その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
「クソがァァァァァァァァ!!」
隣の部屋から響いてきた絶叫で跳ね起きた。
ドゴォォーーン!!
次は、壁一枚隔てた向こう側から、何かが激しくぶつかる音が響く。
体を起こして時計を見ると、外はもう真っ暗だった。
魅夜さんか……
廊下ですれ違うたびに罵倒を浴びせてくる彼女。
毎回のようにベランダから俺の部屋に上がり込んで、買い置きのお菓子や作り置きの飯を全部平らげて帰っていく。
彼女は勝手に部屋に上がるし、食料も漁るし、ついでに口も悪い。
それでも「まぁ、いいか」と思えてしまうのは、たぶんあの夜のことがあるからだろう。
◆
以前、魅夜さんが珍しく高熱を出して寝込んでいた夜があった。
その日も、いつものように壁の向こうから物音がしていた。
ただ、いつもと違ったのは、その音がやけに弱々しかったことだ。
ガサ、ゴソ、と何かを引っかくような音。
それから、くしゃみと咳。
風邪かな……魅夜さんでも風邪をひくんだな。
最初はそう思って、特に気にしなかった。
でも、しばらくしてから聞こえてきたのは、いつもの威勢のいい怒鳴り声ではなく、唸るような苦しそうな声だった。
「……ハァ……ハァ……うぅ……ゴホッ……うぅ……」
……隣人がおせっかいで踏み込むのもな……
でも、万一のことがあるといけない。
少し迷ったが、俺は隣の部屋のドアをノックした。
「魅夜さん、お隣の結城です。大丈夫ですかー?」
返事はなかったが、もう一度ノックしてしばらく待つとドアの鍵が外れる音がした。
ガチャ――
「……何だよ……アタシは元気だ……寝てるだけだ……」
そう言いながら現れた彼女の顔は、白を通り越して青白くなっていた。
額には汗が浮かんでいて、足取りもいつもの威圧感のあるそれとは違ってフラフラしている。
「……熱、測りました?」
「……うるせ……勝手に決めんじゃねぇ……」
そう言ったあと、魅夜さんはふらりと体勢を崩しかけた。
俺は反射的に手を伸ばして体を支えた。
「……っ、おい……」
「すみません、ちょっと触りますね」
額に手を当てると、びっくりするくらい高熱だった。
「……これ結構な熱ですよ。薬飲んで横になってください」
「……命令、するな……」
言いながらも彼女は抵抗する力もなく、俺に支えられたまま布団まで運ばれていった。
部屋の中はいつも以上に荒れていて、床には脱ぎっぱなしの服や、空になったお菓子の袋が散らばっていた。
「タオル、洗面所から借りますね」
濡らしたタオルを固く絞ってから彼女に手渡した。
「……いらねぇ……」
「先に汗を拭いといてください。そっちの方が楽になりますから」
魅夜さんは何も言わずに黙っている。
俺はそれを横目に考える。
たしか部屋に米と卵くらいはあったはずだ。
「……ちょっと待っててください。何か食べるもの持ってきますから」
「……いらねぇ……アタシは……腹なんて減ってねぇ……」
――ぐぅぅぅ――
クスッ、と俺は思わず笑ってしまった。
「い、今のはちげぇ――」
「いつもは俺の作り置きを勝手に食べるじゃないですか。それを持ってくるだけです」
「……チッ……なら――はやく持ってこい……」
俺は自分の部屋に戻り、小さめの土鍋と食材を準備して調理を始めた。
米を多めの水で柔らかく煮る。そして、卵と少しの生姜を加える。
薄い壁の向こうからは、相変わらず魅夜さんが苦しそうに咳き込む声が漏れて聞こえてくる。
十分後――
「よし、こんなもんかな」
俺はおかゆが入った土鍋ごとキッチンミトンで掴んで魅夜さんの下へ。
戻ってみると、彼女は背中を向けて布団の中で丸まっていた。
その姿はいつもの彼女と違って一回り小さく見える。
「魅夜さん、起き上がれますか?」
「ん……あぁ……」
おかゆが入った土鍋とお水、それと風邪薬を乗せたお盆を魅夜さんの枕元に置いた。
「少しでも食べられそうなら食べてください」
「……お、おい、これ……」
「無理に食べなくてもいいですけど、ここに置いておきますね。冷めてもレンジで温められますから」
そう言ったあと俺は立ち上がる。
「何かあったら壁、叩いてください。聞こえますから」
彼女は何も答えず、再び布団の中に入った。そして、小さく丸まったまま背中を向けた。
「えっと、魅夜さん?」
「…………」
だめだ、返事がない。
まぁ、いっか。やることはやったし、俺も晩飯の準備をしよう。
俺は立ち上がり、足音を立てないように玄関の方へ。
そっと扉を引く。
――その、閉まる間際だった。
カチャン、と背後で土鍋の蓋を開ける音がした。
◇
翌朝――
俺がバイトに行く準備をしていると、玄関の外で小さな物音がした。
ドアを開けると、そこには器が入った紙袋が置いてあった。
中を覗くと空になった器が入っていた
――綺麗に洗われた状態で。
布巾で丁寧に拭いた跡まである。
紙袋にはメモも何もない。
治ったんだな…
なんだか、おかしな気持ちになる。
普段、大きな態度で部屋に上がり込んでくる人が、きちんとお皿を洗って返してくれる。
彼女のことが少しだけわかった気がした。
◇
その日の夜――
魅夜さんは何事もなかったかのように、いつも通りベランダから俺の部屋に上がり込んできた。
「……おい、悠っ! 今日の晩メシ足りなかったから残り出せっ!」
「もうすっかり元気ですね。よかったです」
「……あぁん? 何の話だァ? アタシは最初から元気だったろうがぁ!」
「ははっ」
いつもの調子で言う彼女を見て、俺も自然と笑顔になった。
◆
それ以来、どうにも調子が狂ってしまい、今ではすっかりなぁなぁの関係になっている。
相変わらず不法侵入は続くし、罵倒も健在だ。
でも、その距離感には、ちょっとした変化があった気もする。
「あォ!? 誰が負け犬だァ?! クソが! クソが! クソがぁ!!!!」
今日も魅夜さん、荒れてるなぁ……
「……ご飯でも作って、持っていってあげるか」
俺は冷蔵庫を開けた。
【あとがき】
悠くんみたいなパートナーがほしいです