その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:ヤッくん

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15話 その署名、劇薬につき――三億の絶望と、歪んだ寵愛

――麗華視点――

 

 

鳳(おおとり)の美学とは、支配そのもの。

 

わたくしのプロデュースにより、一夜にして変貌を遂げたカフェ『レゼール』。その中央、スポットライトを浴びて鎮座する三億円の青磁の壺――。

 

潜入用の眼鏡越しにそれを見つめるわたくしの瞳には、冷徹な計算と、抑えきれぬ情熱が宿っておりました。

 

(オーッホッホッホ! 完璧ですわ! この脚本、この演出、すばらしいですわ! これから、わたくしの悠様を我が物にする美しきショーの始まりですわ!)

 

作業着に身を包み、黒いウィッグで正体を隠しながらも、わたくしの心臓は勝利を確信したリズムを刻んでおりました。

 

そこへ、何も知らない無垢な獲物――結城 悠(ゆうき ゆう)がやってきました。

 

「……すごいな、これ。本当にバイト先のカフェか?」

 

呆然と口を開けて展示スペースを見上げる彼。その無防備な横顔、麗華の仕掛けた「壺(罠)」に圧倒される姿は、たまらなく愛おしい。

 

「結城くん、腰を抜かさないでくれよ。本社から直送された鳳家秘蔵の至宝だそうだ。時価……三億円は下らないらしい。あとで柵でもしとこうね。今のままだとさすがに怖い」

 

店長が震える声で補足すると、わたくしの忠実なる影、九条 千尋(くじょう ちひろ)が一歩前へと進み出ました。

 

《九条 千尋。鳳麗華の専属秘書。主である麗華の命を絶対とし、その目的遂行のためには一切の容赦を排する鳳の「執行官」。彼女の登場は、対象が鳳の支配下に入る最終宣告に等しい》

 

一分の隙もない仕立てのスーツ、氷のように冷ややかな微笑。九条はわたくしが描いたシナリオ通り、完璧な「執行官」を演じております。

 

「……結城 悠様ですね。噂通りのお人好しそうな、……いえ、誠実そうな顔立ちで。せいぜい、この鳳の『誇り』を傷つけないよう、精進なさることです」

 

丁寧な敬語の裏に隠された、底冷えするような警告。

 

(悠様の背中に冷たい汗が流れるのが、わたくしには手に取るように分かりましたわ。あぁ、可哀想な悠様。そんなに怯えないでくださいまし。これから起こるのは破滅ではなく、わたくしの寵愛なのですから)

 

「……なんか、怖い人だよね。ね、麗華さん」

 

メニューの整理を装い、潜入任務に勤しんでいたわたくしに、悠様が気安く声をかけてこられました。鋭い九条の視線を感じて、わたくしの背筋はいつになくピンと伸びてしまいます。

 

「当然ですわ。九条さんは鳳の影……いえ、厳しいのはそれだけ麗華様を、そして鳳のブランドを愛しているからですわ。……それより悠様、あちらにお客様が見えましたわよ。早くご案内しなさいな」

 

(……ついうっかり、いつもの癖で彼を「悠様」と呼んでしまいましたわ)

 

わたくしは慌てて追い立てるように誤魔化しました。

 

(悠様、変に思わなかったかしら?)

 

「そういえば、さっき九条さんが言ってた『鳳 麗華』って……麗華さんと同じ名前?」

 

――心臓が、ドキンと跳ね上がりました。

 

一瞬の沈黙。わたくしは眼鏡をクイと押し上げ、内側から溢れ出す情熱を隠しきれずに頬を染めました。

 

「ええ、そうですわ! 鳳 麗華様は、わたくしにとって一生の目標、唯一無二の憧れですの! あまりの尊さに、わたくし、戸籍上の名前もあの方と同じ『麗華』に改めてしまいましたの! あぁ、麗華様……なんて気高く、美しいお名前……っ!」

 

(オーッホッホ! 完璧な切り返し……ですわよね?)

 

「……え、あ、そうなんだ。すごい熱意じゃん……」

 

悠様は若干引き気味のご様子でしたが、なんとか納得したようですわね。

 

(この世界には、特定の有名人に心酔して名前まで変えてしまう熱狂的なファンがいると聞きます。今のわたくしは、まさにそれ。狂信者そのものですのよ。)

 

「でも、本物の鳳麗華お嬢様って、九条さんを見る限り相当怖そうだけど。同じ名前だとプレッシャーじゃない?」

 

(ピキッ)

 

(……いま、なんと? 怖そうですって? わたくしを捕まえて、なんて無礼な!不敬罪ですの!鳳刑法第3条『鳳家への侮辱』。判決――圧倒的な有罪!)

 

「こ、怖くなんてございませんわ! あの方は……あの方は、規律を愛する、誰よりも純粋な方ですのよ! 悠様、不敬な発言は慎みなさいなっ!」

 

「でもさ、三億の壺をカフェに置くなんて、そのお嬢様も相当『感覚の狂ったお嬢様』だよな。きっと庶民が右往左往するのを高みの見物で楽しむ、血も涙もない支配者って、それを言い過ぎか。」

 

「(ピキッ……ピキキッ!)……く、狂った……!? 血も涙もない……っ!? おだまりなさいなっ! あの方は……麗華様は、ただ少し、自分の信念に忠実なだけですわ! あれは至高の『慈愛』なんですのよっ!!」

 

(これは鳳刑法第6条『鳳家への不敬』ですわね。判決――絶対的な有罪!)

 

必死に抗弁するわたくしを、悠様は心配そうに見つめてきます。

 

「でもなにか意図があると思うんだよね。」

 

(い、意図ですって……? そんなもの、悠様の気を引いて独占するための「脚本」以外にございませんわ)

 

「鳳グループの後継者なんだから、考えなしで行動する人じゃないかもな。案外、この壺を置いたのは、俺たち従業員が『本物の美』に触れることで感性を磨けるように……っていう、麗華様なりの配慮かも」

 

……。

 

わたくしの動きが、ピタリと止まりました。

 

「な、なるほどですわねっ! 続けてくださいましっ!」

 

「俺たちの成長を信じて期待してくれている、すごく心の高潔な人ってことかな。そう思ったら、少し背筋が伸びる気がするよな」

 

(……あぁ。)

 

怒りで逆立っていたはずのわたくしの空気は、霧が晴れるように一瞬で霧散していきました。代わりに、真っ白な頬が夕陽を浴びた林檎のようにじわりと朱に染まっていくのが、自分でもわかります。

 

(悠様……あなたって人は、どうしてそこまでわたくしのことを「正しく」理解してくださるの……っ!)

 

その背中を見送りながら、わたくしは眼鏡の奥で瞳を細めました。獲物を網へと誘う蜘蛛のような微笑を浮かべて。

 

(オーッホッホッホ! 準備は整いましたわ。さあ、来なさいな。わたくしが送り込んだ、運命の『仕掛け人』……!)

 

店内の自動ドアが開き、一人の老婆が入店してまいりました。

 

一見すればどこにでもいる善良な老婆。しかしその実態は、鳳グループが保有する劇団のベテラン女優。彼女が悠様の「お人好し」に触れた瞬間、わたくしの描いた悲劇の幕が、最高潮の盛り上がりとともに切って落とされるのです。

 

舞台は整いましたわ。

 

わたくしが配置したエキストラの老婆が、台本通り、そして最高に無能な足取りで、時価三億円の青磁の壺へとふらつきます。

 

(さあ、悠様。わたくしに見せてくださいまし。あなたのその、愚かなほどに真っ直ぐな魂を……っ!)

 

老婆の杖が、大理石の台座に引っかかります。

 

「あ、あら、おっとっと……っ!」

 

無機質な空気の中に放たれた老婆の悲鳴。倒れゆく三億円の重圧。その瞬間、店内の時間が濃密な蜂蜜のように引き伸ばされました。

 

「危ないっ!!」

 

叫び声とともに跳ねたのは、獲物である悠様でした。

 

(あぁ、期待通り。いえ、期待以上ですわ!)

 

彼は老婆を突き飛ばして怪我をさせることを嫌い、自らの体を盾にするように台座との間に割り込んだのです。

 

 

ガシャァァァァン!!!

 

 

背中から展示台に激突し、その衝撃で粉々に砕け散る鳳の至宝。床一面に飛び散った青磁の破片は、まるでわたくしの歓喜を祝う紙吹雪のよう。

 

悠様は背中の痛みに顔をしかめながらも、腕の中の老婆をそっと解放し、あろうことか、その老婆の手を優しく包み込みました。

 

「大丈夫です。おばあさんは怪我はないですか? よかった。これ、俺が不注意でぶつかったんですから心配しないでください。俺が割ったんですから、おばあさんは何も悪くないですよ」

 

――ッ。

 

(……なんですの、その笑顔は)

 

(三億という絶望を背負いながら、どうして自分を陥れた老婆を、そんなにも慈愛に満ちた表情で包み込めるのですの!?)

 

「……悠、様……」

 

わたくしの唇から、台本にはない、掠れた声がこぼれ落ちました。

胸の奥が、焼けるように熱い。彼のあまりの眩しさに、わたくしの醜い独占欲が、一瞬だけ恐怖に震えたのです。

 

(あ、……あの、大丈夫、ですの……? 背中、ひどく打ち付けて……っ)

 

気がつけば、わたくしは潜入任務(バイト)の立場を忘れ、彼のもとへ駆け寄ろうとしていました。震える指先が、彼の作業着の裾に触れようとした、その時――。

 

「……素晴らしい自己犠牲です」

 

九条千尋の、氷のように冷徹な声。

 

その響きが、わたくしの正気を強引に現世へと引き戻しました。

 

(そ......そうでしたわ。)

 

わたくしは、この「お人好し」を、一生わたくしに縛り付けるために、この舞台を用意したのですもの。

 

九条の声には、一片の慈悲もありません。彼女は床の残骸を冷徹に見つめ、一通の、わたくしが昨夜じっくりと文言を吟味した『契約書』を取り出しました。

 

「結城 悠様。あなたがこの老婆を庇い、自らの過失としてこれを破壊したことは、店内の監視カメラ、および私の目ではっきりと確認いたしました。……店長、この壺の価値をもう一度、結城様に」

 

店長が泡を吹いて、わたくしが用意したセリフを叫びます。

 

「三、三億円だ……! 鳳家が千年も守り抜いた、国宝級の至宝なんだぞ……っ!」

 

「さん、おく……?」

 

呆然と立ち尽くす悠様。その瞳から光が消えていく様を見て、わたくしは心の中で小躍りいたしました。

 

(さあ、ここですわ。わたくしの「慈悲」という名の罠を差し出すのは!)

 

「まぁ! なんて可哀想な……! 九条さん、何か『別の形』での返済方法はございませんの?」

 

わたくしは「同情する同僚」を完璧に演じ、九条にパスを出します。

 

「……そうですね。我が主、鳳 麗華様は、金銭よりも『誠意』を重んじるお方です。……結城様。もし、あなたのこれからの『一生』を鳳家に捧げるというのなら、この負債の支払いを……『特例』として猶予して差し上げてもよろしいかと」

 

「……俺の一生を……?」

 

《鳳家との「一生の奉公」契約。それは、鳳麗華の専属執事として、公私ともに彼女の管理下に置かれることを意味する。救済という名の、合法的かつ絶対的な「所有権」の移譲であった》

 

「ええ。鳳 麗華様の、専属執事として働いていただきます。当然、逃げ出すことは許されません。……さあ、ここにサインを」

 

突きつけたのは、合法的……いえ、鳳流の奴隷契約。

悠様という男のすべてを、わたくしが買い上げるための儀式ですわ。

 

「……分かり、ました。……この人を助けると決めたのは、俺自身です。その結果を……….. 受け入れ......ます」

 

 

あぁ、サインいたしましたわ! サインしてしまいましたわ!!!

 

 

震える指先で、彼は自ら鎖に首を通したのです。

 

(オーッホッホッホ……!! 捕らえましたわ、わたくしの愛しい小鳥さん! 今日からあなたは、わたくしだけの所有物(もの)ですわ……! 一生、わたくしの手のひらで、飼い殺して差し上げますわ!!)

 

眼鏡の奥で狂気的な歓喜を燃やすわたくしと、すべてを失ったと思い込み肩を落とす悠様。

夕闇の『レゼール』に、救済という名の美しきショーが幕を開けたのでございました。

 

 

 

 

「……オーッホッホ! 覚悟なさいな、悠様。明日から、あなたの世界はわたくし色に染まるのですわ……っ!」

 

深夜の静寂。自邸のベッドで上げる、狂おしい高笑い。

 

――だが、笑い声が途切れた後の静寂の中で、ふと、自分の指先が微かに震えていることに気づきました。

 

(……あぁ。わたくしは、なんて卑劣で、救いようのない女なのかしら)

 

脳裏に焼き付いて離れないのは、契約書にペンを走らせた時の、悠様のあの顔。凡人には一生背負いきれない三億円という負債。瞳から光が消え、すべてを諦めたようなあの絶望の表情――。

 

それを見た瞬間、わたくしの内側で、身の毛もよだつような甘美な痺れが跳ねました。

 

(あぁ、この尊いお人は今、わたくしの手によって完全に壊され、奪われたのですわね)

 

その事実に、背筋が粟立つほどの加虐の悦びを感じてしまったわたくし……)

 

彼が守ろうとした「善意」を泥靴で踏みにじり、自由な未来を、愛した平穏を、わたくしのエゴという名の炎で焼き尽くしてしまった。

 

もしも……もしもこの真実を彼が知れば、あの慈愛に満ちた瞳は、一瞬で凍りつき、わたくしを軽蔑の色で塗りつぶすでしょう。

 

「…………っ、構いませんわ」

 

わたくしはシーツを強く握りしめ、自分に言い聞かせるように、震える声で呟きました。

 

「嫌われたって、一生恨まれたって……あなたの『一生』を奪い去るのは、わたくし。それだけが、わたくしの愛し方なのですから……っ」

 

罪悪感を独占欲で強引に上書きするように、わたくしは机の引き出しの奥を開けました。銀のトレイに鎮座する、鳳家に代々伝わる甘美な仕掛け――「それ」を、うっとりと見つめます。

 

わたくしは火照る顔を枕に押し付け、まだ見ぬ明日の悦びに、何度も身悶えを繰り返しました。瞳に宿る執着の炎は、夜を徹してもなお、消えることはありませんでした。

 

――けれど、その指先の震えが、止まることはありませんでした。




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