その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:ヤッくん

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12話 そのワイン、劇薬につき――審判を待つ、濡れた瞳

叩きつけるような雨が、都会のビル群を灰色に塗りつぶしていた。

 

都心の一等地。国内有数の広告代理店が入るそのビルの応接室で、凛は冷え切った大理石の床に膝をつき、額をこすりつけていた。

 

「申し訳ございませんでした。すべては、私の指導不足です。――どうか、チャンスを、もう一度だけ頂けないでしょうか」

 

彼女のミスではない。担当していた後輩が、入稿データの数値を致命的に見落としたのだ。会社の信用は失墜し、数千万単位の損失が出る。本来なら後輩は解雇、あるいは業界から追放されてもおかしくない事態だった。

 

だが、凜は迷わず一人で泥を被る道を選んだ。

 

「君ほどの人間が、なぜここまでして後輩を庇うんだ?」

 

取引先の社長が、冷ややかな視線を投げかける。

彼女は顔を上げ、濡れた前髪の隙間から、どこまでも誠実で、透明な瞳を向けた。

 

「……彼女はまだこの業界に入ったばかりで右も左もわかっていません。一回の大きな失敗で芽を摘むことはあまりにも......。私は、彼女なら今日のことを教訓にしてくれると信じています」

 

その捨て身の誠実さに、社長は毒気を抜かれたように溜息をついた。

 

「……浅見さんの誠意に免じて今回だけだ。二度目はないぞ」

 

「――ありがとうございます」

 

解決してオフィスに戻ると、デスクで震えていた後輩が駆け寄ってくる。

 

「浅見さん……っ! ありがとうございました! 本当に、私、どうお礼を言ったらいいか……!」

 

「いいのよ。誰だってミスはするし。これも経験だよ」

 

彼女は優しく微笑み、後輩の肩を叩いた。

周囲からは「流石は浅見さんだ」「彼女こそ真のプロだ」という感嘆の溜息が漏れる。

 

だが、――その数十分後。

 

「凛さん、マジで神っすね! 恩に着ます! じゃあ、今夜は彼氏と飲み会なんで、お先失礼しますねー!」

 

後輩は、彼女が自らの尊厳を削って守り抜いたことなど、次の瞬間には忘れたかのような明るい声で去っていった。

 

(……またやっちゃった。他人のために尽くしても意味なんかないのに。私は、誰かのために尽くすことでしか、自分の価値を証明できないのかな。……尽くせば尽くすほど、みんな私を置いて、幸せな場所へ去っていく気がする)

 

オフィスでの凛は、誰からも頼られる優等生であり、清廉潔白な「理想の女性」そのものだった。彼女の放つオーラは、不純なものを一切寄せ付けないクリスタルのように輝き放っている。

 

だが、そのクリスタルの裏側では、深刻な「エネルギー不足」が起きていた。

 

(だめ。もう、限界。充電が……切れる……っ)

 

笑顔でプレゼン資料を修正し、後輩の愚痴を聞き、完璧な「浅見凛」を演じ続ける。

しかし内側では、絶望的なまでの虚無が広がっていた。

 

一刻も早く、あれを嗅がないと。

 

 

――浅見 凛(りん)視点――

 

 

 

帰宅した私は、明かりも点けず、吸い込まれるようにクローゼットへ向かった。

 

その最奥。丁寧に布がかけられた一角には、文字通りの『神棚』が設えられていた。左右には盛り塩。中央には、悠くんが好んで飲んでいたブランドのコーヒー豆が供え物として並んでいる。

 

そして、アクリルケースの中に鎮座する御神体――結城悠(ゆうき ゆう)の、あのボクサーパンツ。

 

私は丁寧に手を清めると、震える手でケースを開けた。

 

「悠くん……。悠くん、助けて……っ」

 

私は御神体を取り出すと、それを顔全体で覆うように押し当て、肺の形が変わるほどに深く、深く吸い込んだ。

 

「あ……っ、……あぁぁ……っ!!」

 

全身の細胞が歓喜に震え、枯れ果てていた心が急速に潤っていく。

 

《見返りを求めない「誠実さ」。それは、この歪な世界で最も希少な資源であり、同時に、それに触れた女性たちを「一生の依存」へと導く劇薬でもあった》

 

「満たされる……生きてる。私、まだ頑張れるわ……っ!」

 

空っぽだった私のバッテリーが、彼の匂いという名のエネルギーで急速に満たされていく。恍惚とした表情で、私は自分の肌に布地を擦り付ける。

 

だが、すぐに絶望が襲った。

度重なる「使用」により、あの芳醇な香りは、いまや消え入りそうなほど微かになっていたのだ。

 

「……充電できない。……薄くなってる。……だめ、これじゃ、明日を越えられない」

 

指先がガタガタと震える。

その時、私の脳裏に、今の自分と同じように搾取されているであろう悠くんの姿が浮かんだ。

 

(悠くんも、きっと……。今この瞬間も、どこかで誰かに優しくして、悪い女にいいように使われてるかもしれない……最後にはボロ雑巾のように捨てられる。そんなの、絶対に許さない)

 

私の瞳から光が消え、代わりに粘着質な独占欲が宿る。

 

(……待っててね、悠くん。今、守って(私だけのものにして)あげるから)

 

私はスマホを手に取り、一分の隙もない、それでいて消え入りそうなほどか細い「助けを求める女」の声を使い分け、彼に電話をかけた。

 

「あ、悠くん? 凛です。……ごめんなさい、こんな時間に。実は……一緒に拾った猫のユキちゃんの様子が、どうも変なの。……ええ、なんか心細くて。……お願い、来てもらえないかな?」

 

電話を切った瞬間、唇が妖しく歪んだ。

 

 

今夜、きみを手に入れる。

 

 

「失礼します。凛さん、ユキちゃん大丈夫ですか……?」

 

玄関を開けるなり、結城 悠(ゆうき ゆう)が心配そうに身を乗り出してきた。

 

雨に濡れた彼の髪から滴る雫が、私の部屋のフローリングに小さな点を作っていく。その無防備なまでの善意に、私の胸の奥で、どす黒く、それでいて甘い独占欲が鎌首をもたげた。

 

「あぁ、悠くん。急に呼んじゃってごめんなさい。……ユキちゃん、さっきまで元気がなくて。……心配で、私、どうしたらいいか分からなくて……っ」

 

私は、営業研修で培った「保護欲を誘う女」の表情を完璧に演出し、わずかに声を震わせた。悠くんはそれを真に受け、どこまでも真っ直ぐな瞳で私を見つめる。

 

「俺で力になれることがあれば、何でも言ってください。様子を見てみましょう」

 

悠くんが一歩踏み込んでくる。私はキッチンへ向かい、グラスに表面張力ギリギリまで水を注いだ。

 

すべては計算通り。

この瞬間のために、私は滑りやすいワックスを廊下に塗り込み、重心を崩す角度を何度も予行演習していたのだ。

 

「はい、お待たせ……――あ、きゃっ!?」

 

私はわざとらしく自分の足を引っ掛け、悠くんの胸元へと倒れ込んだ。

 

バシャッ!!

 

鈍い音と共に、冷たい水が悠の薄いシャツを無残に透過していく。

 

「あ、あぁっ! ごめんなさい、悠くん! 私、手が滑っちゃって……どうしよう……っ」

 

「うわっ……あはは、大丈夫ですよ。ただの水ですから。凛さん、怪我はないですか?」

 

(自分はびしょ濡れなのに、開口一番にこちらの身を案じてくる。その救いようのない「お人好し」が、私の理性を狂わせるのよ……っ)

 

「ダメだよ、そんなに透けるほど濡れちゃって……風邪引いちゃうから。……ねえ、悠くん。シャワーを浴びていって? その間に服、乾かしておくから」

 

有無を言わさぬ勢いで、悠くんを脱衣所へと押し込んだ。

 

ザーザーというシャワーの音が響き始めた瞬間、私の仮面は完膚なきまでに崩壊した。

 

「はァ……っ、はァ……ッ! 成功、……成功よね。......悠くんが、私のマンションで、無防備にシャワーを浴びている……っ!」

 

私は忍び足で脱衣所へと入り込んだ。湯気の中に漂う、湿り気を帯びた悠の匂い。熱に浮かされたように、彼が脱ぎ捨てたばかりの衣服が置かれたカゴへと手を伸ばした。

 

――そして、私に衝撃が走った。

 

カゴの中にあったのは、私が神棚に祭り、毎日その残り香を惜しむように吸い続けてきたものと、全く同じブランド、同じ色、同じサイズのボクサーパンツだったのだ。

 

「悠くん、あなたは効率を重視して同じものを揃えるタイプなのね。……なんて。なんて私にとって都合の良い……神様からのギフトなの……っ!」

 

私は、カゴの中にある悠の脱ぎたてのボクサーパンツを鷲掴みにした。

 

(だめだよ、凛。これ以上は犯罪だわ。あなたは立派な社会人で、誰からも信頼される『浅見凛』でしょう? 落ち着いて、こんな不潔で、浅ましいこと……っ!)

 

頭の片隅で、理性的な自分が悲鳴を上げている。だが、鼻孔を突く強烈な生命力の香りが、その正論を暴力的に塗りつぶしていく。

 

(どうする私......今なら引き返せるわ......)

 

私の出した決断は...

 

 

 

 

 

「……あ、あぁ……っ、すご……っ! すごいよ......っ! これっすごすぎるわよっ! こんなの狂って当たり前.........っ!」

 

 

 

 

 

逡巡の末、私はその「脱ぎたて」を、震える指先で鼻孔へと運ぶことを選んでしまった......

 

脳髄を直接、熱い鉄棒でかき回されるような衝撃。

 

(あぁ、香りの立ち方が違うわ。以前のものがワインでいう『熟成の極みに達したボルドー』だとしたら……これは、樽から出したばかりの『荒々しくも生命力に満ち溢れたヌーヴォー』よ……っ!!)

 

(ハァ、ハァ……っ! 充電される……全身の細胞が、悠くんで塗りつぶされていく……っ!)

 

私は、自分のストッキングを乱暴に脱ぎ捨て――。

 

 

数分後。

 

 

そのヌーヴォーを大切に、宝物のように胸に抱き寄せたあと、自身の服の胸ポケットにしまい込む。その後、私は今まで保管(盗んで)いたパンツを、悠くんの替えの着替えの上に、あたかも彼が持参したもののように平然と置いた。

 

その瞬間――あまりの「多幸感」に、私は失念していた。

ここが「敵地」であり、シャワーの音はいつか止まるものであるという、あまりに当然の事実を。

 

カチリ、と蛇口が閉まる音がしていた。

 

だが、昇天の最中にいた私の耳には、それは遠い世界の羽音程度にしか聞こえてなかったのだ。

 

「ふぅ……あー、生き返った」

 

ガラリ、と浴室の扉が開く。

 

立ち昇る湯気と共に現れたのは、一糸纏わぬ姿の結城 悠(ゆうき ゆう)だった。

 

「……にゅっ!?」

 

私の喉から、奇妙な悲鳴が漏れた。

目の前には、霧の中から現れた古代彫刻のような肉体。水を弾く逞しい大胸筋。彫刻刀で刻まれたかのように鮮明な腹筋(シックスパック)。そして、濡れた髪から鎖骨へと伝い落ちる水滴。

 

「あ、あれ……凛さん!? な、なんでここに!?」

 

悠くんの驚愕の声が、私の脳髄を直接叩いた。

 

(あ……あぁ……っ。神様、……神様……っ!)

 

私の視線は、磁石に吸い寄せられるように悠くんの肉体を走査した。厚みのある胸板、……確認。岩のように硬質な腹筋、……確認。そして、視線がさらにその下――人類の至宝、究極の「本丸」へと到達しようとした、その瞬間。

 

「…………っ!!」

 

私の脳内処理能力が限界(オーバーフロー)を迎えた。

処理しきれない視覚情報と、肺いっぱいに吸い込み続けたヌーヴォーの劇毒。そして何より、自分という「聖女」が犯したあまりに破廉恥な状況への羞恥心。

 

バチン、と音を立てて凛の理性のブレーカーが落ちた。

 

「……に……、にっ……にゅっ......にゅ〜っ」

 

私の膝から力が抜け、そのままスローモーションのように脱衣所の床へと崩れ落ちた。

 

(我が選択に一変の悔いなし......)

 

《肝心の本丸を、その網膜に焼き付ける直前で――浅見 凛は、泡を吹いて白目を剥き、幸福感と共に意識を失った。》

 

 

「……凛さん? 凛さん! しっかりしてください!」

 

遠くで悠くんの声が聞こえる。

冷たい床の感触と、自分の胸ポケットにしまったままの「あの布地」。

 

数分後、薄目を開けた私の視界に映ったのは、服を着て心配そうに自分を覗き込む悠くんの顔だった。

 

「あ……悠くん……。私、……どうして……」

 

「脱衣所の前で倒れてたんです。のぼせたんですか? 本当、心配しましたよ……」

 

どこまでも善意で解釈しようとする悠くんの言葉が、私の心を切り刻む。

悠くんが今履いているのは、今まで幾度となく私が使用していた使い古しの「布地」なのだ。そして、自分の内ポケットには、彼の「脱ぎたて」が隠されている。

 

(……最低。私、本当に最低だわ……っ)

 

悠くんの汚れなき瞳。それを見るたびに、自分の醜悪さが泥水のように喉元までせり上がってくる。嘘を吐いて彼を招き、下着を掠め取り、あられもない姿を覗き見た……ただの汚らわしい犯罪者ではないか。

 

(だめだよ……。こんなこと、もう続けられない……っ)

 

私は、悠の優しさに触れれば触れるほど、自分の影の深さに耐えられなくなる。いつまでも完璧な聖女を演じることなんて、もうできない。

 

(……それでもいい。……彼にだけは、本当の私(バケモノ)を知ってもらわなきゃ……)

 

私は涙と共に決意した。

 

「……悠くん。……私ね、あなたに……。……言わなきゃいけないことが、あるの……」

 

嵐の前の静けさのような、重苦しい予感。

私は、自らのすべてを破壊し、そして彼に「審判」を委ねるための第一歩を、震える声で踏み出した。




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