その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果 作:やっくん。
助かった。
本当に、助かった。
そう、思っていた――
◆
あれから店長のはからいで「今日は働ける状態じゃないだろうから」とバイトはお休みにさせてもらった。
そして今、手元にある自分の署名が入った二枚の控えの紙。
一枚目は、三億円の壺の破損について、俺の過失であることを認める誓約書。
二枚目は、鳳家がその負債を立て替える代わりに、鳳麗華の専属執事として仕えるという契約書
三億という、個人の想像を絶する数字。サラリーマンが一生かけても稼げるかどうか分からない額。
助かった。
本当に、助かった。
そう、思っていた――
◆
マンションに戻り、ようやく一人になった。
バイトをお休みにしてもらって、店長には申し訳なかったが、今の状態では働ける気がしなかった。
ソファに腰を下ろし、手元の二枚の紙を見つめる。
控えとしてもらった契約書だ。
さっきはパニックで内容をろくに確認できなかった。でも今は少しだけ冷静さが戻ってきている。
読んでみよう。
一行目。二行目。三行目。
「……え」
読み進めるにつれて、さっきまで温かかった血が、みるみると冷えていくのがわかった。
「うそ、だろ……」
九条さんはうまいことを言っていた。感謝という形で自主的に返済する、と。でも契約書の中身を読み込んでいくと、その実態はまるで違った。
麗華様の命令には従うこと。
執事としての判断は麗華様の意向を最優先とすること。
命令に従わない場合、または執事を辞める場合は、三億円の肩代わりを破棄し、借金は再び結城悠本人に帰属する。
朝の起床から就寝まで、麗華様のために働き、麗華様のことを考え、麗華様のために尽くすこと。
直接的には奴隷とは書いていない。でも、読めば読むほど、それ以外の言葉が浮かばなかった。
(……これじゃ、奴隷契約だよ……)
契約書の控えをテーブルに置いた。
さっきまであんなに軽かった心が、鉛のように重くなっていく。
助かったと思った。本当に助かったと思っていた。
なのに。
全身から力が抜けた。
ゴン。
額がテーブルにぶつかった。
(三億)
ゴン。
(借金)
ゴン。
(奴隷)
ゴン。
(三億)
ゴン。
(借金)
ゴン。
(奴隷)
ゴン。
しばらく、テーブルに額をぶつけることを繰り返した。
テーブルに額をつけたまま、ただぼんやりと床のフローリングの木目を数えていた。
その時、窓の外から音が聞こえてきた。
最初は遠かった。でも、だんだんと近づいてくる。
『皆さん、ともに日本を守りましょう! 日本を守れるのは日本人だけ……』
(……選挙か。俺には関係ない。どうでもいい……)
選挙カーの演説は、それでも構わず続いている。
『法のもとにすべての国民は平等であり、いかなる権力も法律の上に立つことは許されません! 私はこの民主主義の精神を守るために……』
俺はゆっくりと顔を上げた。
(……そうだ……そうだよ)
ここは日本だ。
前にいた世界とは少し違う。でも――
それでも民主主義の、法律に遵守した法治国家だ。
警察がある。弁護士がある。裁判所がある。
鳳がどれだけ大きくても、法律より上に立てるはずがない。なんとかしてもらえる人間が、どこかにいるはずだ。
(……まだ時間はある……)
俺は契約書の控えを掴んで立ち上がり、ジャケットを羽織った。
選挙カーの演説は、もう遠ざかっていた。
◇
最初に向かったのは、駅前の大きな法律事務所だ。
ガラス張りの豪華なエントランス。清潔感あふれるスーツを着た受付の女性。
(ここなら、きっと助けてもらえる。ふぅ…なんか少しだけ落ち着いてきたかも……)
「すいません、ちょっと相談があるんですけど……」
「はい、担当の者をお呼びしますので。番号札の4番をお持ちになって、そちらにおかけになってお待ちください」
(4番か……)
思わず不吉な数字だと考えかけてやめた。
受付の向かいの椅子に腰を下ろし、待つこと十分ほど。
「番号札4番でお待ちのお客様、9番のお部屋までお願いいたします」
「……9……か」
俺は立ち上がり、9番と書いてある部屋のドアを開けた。
広くて清潔な個室。ふかふかのソファ。窓からは夕暮れの都会が見える。
しばらくして、四十代半ばくらいの男性が入ってきた。
「はじめまして。中津原と申します」
にこやかに手を差し伸べてくる。
ガシッ。
「ではさっそく、話を聞かせていただきましょう」
俺は話し始めた。老婆を庇ったこと。三億円。気づいたらサインしていた奴隷同然の契約のこと。
「それは大変でしたね」
中津原さんが、深く頷く。
「でも大丈夫ですよ。私にまかせてください」
「……なんとかなりそうですか」
「もちろんですよ。こんな理不尽がまかり通るわけないじゃないですか。こういうときのための弁護士ですから」
ニコッと笑う中津原さん。
(よかった。ここなら……!)
「一応、契約書の控えをお持ちみたいですね。拝見いたし、ま……」
中津原さんの声が、途切れた。
部屋が、急に静かになる。
「……どうかされましたか」
「……申し訳ございません」
急に口調が丁寧になった。
「うちで扱える案件では、ございません」
(……え)
嫌な予感が、背中を這い上がってくる。
「さっき、なんとかなるって言ってましたよね。私にまかせてくださいって、そう言ってましたよね」
「……今、手いっぱいでして」
「……こういうときのための弁護士だって、さっきそう言ってたじゃないですか!!」
気づいたら、一番大きな声が出ていた。
「……あえて、はっきり申し上げます」
中津原さんが、目を伏せた。
「この契約書の相手が鳳であれば、この国に君を救える弁護士はいない。……お引き取りを」
「それでも、あなたは弁護士ですか!!!」
「……お引き取りを」
一件目は、そこで終わった。
二件目の事務所では、応接室に通してもらえただけまだよかった。
「鳳は触らぬ神だよ」
白髪の弁護士が、眼鏡を外しこめかみを揉みながら言う。
「でも、日本には法律が……」
「その法をつくるのが鳳なんだよ。帰りなさい」
三件目は受付で契約書の控えを見せた瞬間、何も言わずに首を横に振られた。
それならと、近くの交番に入ってみた。
「相手が鳳ならあきらめな。今後は気をつけることだな。ほんと、ご苦労さま」
(……今後がないかもしれないのに、どう気をつけんだよ。ご苦労さまって、お前は俺の友達かよ)
普段なら思わないような攻撃的な思考が頭をよぎる。それだけ消耗していた。
◇
(……どうしよう)
気づいたら、細い路地を歩いていた。
人通りのない、暗い通りだ。ビルとビルの間の隙間を縫うような道。空を見上げると、もう星が出ていた。
(こんな時間か)
足が止まった。
古びた二階建てのコンクリートビルが、目の前にあった。
看板を照らすはずの照明が、不機嫌な様子でついたり消えたりを繰り返している。
チカッ。チカッ。
しばらく眺めていると、照明が機嫌を直したように、ふっと安定して灯った。
その明かりの中に、看板の文字が浮かび上がる。
――如月(きさらぎ)法律事務所
(……最後にここで、話を聞いてもらおう)
だめなら………もう……あきらめよう。
俺は建物の入口に手をかけた。
重い足取りで立て付けの悪いドアを開けた。
「……まだ、やってますか?」