その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果――   作:やっくん。

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14話 この羞恥、致死量につき

 ――鳳 麗華(おおとり れいか)の視点――

 

 レゼール、開店前――

 

 このレゼールのモットーは、変化と挑戦。

 

 ですので、店長となる者には毎月新しいメニューを考案するように指示を出しております。

 

 わたくし自身は、研修生・小鳥麗華として正体を偽りながら。

 

 さて、今月はどんなメニューを――と厨房を覗いてみると、店長と結城悠がちょうど新メニューの話をしていました。

 

「何の魚なんですか、これ」

 

「キスだよ」

 

(キっ……キスッ!?)

 

 思わず、トレーを持つ手が止まりました。

 

「……味付けがちょいディープというか。キスに……」

 

(ディディデ、……ディープキス!?!?)

 

 頭の中で、あの夜の記憶がブワっと広がってしまいます。

 

 お、落ち着くのよ、麗華……

 

 そうですわ。こんな時のために、一家相伝の鳳式腹式呼吸がありましたわ。

 

「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ……ふー」

 

 四秒吸って八秒吐く。これを四回繰り返す。

 

 ……よろしい。これですっかり冷静になりましたわ。

 

 ふと意識を戻すと、いつの間にか真鍋も会話に加わっておりました。

 

「この辺りって近くに大きな鉄工場あるから、外干しすると鉄粉(てっぷん)がついちゃうのよ〜」

 

(せせせ……せっぷん!?!?)

 

「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ……ふー」

 

◇

 

レゼール、開店――

 

 ……能天気に働いておりますわね、あの男は。

 

 カウンター越しに視界の端で捉える結城悠の横顔。

 

 さっきは不覚にも動揺しましたが、もう大丈夫ですわ。わたくしは、こんなことで引きずったりいたしません。

 

 それに、あの事故。深夜の控室で起きたことは、

 

 

 夢――断じて夢。

 

 

 

 鳳の令嬢たるわたくしが、泥臭いアルバイトの男に自らなどあり得ませんわ。

 

 

 

 絶対に。

 

 

 

 ですが、今も彼を視線で追ってしまう。

 

 ――ピピッ

 

「小鳥さん、三番テーブルの片付けお願い」

 

 インカムが耳元で鳴りました。

 

 彼の声がダイレクトにわたくしの鼓膜を震わせました。

 

 ブルッ――

 

「ひぁっ」

 

 変な声が出た。

 

 わたくしは、なんてはしたない声を……

 

 結城悠……またしても、わたくしに恥をかかせましたわね……。

 

 許せない。

 

 わたくしは、すべての負の感情を乗せて彼を睨みつけます。

 

 彼は見向きもしません。まるで、こちらを意識的に見ないようにしているかのよう。

 

 結城悠のくせになんて無礼――って、いけませんわ。わたくしの心が乱れております。一旦、落ち着かなければ……

 

「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ……ふー」

 

 わたくしは気を取り直して三番テーブルへ向かう。

 

 空になったコーヒーカップ、デザートの皿、折りたたまれたナプキン。

 

 すべてをトレーに乗せていきます。

 

 まったく、なんでわたくしが片付けなんて……

 

「集団のお客だったから空いたお皿がたくさんあるね。一緒に片付けよう」

 

 気づけば、隣には結城悠が立っておりました。

 

 フンッ、気づいてるなら、もっと早く来なさいよ。

 

 カチャカチャと音を立てながら片付ける彼。

 

 もっと上品に食器の片付けができないのかしら、まったく。

 

 そして残るはコーヒーカップが一つ。

 

 片付けようと手を伸ばす――

 

 さわっ。

 

「っ……!」

 

 彼の指が一瞬だけわたくしの指に触れる。

 

 反射的に手を引いてしまいます。

 

 彼をチラリと見ましたが、変わりなく片付けを続けています。

 

 さっさとテーブル清掃を終わらせ、キッチンの方へ行ってしまう彼。

 

 触れたことなど、まるでなかったかのように。

 

「……」

 

 

 

 

 ですが、今はそれとは別の問題が浮上しております。

 

 それは、さきほど結城悠の顔を盗み見た瞬間に視界に入ったもの。

 

 

 唇。

 

 

「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ……ふー。ひっひっ……」

 

「小鳥さん、まだー? こっちにヘルプお願いー」

 

「……参りますわ」

 

 深呼吸をあと二セット残して、わたくしはヘルプへと向かいました。

 

◇

 

レゼール閉店――

 

 その日の営業も終わり、残った従業員でバックヤードで一休みしていると、店長が紙袋を持って現れました。

 

「みんなー、さっき知り合いから焼き芋もらったんだけど、よかったら食べてね」

 

 湯気の立つ焼き芋が、人数分テーブルに並べられました。

 

 これが焼き芋……初めて見ましたわ……

 

 ほくほくっと湯気が立っている。

 

 素朴な見た目、というよりほぼ原型です。

 

 これは本当に食べられるの……

 

「小鳥さんも食べる? 甘くておいしいよ」

 

 結城悠がどうぞ、とひとつ差し出してきます。

 

 わたくしが庶民の食べ物を口にするなど……

 

 断ろうとしたら、彼が目の前でイモをパリパリっと二つに割った。

 

 断面はきれいな黄金色に染まっており、ふわりと白い湯気が立ち昇ります。

 

 白く甘い香りが鼻先をくすぐりました。

 

 ……まぁ、せっかくの親切を断るのも鳳家の礼節に反しますわね。

 

 鳳規範第9条、善意の収奪。人の親切を最大限利用して鳳の益としろ、とあります。

 

 これはあくまで鳳の規範に則っただけ。

 

「……いただきますわ」

 

 ぱくっ。

 

 あ……甘い。

 

 蜜のように濃く、それでもって嫌味がない。自然の味を最大限引き出すことで生まれる、調和のハーモニー。

 

「これが……焼き芋……」

 

 ぱくっぱくっぱくっ。

 

「どう?」

 

「……悪くはありませんわ」

 

 彼は「よかったね」と言いながら笑っておりました。

 

 間食を終え、バックヤードには穏やかな時間が流れています。

 

 店長、真鍋、結城悠が庶民の話で笑っております。

 

 わたくしはその輪の端に座っておりました。

 

 そんな時でした。

 

(……あっ)

 

 お腹の奥で何かが主張し始め、不穏な予感がせり上がってくる。

 

(……これは)

 

 由々しき事態です。

 

 鳳の令嬢として、このような生理現象は、存在しないも同然として生きてきました。

 

 深呼吸ですわ。落ち着けば収まります……

 

「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ……ふー」

 

 ふぅ、よかった。治まりましたわ……

 

 店長が結城悠に向けて話をしております。

 

「そういえば悠くん、昨日のあれやっといてくれた?」

 

 悠が「あー!」と大きな声を上げながら、思い切りテーブルを手でバンッと叩いた。

 

 その衝撃でわたくしの体が、ほんの少し、揺れた。

 

 

 

 

 ぷぅ。

 

 

 

「「「…………」」」

 

 

 

 雰囲気が一瞬で沈黙に変わりました。

 

 あぁ……終わりですわ……いっそわたくしを殺して。

 

 静寂を破るように。

 

「あ、すいませーん、おならしちゃいましたー」

 

 結城悠が、何でもないように言いました。

 

 ……あ……えっ?

 

 店長と真鍋が「もうー!」「男の人ってほんと」と笑い飛ばして、会話が続いていきます。

 

 三秒と経たずに話は別の方向へ流れていき、誰もわたくしなど見ておりませんでした。

 

 わたくしは俯いて膝の上で指先を見ていました。

 

 彼は今、真鍋の話に笑いながら相槌を打っています。

 

 わたくしを、ちらりとも見ない。

 

 このお方は、なぜ何もないように振る舞うのでしょうか。

 

 ……ずるいですわ

 

◇

 

「じゃあ先に帰るね。戸締りよろしく〜」

 

 店長が手を振りながら出ていきました。

 

 わたくしも、これ以上この場にいられません。

 

 彼が部屋を出たあと、すぐに立ち上がります。

 

「お先に失礼しますわ」

 

 誰に言うともなくそう告げ、バックヤードのドアを開けて廊下へ出ました。

 

 バタンとドアが閉まる音が廊下に響きます。

 

 帰ろうと一歩踏み出した瞬間――

 

「……内緒……大事な話が」

 

 彼の声が部屋から聞こえてきました。

 

 秘密? なんのことでしょう……

 

 聞くつもりなど毛頭ありませんが、社長として従業員の内情を把握することは必要です。

 

 でも、よく聞こえませんわね……

 

 わたくしは、できるだけそーっとそーっとドアに耳を近づけました。

 

 そして、ぺたりとドアに耳を押し当てます。

 

 ドア越しに彼と真鍋の声が断片的に聞こえてきます。

 

「ええっと、実は……」

 

 結城悠の声が聞こえてくる。

 

「すいません、来週……言って……ここをやめる」

 

 ……え

 

 思わず当てている耳をドアに強く押し付けます。

 

「……でも次は決まってるの?」

 

「……決まってます……」

 

 もう次の働き先まで……なんで……

 

「そっかぁ。少し寂しい気もするわね〜」

 

 そのあとも会話が続いている様子でしたが、頭の中には入ってきませんでした。

 

 ……や、やめる……

 

 その言葉が、頭の中でぐるぐると回ります。

 

 来週、いなくなる……ということですの?

 

「麗華様、お車の用意ができております」

 

 

「ひぁっ!」

 

 わたくしの秘書である九条が、いつのまにか背後に立っておりました。

 

「……ひぁ、とは何でしょうか」

 

 彼女の、いつも通りの無機質な声。

 

「ひ、冷よ! 庶民の食べ物を食べたから、はやく水を飲まないと喉が穢れてしまうわ」

 

「……そういうことでしたか。では、お車へどうぞ。車内にてお水をお出しいたします」

 

◇

 

 リムジンの車内。

 

 わたくしは冷えた水を一口含んで、グラスを膝の上に置きました。

 

 車窓を流れる夜の街を、ぼんやりと眺めます。

 

 ……ふと、自分の右手の指先に目が落ちました。

 

「……」

 

 あのとき、彼の指が触れた場所。わたくしはその指をもう片方の手でそっと包みます。

 

 包んで――ハッと手を離しました。

 

 バックミラーにはわたくしの顔。完璧な令嬢の顔。隙のない美しく整った顔。

 

 そのはずの頬がほんのりと赤い。

 

 指先でそっと触れてみます。

 

 熱い……

 

 わたくしは窓を少し開けました。

 

 流れ込む夜風に、頬を晒します。

 

 気持ち良いですわ……

 

 わたくしはしばらく風に当たりました。

 

 それでも、手のひらに当てた頬の熱は引いてくれません。

 

 窓ガラスにぼんやりと自分が映る。

 

 その口元がわずかに緩んでいるのを見て、きゅっと唇を引き結びます。

 

 窓の外へ、目を戻しました。

 

 流れていく街の光を数えるように眺めながら、ゆっくりと息を吐きます。

 

 ――明日もまた結城悠に会える

 

 そう思った、その時でした。

 

『来週……ここをやめる』

 

 ガラスに映るわたくしの表情から、すうっと色が失せました。

 

 膝の上のグラスの水面が、小さく、波打ちます。

 

 波打って――止まりません。

 

「……もう、会えない……」

 

 呟きはエンジンの低い唸りに溶けて消える。

 

 わたくしはただグラスを見つめておりました。

 

「……麗華様」

 

 隣の九条が静かに口を開きました。

 

 いつもと変わらない、感情の読めない声。

 

「差し出がましいようですが、ひとつ、ご提案がございます」

 

「……提案?」

 

「あの青年を、お手元に置いておきたいのではございませんか」

 

 わたくしは九条の横顔に目をやりました。

 

 彼女は前を向いたまま、睫毛ひとつ動かしません。

 

「……何を、言って」

 

「お隠しにならずとも結構です。長年おそばに仕えておりますれば」

 

 わたくしは、グラスに視線を落としました。

 

「ですが、ただ引き止めるだけではあの青年は去ってしまいます。人の心は移ろいやすいもの。……確実に、逃げられぬようにしておくのが賢明かと」

 

「……逃げられぬように?」

 

 九条の眼鏡のレンズが、街灯の光を受けてきらりと滑りました。

 

「幸い、麗華様のお屋敷には、二、三億はくだらない青磁の壺がございます」

 

「……壺が、何だというの」

 

「それを使えば、あの青年を――合法的に、麗華様に縛りつけることができます」

 

 わたくしは顔を上げ、九条の横顔をじっと見つめます。

 

 彼を、引き止められる。

 

 そばに、置いておける。

 

 握りしめたグラスの中で、氷がからんと小さな音を立てました。

 

「……話を、聞かせなさい」

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