その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――阿久津 魅夜(あくつ みや)視点――
ガシャ――ンッ!!
ガラスのカップが冷たいフローリングの上で粉々に砕け散った。
「クソがァァァァァァァァ!!!」
狭いワンルームに自分の絶叫音が木霊する。
「ふざけんじゃねぇ……ッ! コロス……! ブチ殺してやるよォ、あの女ッ!」
スマホに表示されているのは銀行アプリの預金画面。
数億円の預金残高はアタシの全能感を支えていた――
昨日までは。
それが今や見るも無残な金額――五百二円――という端数が表示されている。
原因は分かっている。
三年間アタシの裏方を支えていたマネージャーの女――
サキだ。
事務作業が向かないアタシをサポートする形でスケジュールやブランド戦略、銀行のカードなんかもすべてを握らせていた。
こないだの生配信中、「野郎は全員クソ野郎」というアタシの発言でSNSでは一部炎上した。
とくにマスキュリストという集団からの抗議がすごかったらしい。
【豆知識:マスキュリストとは男性の権利を守れと声高に叫ぶ集団。この世界において男の権利は充分に守られているにも関わらず存在している理由とは……。なお、ほとんどは構成員は女性で構成されている】
その火消しに必要だと言われ、印鑑とパスワードをサキに預けたのが最後。
今朝、アカウントが凍結されると同時にサキは全財産を引き出し、連絡を絶った――
ヤツが行ったのはそれだけじゃなかった。
十代の頃にアタシが反社組織の末端として関わっていたこと。
ライバルの配信者やインフルエンサーを潰すために裏で動いていたこと。
金を使った違法サービスでフォロワーを買っていたこと。
アタシがこれまで隠し通してきたことを、一斉にネット上にバラしやがった。
事実もあった。誇張もあった。でたらめもあった。
『魅夜、あんたはもう終わり。女王なんて呼ばれて調子に乗ったのが運の尽きね。あ、このお金は今まであんたのワガママに付き合わされた迷惑料として貰っておくわ。じゃあね、負け犬さん。チュ♥』
最後に送られてきたサキからのメッセージを思い出すたび視界が真っ赤に染まる。
「あォ!? 誰が負け犬だァ?!クソが!クソが!クソがぁぁぁ!!!!」
怒りに任せて壁を蹴り飛ばすが、足の指に走った激痛が冷酷な現実を突きつける。
もう事実関係なんて関係なかった。
ネットに放たれた言葉は大きな火になって広がっている。
スマホを更新するたびにフォロワーの数字が減っていく。
二百万フォロワー。
百五十万。
百万。
五十万。
画面を見るたびに、また減っている。
そして――
十万フォロワー。
数字が、止まった。
(……十万)
アタシはその数字を、しばらく見つめた。
十万。
それはちょうど、アタシがかつて金で買ったフォロワーの数と同じだった。
「……結局、だれもいねぇじゃねぇか……」
声に出したら、かすれて思ったより声が出なかった。
二百万人いたはずのアタシの世界に、最初から本物は一人もいなかった。
金がねぇ。味方もいねぇ。フォロワーもいねぇ。
女王なんて呼ばれたアタシに残ったのは、割れたコップの破片と電気の止まった暗い部屋だけ。
アタシが愛したのはスマホの中の金と数字だけ。
残ったものは何もねぇ……
(……虚しい。もう、消えてもいいか)
暗闇の中でアタシはただの残骸のように思えてくる。
スマホのバッテリー残量が2%を示す。
そのわずかな明かりさえ消えるとき、アタシも一緒に消えるような気がする。
その時だった――
コンコン
静寂を裂くように、どこか間の抜けたノックの音がした。
「……あァ!? 誰だよ、こんな時によォ……?」
アタシは這いずるようにドアまで行き、乱暴に鍵を開けた。
野次馬か。マスコミか。
誰でもいい、今のこの怒りをぶつけてやる。
「ゴラァ!見せもんじゃ――」
「魅夜さん、ちは……って、真っ暗じゃないですか。停電?」
立っていたのは隣部屋の住人、結城 悠(ゆうき ゆう)だった。
手にビニール袋を提げ、お花畑のような呑気なツラを晒してやがる。
「……テメェ、何の用だよォ……アタシを笑いに来たのか? あァ!?」
「よくわかんないですけど、それよりちょっとお願いがあって――」
「……なんだよ」
「バイトの常連から大量のジャガイモもらったんで消費するの手伝ってください」
「……は? そりゃ中身は肉じゃがか? テメェ、頭沸いてんのかヨォ? こんな時によぉ……」
「熱いうちに食べてくださいね。火加減とか頑張ったんすよ」
悠はアタシの罵倒なんて聞こえていないみたいに、勝手に袋に入ったタッパーをアタシに押し付ける。
(こんなもん、いらねぇよォ……)
タッパーの蓋ごしからでも漂う出汁の温かい匂い。
「容器はまた返してくださいね、じゃ」
バタン――
それだけ言い残して隣の部屋へ戻っていった。
あの野郎はアタシが失ったもんなんて何にも分かっちゃねぇんだろうよ……
それに隣人へのおすそ分けなんて、おせっかいが過ぎる。
「アホか、こんなときに飯なんか――」
ぐぅぅぅ――――
「…………」
アタシは床に座り込みタッパーを開けてみる。
ふわぁ〜。
たちまち立ち昇る出汁の香りに包まれた。
肉じゃが特有の甘い香り。
ちっ仕方ねぇ。捨てるのも勿体ねぇか。
ビニールの中には使い捨てスプーンまで入っていた。
すぐに食べることをアイツが見越してた気がして気分が良くない。
アタシは袋を開けてプラスチックのスプーンを取り出す。
一口。
「ハフッ」
温かい――
じっくりと煮込まれたジャガイモが、口の中でとろけていく。
「ハフッ……ハフッ……ハフッ……」
いつの間にか夢中で食べていた。
熱いのに止まらない。
「……うめぇ……うめぇ……」
自然と声が漏れた。
「……うめぇ……うぇ……うぇ……」
目元から雫も漏れた。
三年間アタシの隣にいた女、サキ。アタシが信じた女。
ずっとアタシの隣にいた彼女は一度もアタシを温めてはくれなかった。
二百万のフォロワー。
耳障りの良いコメントに表面だけのメッセージ。
それらがアタシの心に響いてきたことなんてない。
銀行に預金していた数億のお金。
その残高を見るたびに、これさえあれば誰にも負けないと思っていた。
でも、心の虚しさは依然として変わらなかった。
金も数字も信じてた女も、だれもアタシを温めちゃあくれなかった。
でも――
「うぇ……うぇ……っ」
今アタシの手の中にあるタッパーは、
アタシの口に入ったこの一口は、
なぜだか温かい。
内側からぽっかぽかだ。
水滴がぽたりとフローリングに落ちた。
◇
半分ほど食べ終えて、アタシはタッパーの中のメモに気づいた。
それをスマホの明かりで照らす。
『冷蔵庫に入れるとニ、三日、冷凍で二週間は持ちますよ(ぐっ!サムズアップの絵)by 悠』
「……きったねぇ字」
思わず口から漏れる。
けど――
「アイツらしいな……」
それに、アイツがアタシのために時間を使ってくれたことを思うと、ニヤけちまう自分がいる。
そっか……これが――
電気の止まった暗い部屋の中で、その汚い字のメモをそっと胸に抱えた。
◇
数時間後――
アタシは暗闇の部屋で予備のバッテリーを使い、配信用のライトを最強にする。
「さぁ、おっぱじめようぜェ!」
配信サイトにログインしてライブ配信を開始する。
結局BANになったアカウントを作り直してのスタートだ。
フォロワーはゼロになったが、そんなこたぁこの際関係ねぇ……
カメラはテーブルの上の料理とアタシの指先、そして口元から下だけを映すように角度を固定する。
アタシの顔は一切映っていない。
でも、分かるヤツにはアタシだとわかるはずだ。
「ケヒャッ!湧いてんねェ、ゴミ共」
チャット欄が見たこともないスピードで爆走していく。
《生きてたのかゴミ》
《きえろ》
《引退配信しろ》
《元反社の犯罪者》
《のこのこ顔出せるとかどんだけだよ》
《金でフォロワー増やすとか終わってんだけど》
《しーねしーねしーねしーねしーねしーねしーね》
「ケヒャヒャ! いつもならイラつく荒らしも、今は最高のBGMだぜぇ!」
アタシはタッパーに入った肉じゃがを指さしながら言う。
「まぁ見ろよこれ、この肉じゃが、火加減、完璧だろォ?」
ちなみに悠には配信の裏方を手伝えと無理やり部屋に連れてきている。
「悠……おい悠、コーヒーおかわり、ブラックで。あ、やっぱ砂糖入れて、一個ね」
「急に元気になったな。はいはい、魅夜様にコーヒーを淹れさせていただきますよ」
「わざとらしいんだよ!あとアタシのことは呼び捨てで呼べ!様づけとか気持ちわりぃんだよ! あと敬語もやめろ! ほら、早くしろよ……ッ!」
「はいはい。魅夜、コーヒーおかわり砂糖一個ね」
【豆知識:下の名前呼びは男にしてほしいランキングの毎年上位に連なる。タメ口での自然な呼び捨ては特に人気が高い。人によっては刺激が強すぎて、失神・鼻血・心拍数異常などを引き起こす。そして魅夜は現在、その三症状すべてを同時に発症中】
(くぅぅ、たまんねェ……鼻血出る……頭もクラクラしてきやがった)
カメラの外から聞こえるアイツの声。
チャット欄が一時停止し、その直後に爆発した。
《え、今の男の声?》
《イケボすぎんだろ》
《よ、呼び捨て……だと》
《私の名前も読んで!私はミキよ!》
《誰だよそのユウって!顔みせろ!話はそこからだ!》
《いいから男うつせ》
《見なくても分かる……これはイケメンの香り……》
《私とかわれ!いえ、かわってください。いえ、かわって下さいませんでしょうか(土下座)》
「あー、悠の淹れるコーヒーの香りがヤバい、脳がトロけそう」
ミルが回る音がマイクに乗る。
「ねえ、みんな、聞こえる? 豆を挽く音。これアタシのためだけに鳴ってる音なんだよねェ」
コメントの勢いは止まらない。
「アタシのためだけに作ってくれてんの。男が自分の時間を使って。私のために。その意味おわかりぃ?」
「はい、どうぞ」
悠がテーブルにコーヒーをそっと置いた。
と同時にアタシはゆっくり肉じゃがを一口掬い、カメラの死角にいる悠へとスプーンを渡す。
「ほら、あーしろ、あー」
「あー?」
首を傾ける悠。
「……食べさせろって意味だよ! 言わせんな! あとふーふーもしろ!」
【豆知識:この世界における「ふーふーからのあーん」は男性にしてほしいランキングで呼び捨てを抑えて堂々の一位に君臨している。火傷させないよう丁寧に冷ます、という気遣いが加わった場合、その破壊力は通常比の三倍に跳ね上がるとされる】
「今日だけですからね……」
まじか……ホントにしてくれんのか……
「はい、ふーふー」
悠の吐息がアタシに火傷させないよう丁寧に冷ましてる……あぁ、その空気ごと吸い込みてぇ……
そして、アイツの持ったスプーンが口元にどんどん近づいてくる。
スプーンとの距離はおおよそ三センチ。
パクッ――
「はぁ……あったけぇ……」
その温もりは食堂から胃を通り、お腹の奥まで届いている気がする。
チャット欄はもはや阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
《あーん......だと!?》
《今すぐかわれ! 秒でかわれ!》
《えっちだねぇ》
《えっちすぎるだろ!》
《口元がだらしなくなってる!》
《こりゃ完墜ちだな……》
《甘ったるい声だしてんじゃねぇ!》
《これって伝説上の行為じゃないの!?》
《ふーふーからのあーん……まさか実在するなんてね……》
《いいから特定班!この部屋の間取りから場所を割り出せ!はやく!》
《くぁwせdrftgyふじこlp》
《ありがとう。そしてありがとう》
《これ、どこに投げ銭すればいいの》
「………これ、まだ熱いじゃねぇか。もっかいふーふーしろ、もっと熱飛ばせ……」
アタシはもはや全く熱くない肉じゃがをすくって再びスプーンを手渡す。
「えっ熱かった?ごめんごめん、ふーーふーーはい、あーん」
パク――
あぁ……お腹の奥まであったけぇ……むしろ熱いくらいに――
肉じゃが自体は冷めているのに、自身の体温が上がっていくのを感じる。
下腹部辺りも徐々に熱を帯びていく。
やべぇ、この感覚は――
――ジュクジュク
その熱さは疼きへ変わり、身体の一部が伸縮の繰り返しを始める。
――キュンキュン
クソッ、止まれ、止まれ、とまれ。
止まった――
「魅夜、あと一口で容器が空くから――ハイっ口開けて」
グイッ
そういって半ば強引に口の中にスプーンが押し込まれる。
今はやめろぉぉぉぉぉ!!!
――キュン♡
「あぁぁぁ♡」
ビクンッ――ビクンッ――ビクンッ――
ふにゃり。
ぺたん。
チャット欄が、静止した。
〇・五秒後。
《えぇぇぇ!!!》
《イッてる!》
《イクだろフツーに》
《白目向いてんじゃん!》
《私なら三回はイッてる》
《肉ジャガでイクとか、今日からイック・ジャガーだな》
《だれが上手いこと言えとw》
《なんかショーツの辺りシミできてね?》
《イキ潮だな……》
《見ちゃいけないものを見た》
《ハァ……いいなぁ》
《くぁwせdrftgyふじこlp》
「え、魅夜さん!? 魅夜さん――!?」
◆
大慌ての悠が駆け寄った拍子に、テーブルの端に置かれていたスマホが床へと落下した。
ブツッ。
配信、終了。
【豆知識:この日のフォロワー増加と投げ銭総額は、今までのどのライブ配信をも上回ったという。トレンドには「イック・ジャガー」という謎のワードが躍り、翌月まで全国一位を記録した伝説の生ライブとして語り継がれることになる】
――同時刻
生配信を見ていた男の下着を毎日クンクンしている女性。
「……あの一瞬だけ映った男の人、前に悠くんが着てた服と全く一緒じゃないっ! まさか……あの人は私の悠くんじゃ!?」
また、ある一方では――
生配信を見ていたキスの夢を毎日見ているお嬢様。
「……あの一瞬だけ映った男性の唇……見間違えるはずありませんわ。あのお方は……わたくしの結城悠ですわ!」
そしてもう片方――
配信を見ていたドローンで毎日ストーカーをしている女の子。
「……あの型番のタッパー、先週に結城さんが百円ショップで買ったものと一致してる……声紋も一致……まさか、わたしの結城さん!?」
これから彼をめぐってどんな嵐が吹き荒れるのか……
【あとがき】
魅夜「フォロワーはゼロになったが、この際関係ねぇ……」
作者「この際関係ねぇ、この際関係ねぇ、はいっ……」
魅夜「おっぱ……って言わせようとすんじゃねェ!!」(`Д´)ノパンチ
作者「ぐぇ」