その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:やっくん。

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16話 その男、絶望につき――泥臭き救済の指先に至るまで

 助かった。

 

 本当に、助かった。

 

 そう、思っていた――

 

 

 あれから店長のはからいで「今日は働ける状態じゃないだろうから」とバイトはお休みにさせてもらった。

 

 そして今、手元にある自分の署名が入った二枚の控えの紙。

 

 一枚目は、三億円の壺の破損について、俺の過失であることを認める誓約書。

 

 二枚目は、鳳家がその負債を立て替える代わりに、鳳麗華の専属執事として仕えるという契約書

 

 三億という、個人の想像を絶する数字。サラリーマンが一生かけても稼げるかどうか分からない額。

 

 

助かった。

 

 本当に、助かった。

 

 そう、思っていた――

 

 

 マンションに戻り、ようやく一人になった。

 

 バイトをお休みにしてもらって、店長には申し訳なかったが、今の状態では働ける気がしなかった。

 

 ソファに腰を下ろし、手元の二枚の紙を見つめる。

 

 控えとしてもらった契約書だ。

 

 さっきはパニックで内容をろくに確認できなかった。でも今は少しだけ冷静さが戻ってきている。

 

 読んでみよう。

 

 一行目。二行目。三行目。

 

「……え」

 

 読み進めるにつれて、さっきまで温かかった血が、みるみると冷えていくのがわかった。

 

「うそ、だろ……」

 

 九条さんはうまいことを言っていた。感謝という形で自主的に返済する、と。でも契約書の中身を読み込んでいくと、その実態はまるで違った。

 

 麗華様の命令には従うこと。

 

 執事としての判断は麗華様の意向を最優先とすること。

 

 命令に従わない場合、または執事を辞める場合は、三億円の肩代わりを破棄し、借金は再び結城悠本人に帰属する。

 

 朝の起床から就寝まで、麗華様のために働き、麗華様のことを考え、麗華様のために尽くすこと。

 

 直接的には奴隷とは書いていない。でも、読めば読むほど、それ以外の言葉が浮かばなかった。

 

(……これじゃ、奴隷契約だよ……)

 

 契約書の控えをテーブルに置いた。

 

 さっきまであんなに軽かった心が、鉛のように重くなっていく。

 

 助かったと思った。本当に助かったと思っていた。

 

 なのに。

 

 全身から力が抜けた。

 

 ゴン。

 

 額がテーブルにぶつかった。

 

(三億)

 

 ゴン。

 

(借金)

 

 ゴン。

 

(奴隷)

 

 ゴン。

 

(三億)

 

 ゴン。

 

(借金)

 

 ゴン。

 

(奴隷)

 

 ゴン。

 

 しばらく、テーブルに額をぶつけることを繰り返した。

 

テーブルに額をつけたまま、ただぼんやりと床のフローリングの木目を数えていた。

 

 その時、窓の外から音が聞こえてきた。

 

 最初は遠かった。でも、だんだんと近づいてくる。

 

『皆さん、ともに日本を守りましょう! 日本を守れるのは日本人だけ……』

 

(……選挙か。俺には関係ない。どうでもいい……)

 

 選挙カーの演説は、それでも構わず続いている。

 

『法のもとにすべての国民は平等であり、いかなる権力も法律の上に立つことは許されません! 私はこの民主主義の精神を守るために……』

 

 俺はゆっくりと顔を上げた。

 

(……そうだ……そうだよ)

 

 ここは日本だ。

 

 前にいた世界とは少し違う。でも――

 

 それでも民主主義の、法律に遵守した法治国家だ。

 

 警察がある。弁護士がある。裁判所がある。

 

 鳳がどれだけ大きくても、法律より上に立てるはずがない。なんとかしてもらえる人間が、どこかにいるはずだ。

 

(……まだ時間はある……)

 

 俺は契約書の控えを掴んで立ち上がり、ジャケットを羽織った。

 

 選挙カーの演説は、もう遠ざかっていた。

 

 

 最初に向かったのは、駅前の大きな法律事務所だ。

 

 ガラス張りの豪華なエントランス。清潔感あふれるスーツを着た受付の女性。

 

(ここなら、きっと助けてもらえる。ふぅ…なんか少しだけ落ち着いてきたかも……)

 

「すいません、ちょっと相談があるんですけど……」

 

「はい、担当の者をお呼びしますので。番号札の4番をお持ちになって、そちらにおかけになってお待ちください」

 

(4番か……)

 

 思わず不吉な数字だと考えかけてやめた。

 

 受付の向かいの椅子に腰を下ろし、待つこと十分ほど。

 

「番号札4番でお待ちのお客様、9番のお部屋までお願いいたします」

 

「……9……か」

 

 俺は立ち上がり、9番と書いてある部屋のドアを開けた。

 

 広くて清潔な個室。ふかふかのソファ。窓からは夕暮れの都会が見える。

 

 しばらくして、四十代半ばくらいの男性が入ってきた。

 

「はじめまして。中津原と申します」

 

 にこやかに手を差し伸べてくる。

 

 ガシッ。

 

「ではさっそく、話を聞かせていただきましょう」

 

 俺は話し始めた。老婆を庇ったこと。三億円。気づいたらサインしていた奴隷同然の契約のこと。

 

「それは大変でしたね」

 

 中津原さんが、深く頷く。

 

「でも大丈夫ですよ。私にまかせてください」

 

「……なんとかなりそうですか」

 

「もちろんですよ。こんな理不尽がまかり通るわけないじゃないですか。こういうときのための弁護士ですから」

 

 ニコッと笑う中津原さん。

 

(よかった。ここなら……!)

 

「一応、契約書の控えをお持ちみたいですね。拝見いたし、ま……」

 

 中津原さんの声が、途切れた。

 

 部屋が、急に静かになる。

 

「……どうかされましたか」

 

「……申し訳ございません」

 

 急に口調が丁寧になった。

 

「うちで扱える案件では、ございません」

 

(……え)

 

 嫌な予感が、背中を這い上がってくる。

 

「さっき、なんとかなるって言ってましたよね。私にまかせてくださいって、そう言ってましたよね」

 

「……今、手いっぱいでして」

 

「……こういうときのための弁護士だって、さっきそう言ってたじゃないですか!!」

 

 気づいたら、一番大きな声が出ていた。

 

「……あえて、はっきり申し上げます」

 

 中津原さんが、目を伏せた。

 

「この契約書の相手が鳳であれば、この国に君を救える弁護士はいない。……お引き取りを」

 

「それでも、あなたは弁護士ですか!!!」

 

「……お引き取りを」

 

 一件目は、そこで終わった。

 

 

 二件目の事務所では、応接室に通してもらえただけまだよかった。

 

「鳳は触らぬ神だよ」

 

 白髪の弁護士が、眼鏡を外しこめかみを揉みながら言う。

 

「でも、日本には法律が……」

 

「その法をつくるのが鳳なんだよ。帰りなさい」

 

 

 三件目は受付で契約書の控えを見せた瞬間、何も言わずに首を横に振られた。

 

 それならと、近くの交番に入ってみた。

 

「相手が鳳ならあきらめな。今後は気をつけることだな。ほんと、ご苦労さま」

 

(……今後がないかもしれないのに、どう気をつけんだよ。ご苦労さまって、お前は俺の友達かよ)

 

 普段なら思わないような攻撃的な思考が頭をよぎる。それだけ消耗していた。

 

 

(……どうしよう)

 

 気づいたら、細い路地を歩いていた。

 

 人通りのない、暗い通りだ。ビルとビルの間の隙間を縫うような道。空を見上げると、もう星が出ていた。

 

(こんな時間か)

 

 足が止まった。

 

 古びた二階建てのコンクリートビルが、目の前にあった。

 

 看板を照らすはずの照明が、不機嫌な様子でついたり消えたりを繰り返している。

 

 チカッ。チカッ。

 

 しばらく眺めていると、照明が機嫌を直したように、ふっと安定して灯った。

 

 その明かりの中に、看板の文字が浮かび上がる。

 

 ――如月(きさらぎ)法律事務所

 

(……最後にここで、話を聞いてもらおう)

 

 だめなら………もう……あきらめよう。

 

 俺は建物の入口に手をかけた。

 

 重い足取りで立て付けの悪いドアを開けた。

 

「……まだ、やってますか?」

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