その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:ヤッくん

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17話 その涙、猛毒につき。

――如月 雫(きさらぎしずく)視点――

 

 

私の指は、可愛くない。

 

節くれ立ち、ペンを握り込みすぎたせいで中指には醜いタコがある。

爪は常に短く切り揃えられ、華やかなネイルが彩る余地などどこにもない。

 

二十代の多くを、私はこのボロボロの指先とともに過ごしてきた。

六法全書という名の鈍器をめくり続け、インクの染みが消える暇もないほどに文字を書き殴った。

 

《男女比一対四。この極端に歪んだ社会において、男性は「希少価値」という名の神壇に奉られ、女性は選ばれるための「装飾」に心血を注ぐ。その中で如月雫が選んだ道は、装飾を捨て、法という名の牙を研ぐ孤独な戦いだった》

 

「雫、そんなに勉強してどうするんだ。女は愛嬌があればいい」

 

故郷の両親は、私の指を見て憐れむように笑った。

私が血を吐く思いで掴み取った弁護士バッジも、法廷で相対する人たちにとっては「若造の飾り」に過ぎなかった。

 

(視界に入るのは、自分を特権階級だと疑わない男たちの、退屈そうな欠伸ばかり。私の六年。磨り潰した指先。積み上げた判例。そのすべてが、この世界では「男の機嫌」ひとつに届かない無価値なゴミだった)

 

 

「はぁ、今日もお金にならない仕事ばっかり」

 

古い雑居ビルの三階。

如月法律事務所の夜は、いつも重たい沈黙と、焦げ付いたインスタントコーヒーの匂いに満ちている。

 

デスクの隅で埃を被った六法全書は、私の人生そのものだ。

 

(……大きな仕事、こないかなぁ。今年、背伸びをして自分の事務所を立ち上げたけど、現実は甘くないわね)

 

法は正義を救わない。ただ、力のある者の都合で書き換えられるだけ……

 

そんな諦念が、安っぽいコーヒーと一緒に胃の奥へ溜まっていく。

 

 

――そんな時だった。

 

 

唐突に、立て付けの悪いドアが鳴った。

 

「……まだ、やってますか?」

 

入ってきたのは、真面目そうな雰囲気の青年だった。

 

身長は普通。顔は――まぁ、整ってる方かな。磨けば光りそうな、将来性に期待したくなる素材。

彼はボロボロの事務所を見渡し、不安げに口を開いた。

 

「じつは、相談したいことがあって……」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「最近、契約書にサインをしちゃいまして……。執事として、強制的に働かないといけないって」

 

「執事!?」

 

(……は? 漫画かよ! なにその設定!)

 

「一生、働かなきゃいけないって書いてあって……」

 

(だから、漫画かよ! どんな悪徳契約よ!)

 

「一生!? あんた、一体何をしたのよ」

 

「壺、割っちゃいました。三億の」

 

(やっぱり漫画じゃん! 某ホスト部かよ! 壺割って学園で働くやつじゃない!)

 

「相手は金髪のお嬢様で……」

 

(あぁ、そっち? 某金髪美少女とハイスペック執事の物語の方ね……)

 

「えっと、如月さん?」

 

「はぁ……悠くん...だっけ?」

 

馬鹿馬鹿しくて敬語も取れた。

こめかみの奥がズキズキする。

 

「ええと、結論から言うわね。100%騙されてる。以上」

 

「それが、鳳麗華っていう鳳グループの次期後継者のお嬢様で……」

 

 

「……は? 鳳(おおとり)!?」

 

 

話が変わってきたわね。

 

日本の経済を裏から牛耳るとまで言われる、あの鳳?

その名前を聞いた瞬間、私の背筋に嫌な汗が流れた。

 

法治国家であるはずのこの国で、鳳の意向は法律よりも重い。

けれど――。

 

「……もっと詳しい話を聞きましょうか。……あ、コーヒー淹れてるけど。あんたも飲む?」

 

 

「(ズズッ……とコーヒーを啜りながら)ふむふむ。老婆を庇って、自爆、と」

 

「はい」

 

「一杯食わされたわね。おそらくその九条千尋って秘書と、老婆はグルよ」

 

「グル? でも、そんなことする理由なんて……」

 

「さあね。そもそも、そんな怪しい契約書にホイホイ署名するのが悪いのよ」

 

「軽く、パニックになってて……」

 

「まぁ、当事者なんてそんなものかもね」

 

(自分だけは大丈夫。そう思っている人間ほど、崖っぷちではコロッと転落する。……でも、このお人好しっぷりは、もはや希少種ね)

 

「……如月さん。これ、勝てるんでしょうか」

 

 

私は椅子に深く背を預け、力強く断言した。

 

「いい? 民法第九十条、公序良俗違反。さらに第九十六条の詐欺による取消しも狙えるわ。……安心しなさい」

 

「ほんとですか……! 良かった、本当に……っ!」

 

「ただし! 着手金と成功報酬はキッチリいただくわよ? 三億の借金をチャラにしようってんだからね」

 

結城悠と名乗る青年は、憑き物が落ちたような顔で深々と頭を下げた。

 

現金なものね。さっきまで死に損ないみたいな顔をしてたくせに、勝算があると言った途端にこれだ。

 

「いい? 相手がどれだけ巨大な資本を持っていようが、ここは日本。法治国家なの。公序良俗に反する奴隷契約なんて、私が紙屑に変えてあげるわ」

 

啖呵を切って、私はデスクに六法全書をドサリと置いた。

どう、頼もしいでしょ――なんて、少しだけカッコつけた自分がいたのは認める。

 

でも、彼の反応は、予想していた「ぱあっと顔を輝かせる」ようなものじゃなかった。

 

 

「……如月さん。……ほんとに……」

 

 

沈黙。

 

見れば、彼は俯いたまま、膝の上で拳をぎゅっと握りしめていた。

やがて、ポタポタとデスクの合皮に、丸い跡が広がっていく。

 

 

(なっ……!?)

 

 

不意打ちだった。

 

顔を覗き込むと、彼は鼻の頭を真っ赤にして、ボロボロと大粒の涙をこぼしていた。

 

「……ぁ、すみ、ません。……なんか、昨日から、ずっと生きた心地がしなくて……」

 

言葉がうまく繋がっていない。彼は袖で乱暴に顔を拭うけど、涙は次から次へと溢れてくる。

 

「……よかった。……ほんとに」

 

ありがとう、なんて言葉にすらなっていない。ただ、心の底から溢れ出した安堵。

 

《男女比一対四。男性が「選ぶ側」として君臨するこの社会において、男が女の前で涙を流すことは、自らの特権を放棄するに等しい恥辱とされていた。だが、悠の涙には、計算も虚飾もない、剥き出しの感謝だけが宿っていた》

 

ドクン。

 

心臓が、変な跳ね方をした。

 

(……この世界の男が、女に見せることなど万に一つもない、弱さと純粋さが混じり合った「涙」。……反則。こんなの、反則じゃない……っ!)

 

「……ば、バカ言わないで! 仕事なんだから当然よ。……ほら、今日はもう帰りなさい! 明日からさっそく準備に入るんだから!」

 

「はい! よろしくお願いします!」

 

彼はもう一度深く礼を言うと、夜の街へと消えていった。

 

 

静かになった事務所。

 

 

私は彼が座っていたパイプ椅子を見つめ、熱くなった頬を手の平で冷やした。

指先が、まだ少し震えている。

 

(……ちょっと、びっくりするじゃん。男の子の泣き顔なんて初めて見た。それも、あんなにピュア……)

 

この仕事をしていて、あんなに真っ直ぐにお礼を言われたことなんて、あったっけ?

 

私の「努力」が、誰かの涙を止めた。

その実感が、泥のように重かった私の背中を、ふわりと浮かび上がらせる。

 

(……男の子の泣き顔って、けっこう危険かも。……というか、放っておけないっていうか……っ)

 

私は頭を振って雑念を飛ばした。

 

「……さて。やるか」

 

私は埃を被った六法全書を、力強く引き寄せた。

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