その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:ヤッくん

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16話 その男、絶望につき――泥臭き救済の指先に至るまで

――悠視点――

 

 

終わった。

本当に、人生が終わってしまった。

 

手元にある、鳳 麗華の署名が入った一枚の紙。

「三億」という、個人の想像を絶する数字。

 

そして、一生を鳳家の執事として、事実上一生を下僕として捧げるという現代日本とは思えない呪いの契約書。

 

(……いや、落ち着け。そんなの無効に決まってる。前いた世界と違うとはいえ、ここは日本だぞ? 漫画やアニメの世界じゃないんだ。あんな無茶が通るはずがない。……そうだ、弁護士だ。弁護士に相談すれば、きっと……!)

 

そう自分に言い聞かせて震える足で最初に向かったのは、駅前の大きな法律事務所だった。

 

ガラス張りの豪華なエントランス。清潔感あふれるスーツを着た受付の女性。

 

(ここなら、きっと助けてもらえるな。なんか少しだけ落ち着いてきたかも)

 

「ご相談ですね。担当の者が……。ええと、相手の方は?」

 

「鳳……鳳グループの、鳳麗華さんという方です」

 

その瞬間、受付の女性の手が止まった。貼り付けたような笑顔が、氷のように固まる。

 

「……少々お待ちください」

 

奥に引っ込んだ彼女は、二度と戻ってこなかった。代わりに現れたのは、中年のガッシリした男性弁護士だ。

 

「君、聞こえなかったかな? うちは今、手がいっぱいなんだ」

 

「でも、話だけでも! 三億の借金なんて、俺には……」

 

「三億だろうが三十億だろうが関係ない。相手が鳳なら、この国に君を救える弁護士はいない。……死にたくなければ、大人しくお嬢様の靴でも舐めるんだな。お引き取りを」

 

《鳳(おおとり)グループ。政財界のみならず、弁護士界にもその根を深く張り巡らせる。彼らにとって「法」とは守るべき正義ではなく、他者を支配するための道具に過ぎない。この国において、鳳に弓を引くことは、社会的な自殺と同義であった》

 

一分も経たずに、ビルから追い出された。二人目は鼻で笑った。三人目に至っては、まるで穢れ物を見るような目で俺を睨みつけた。

 

(……どいつもこいつも、話を聞く前から怯えんじゃん。俺を助けることより、自分の保身かよ!)

 

「君、自分が何をしたか分かっているのか? 神様に喧嘩を売るようなものだよ」

「神様……? でも、法律では……」

「法律を作るのが鳳なんだよ! 帰りなさい。関わりたくないんだ」

 

四件、五件。何件回ったか分からない。

 

一度鳳に睨まれれば、男という特権すら消し飛ぶ。誰も俺という人間ではなく、背後に透けて見える「鳳の怒り」に怯えているのが分かった。十分すぎるほど。

 

(……どこにも、味方はいない。このまま、俺は一生……会ったこともないお嬢様の奴隷か……)

 

 

日が落ち、夜の帳が降りる頃。

 

俺の足は、もう感覚を失っていた。

たどり着いたのは、繁華街の隅にある、古びた雑居ビル。

 

三階。窓には明かりが灯っているが、看板は文字が掠れ、今にも剥がれ落ちそうだ。

 

――如月(きさらぎ)法律事務所

 

(……ここが最後だ。どうせ、また追い出されるんだろ?もう歩きすぎて、もう一歩も歩けない。……頼む、誰でもいいから助けてくれ……)

 

重い足取りで立て付けの悪いドアを開けた。

 

「……まだ、やってますか?」

 

そこは、これまで見てきた豪華な事務所とは正反対だった。

重たい空気。焦げ付いたインスタントコーヒーの匂い。積み上げられた、埃を被った書類の山。

 

そして、デスクに座って、不機嫌そうに六法全書を睨んでいる一人の女性。

 

彼女は、入ってきた俺をじろりと見た。

 

「はぁ、今日もお金にならない仕事ばっかり」

 

聞こえてきたのは、盛大な溜息だった。

 

「じつは、相談したいことがあって……」

 

今日一日で何度も繰り返し、そのたびに拒絶されてきた話を始めた。

壺を割ったこと。三億の負債。一生の奴隷契約。

 

話しているうちに、情けなくて涙が出そうになった。

 

けれど、如月さんは俺が話す間、何も口を挟まなかった。

最後まで話を聞いてくれた。なぜか、それだけで嬉しくなった。

 

他の誰もが「神様」だと恐れた相手の話を、少なくとも最後まで耳を傾けてくれる。それだけで少しだけ救われた気がした。

 

「相手は金髪のお嬢様で……」

 

「あぁ、そっち。……」

 

「? えっ……と、如月さん?」

 

「はぁ……悠君……だっけ?」

 

彼女の口調が、いつの間にか敬語からタメ口に変わっていた。

それが、突き放されている感じがしなくて、不思議と心地いい。

 

「それが、鳳麗華っていう鳳グループの次期後継者のお嬢様で……」

 

その名前を出した瞬間。

如月さんの眉間に、深い皺が寄った。

 

(……ああ、やっぱりかぁ)

 

心臓が冷たく冷え切っていく。彼女も鳳を知っている。当たり前だ、弁護士なんだから。

 

(きっと今から「帰ってくれ」と言われるんだろうなぁ)

 

俺は、椅子から立ち上がる準備をした。

 

だが。

 

「……もっと詳しい話を聞きましょうか。……あ、コーヒー淹れてるけど。あんたも飲む?」

 

「……え?」

 

「いいんですか? 鳳ですよ? 鳳グループなんですよ?」

 

「聞こえてるわよ。日本の経済を裏から牛耳ってるんでしょ。……で? それが法律より上だって、誰が決めたのよ」

 

彼女は逃げなかった。それどころか、わざとらしく大きく、コーヒーをズズッ……と啜ってみせた。

 

《如月 雫(きさらぎ しずく)。かつて大手事務所で「勝てる案件」のみを扱っていたエリートだったが、鳳グループが絡む不当判決に異を唱え、業界から干された過去を持つ。彼女にとって、鳳は打倒すべき巨大な悪行の象徴であった》

 

「ふむふむ。なるほどね。老婆を庇って、自爆、と」

 

「はい……。本当に、気がついたらサインしてて……」

 

「一杯食わされたわね。おそらくその九条千尋って秘書と、老婆はグルよ」

 

「グル? でも、そんなことする理由なんて……」

 

「さあね。そもそも、そんな怪しい契約書にホイホイ署名するのが悪いのよ」

 

(あ、怒られた。)

 

でも、それは「鳳に喧嘩を売るなんて馬鹿だ」という怒りじゃなかった。「自分の身を守るための詰めが甘い」という、俺自身への叱咤だ。

 

「……如月さん。これ、勝てるんでしょうか」

 

俺の問いに、如月さんは椅子に深く背を預けた。

そして、力強く、迷いのない声で言った。

 

「いい? 相手がどれだけ巨大な資本を持っていようが、ここは日本。法治国家なの。公序良俗に反する奴隷契約なんて、私が紙屑に変えてあげるわ」

 

ドサリ、と。

 

彼女がデスクに置いた、使い古された六法全書。

その音が、俺の頭の中に響いた「現代の奴隷」という宣告を、粉々に砕いてくれた。

 

(あぁ。)

 

視界が、急に滲んだ。

今日一日、何人もの偉い人にまるで人じゃないかのように扱われてきた。

誰一人として、俺を救おうなんて思ってくれなかった。遠回しに「鳳に従え」と。「死にたくなければ奴隷になれ」と。

 

それを、目の前のこの人は。「紙屑だ」と、笑い飛ばしてくれた。

 

「……如月さん。……ほんとに……」

 

言葉にしようとしても、喉が焼けるように熱くて、うまく音にならない。必死に唇を噛んだけど、溜まっていた恐怖が、安堵と一緒に溢れ出してくる。

 

俺は、情けなくも鼻を赤くして、子供みたいに泣いてしまった。

 

(自分が情けない......。情けないけど、止まんないわ)

 

視界が涙で白濁する中で。

デスクの上に置かれた、彼女の右手が目に入った。

 

ペンを握り込みすぎたせいで変形した指。爪は短く、インクの染みがついている。お世辞にも「綺麗」とは言えないかもしれない。

 

けれど、その手が。必死に、これまで誰かを救うために戦ってきただろうその指先が。

俺には美しくも頼もしく、そして、かっこよく見えた。

 

「……ぁ、すみ、ません。……なんか、昨日から、ずっと生きた心地がしなくて……」

 

「……ば、バカ言わないで! 仕事なんだから当然よ。……ほら、今日はもう帰りなさい! 明日からさっそく準備に入るんだから!」

 

如月さんの声は、少しだけ焦ったように聞こえた。

怒っているのかと思ったけど、そうではないみたいだ。

 

夜の冷たい空気。

事務所を出て歩き出す俺の足は、不思議とさっきよりずっと軽かった。

 

(信じよう……。あの人を)

 

ポケットの中で握りしめた、契約書のコピー。

それはもう、俺を縛る鎖には見えなかった。

 

――如月 雫(きさらぎ しずく)

 

あのボロボロの指先で、法を武器に戦う一人の女性。

彼女の強さと同じくらい自分も強くなりたいと。

 

そう、思った。

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