その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:やっくん。

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13話 その芳香、劇薬につき――依存と狂気、あと監禁

――浅見 凛の視点――

 

 

 その瞬間、世界からすべての音が消え去った。

 

 私は冷たいフローリングに額を擦り付けたまま、自らの心臓が喉元までせり上がってくるような感覚に陥った。

 

 視界の端で、さっきまで元気に跳ね回っていたユキちゃんが、不思議そうにこちらを見つめている。

 

「……私ね、あなたに……言わなきゃいけないことが、あるの……」

 

「……えっ」

 

 震える声が、静まり返ったリビングに虚しく響く。

 

 自分が犯してきた罪のすべてを、吐き出すように言葉にした。

 

「……ユキちゃんの具合が悪いって……嘘なの。ユキちゃんは、元気。それと.....」

 

「…………」

 

 彼は黙って私の言うことに耳を傾けている。

 

「さっきは、わざと躓いて水をかけたの……」

 

「……なんのために」

 

「そ、それは……あなたにシャワーを浴びて欲しかったから……」

 

「マジかぁ……そんなにおれ臭かったのか……気を使わせてしまっ」

 

「ちがうのっ!」

 

「……じゃあ、どうして」

 

 言葉が喉の奥で詰まった。

 

「それは……御神体が……欲しくて」

 

「……御神体?」

 

 悠くんの顔に、はっきりとした疑問符が浮かんだ。

 

「採れたての……ヌーヴォーが、欲しくて」

 

「ヌーヴォー……って、ワインのボジョレー・ヌーヴォーですか?」

 

「そう、じゃなくて……」

 

 私は再び言葉に詰まる。

 

「ヌーヴォーっていうのは……」

 

「……いうのは?」

 

 悠くんが、静かに続きを待っている。

 

「……あなたの」

 

「……俺の?」

 

「パンツなの!!」

 

 言ってしまった。

 

「……おれのパンツはボジョレー・ヌーヴォー……なんですか?」

 

 伝わらなかった。

 

「いや……えっと……」

 

 またしても言葉が止まる。

 

「……もしかして」

 

 彼の声のトーンが、一段、低くなった。

 

(……バレた……今度こそおしまい……)

 

「……俺のパンツをワインに見立てて、においを嗅いでる変態さんだったり……なーんて」

 

 彼なりに場を和ませようとしたセリフであろう。

 

 でもそれが正解。お見事。一本。

 

「………そのと……り…」

 

「え?」

 

 私は顔を上げて彼の顔を見て言った。

 

「そのとおりよ!私はあなたの匂いが好きな変態なの!パンツの臭いが大好きな、ドヘンタイなの!!」

 

 ガタッ。

 

 悠くんがソファーからずり落ちた。

 

 

 沈黙。

 

 深く、重い沈黙だった。

 

 

 

 

(……軽蔑されてる。当たり前だわ。このあと警察に連絡するのは確定ね……まぁ、それも当然……もう終わったわ、私の人生……)

 

 彼の顔と表情を見るのが怖くなり下を向いてしまった。ただ、その息遣いだけが、やけにはっきりと聞こえた。

 

「……すいません。一度、帰ります」

 

「……うん。わかった」

 

 私は床にうずくまったまま、動けなかった。

 

 彼の足音が玄関へと向かう。

 

 

 バタン――

 

 重いドアが閉まる音が、私の耳の中で長く、長く響いた。

 

 まるで、すべてを拒絶する音だった。

 

 

(……これから、どうなるんだろう)

 

 思考が、ゆっくりと回り始めた。

 

 明日から働く元気はない。だって私のバッテリーはもうゼロ。一生チャージだってされない。

 

(そうだ。働けないなら、まず辞表を書かなきゃ。いや、待って。)

 

 悠くんは今頃きっと警察に訴えているに違いない。

 

(パンツを盗んで匂いを嗅ぐ変態女がいます、すぐ逮捕してくださいって……さきに出頭の準備をしなきゃ……)

 

 最近連絡をとっていない母さん、身元引受人になってくれるかな。

 

 ぼんやりとそんなことを考えていたら、いつの間にか外の雨がやんでいた。

 

 時計を見ると、彼が去ってからもう一時間が経過していた。

 

(……もう、どうでもいいや……)

 

 ピンポーン。

 

 エントランスのインターホンが鳴った。

 

(……警察が来たのね)

 

 私はゆっくりと立ち上がり、モニターを確認した。

 

 映し出されたのは――悠くんの姿だった。

 

 後ろに警察の姿はない。

 

(……どうして?)

 

 不思議に思いながら、しばらく画面を見つめた。

 

(あ、そうか。パンツの回収に来たんだ)

 

 返しそびれた一着のパンツ。

 

(そうよね。こんな変態女にパンツを持たせたら何をされるかわからないし、気持ち悪いもんね……)

 

 私は遠隔でエントランスを開けた。

 

 ほどなく、部屋のインターホンが鳴った。

 

 ピンポーン。

 

 ドアを開けると、そこには新しい服に着替えてきた、真っ直ぐな瞳をした彼――結城 悠が立っていた。

 

 私をバケモノと呼び、軽蔑し、警察に突き出すはずの彼が。

 

「……凛さん」

 

「……いらっしゃい、悠くん。……入って」

 

 悠くんをリビングへ通した。

 

「座ってて。渡す前に何か飲み物を入れるから……何がいい?」

 

「じゃあ、水をください」

 

 キッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。

 

 そこにかつて彼からもらったアレがあった。

 

 あの日、悠くんにもらった飲みかけの水。

 

 今月末の営業目標を達成したら、ご褒美に一気飲みしようと決めていた、大切な大切な飲みかけの水。

 

(……どうせ捕まるなら、今飲んでしまおうか)

 

 手が伸びかけて、止まった。

 

(ううん……違う。悠くんを裏切った私が今飲むのは違うわ)

 

 私は頭を振り、隣に並んでいた新品のボトルを一本取り出した。

 

「はい、どうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 悠くんがキャップを開ける。パキッという小さな音。

 

 ゴクッ。

 

 首から覗く喉仏が上下に動き、水が胃へと落ちていくのがわかった。

 

(……こんな時にも)

 

 大事な話のタイミングでも興奮している自分に嫌気がさした。

 

 二人して、しばらく黙っていた。

 

 先に口を開いたのは、悠くんだった。

 

「……パンツを、返してもらえますか」

 

(やっぱり。そのために戻ってきたのよね)

 

 私はルームジャケットの内ポケットに手を入れた。すぐに返せるよう、ずっとそこに入れていたのだ。

 

 悠くんの脱ぎたてのヌーヴォーを、静かに差し出す。

 

「……っ」

 

 悠くんが、目を丸くした。

 

「い、いきなり胸ポケットから自分のパンツが出てくるの……びっくりしますね……はは」

 

「……ねえ、悠くん、一応言っとこうと思って」

 

「はい、なんでしょう」

 

「今渡したのは今日の脱ぎたて。……実は私が倒れる直前には入れ替えは済んでたの。だから今あなたが履いているほうが、何日も洗っていない方ね」

 

「…………」

 

 沈黙。

 

「…………俺、今、何日も洗っていないパンツを履いているんですか」

 

「ええ」

 

「……ちょっと、脱衣所かりていいですか。今すぐ履き替えます」

 

 悠くんが立ち上がった。

 

 

 着替えを待つ間、私の頭の中で声がした。

 

(悪魔:ねえ凛。どうせ警察に捕まるのは決まってるんだし、最後にパーッと悠くんの裸を見に行ってもいいんじゃない?)

 

「もうやめて! 私を惑わせないで!」

 

 思わず声に出てしまった。

 

(天使:……よく言ったわ、凛。最後くらい、きれいな私で終わりましょう)

 

 脳内の私と会話をし終えたタイミングで彼が戻ってきた。

 

「……おまたせしました」

 

 着替えを終えた悠くんが戻ってきた。

 

「……おまたせしました」

 

 着替えを終えた悠くんが戻ってきた。

 

 沈黙が、部屋に満ちた。

 

 私は耐えきれず、口を開いた。

 

「……あの、悠くん。私、出頭しようと思っています……」

 

「え!?」

 

「警察に。パンツを盗んだので……」

 

「……いや、待ってください」

 

 悠くんが、困ったような顔をした。

 

「悪いことをしたとは思いますけど……捕まるほどのことですか?」

 

【豆知識:この世界において、男性の下着を盗む行為は三大犯罪の一つとされている。しかしながら、被害者である男性の意見が法的判断に大きく反映される点が特徴的。元の世界における電車内での痴漢は、男の容疑者が何を言おうと女の被告人の訴えが優先されるが、この世界ではまさにその逆の構造が成立している】

 

「悠くん……」

 

 その一言だけで声が震えた。

 

「はい、どうぞ」

 

 悠くんが紙袋を差し出した。

 

(……さっきからずっと持っていたあの紙袋。衣服のような形をしていたけど)

 

 私は紙袋の中に手を入れた。

 

 取り出したのは一着のジャケットだった。

 

 そして、その瞬間に気づいた。

 

 これは――悠くんの匂いが、染み付いている。

 

「……これって」

 

「人のパンツを嗅ぐのはやめてください。恥ずかしいですし、病気にでもなったら気が気じゃないので。代わりじゃないですけど差し上げます。それで我慢してください」

 

 涙が溢れた。

 

 前の彼氏に、それとなく聞いたことがあった。

 

 もし私が靴下とかパンツとかの匂いが好きな変態だったらどうする、と。

 

 返ってきた言葉は「はぁ? キモいわ。死ねよ。勝手に匂い嗅がれてたらと思うとゾッとするわ」だった。

 

 なのに悠くんは、

 

「……なんで」

 

 声が掠れた。

 

「私、気持ち悪いでしょ……ゾッとするでしょ……死んだほうがいいでしょ……正直に言ってくれていいんだよ……」

 

「……フェチって意識してどうにかなるもんじゃないですよ。それに、もう十分苦しんでいるのが見えますから」

 

 悠くんが静かに続けた。

 

「人に言えない秘密の一つや二つ、みんなありますよ。はは」

 

(……いいんだ……)

 

 じわりと、何かが溶けていく感覚がした。

 

(……このままの私で、いいんだ)

 

 自分の中の醜い部分を、なんとか否定して生きていかないといけないと、ずっと思っていた。モンスターである自分を、誰にも見せずに封じ込めて生きていくしかないと。

 

 でも。

 

 こうして受け止めてくれる人がいた。

 

 

 ドクンッ。

 

 心臓が、一回だけ大きく跳ねた。

 

 

 泣いている私の肩に、そっとジャケットがかけられた。

 

「洗濯しないでそのまま持ってきました。凛さんが必要としているのって、こういうことなのかなって」

 

「……うん」

 

 確かに感じる。優しくて、温かくて……

 

 

 ドクン。

 

 また心臓が跳ねた。

 

 今まで感じたことのない、感動と興奮と、あと違う何かが胸の中で渦を巻いている。

 

 そこに、追い打ちをかけるように。

 

 悠くんの手が、私の頭の上にそっと乗った。

 

 ぽん、ぽん。

 

(……あぁ)

 

 私はこの人が好きだ。

 

 好きなんだ。

 

(天使:その優しさが好き……きっと誰にでも優しい悠くん……その優しさを、私だけに向けてほしいな……)

 

(悪魔:その野生味のあるオスの匂いが好き……あなたを閉じ込めて、ずっと嗅いでいたい……)

 

(……もうだめ。もう無理、持たない……っ……まだ味わっていたいのに……そんな殺生な……そんな……)

 

【豆知識:コンプレックスを受け止めてもらった安堵感+大好きな匂い+頭ぽんぽんというトリプルコンボにより、凛のバッテリーは満タンを超え、余剰エネルギーが全身を駆け巡っている状態である。医学的見地からすれば、失神まであと数秒と言えるだろう】

 

 視界が、白く滲んだ。

 

「……そんなバナナ……」

 

 私は幸福の絶頂のまま、静かに意識を手放した。




凛「今月末の営業目標を達成したら、ご褒美に彼の飲みかけの水を一気飲みするの」

(`Д´)ゞ ビシッ「いや、それ汚いから!」
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