その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果――   作:やっくん。

16 / 20
16話 この女、変化につき

――蒼井 深守(あおいみもり) の視点――

 

 どれくらい、そうしていただろう。

 

 玄関でしゃがみ込んだまま、わたしはフードの中で小さくなっていた。

 

 成果ゼロ。いや、マイナス。

 

 せっかく勇気を出したのに。ひさしぶりに外に出たのに。

 

 十秒で、逆戻り。

 

「……みもり?」

 

 声がした。

 

 顔を上げると、廊下の先に母が立っていた。

 

 エプロン姿のまま、両手で口元を覆ってこちらを見ている。

 

 その目が、見る間に潤んでいく。

 

「……みもり、なの?」

 

「……」

 

 わたしは、答えられなかった。

 

 フードも、サングラスも、マスクも、まだ着けたままだ。

 

 こんな格好で、こんな無様に逆戻りして。

 

 なんて言えばいいか、わからなかった。

 

 母がゆっくりと近づいてくる。

 

 そして、わたしの前でしゃがんだ。

 

 そっと、わたしのフードに手をかける。

 

 なぜか抵抗する気になれなかった。

 

 フードがはらりと下ろされる。

 

 サングラスをそっと外される。

 

 マスクのゴムに指をかけて、ゆっくりと外される。

 

 ひさしぶりに、何も隔てるもののない顔で母と向き合った。

 

「……おかえり」

 

 母が言った。

 

 泣きそうな顔で、でも、精一杯の笑顔で。

 

「……お外、行ってきたんだね」

 

「……」

 

 喉の奥が熱くなる。

 

 成果なんてなかった。十秒で逃げ帰ってきた。職務質問までされた。

 

 でも、母は責めもせず、問い詰めもせず、ただ「おかえり」と言ってくれた。

 

「……ただい、ま……」

 

 ひさしぶりのその言葉。

 

 声が震えた。

 

「ただいま……おかあさん……」

 

 言った瞬間、目から雫がぼろぼろとこぼれた。

 

 母がわたしをそっと抱きしめた。

 

 エプロン越しに懐かしい母の匂いがした。

 

「……うん、うん。おかえり、みもり」

 

 母の声も震えていた。

 

 わたしは母の肩に顔を埋めて、子どもみたいに泣いた。

 

 数年分の、いろんなものが涙と一緒に溢れていった。

 

◇

 

 その夜。

 

 久しぶりにわたしはリビングで夜ごはんを食べた。

 

 テーブルに並んでいるのは、わたしの好きなものばかりだった。

 

 父は何も言わなかった。

 

 ただ、ごはんをかきこむわたしを見て、一度だけ、ぐすっと鼻を鳴らして、それをごまかすように新聞で顔を隠していた。

 

 新聞が小刻みに揺れている。

 

「……おとうさん、新聞、逆さまだよ」

 

「……っ、わ、わざとだ!」

 

 母がぷっと噴き出した。

 

 わたしもつられて笑った。

 

 ひさしぶりの家族の食卓。

 

 温かいごはんが、じんわりと体に染みた。

 

◇

 

 部屋に戻って、わたしはベッドに寝転んだ。

 

 天井を見上げる。

 

 今日は失敗した。

 

 外に出て、十秒で逃げ帰った。

 

 情けない。かっこ悪い。

 

 でも――

 

 机の上のドローンに、目をやる。

 

 それから、引き出しにしまったキーホルダーを思い出す。

 

 今日はだめだったけど、でも――

 

「……次は、もうちょっと、頑張る」

 

 ぽつりと呟く。

 

 次は、マスクを一枚減らしてみよう。

 

 その次は、サングラスを外してみよう。

 

 少しずつ前に進もう。

 

 あの人にちゃんと「ありがとう」を言える日まで。

 

 わたしは少しだけ開けた窓から見える夜空をしばらく眺めていた。

 

 明日は、どんな一日になるかな。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。