その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果 作:ヤッくん
カフェ『レゼール』の空気は、一夜にして一変していた。
先日の深夜に及ぶ模様替え。研修生の麗華さんの熱烈な――というより、逆らうことを許さない圧倒的な圧力による――提案により、店内は「鳳グループの美学を凝縮した、至高のコンセプト・ラウンジ」へと変貌を遂げていた。
(……すごいな、これ。本当にバイト先のカフェか? 落ち着いてコーヒー飲む場所っていうより、美術館のVIPルームだろ)
店の中央に設けられた特設展示スペースを仰ぎ見て、俺は思わず乾いた笑いを漏らした。
磨き抜かれた大理石の台座。その上に鎮座しているのは、素人目に見ても「一生触れてはいけないもの」だと直感させる、深みのある青磁の壺だった。
「結城くん、腰を抜かさないでくれよ。本社から直送された鳳家秘蔵の至宝だそうだ。時価……三億円は下らないらしい。あとで柵でもしとこうね。今のままだとさすがに怖い」
店長が震える声で補足する。その横には、鳳グループ広報を名乗る一人の女性が、精密機械のような佇まいで立っていた。
「鳳グループ、鳳麗華さまの専属秘書、九条 千尋(くじょう ちひろ)です。本日は、我が主(あるじ)の命により、展示品の譲渡と査察に参りました」
《九条 千尋。鳳グループの「影」として知られる実力者。麗華の意志を遂行するためなら、法的・社会的な手段を問わずあらゆる障害を排除する冷徹な執行官である》
銀縁のフレーム越しに覗くのは、すべてを見透かすような、深い藍色の瞳。耳元で切り揃えられた漆黒のボブカットは、一筋の乱れもなく彼女の白い肌を縁取っている。
身体のラインを拾い上げるタイトな秘書服の上からでも、その身のこなしには武人のような無駄のない「勁(つよ)さ」が宿っていた。
九条と名乗った女性は、眼鏡の奥から俺を一瞥した。
「……結城 悠様ですね。噂通りのお人好しそうな、……いえ、誠実そうな顔立ちで。せいぜい、この鳳の『誇り』を傷つけないよう、精進なさることです」
(え、何その含みのある言い方。……というか、なんで俺の名前を知ってるんだ?)
一切の感情を排した敬語で告げると、彼女は音もなく店内の隅へと移動した。
「……なんか、怖い人だよね。ね、麗華さん」
近くでメニューを整理していた麗華さんに声をかけた。
彼女は黒いウィッグと眼鏡をかけているが、その背筋はいつになくピンと伸びている。
「当然ですわ。九条さんは厳しいですが、それだけ鳳のブランドを愛しているからですわ。……それより悠様、あちらにお客様が見えましたわよ。早くご案内しなさいな」
(九条さんと知り合い?それに悠様? 今、さらっと様付けしなかったか?)
「そういえば、さっき九条さんが言ってた『鳳 麗華』って……麗華さんと同じ名前?」
その瞬間、麗華さんの肩がビクッと跳ねた。
一瞬の沈黙の後、彼女は眼鏡を押し上げ、頬を赤く染めて瞳を輝かせた。
「ええ、そうですわ! 鳳 麗華様は、わたくしにとって唯一無二の憧れですの! あまりの尊さに、わたくし、戸籍上の名前もあの方と同じ『麗華』に改めてしまいましたの!」
(……え、あ、そうなんだ。推し活のレベルが次元を超えてるな。若干引くけど、それだけ熱心なんだろう)
「でも、本物の鳳麗華お嬢様って、九条さんを見る限り相当怖そうだけど。同じ名前だとプレッシャーじゃない?」
「(ピキッ)……こ、怖くなんてございませんわ! あの方は規律を愛する、誰よりも純粋な方ですのよ! 悠様、不敬な発言は慎みなさいなっ!」
「でもさ、三億の壺をカフェに置くなんて、そのお嬢様も相当『感覚の狂ったお嬢様』だよな。きっと庶民が右往左往するのを高みの見物で楽しむ、血も涙もない支配者って、それを言い過ぎか。」
「(ピキッ……ピキキッ!)……く、狂った……!? 血も涙もない……っ!? おだまりなさいなっ! あの方は……麗華様は、ただ少し、自分の信念に忠実なだけですわ! あれは至高の『慈愛』なんですのよっ!!」
(……熱くなりすぎだろ。信者って怖いな)
「でもなにか意図があると思うんだよね。」
麗華さんの動きが、ピタリと止まる。
「鳳グループの後継者なんだから、考えなしで行動する人じゃないかもな。案外、この壺を置いたのは、俺たち従業員が『本物の美』に触れることで感性を磨けるように……っていう、麗華様なりの配慮かも」
「な、なるほどですわねっ! 続けてくださいましっ!」
「俺たちの成長を信じて期待してくれている、すごく心の高潔な人ってことかな。そう思ったら、少し背筋が伸びる気がするよな」
怒りで逆立っていたはずの彼女の空気が、霧が晴れるように霧散した。
代わりに、真っ白な頬が夕陽を浴びた林檎のようにじわりと朱に染まっていく。
「て、そんなわけないか。麗華さん? どうしたの、顔が真っ赤だよ?」
「な、なんでもありませんわっ! ……ふ、ふん、ようやく麗華様の高潔な志に気づきましたのね! 当然ですわ、あの方は……あの方は、世界で一番、あなたのことを……っ、いえ、なんでもありませんわぁぁぁ!」
麗華さんは、壊れたおもちゃのような動きで猛烈に掃除を始めた。
少し離れた場所でその様子を眺めていた九条千尋は、静かに眼鏡を押し上げる。
そのレンズの奥で、彼女はひとり、主(あるじ)の様子に思いを馳せていた。
(……おいたわしや、麗華様。少し褒められただけであんなに茹で上がって。……でも、あんなに楽しそうな麗華様を見るのは、いつ以来かしら。少しだけ、羨ましいですね)
――その時だった。
おぼつかない足取りの老婆が、店の扉を押し開けたのは。
そんな時、一人の老婆が、おぼつかない足取りで入店してきた。
悲劇は、あまりにも唐突に、そして美しく演出された。
老婆は展示スペースの周りをフラフラと歩いていた。
そして、台座の角に杖を引っ掛け、派手にバランスを崩した。
「あ、あら、おっとっと……っ!」
老婆の体が、展示されている青磁の壺へと倒れ込む。
その瞬間、店内の時間は止まった。
「危ないっ!!」
俺は持っていたトレーを放り出し、床を蹴った。
老婆を突き飛ばせば怪我をさせてしまう。かといって、あんな高い壺が老婆の下敷きになったら。
瞬時に、老婆の体と台座の間に自分の体を割り込ませた。老婆を腕の中で抱きしめ、代わりに背中を展示台へと強く打ちつける。
ガシャァァァァン!!!
鈍い衝撃と共に、背後で何かが砕け散る音が響いた。
床一面に散らばった青磁の破片。時価三億円の壺が、俺の背中に押し潰される形で粉々に砕け散っていた。
「あ……あぁ……。ワ、ワタシのせいで……こんな高いものを……っ」
老婆がその場で泣き崩れる。
俺は背中の激痛を堪えながら、老婆の肩を優しく叩いた。
「大丈夫です。おばあさんは怪我はないですか? よかった。これ、俺が不注意でぶつかったんですから心配しないでください。俺が割ったんですから、おばあさんは何も悪くないですよ」
老婆を安心させるように、俺は精一杯の笑顔を作った。
(……三億。三億か。……はは、笑えない。でも、さすがに保険とかあるよね?)
その光景を見ていた麗華さんの表情が、形容しがたい歪みを見せた。
「……素晴らしい自己犠牲です」
低い、氷のような声が響いた。
いつの間にか隣に立っていたのは、九条千尋だった。彼女は残骸を無機質な瞳で見つめ、それから冷酷な手つきで、一通の書類を取り出した。
「結城 悠様。あなたが老婆を庇い、自らの過失としてこれを破壊したことは、私の目ではっきりと確認いたしました。……店長、この壺の価値をもう一度」
「三、三億円だ……! 鳳家が千年も守り抜いた、至宝なんだぞ……っ!」
「さん、おく……?」
(さんおく。三億。ええと、時価三億円。俺の時給が千円ちょっと。一時間で千円。十時間で一万。百時間で十万。千時間で百万。万、億……え? 何万時間働けばいい? ……一生? いや、一生かけても届かない。……あ、これ、詰んだわ)
「保険とかほsy」
「ないです。」
思考が真っ白に染まった。
三億。その数字の重みが、心臓を握りつぶしそうなほどの圧迫感となって襲いかかる。冷たい汗が背中を伝い、膝がガクガクと震えだすのを止められなかった。
そこに、麗華さんが慌てて駆け寄ってきた。
「まぁ! なんて可哀想な……! 九条さん、何か『別の形』での返済方法はございませんの?」
「……そうですね。鳳 麗華様は、『誠意』を重んじるお方です。……結城様。もし、あなたのこれからの『一生』を鳳家に捧げるというのなら、この支払いを……猶予して差し上げてもよろしいかと」
「……俺の一生を……?」
《鳳家の「一生の奉公」。それは、戸籍上の自由を事実上失い、衣食住から行動のすべてを鳳家の管理下に置かれることを意味する。それは救済という名の、合法的な「所有権」の譲渡であった》
突きつけられたのは、到底払えない金銭での返済か、あるいは人間としての自由を売り渡すかという、究極の選択。
チラリと、隣で震えている老婆を見た。
もしここで俺が「老婆をかばったせいだ」と証言すれば、俺の人生は助かるかもしれない。でも...
(…………それは、できない。そんなことしたら自分を許せなくなる気がする)
喉の奥がカラカラに乾く。
震える右手を、もう片方の手で必死に押さえつけながら、俺は九条を見据えた。
「……分かり、ました。……この人を助けると決めたのは、俺自身です。その結果を……….. 受け入れ......ます」
(はぁ、まじかよ......死にはしないから不幸中の幸い...なんてさすがの俺も思えんわ......)
「この体で返せるというのなら……受け入れ...ます。……いや、返させてください」
地獄への片道切符にサインをするような感覚。
震える指先でペンを握り、契約書に自分の名前を刻み込んだ。
――その瞬間。
安堵したのか、それとも恐怖で見間違えたのか。
俺の視界の端で、麗華さんの眼鏡の奥が、夕陽を反射してギラリと光った気がした。
今まで見たこともない、ひどく熱っぽい視線。
絶望に震える俺を、じっと見つめるその瞳に、俺は一瞬だけ説明のつかない寒気を覚えた。
……けれど、すぐに彼女はいつもの困り顔に戻り、俺の肩にそっと手を置く。
「……大丈夫ですわ、悠様。わたくしも、精一杯……精一杯、あなたのことを『お世話』させていただきますから」
その言葉の響きが、なぜかやけに明るく聞こえたのは、俺の気のせいだろう。
重い契約を交わしたはずなのに、彼女の指先から伝わってくる熱は、驚くほど高かった。
(……お世話、か。……俺が抜けるシフトの部分を補ってくれるということだよな……ごめんな、麗華さん)
俺は差し出された地獄への契約書を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
窓から差し込む夕陽が、俺の絶望と、何かが決定的に狂い出したこの部屋を、鮮やかに照らし出していた。
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