その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――蒼井 深守(あおいみもり) の視点――
どれくらい、そうしていただろう。
玄関でしゃがみ込んだまま、わたしはフードの中で小さくなっていた。
成果ゼロ。いや、マイナス。
せっかく勇気を出したのに。ひさしぶりに外に出たのに。
十秒で、逆戻り。
「……みもり?」
声がした。
顔を上げると、廊下の先に母が立っていた。
エプロン姿のまま、両手で口元を覆ってこちらを見ている。
その目が、見る間に潤んでいく。
「……みもり、なの?」
「……」
わたしは、答えられなかった。
フードも、サングラスも、マスクも、まだ着けたままだ。
こんな格好で、こんな無様に逆戻りして。
なんて言えばいいか、わからなかった。
母がゆっくりと近づいてくる。
そして、わたしの前でしゃがんだ。
そっと、わたしのフードに手をかける。
なぜか抵抗する気になれなかった。
フードがはらりと下ろされる。
サングラスをそっと外される。
マスクのゴムに指をかけて、ゆっくりと外される。
ひさしぶりに、何も隔てるもののない顔で母と向き合った。
「……おかえり」
母が言った。
泣きそうな顔で、でも、精一杯の笑顔で。
「……お外、行ってきたんだね」
「……」
喉の奥が熱くなる。
成果なんてなかった。十秒で逃げ帰ってきた。職務質問までされた。
でも、母は責めもせず、問い詰めもせず、ただ「おかえり」と言ってくれた。
「……ただい、ま……」
ひさしぶりのその言葉。
声が震えた。
「ただいま……おかあさん……」
言った瞬間、目から雫がぼろぼろとこぼれた。
母がわたしをそっと抱きしめた。
エプロン越しに懐かしい母の匂いがした。
「……うん、うん。おかえり、みもり」
母の声も震えていた。
わたしは母の肩に顔を埋めて、子どもみたいに泣いた。
数年分の、いろんなものが涙と一緒に溢れていった。
◇
その夜。
久しぶりにわたしはリビングで夜ごはんを食べた。
テーブルに並んでいるのは、わたしの好きなものばかりだった。
父は何も言わなかった。
ただ、ごはんをかきこむわたしを見て、一度だけ、ぐすっと鼻を鳴らして、それをごまかすように新聞で顔を隠していた。
新聞が小刻みに揺れている。
「……おとうさん、新聞、逆さまだよ」
「……っ、わ、わざとだ!」
母がぷっと噴き出した。
わたしもつられて笑った。
ひさしぶりの家族の食卓。
温かいごはんが、じんわりと体に染みた。
◇
部屋に戻って、わたしはベッドに寝転んだ。
天井を見上げる。
今日は失敗した。
外に出て、十秒で逃げ帰った。
情けない。かっこ悪い。
でも――
机の上のドローンに、目をやる。
それから、引き出しにしまったキーホルダーを思い出す。
今日はだめだったけど、でも――
「……次は、もうちょっと、頑張る」
ぽつりと呟く。
次は、マスクを一枚減らしてみよう。
その次は、サングラスを外してみよう。
少しずつ前に進もう。
あの人にちゃんと「ありがとう」を言える日まで。
わたしは少しだけ開けた窓から見える夜空をしばらく眺めていた。
明日は、どんな一日になるかな。