その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――鳳 麗華(おおとり れいか)の視点――
レゼール、開店前――
このレゼールのモットーは、変化と挑戦。
ですので、店長となる者には毎月新しいメニューを考案するように指示を出しております。
わたくし自身は、研修生・小鳥麗華として正体を偽りながら。
さて、今月はどんなメニューを――と厨房を覗いてみると、店長と結城悠がちょうど新メニューの話をしていました。
「何の魚なんですか、これ」
「キスだよ」
(キっ……キスッ!?)
思わず、トレーを持つ手が止まりました。
「……味付けがちょいディープというか。キスに……」
(ディディデ、……ディープキス!?!?)
頭の中で、あの夜の記憶がブワっと広がってしまいます。
お、落ち着くのよ、麗華……
そうですわ。こんな時のために、一家相伝の鳳式腹式呼吸がありましたわ。
「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ……ふー」
四秒吸って八秒吐く。これを四回繰り返す。
……よろしい。これですっかり冷静になりましたわ。
ふと意識を戻すと、いつの間にか真鍋も会話に加わっておりました。
「この辺りって近くに大きな鉄工場あるから、外干しすると鉄粉(てっぷん)がついちゃうのよ〜」
(せせせ……せっぷん!?!?)
「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ……ふー」
◇
レゼール、開店――
……能天気に働いておりますわね、あの男は。
カウンター越しに視界の端で捉える結城悠の横顔。
さっきは不覚にも動揺しましたが、もう大丈夫ですわ。わたくしは、こんなことで引きずったりいたしません。
それに、あの事故。深夜の控室で起きたことは、
夢――断じて夢。
鳳の令嬢たるわたくしが、泥臭いアルバイトの男に自らなどあり得ませんわ。
絶対に。
ですが、今も彼を視線で追ってしまう。
――ピピッ
「小鳥さん、三番テーブルの片付けお願い」
インカムが耳元で鳴りました。
彼の声がダイレクトにわたくしの鼓膜を震わせました。
ブルッ――
「ひぁっ」
変な声が出た。
わたくしは、なんてはしたない声を……
結城悠……またしても、わたくしに恥をかかせましたわね……。
許せない。
わたくしは、すべての負の感情を乗せて彼を睨みつけます。
彼は見向きもしません。まるで、こちらを意識的に見ないようにしているかのよう。
結城悠のくせになんて無礼――って、いけませんわ。わたくしの心が乱れております。一旦、落ち着かなければ……
「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ……ふー」
わたくしは気を取り直して三番テーブルへ向かう。
空になったコーヒーカップ、デザートの皿、折りたたまれたナプキン。
すべてをトレーに乗せていきます。
まったく、なんでわたくしが片付けなんて……
「集団のお客だったから空いたお皿がたくさんあるね。一緒に片付けよう」
気づけば、隣には結城悠が立っておりました。
フンッ、気づいてるなら、もっと早く来なさいよ。
カチャカチャと音を立てながら片付ける彼。
もっと上品に食器の片付けができないのかしら、まったく。
そして残るはコーヒーカップが一つ。
片付けようと手を伸ばす――
さわっ。
「っ……!」
彼の指が一瞬だけわたくしの指に触れる。
反射的に手を引いてしまいます。
彼をチラリと見ましたが、変わりなく片付けを続けています。
さっさとテーブル清掃を終わらせ、キッチンの方へ行ってしまう彼。
触れたことなど、まるでなかったかのように。
「……」
ですが、今はそれとは別の問題が浮上しております。
それは、さきほど結城悠の顔を盗み見た瞬間に視界に入ったもの。
唇。
「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ……ふー。ひっひっ……」
「小鳥さん、まだー? こっちにヘルプお願いー」
「……参りますわ」
深呼吸をあと二セット残して、わたくしはヘルプへと向かいました。
◇
レゼール閉店――
その日の営業も終わり、残った従業員でバックヤードで一休みしていると、店長が紙袋を持って現れました。
「みんなー、さっき知り合いから焼き芋もらったんだけど、よかったら食べてね」
湯気の立つ焼き芋が、人数分テーブルに並べられました。
これが焼き芋……初めて見ましたわ……
ほくほくっと湯気が立っている。
素朴な見た目、というよりほぼ原型です。
これは本当に食べられるの……
「小鳥さんも食べる? 甘くておいしいよ」
結城悠がどうぞ、とひとつ差し出してきます。
わたくしが庶民の食べ物を口にするなど……
断ろうとしたら、彼が目の前でイモをパリパリっと二つに割った。
断面はきれいな黄金色に染まっており、ふわりと白い湯気が立ち昇ります。
白く甘い香りが鼻先をくすぐりました。
……まぁ、せっかくの親切を断るのも鳳家の礼節に反しますわね。
鳳規範第9条、善意の収奪。人の親切を最大限利用して鳳の益としろ、とあります。
これはあくまで鳳の規範に則っただけ。
「……いただきますわ」
ぱくっ。
あ……甘い。
蜜のように濃く、それでもって嫌味がない。自然の味を最大限引き出すことで生まれる、調和のハーモニー。
「これが……焼き芋……」
ぱくっぱくっぱくっ。
「どう?」
「……悪くはありませんわ」
彼は「よかったね」と言いながら笑っておりました。
間食を終え、バックヤードには穏やかな時間が流れています。
店長、真鍋、結城悠が庶民の話で笑っております。
わたくしはその輪の端に座っておりました。
そんな時でした。
(……あっ)
お腹の奥で何かが主張し始め、不穏な予感がせり上がってくる。
(……これは)
由々しき事態です。
鳳の令嬢として、このような生理現象は、存在しないも同然として生きてきました。
深呼吸ですわ。落ち着けば収まります……
「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ……ふー」
ふぅ、よかった。治まりましたわ……
店長が結城悠に向けて話をしております。
「そういえば悠くん、昨日のあれやっといてくれた?」
悠が「あー!」と大きな声を上げながら、思い切りテーブルを手でバンッと叩いた。
その衝撃でわたくしの体が、ほんの少し、揺れた。
ぷぅ。
「「「…………」」」
雰囲気が一瞬で沈黙に変わりました。
あぁ……終わりですわ……いっそわたくしを殺して。
静寂を破るように。
「あ、すいませーん、おならしちゃいましたー」
結城悠が、何でもないように言いました。
……あ……えっ?
店長と真鍋が「もうー!」「男の人ってほんと」と笑い飛ばして、会話が続いていきます。
三秒と経たずに話は別の方向へ流れていき、誰もわたくしなど見ておりませんでした。
わたくしは俯いて膝の上で指先を見ていました。
彼は今、真鍋の話に笑いながら相槌を打っています。
わたくしを、ちらりとも見ない。
このお方は、なぜ何もないように振る舞うのでしょうか。
……ずるいですわ
◇
「じゃあ先に帰るね。戸締りよろしく〜」
店長が手を振りながら出ていきました。
わたくしも、これ以上この場にいられません。
彼が部屋を出たあと、すぐに立ち上がります。
「お先に失礼しますわ」
誰に言うともなくそう告げ、バックヤードのドアを開けて廊下へ出ました。
バタンとドアが閉まる音が廊下に響きます。
帰ろうと一歩踏み出した瞬間――
「……内緒……大事な話が」
彼の声が部屋から聞こえてきました。
秘密? なんのことでしょう……
聞くつもりなど毛頭ありませんが、社長として従業員の内情を把握することは必要です。
でも、よく聞こえませんわね……
わたくしは、できるだけそーっとそーっとドアに耳を近づけました。
そして、ぺたりとドアに耳を押し当てます。
ドア越しに彼と真鍋の声が断片的に聞こえてきます。
「ええっと、実は……」
結城悠の声が聞こえてくる。
「すいません、来週……言って……ここをやめる」
……え
思わず当てている耳をドアに強く押し付けます。
「……でも次は決まってるの?」
「……決まってます……」
もう次の働き先まで……なんで……
「そっかぁ。少し寂しい気もするわね〜」
そのあとも会話が続いている様子でしたが、頭の中には入ってきませんでした。
……や、やめる……
その言葉が、頭の中でぐるぐると回ります。
来週、いなくなる……ということですの?
「麗華様、お車の用意ができております」
「ひぁっ!」
わたくしの秘書である九条が、いつのまにか背後に立っておりました。
「……ひぁ、とは何でしょうか」
彼女の、いつも通りの無機質な声。
「ひ、冷よ! 庶民の食べ物を食べたから、はやく水を飲まないと喉が穢れてしまうわ」
「……そういうことでしたか。では、お車へどうぞ。車内にてお水をお出しいたします」
◇
リムジンの車内。
わたくしは冷えた水を一口含んで、グラスを膝の上に置きました。
車窓を流れる夜の街を、ぼんやりと眺めます。
……ふと、自分の右手の指先に目が落ちました。
「……」
あのとき、彼の指が触れた場所。わたくしはその指をもう片方の手でそっと包みます。
包んで――ハッと手を離しました。
バックミラーにはわたくしの顔。完璧な令嬢の顔。隙のない美しく整った顔。
そのはずの頬がほんのりと赤い。
指先でそっと触れてみます。
熱い……
わたくしは窓を少し開けました。
流れ込む夜風に、頬を晒します。
気持ち良いですわ……
わたくしはしばらく風に当たりました。
それでも、手のひらに当てた頬の熱は引いてくれません。
窓ガラスにぼんやりと自分が映る。
その口元がわずかに緩んでいるのを見て、きゅっと唇を引き結びます。
窓の外へ、目を戻しました。
流れていく街の光を数えるように眺めながら、ゆっくりと息を吐きます。
――明日もまた結城悠に会える
そう思った、その時でした。
『来週……ここをやめる』
ガラスに映るわたくしの表情から、すうっと色が失せました。
膝の上のグラスの水面が、小さく、波打ちます。
波打って――止まりません。
「……もう、会えない……」
呟きはエンジンの低い唸りに溶けて消える。
わたくしはただグラスを見つめておりました。
「……麗華様」
隣の九条が静かに口を開きました。
いつもと変わらない、感情の読めない声。
「差し出がましいようですが、ひとつ、ご提案がございます」
「……提案?」
「あの青年を、お手元に置いておきたいのではございませんか」
わたくしは九条の横顔に目をやりました。
彼女は前を向いたまま、睫毛ひとつ動かしません。
「……何を、言って」
「お隠しにならずとも結構です。長年おそばに仕えておりますれば」
わたくしは、グラスに視線を落としました。
「ですが、ただ引き止めるだけではあの青年は去ってしまいます。人の心は移ろいやすいもの。……確実に、逃げられぬようにしておくのが賢明かと」
「……逃げられぬように?」
九条の眼鏡のレンズが、街灯の光を受けてきらりと滑りました。
「幸い、麗華様のお屋敷には、二、三億はくだらない青磁の壺がございます」
「……壺が、何だというの」
「それを使えば、あの青年を――合法的に、麗華様に縛りつけることができます」
わたくしは顔を上げ、九条の横顔をじっと見つめます。
彼を、引き止められる。
そばに、置いておける。
握りしめたグラスの中で、氷がからんと小さな音を立てました。
「……話を、聞かせなさい」