その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――蒼井 深守(あおいみもり) の視点――
モニターの中の青年が、今日もマンションへと帰っていく。
わたしはその背中を見えなくなるまで見送った。
ドローンを部屋に呼び戻し、机の上にそっと着地させる。
プロペラが止まって、部屋がまた静かになった。
……最近、思うことがある。
カーテンの隙間から差す光を、前みたいに眩しいと感じなくなった。
ドアの前に置かれた母のごはんを、温かいうちに取りに行くようになった。
枕元に山積みだった空き缶を、昨日、ゴミ袋にまとめた。
全部、あの人を見るようになってからだ。
ほんとに不思議……
あの人はわたしのことを全く知らない。
ドローン越しに見ているわたしだけが彼を知っている。
こんな男の子がいるんだ。
この世界はわたしが思っているほど醜いだけじゃないのかもしれない。
◇
――ある日のこと。
いつものようにドローンで彼を見ていた。
モニターの中の彼が、小さな子どもに道を教えている。
しゃがんで、目線を合わせて、優しく笑いながら。
その横顔を見ていたら、ふいに胸の奥がぎゅっとなった。
画面越しじゃ足りない。
あの声を、レンズ越しじゃなくて自分の耳で聞きたい。
あの笑顔を、モニター越しじゃなくて目の前で見たい。
「……直接、会いたいな」
ぽつりと言葉がこぼれた。
言ってしまってから自分でも驚いた。
でも、一度こぼれた言葉はもう止まらなかった。
会いたい。あの人に。
出よう。外に。
わたしはモニターの電源を落とした。
画面が暗くなって部屋に静寂が戻る。
窒息しそうな、いつもの空気。
でも今日はその空気に負ける気がしなかった。
◇
でも、ただ会いに行くなんて無理だ。
いきなり「ファンです」なんて言えるわけがない。
考えて、考えて、わたしは一つの作戦を立てた。
――落とし物作戦。
あの人の歩く道にわざと何かを落とす。
あの人は絶対に拾ってくれる。だって、空き缶だって毎回拾ってくれる人だから。
そうしたら、「ありがとうございます」って、言える。
顔を見てお礼が言える。それだけでいい。それだけで、きっとすごい進歩だ。
何を落とそう……
スマホ……は、戻ってこなかったら困る。
財布……も、ちょっと怖い。
キーホルダー……うん、これがいい。
わたしは机の引き出しから、お気に入りのキーホルダーを取り出した。
よし。これを持って、あの人の通る道で――
待って。
その前に――
外に出なきゃいけない。
……数年ぶりの、外に。
◇
「まずは……」
ゴソゴソ――
わたしはクローゼットの奥から、埃を被った外出用の大きめの黒いパーカーを引っ張り出して着た。
スチャッ――
次に、薄っすら暗いレンズのスマートグラスを装着する。
これで、まぶしい光も、人の視線も、少しは和らぐ。
ガシャン――
そして、ノイズキャンセリングのヘッドホンで耳全体を覆った。
これで、こわい音は全部シャットアウト。
スポッ――
最後に、パーカーのフードを深々と被って顔を隠す。
「あ、そうだ。マスクも……」
口元をマスクで覆って完成。
鏡の前に立つ。
……完璧
対・外出用、完全防護装備。
これなら、誰にも見られない。誰の声も届かない。誰にも傷つけられない。
わたしは今日を機に、引きこもりという安全な殻を、脱ぎ捨てるんだ。
深呼吸を、ひとつ。
玄関へ向かう。
ドアノブに手をかける。
……心臓がうるさい。
でも――
あの人に会うために。
ガチャ――
玄関のドアを開けた。
数年ぶりの外の空気。
わたしは一歩を踏み出す。
「ちょっと、すみません」
三秒で、警察に声をかけられた。
「……あぅ」
フードにサングラスにマスク。顔を完全に隠した不審者が、住宅街にぬっと現れたのだ。
そりゃ、止められる。
「えっと、この辺にお住まいの方……ですかね?」
「……あぅ……あぅ……」
声が、出ない。
数年ぶりに人と向き合って、頭が真っ白になる。
お巡りさんが、困ったように首をかしげている。
だめだ。無理。むりむりむり。
「……しつれい、しましたっ」
わたしは回れ右して、全速力で家に駆け戻った。
バタンッ!
ドアを閉めて、その場にずるずるとしゃがみ込む。
「……はぁ……はぁ……」
外出時間、およそ十秒。
成果、ゼロ。
いや、マイナス。だって、職務質問されたし。
「……やっぱり、むりだよぉ……」
膝を抱えて、わたしはしばらく動けなかった。