その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:やっくん。

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15話 その署名、劇薬につき――三億の絶望と、歪んだ寵愛

――鳳 麗華(おおとり れいか)の視点――

 

 鳳の美学とは、支配そのもの。

 

 

 わたくしのプロデュースにより、一夜にして変貌を遂げたカフェレゼール。

 

 その中央にはスポットライトを浴びて鎮座する三億円の青磁の壺――。

 

 それを見つめるわたくしの胸の内には、冷徹な計算と、抑えきれぬ情熱が宿っておりました。

 

(おーッほッほっほ! 完璧ですわ!この脚本、この演出。 これから美しきショーの始まりですわ)

 

 カフェの制服に身を包み、黒いウィッグと眼鏡で正体を隠しながらも、わたくしの心臓は勝利を確信したリズムを刻んでおります。

 

 そこへ、何も知らない男――結城 悠(ゆうき ゆう)がやってまいりました。

 

(……舞台主演が来ましたわね)

 

「……すごい雰囲気だな……本当に同じカフェ?」

 

 呆然と口を開けて展示スペースを見上げる彼。その無防備な横顔。

 

 わたくしの手配した壺とインテリアに圧倒される姿はたまらなく愛おしい。

 

「結城くん、腰を抜かさないでくれよ。本社から直送された鳳家秘蔵の至宝だそうだ。時価……三億円は下らないらしい。あとで柵でもしとこうね。今のままだとさすがに怖いよ……」

 

 店長が震える声で説明するタイミングで、わたくしの忠実なる影である九条が入口のドアを静かに開いた。

 

 一分の隙もない氷のような雰囲気の彼女は、わたくしが描いたシナリオ通りの完璧な執行官を演じております。

 

「……悠様ですね。噂通りのおひとよ……いえ、誠実そうな顔立ちで。せいぜい、この鳳の誇りを傷つけないよう、精進なさることです」

 

 丁寧な敬語の裏に隠された、底冷えするような声色での忠告。

 

 彼の背中に冷たい汗が流れるのが、わたくしには手に取るように分かりました。

 

(ふふ、可哀想な悠様……そんなに怯えないでくださいませ。これから起こるのは破滅ではなく、わたくしの寵愛なのですから……)

 

 

 

「……ね、麗華さん」

 

 メニューの整理を装っていたわたくしに、彼が気安く声をかけてきました。

 

「なんですの?」

 

 鋭い九条の視線を感じて、わたくしの背筋はいつになくピンと伸びてしまいます。

 

「今の人、知り合い? なんか、俺の名前知ってたんだけど」

 

(……わたくしと九条との関係を疑っている……わけはありませんわね……)

 

「……さぁ、存じませんわ」

 

 わたくしはメニューから視線を合わせないようにして答えます。

 

「……鳳麗華って、どんな人なんだろうな」

 

 独り言のように呟く彼。

 

(それはそれは、気高く、美しく、この世界の至宝とも言える存在ですわ……)

 

 喉まで出かかった言葉を、わたくしはギリギリのところで飲み込みました。

 

 無言。無言を貫くのですわ。

 

「そういえば、同じ名前だよね。麗華さんと」

 

 ビクッ。

 

 わたくしの体が、思わず跳ねてしまいました。

 

(し、しまった……! 動揺が体に出てしまいましたわ)

 

「……ええ、そうですの。親が……鳳麗華様のようにと、名付けてくださいましたのよ。……おほほほっ」

 

(うまくごまかせましたわね。完璧な返しですわ)

 

「でも……やっぱりお嬢様だなって思うよ」

 

「……どういう意味ですの?」

 

「だって、三億円の壺をカフェに置こうなんて、フツーは考えないでしょ。感覚、バグってるよ」

 

(バグっ!? 鳳の次期後継者に向かってバグ!?)

 

「おかしいよ、普通に」

 

(お、おかしい!? この世界の至宝に向かってなんてことを……っ!)

 

「トチ狂ってるよ」

 

「(ト、トチ狂!?!?)」

 

 怒りを隠すのも限界でした。ふぅーふぅーと、わたくしの呼吸が浅くなっていくのがわかります。

 

(見てなさい。あなたをわたくしのモノにしたら、きっちり仕返しをいたしますの……)

 

「ただ、本物に触れることに価値があるっていう考えは、俺にはなかったからさ。なるほどなぁって感心したんだよね。こんな環境、そうそうないでしょ」

 

 彼の言葉が、熱くなっていたわたくしの頭を、すうっと冷やしていきます。

 

「ありがとう、見知らぬ麗華さま」

 

(そう。それでいいの。平民のあなたは、わたくしに感謝しながら生きなさい)

 

 わたくしは思わず彼の横顔に視線を向けました。

 

 その瞬間。

 

 目に飛び込んできたのは、彼の唇でした。

 

 あの夜のことが、脳裏に鮮明に蘇ります。深夜の控室。眠る彼に向かって、わたくしが一方的に……。

 

(……っ!)

 

 羞恥心が、全身を焼き尽くすように広がりました。

 

(……今すぐここから離れなければ……心が持ちませんわ……) 

 

「そ、そうですのね! あー、暑いですわね、今日は! あそこにホコリが……掃除しなくちゃ!」

 

 わたくしはできるだけ自然に見える動きで、その場を離れました。

 

 

(そろそろ……ですわね)

 

ーーカランッ

 

 

 静寂の中、店内にベルの音が響き、一人の老婆が入店してまいりました。

 

(さあ、来なさいな。わたくしが送り込んだ仕掛け人……!)

 

 一見すればどこにでもいる善良な老婆。しかしその実態は、鳳グループが保有する劇団のベテラン女優。

 

 舞台は整いましたわ。

 

 わたくしが配置したエキストラの老婆が、台本通りふらふらとした足取りで、時価三億円の青磁の壺へと近づいていきます。

 

「こりゃあ、良いツボだねぇ」

 

 台本通りのセリフ。完璧ですわ。

 

(さぁ、見せてください。老婆が倒れそうになった時、あなたなら………)

 

「ありゃっ」

 

 老婆が台座の角に杖を引っ掛け、青磁の壺に向かって大きくバランスを崩しました。

 

 次の瞬間。

 

「危ないっ!!」

 

 彼が、反射的に老婆の正面へと飛び込みました。

 

(そう来ると思いましてよ!)

 

 老婆を正面から抱きかかえる形になる悠。その背中には、三億円の青磁の壺。

 

(今よ!)

 

 その瞬間、老婆の体から、老婆とは思えないほどの力がグっと前へと押し出されました。

 

 台座に背中がぶつかり、衝撃で壺が揺れ、台座からずり落ちていきます。

 

(よしっ)

 

 台座から滑り落ちる壺。

 

 悠様が腕を伸ばします。

 

(……っ! ギリギリのタイミングだけど、間に合ってしまいそう……! なんとかしなさい、老婆!)

 

 その思いが届いたかのように。

 

 カンッ。

 

 老婆の杖が、まるで偶然のように、彼の伸ばした手を弾きました。

 

 

 

 ガシャァァァァン!!!――

 

 

 

 青磁の破片が床に美しく飛び散ったあと、店内に静寂が訪れました。

 

(……ナイス! 老婆、ナイスですわ!!)

 

 わたくしは背中に隠した拳を、グッと握りしめました。

 

(これはエクストラの彼女にはボーナスを上乗せしてあげようかしら)

 

「ありゃあ〜。こりゃあ、どっちが悪いんかのぉ」

 

 老婆がのんきな声を上げます。台本通りの完璧な締めですわ。

 

 床に散らばった青磁の破片を、悠様はただ呆然と見つめておられます。

 

(さぁ、九条。そろそろあなたの出番ですわよ)

 

「一部始終、拝見いたしました」

 

 九条の氷のような声が、静寂を切り裂きました。

 

「老婆の方がそのまま倒れていたとしても、角度と体重から計算すれば、壺が倒れることはなかったでしょう」

 

「……保険とか、そういうのはありますよね」

 

「社員ではないあなたに、そのようなものはありません」

 

 悠様の顔から、みるみると血の気が引いていきます。

 

 九条がカツカツとヒールを鳴らしながら、悠様の真横まで歩み寄りました。そして耳元で、低く静かに何かを告げます。

 

(……九条ったら、また台本にないことをしていますわね)

 

 わたくしは小さくため息をつきました。

 

(九条は幼い頃からわたくしの側に仕えてくれている、とても優秀な女。ただ、こうして時折、予定にないことや勝手な動きをするのが玉に傷ですわ)

 

(まぁ、そんなことより。ここからはフィナーレといきましょう)

 

 呆然とパニック状態の悠様に、九条が淡々と書類を差し出します。

 

「まず、こちらの誓約書へのサインをお願いいたします」

 

「……なんですか、これ」

 

「今回の件における過失の所在を明確にするものです。過失の所在をはっきりさせることで、受けられる救済や措置もございます。まずはこちらへ」

 

「そうなんですか?……救済措置……わかりました」

 

 悠様がペンを走らせます。

 

(ほらっ。言うことをなんでも鵜呑みにしてしまって)

 

 まともな判断力を失った今の状態の彼に、サインと押印をさせることなど造作もありません。

 

 サインが完了した瞬間、九条がスマホを取り出しどこかへ電話をかけるふりをします。

 

「はい、九条です。……はい。レゼールのアルバイトの結城悠という青年が、展示品を破損いたしました。……はい。三億円の壺です。……はい、はい。……かしこまりました」

 

 電話を切った九条が、悠様へと向き直ります。

 

「運がよろしかったですね。麗華様より、三億円の負債についてはこちらで持つとのことです」

 

「……ほんとに!?」

 

 悠様の顔に、みるみると生気が戻ってきます。

 

(あぁ、生き返ったというお顔をしていますわ。かわいらしいお方)

 

「ただし」

 

 九条が二枚目の書類を取り出しました。

 

「三億円は麗華様が肩代わりされます。つまり、あなたの借金はなくなる。利息も、催促も、すべてなくなります」

 

 九条が、静かに続けます。

 

「この意味がおわかりになりますか。たかだかアルバイト風情に、億単位の負債を肩代わりすることを即断なさった。それが麗華様の優しさであり、温情です」

 

「……」

 

「その温情を感じ取れる方であれば、執事としての働き、麗華様のために仕えるのことは当然と言えるでしょう」

 

「……は……ぃ」

 

「そして執事としての給金も自主的に麗華様へお渡しなさい」

 

「え……っ」

 

「あなたは三億の借金を背負わせて一円も返さないおつもりですか?」

 

「……少し、考えさせてください」

 

「麗華様は即断即決をお好みになります」

 

 九条が契約書をゆっくりと手に取り、破ろうとしました。

 

「今お決めにならないのであれば、この話はなかったことに」

 

「わ、わかりました……!」

 

 震える指先で、悠様がペンを握ります。

 

(すべては計画通りですわ)

 

 わたくしは心の中で静かに笑いました。

 

(感謝という名の鎖で相手を縛り付け、自主的にお金を返済させる。冷静に考える時間を与えず、温情という甘い毒を飲ませて契約へと誘導する。これが鳳の美学――支配そのものですわ)

 

 サイン。押印。

 

 完了。

 

(……これであなたは、わたくしのものよ)

 

「……ア、アハハ……ハハ」

 

 思わず漏れそうになった高笑いを、わたくしは引きつった咳払いで誤魔化しました。

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