その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果 作:やっくん。
――浅見 凛の視点――
叩きつけるような雨が、都会のビル群を灰色に塗りつぶしていた。
都心の一等地。国内有数の広告代理店が入るそのビルの応接室で、凛は冷え切った大理石の床に膝をつき、額をこすりつけていた。
「申し訳ございませんでした。すべては、私の指導不足です。――どうか、チャンスを、もう一度だけ頂けないでしょうか」
私のミスではない。もちろん担当でもない。会社の後輩が、入稿データの数値を、桁を間違えて入力したのだ。
発注先からの信用は失墜し、数千万単位の損失が出た。本来なら後輩は解雇、あるいは業界から追放されてもおかしくない事態だった。
だが、凜は迷わず泥を被る道を選んだ。
「君ほどの人間が、なぜここまでして後輩を庇うんだ?」
社長が、冷ややかな視線を投げかける。
顔を上げ、濡れた前髪の隙間から、まっすぐに彼を見つめた。
「……彼女はまだこの業界に入ったばかりで右も左もわかっていません。一回の大きな失敗で芽を摘むことはあまりにも……私は、彼女なら今日のことを教訓にしてくれると信じています」
しばらく経ったあと、社長は毒気を抜かれたように大きく息を吐いた。
「……浅見くんの誠意に免じて今回だけ解雇は撤回する。だが……二度目はないぞ」
「――ありがとうございます。しっかりと教育します……」
解決してオフィスに戻ると、デスクで震えていた後輩が駆け寄ってくる。
「浅見さん……っ! ありがとうございました! 本当に、私、どうお礼を言ったらいいか……!」
「いいのよ。誰だってミスはするし。これも経験だよ」
私はできるだけ自然に見えるように微笑み、後輩の肩を叩いた。
周囲からは「流石は浅見さんだ」「彼女こそ真のプロだ」という感嘆の溜息が漏れる。
だが、――その後まもなく。
「凛さん、マジで神っすね! 恩に着ます! じゃあ、今夜は彼氏と飲み会なんで、お先失礼しますねー!」
後輩は、私が土下座して尊厳を削って守り抜いたことなど、次の瞬間には忘れたかのような明るい声で去っていった。
(まぁ知りようがないんだけどさ……恩着せがましくなるから言ってないし……)
オフィスでの私は、周りから見ると誰からも頼られる優等生だと思う。
(でも……他人のために尽くして意味なんてあるのかな……誰かのために尽くしても、周りが幸せになっていくだけ……みんな私を置いていくの……)
もうわたしの中では不安と不満とストレスとで深刻なエネルギー不足が起きていた。
(だめ……もう限界……充電が切れちゃう……っ)
一刻も早く、あれを嗅がないと――
◇
帰宅した私は、明かりも点けず、吸い込まれるようにクローゼットへ向かった。
丁寧に布がかけられた一角に、私が設えた文字通りの神棚がある。
左右には盛り塩。中央には、悠くんが好んで飲んでると聞いたブランドのコーヒー豆を、供え物として並べていた。
そして、アクリルケースの中に鎮座する御神体――彼の使用済みボクサーパンツ。
私は丁寧に手を清めると、震える手でケースを開けた。
パカッ
「悠くん……悠くん、私を助けて……っ」
御神体を取り出す。
私はそれを――
顔全体で覆う。
そして――
肺の形が変わるほどに深く、深く吸い込む。
ズゥーー
「あ……っ、……あぁぁ……っ!!」
カラッカラのバッテリーがチャージ状態となり、全身の細胞が歓喜に震える。枯れ果てていた心が急速に潤っていく。
「満たされる……私生きてる……まだ頑張れそう……っ!」
私は引き続き自分の肌に布地を擦り付ける。
だが、すぐに絶望が襲った。
「えっ……うそ……っ!?」
度重なる使用により、あの芳醇な香りは、いまや消え入りそうなほど微かになっていたのだ。
「……充電できない……匂いが薄くなってる……だめ、これじゃ、明日を越えられない」
指先がガタガタと震える。
(……最終手段しかない)
私の脳裏に、一つの計画が浮かび上がった。
ユキちゃんの様子がおかしいと嘘をついて悠くんを呼び出す。そして何らかの方法でシャワーを浴びさせ、脱ぎたてを回収する。
我ながら、とんでもない荒業だ。
(ユキちゃんを……出しに使うなんて)
罪悪感が、胸の奥をじわりと焼いた。
悠くんに嘘をつくことも、ユキちゃんを利用することも、どちらもしてはいけないことだ。それくらいは分かっている。
分かっている。
分かっているけど。
(……でも、もう限界なの)
カラッカラのバッテリー。明日も、明後日も、私は完璧な浅見凛を演じ続けなければならない。誰かのために土下座して、誰かのために笑って、誰かのために尽くして。
そのための燃料が、もう残っていない。
(ごめんなさい、ユキちゃん。……ごめんなさい、悠くん)
心の中で手を合わせた。
罪悪感ごと飲み込んで、私はスマホを手に取った。
私はスマホを手に取り、一分の隙もない、それでいて消え入りそうなほどか細い「助けを求める女」の声を使い分け、彼に電話をかけた。
「あ、悠くん? 凛です……急にごめんなさい……」
◇
「失礼します。凛さん、ユキちゃん大丈夫です?」
玄関を開けるなり、彼が心配そうに身を乗り出してきた。
雨に濡れた彼の髪から滴る雫が、私の部屋のフローリングに小さな点を作っていく。
彼が床に水滴を増やすたびに、胸の奥が苦しくなっていく気がした。
「……来てくれてありがとう……ユキちゃんね、さっきまで元気がなかったんだけど、少し元気になったみたい……もう大丈夫そう」
私は、営業で培った保護欲を誘う表情と本音に見える声色とを使いわける。
「あ、そうなんですね。良かったです。でもせっかく来たんでユキちゃんに挨拶させてください」
「ええ、もちろんよ……あ、リビング行って待ってて。今、お水持ってくるから」
悠くんがリビングへ向かい、私はキッチンへ向かう。
グラスには表面張力ギリギリまで水を注いだ。
(すべては計算通りだわ)
この瞬間のために、私は滑りやすいワックスを廊下に塗り込み、重心を崩す角度を何度も予行演習していたのだ。
「はい、お待たせ……きゃっ!?」
私はわざとらしく自分の足を引っ掛け、彼の胸元へと倒れ込んだ。
バシャッ!!
鈍い音と共に、冷たい水が悠の薄いシャツを無残に透過していく。
冷たい水が彼のシャツを透過し、2つのかわいいチェリーが顔を出す。
(……えっろ)
「あぁっ! ごめんなさい、悠くん! 私、足が滑っちゃって……どうしよう……っ」
「……あはは、大丈夫ですよ。すでに道中で雨に濡れてましたから。凛さんは怪我はないですか?」
(自分はびしょ濡れなのに、一番に私の身を案じてくるその優しさ……かえって罪悪感を感じるわ……っ……でも言わなきゃ……)
「ええ。大丈夫よ、ありがとう。でも、そんなに濡れちゃって大丈夫?……ねえ、悠くん
――シャワーを浴びていって? 」
◇
しばらくすると――
シャーッ
シャワーの音が響き始めた瞬間、リビングに居た私の仮面は完膚なきまでに崩壊した。
「はぁ……っ、はぁ……っ! 成功……ここまでは成功......無防備にシャワーを浴びちゃって……」
私は足の裏をフローリングにぴたりと密着させ、スー……と滑らせるようにして脱衣所へ向かう。
かかとを浮かせ、つま先だけで重心を移動させる。音を、一切立ててはいけない。
脱衣所の前に辿り着いた。
横スライドのドア。
一気に開ければ、ガラガラガラと盛大な音が鳴る。
私は指先をドアの端にかけ、息を殺した。
ガラ………
止まる。
ガラ…………
止まる。
ガラ………
シャワーの音が続いていることを確認して、もう一度止まる。
人一人分の隙間が開いた。
私はそこに、横向きに体を滑り込ませた。
(……いただきます)
いや違う。
(……おじゃまします)
どちらも大差ない気もするが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。
湯気の中に漂う、湿り気を帯びた彼の匂い。
さっそく彼が脱ぎ捨てたばかりの衣服が置かれたカゴへと手を伸ばした。
そして、私に衝撃が走る――
カゴの中にあったのは、私が神棚に祭り、毎日その残り香を惜しむように吸い続けてきたものと、全く同じブランド、同じ色、同じサイズのボクサーパンツだったのだ。
私は数秒間、それを見つめたまま固まった。
そして――
カチリッ
パズルの、最後のピースが、音を立てて嵌まった。
(……待って)
今回の計画における、唯一にして最大のネックは何だったか。
それは回収した後だ。
彼の下着が一枚消えていれば、悠くんは不審に思う。二回目ともなればさすがに気づかれる。それだけが、この作戦における致命的な穴だった。
だが、
(……手元に、匂いの薄れた元御神体がある)
同じブランド。同じ色。同じサイズ。
入れ替えればいいじゃないか。
脱ぎたてのヌーヴォーを回収し、代わりに使い古しのボルドーを置く。彼の手元の枚数は変わらない。不審点はゼロ。完全犯罪の成立だ。
(……これは)
私の唇が、かすかに震えた。
(……神様からのギフトだわ……っ!!)
逆転の発想。まさに神の一手。
私はこの作戦の設計者でありながら、この瞬間まで気づいていなかった。
『運命とは、時に人間の計算を超えた場所から手を差し伸べてくるものなのだ。by凛』
(ありがとう、神様。ありがとう、悠くん。ありがとう、ユニクロ)
私は震える手で、カゴの中のヌーヴォーを鷲掴みにした。
ガシィ!!!
だが、その瞬間に私の中の天使がささやきかける。
(天使:だめ。だめだよ。こんなこと。これは犯罪……犯罪よ、凛……これ以上罪を重ねないで……お願いだから……)
そう……よね……今なら引き返せるわ……
(天使:よかったぁ……わかってもら……)
言葉をさえぎるように悪魔がささやきかける。
(悪魔:なにをいまさら……すでに罪を犯してんだから今更一つも二つも変わらないでしょ。そんなことより……感じない?)
感じる?なんのこ……と……
気がつけば鼻孔を突く強烈な生命力の香り。
もはや、その天使の正論は暴力的なまでに黒く塗りつぶされていく。
私は、鼻腔を目一杯に膨らませ――
それを顔いっぱいに押し付ける。
くん、くん、くん――
「……あぁ……っ、すご……っ! すごいよ......っ! すごすぎるわよっ! こんなの狂って当たり前.........っ!……もうイグッ……イッちゃう……」
唐突に私の中の天使が語りかけてきた。
(天使:……わ……わたしにも……嗅がせて……)
今まさに天使が悪魔へと堕天した瞬間だった。
(あぁ、香りの立ち方が違う……前のパンツがワインでいうところの熟成に達したボルドーだとしたら……これは、樽から出したばかりの荒々しくも生命力に満ち溢れたヌーヴォーよ……っ!!)
脳髄を直接、熱い鉄棒でかき回されるような衝撃。
「ハァ、ハァ……っ! 」
私はあまりの多幸感に、私は失念していた。
ここが敵地であり、シャワーの音はいつか止むものであるという、あまりに当然の事実を。
キュッキュッ、と蛇口が閉まる音がしていた。
だが、絶頂の最中にいた私の耳には、それは遠い世界の羽音程度にしか聞こえてなかったのだ。
その瞬間――
「ふぅ……あー、生き返った」
ガラリと浴室の扉が開く。
立ち昇る湯気と共に現れたのは、一糸纏わぬ彼の姿だった。
私の視線は、吸い寄せられるように彼の上から下へと、ゆっくりと降りていく。
顔。
濡れた髪が額に張り付き、いつもより色気が3割増しとなっている。
(セ、セクシー……っ)
首筋。
シャワーの熱で温まったせいか、青い血管がくっきりと浮き出ていた。
(……あ。血管……っ)
胸板。
着痩せするタイプだったのか。シャツの上からでは想像もできなかった厚みと頼もしさが、そこにある。
(頼もしい。あそこに顔をうずめたい……)
腹筋。
六つに割れた腹筋の溝を、水滴がひとすじ、またひとすじと、丁寧にたどるように落ちていく。
(……き、綺麗……っ)
そして、私の視線がさらにその下――人類の至宝、究極の本丸へと到達しようとした、その瞬間。
「…………っ!!」
私の脳内処理能力が限界(オーバーフロー)を迎えた。
処理しきれない視覚情報と、肺いっぱいに吸い込み続けたヌーヴォーの劇毒。そして何より、自分が犯したあまりに破廉恥な状況への羞恥心。
バチン、と音を立てて凛の理性のブレーカーが落ちた。
私は膝から力が抜け、薄れゆく意識の中で一瞬だけスローモーションで何かが見えた。
(そ、……そんな……あれは……バナナなんてもんじゃない……)
「そ、そんなバナナ……!」
ガクッ
◇
数分後。
私の視界に映ったのは、服を着て心配そうに覗き込む悠くんの顔だった。
「あ……悠くん……私……どうして……」
「脱衣所の前で倒れてたんです。 本当、心配しましたよ……」
彼は私の額に冷たいタオルを当てながら、語りかけた。
悠くんが私をソファまで運んでくれた。
気がつけば、背中にクッションが当てられていて、額には冷たいタオルが置かれていた。
彼は床に膝をつき、私の顔を覗き込んでいた。
「脱衣所の前で倒れてたんです。 本当、心配しましたよ……」
その瞳が、まっすぐに私を見ていた。
心配そうで、優しくて、一点の曇りもない瞳だった。
(……だめ……)
胸の奥が、じわりと痛んだ。
彼の優しさに触れるたびに、自分の醜さが際立っていく気がした。
彼にユキちゃんの調子が悪いと嘘をつき、脱衣所に侵入して下着を盗み、そして匂いを嗅いだ。
どうしようもない犯罪者だ。私は。
(……こんなこと、もう続けられない)
今まで通りの私を演じることも。彼の善意を踏みにじり続けることも。この罪悪感を胸の中だけで押し込めておくことも。
もう、限界だった。
(……それでも)
彼にだけは、知ってもらいたかった。
私の中にいるモンスターを。誰にも見せたことのない、醜くて、浅ましくて、歪んだ本当の私を。
審判は、すべて彼に委ねよう。
どう思われても構わない。軽蔑されても、拒絶されても。
この人の前でだけは、嘘をつきたくなかった。
「……悠くん」
声が、震えた。
「……私ね、あなたに……。……言わなきゃいけないことが、あるの……」
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