その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:やっくん。

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14話 その負債、致死量につき――仕組まれた悲劇の舞台

 カフェレゼールの空気は、一夜にして一変していた。

 

 発端は、本社からの一通の通達だった。

 

 曰く、鳳グループの理念と美学を体現する空間への刷新。

 

 そして、なぜか研修生であるはずの小鳥麗華さんがその通達を受け取り、その瞬間から別人のように目を輝かせ、陣頭指揮を執り始めたのだ。

 

「ここにはこの壺を。照明の角度はこう。いいえ、もう五センチ左ですわ。完璧な美とは、一センチの妥協も許しませんのよ」

 

(……研修生が仕切ってる……なんでか止められる雰囲気じゃない……)

 

 研修生の身でありながら、逆らうことを一切許さない圧倒的な気迫により、店内は鳳グループの美学を凝縮した、至高のコンセプト・ラウンジへと変貌を遂げていた。

 

(……すごい雰囲気だな……本当に同じカフェ? 落ち着いてコーヒー飲む場所っていうより、美術館のホールだな……)

 

 店の中央に設けられた特設展示スペースを仰ぎ見て、思わず乾いた笑いを漏らした。

 

 磨き抜かれた白い大理石の台座。その上に鎮座しているのは、素人目に見ても高価なものだと直感させる、深みのある青磁の壺だった。

 

「結城くん、腰を抜かさないでくれよ。本社から直送された鳳家秘蔵の至宝だそうだ。時価……三億円は下らないらしい。あとで柵でもしとこうね。今のままだとさすがに怖いよ……」

 

「でも店長、なんでそんな高価なものをうちに?」

 

 店長が震える声で補足する。

 

「なんでも、本物に触れる機会の提供を新しいコンセプトにしたみたいなんだ……狙いは従業員の労働の意識を高めること。顧客の層を、というより顧客単価を上げる目的もあるみたい……はぁ……」

 

 店長は店長でやることや指示されることも多いのだろう。先程からため息が多い。

 

 そんな話をしていると、入口のドアが静かに開いた。

 

 店内の空気が一瞬で引き締まるような気がした。

 

 背丈は百六十センチほど。鎖骨から胸元手前まで大きく開いた白シャツに、黒のタイトスカート。漆黒のロングボブが、白い肌の上にすとんと落ちている。

 

 凛さんが頼れるお姉さんなら、この人はクールビューティーという言葉がそのまま歩いてきたような雰囲気だった。

 

 足はすらっと長く、全体として無駄のない引き締まった印象で、普段から運動をしているのが一目でわかった。

 

「鳳グループ、鳳麗華さまの専属秘書、九条 千尋(くじょう ちひろ)です」

 

【豆知識:九条千尋。鳳麗華の専属秘書として普段から彼女の側に仕えている。美貌も去ることながら、表の仕事から裏の仕事まで卒なくこなす影の実力者である】

 

「本日は、我が主(あるじ)の命により、展示品の譲渡と査察に参りました」

 

 九条と名乗った女性が、ほんの一瞬だけこちらへ視線をチラッと向けた。

 

「……悠様ですね。噂通りのおひとよ……いえ、誠実そうな顔立ちで。せいぜい、この鳳の誇りを傷つけないよう、精進なさることです」

 

(え……なんで俺の名を……)

 

 一切の感情を排した敬語で告げると、彼女は音もなく店内の隅へと移動した。

 

 その背中を目で追いながら、俺は小さく息を吐いた。

 

(……なんだ、今のは)

 

 ぞわり、と首筋に寒気が走った。

 

 名前を知られていたこと、値踏みするような一瞥、そして何事もなかったように立ち去るあの足音のなさ。

 

 怖いというより、うまく説明のつかない感覚だった。まるで、すでに何かが決まっていて、俺だけがそれを知らないような。

 

「……ね、麗華さん」

 

 俺は隣でメニューを整理していた研修生の小鳥麗華さんに思わず声をかけた。

 

「なんですの?」

 

「今の人、知り合い? なんか、俺の名前知ってたんだけど」

 

「……さぁ、存じませんわ」

 

 彼女は眼鏡を押し上げ、手元のメニューから目を離さないまま答えた。

 

「……鳳麗華って、どんな人なんだろうな」

 

 独り言のように呟く。

 

「そういえば、同じ名前だよね。麗華さんと」

 

 ビクッ。

 

 彼女の肩が少しだけ跳ねた気がした。

 

「……ええ、そうですの。親が……鳳麗華様のようにと、名付けてくださいましたのよ。……おほほほっ」

 

「同じ名前だと大変でしょ」

 

「ええ、そうなんですの。わたくしも麗華様に名前負けしないように必死ですの……親の思いを背負いに背負って、背中が曲がりそうなくらいですのよ。おほほ」

 

 そう言いながら彼女の背筋は天に向かって真っ直ぐに伸びていた。

 

「そっか、親の期待を勝手に背負わされるのも大変だねぇ」

 

「そう、そうですの」

 

「でも……やっぱりお嬢様だなって思うよ」

 

「……どういう意味ですの?」

 

「だって、三億円の壺をカフェに置こうなんて、フツーは考えないでしょ。感覚、バグってるよ」

 

「バグっ!?」

 

「おかしいよ、普通に」

 

「お、おかしい!?」

 

「トチ狂ってるよ」

 

「ト、トチ狂!?!?」

 

「麗華さん、さっきからどうしたの?」

 

 麗華さんがふぅーふぅーと浅い呼吸を繰り返している。

 

「な、なんでもありませんのよ……!」

 

「ただ、店長も言ってたけど、本物に触れることに価値があるっていう考えは、俺にはなかったからさ。なるほどなぁって感心したんだよね。こんな環境、そうないでしょ」

 

 俺はちょっと芝居がかって、天井を仰いだ。

 

「ありがとう、見知らぬ麗華さま」

 

 少し間があった後、

 

「そ、そうですのね! あー、暑いですわね、今日は! あそこにホコリが……掃除しなくちゃ!」

 

 彼女は壊れたおもちゃのような動きで、猛烈に掃除を始めた。

 

 

 カフェの入口には、準備中の木札がかかっている。

 

「店長、あの壺、やっぱり柵か何かで囲んだ方がいいですよね」

 

「そうだなぁ……万が一があったら困るし。ちょっと倉庫に何かないか見てくるよ」

 

 店長がバックヤードへ消えかけたその時だった。

 

 カランッ、と入口のドアが開いた。

 

「あれ、お客様、すいません、まだ準備ちゅ……」

 

 俺は慌てて振り返った。

 

 杖をついた老婆が、おぼつかない足取りで店内に入ってきていた。

 

「こりゃあ、良いツボだねぇ」

 

 老婆はこちらの声など聞こえていないかのように、ゆっくりと展示スペースへと歩みを進めた。

 

(まずい!)

 

 俺は急いで老婆のそばへ向かった。

 

 その瞬間だった。

 

「ありゃっ」

 

 台座の角に杖を引っ掛けた老婆が、青磁の壺に向かって大きくバランスを崩した。

 

 俺は反射的に正面から老婆の体を支えに入った。

 

 老婆を抱きかかえる形になった俺の背中に、壺のある台座がある。

 

 その時、老婆の体から、老婆とは思えないほどの力が、ぐっと前に押してくる感触があった。

 

 そのまま台座に背中がぶつかり、衝撃で壺が揺れ、台座からずり落ちていく。

 

(やばい!)

 

 片腕を思いきり伸ばす。ギリギリ間に合う、そう思った瞬間。

 

 カンッ。

 

 老婆の杖が、俺の手を弾いた。

 

 ガシャァァァァン!!!

 

「ありゃあ〜。こりゃあ、どっちが悪いんかのぉ」

 

 老婆が、のんきな声を上げた。

 

 床に散らばった青磁の破片を、俺はただ呆然と見つめた。

 

 その時、スッと立ち上がった人影があった。

 

「一部始終、拝見いたしました」

 

 九条さんだった。

 

「老婆の方がそのまま倒れていたとしても、角度と体重から計算すれば、壺が倒れることはなかったでしょう」

 

「……つまり、俺が余計なことをしたってことですか」

 

「そのとおりです」

 

「保険とか、そういうのありますよね」

 

「社員ではないあなたに、そのようなものはありません」

 

 バッサリと言われた。

 

「そんな……」

 

 俺はつい先ほどの出来事を思い出す。

 

「いや、待ってください。最初におばあさんを受け止めた時、急にぐっと前に押されたんです!老婆とは思えない力で。腕を伸ばした時も今度は杖で手を弾かれて……」

 

 言いながら周りの視線に気付いた。

 

 まるで、『言い訳をして他人に罪をなすりつけようとしている』とでも言いたげな視線が降り注ぐ。

 

「……結城くん」

 

 店長が、心配そうな声で俺の名前を呼んだ。

 

 それ以上は何も言わなかった。その沈黙が余計に痛かった。

 

「まぁ……なんてお可哀想……」

 

 麗華さんも声をかけてくれる。

 

 俺はそれ以上何も言えなくなって、床に散らばった青磁の破片を、ただ呆然と見つめ続けた。

 

 九条さんがカツカツとヒールを鳴らしながら、俺の真横まで歩み寄ってきた。

 

 耳元で、低く静かな声が降ってきた。

 

「……尊い自己犠牲でしたが、残念でしたね」

 

 そこから先の記憶は、俺にはない。




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