宅の部屋で一週間の献立表を作成していた。

そんな時、机の上のスマートフォンが再び激しく震えた。

 

画面に表示されたのは、浅見 凛の名前。

 

「はい、結城です。凛さん、どうしました?」

 

「あ、悠くん? 凛です……。ごめんなさい、こんな時間に……」

 

受話器から聞こえてくる声は、今にも消えてしまいそうなほど細く、震えていた。

あの太陽のように明るい凛さんの面影は、どこにもなかった。

 

「実は……一緒に拾ったユキちゃんの様子が、どうも変なの。……ええ、なんだか心細くて。……お願い、来てもらえないかな?」

 

(……放っておけないな。でも俺が力になれるか?まぁ最悪、動物病院だな。)

 

とりあえず凛さんの力にならなきゃと思いすぐに返事を決めた。

 

「すぐに行きます。待っていてください」

 

俺は急いで上着を掴むと、雨が吹き荒れる廊下へ飛び出した。

 

 

「失礼します。凛さん、ユキちゃん大丈夫ですか……?」

 

ドアが開いた瞬間、俺は思わず身を立ち止まった。

 

迎え入れてくれた凛さんは、どこか火照ったような顔で、それでいてひどく怯えたような、奇妙な表情を浮かべていた。

 

「あぁ、悠くん。来てくれてありがとう。……ユキちゃん、さっきまで元気がなくて、奥の部屋で寝てるんだけど……あ、待って。今、お水持ってくるね」

 

彼女がキッチンへ向かった後、俺はユキちゃんの様子を見ようとリビングへ足を踏み入れた。部屋の中は、鏡のように磨き上げられたフローリングに、清潔な香りが満ちている。

 

(……綺麗すぎる。前来たときも思ったけど、まるでモデルルームみたいな部屋だな。生活臭が全然ないような……)

 

「はい、お待たせ……――あ、きゃっ!?」

 

振り返った瞬間だった。

凛さんがスリッパを滑らせ、俺の胸元へと倒れ込んできた。

 

バシャッ!!

 

冷たい水がシャツを透過し、肌に張り付く。

 

「あ、あぁっ! ごめんなさい、悠くん! 私、手が滑っちゃって……どうしよう……っ」

 

凛さんはパニックになったように俺の胸元を拭こうとするが、その手もまた、ひどく震えていた。

 

「うわっ……あはは、大丈夫ですよ。ただの水ですから。凛さん、怪我はないですか?」

 

(なんかおかしいな。いつも一分の隙もない、あの凛さんが)

 

「ダメだよ、そんなに濡れちゃって……風邪引いちゃうから。……ねえ、悠くん。シャワーを浴びていって? その間に服、乾かしておくから」

 

断る間もなかった。

凛さんの必死な眼差しに圧されるように、俺は脱衣所へと促された。

 

結局、素直にシャワーを浴びることに。

ノズルから出る熱いお湯が、冷え切った体を解きほぐしていく。

 

(……凛さん、よっぽど不安だったんだろうな。ユキちゃんのこともだし、仕事も忙しそうだったしな)

 

ふぅ……あー、生き返った。

 

しっかり体を温め、浴室の扉を開けた。

その瞬間、俺は自分の目を疑った。

 

「……ひっ!?」

 

「あ、あれ……凛さん!? な、なんでここに!?」

 

湯気の中に、凛さんがいた。

一糸纏わぬ俺の姿を見て、凛さんの瞳が大きく見開かれる。

 

《この世界における、男女の不用意な接触。それは法的な処罰の対象にすらなり得る「特権の侵害」であり、同時に、抑圧された女性たちの本能を爆発させる禁断の引き金(トリガー)である》

 

視線が、俺の胸板から腹筋へと、吸い寄せられるように降りてくるのが分かった。

 

「…………っ!!」

 

凛さんの顔が、一瞬で耳の先まで真っ赤に染まった。

何かを言おうとして口をパクパクさせ、「にゅ、にゅ〜っ……」という、聞いたこともない声を漏らす。

 

そして彼女はそのまま、糸が切れたように床へと崩れ落ちてしまった。

 

「……凛さん? 凛さん! しっかりしてください!」

 

急いでタオルを巻き、彼女を抱き起こす。

凛さんは泡を吹いて、白目を剥いていた。

 

(……一体、何が起きたんだ? 湯あたり……? それとも本当にどこか体が悪いのか!?)

 

数分後、ソファに運んだ凛さんが、ようやく薄目を開けた。

 

「あ……悠くん……。私、……どうして……」

 

「脱衣所の前で倒れてたんです。のぼせたんですか? 本当、心配しましたよ……」

 

俺は彼女の額に冷たいタオルを当てながら、語りかけた。

 

でも、凛さんの様子は明らかにおかしかった。

仕事ができて、誰からも頼られる理想の女性。そんな凛さんが、今、俺の前でボロボロに崩れようとしている。

 

「……悠くん。……私ね、あなたに……。……言わなきゃいけないことが、あるの……」

 

凛さんの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。




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