その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――浅見 凛(あさみ りん)の視点――
ピコン――
私のスマホが鳴った。
悠くんからだ。
《結城悠》『おつかれさまです!』
『明日よろしくお願いします!』12:15
今はお昼休憩中。
「えっと……これでよし」
《浅見凛》『こちらこそ♪』12:16
『明日こそユキちゃんを動物病院に連れていきましょうね』12:16
『帰りに時間があればお茶でもしましょ』12:17
ピコン――
まもなく、スマホが鳴った。
《結城悠》『オーライッス』12:19
茶碗にライスが盛られているスタンプ。
思わず笑ってしまった。
なに、このスタンプ。
「よし、残りの仕事も頑張ります――か」
◇
――夕刻
今日を乗り越えれば明日は悠くんに会える。
それだけを胸に、私は今夜の接待に臨んでいた。
いつもは定時に帰れる仕事だが、今日は先方からのご指名があった。
仕事終わりに取引先の重役との接待――という名のお食事会をすることになったためだ。
場所は鳳グループが経営するフランス料理のレストラン――メゾン・ド・プリューム。
外観だけで三つ星の重みが伝わってくるようだ。
「先輩、まだ来ませんね……」
隣に立つ後輩の宇田が腕時計をちらりと見た。
今年で二年目の彼女は、やや華奢で小柄な女性社員だ。
今日の接待相手のご指名は私らしいが、彼女には今後の経験を積ませるため――そして取引相手との顔つなぎのために連れてきている。
「そうね……」
礼儀として予約時間の十五分前には到着して待機をしている。
だが、特にあちらからの連絡もなく、なかなか相手の姿も見えない。
遅れるなら遅れると連絡するべきだと思うけど――男にそれを期待するのは酷というものね……
結局、予定時刻から三十分が過ぎた。
◇
「おぉ浅見くん!」
ようやく現れた中年のおじさんは、悪びれた様子もなく手を振った。
セコム・ドット――防犯業界の大手企業で、山田はその重役だ。クロスウィングにとっては無視できない上客である。
「おひさしぶりです。山田さま」
太っている――もとい恰幅のいい五十代。お腹まわりがジャケットを押し広げている。
「ヤマちゃんでいいのに。俺も凛ちゃんって呼ぶからさぁ」
遅れたこと、連絡がなかったことへの言及は一切なし。
まぁ男にとってはこれが普通よね。
「山田様、はじめまして」
「えーっと、きみは……」
「宇田といいます」
「井田ちゃんか、よろしく」
そう言って、山田は自分のカバンを宇田に押しつけた。
「あの、うだ……いえ、カバンをお持ちします」
「いや〜このお店の料理が楽しみでねぇ」
いろいろとツッコミたいのを我慢をし、表情筋も崩さないように意識する。
さっそく店内に入ると、身なりの良い女性の店員が対応してくれた。
「いらっしゃいませ。ご予約の浅見様ですね」
スタッフに案内されて奥の席へと向かう私たち。
山田が上座の位置に重たそうな体をどさッと下ろす。
その後に私と宇田が続いた。
「あれっ凛ちゃん髪染めた? 俺違いに気づく男だからさぁ」
「あはは……良くお気づきですね」
髪は染めていない。昨日、前髪を少し切っただけ。
「それにいつもより目がキラキラしてるねぇ。やっぱり俺に会えることが楽しみだったんだねぇ」
いや、むしろ目には大きなくまがある。
ここ最近は資格取得のための勉強で寝不足が続いているためだ。
私は表情が引きつってしまいそうになるのをなんとかこらえる。
◇
前菜が運ばれてくる頃には、彼の自慢話が始まっていた。
「いやぁ、俺の資産が億を超えちゃってさぁ」
「すご〜い!」
「いやぁ、うちの会社はなぁ、あの鳳財閥の警備も担当しててさぁ。まぁつまりは一生安泰ってわけさぁ」
「うわぁ、すご〜い!」
「いやぁ、俺の若い頃はなぁ、十人の女と同時に付き合っててさぁ――」
「え〜すごいですね〜!」
「俺の周りには自然と女が寄ってきてさぁ、ホント困ってるんだよねぇ」
「え〜すご〜い、山田様は魅力的ですもんねぇ」
宇田が適当に相槌を打ち、わたしも合わせて微笑む。
「まぁ、周りには良く言われるけどねぇ」
ほんとか……
「で、じゃあ俺のどこが魅力的?はい、3、2、1、」
「えーっと」
「だめだよぉ、すぐに答えないと。凛ちゃん教えてあげて」
「……はい」
そう言われ足元からゆっくりと見上げるように観察する。
靴は汚れてボロボロ。黒のスラックスは膝裏や股間のあたりに皺が寄っている。
お腹の周辺は不自然なほど前方に出ており、まるで浮き輪でもしているかのようだ。
シャツの部分の袖と襟の部分は黄ばんでおり、脇にはシミもできていた。
顔面はひげが四方八方に伸びていて、身体からは汗と加齢臭が混じった匂いを放っている。
あっ爪黒い……
要は身なりには清潔感がないし、だらしない体型ということ。
でも以前は男というだけで多少は魅力的に見えていた――悠くんに出会うまでは。
彼に出会ってからは、全く、一欠片も、これっぽっちも、山田という人物に魅力を感じない。
むしろ逆。吐き気と嫌悪感さえ覚える。
比べたくはないけれど、隣に座るこの人を見るたびに、どうしても悠くんのことが頭に浮かんでしまう。
とりあえず、当たり障りのないことを私が答えると、機嫌が良くなったのか彼は一気にワインを飲み干した。
早く酔い潰れてくれれば、この地獄も早く終わる。
私はお酒をたくさん飲ませる作戦に切り替えた。
「あら、グラス空いてますよ山田様。お注ぎします」
「うん、頼むよぉ」
ぐいぐいと飲む山田。
「飲みっぷりがいいですね! もう一杯いかがですか?」
「うん、もらおうかなぁ」
私が山田のグラスに注いでいる、その最中だった。
「おい、きみ。え〜と、小田ちゃんだったか? 灰皿いっぱいだから変えようねぇ。あと俺がタバコを口に咥えたらすぐに火をつけようよぉ」
「あ、宇田で――いえ、はい。すいません」
「それとグラス空いてるんだから早く注文しようねぇ」
「あ、あの、さっきグラスが空いたばかり――」
「さっきから口答えをするねぇキミぃ……あのさぁ、キミのために言ってるんだからねぇ。これからも接待があるだろうから、こうやって手取り足取り教えてんだよぉ、わかる?」
「……はい、すいま――ひぁ」
彼が後輩の背中とお尻の中間くらいの箇所をまさぐるように触っていた。
「だったら、ありがとう――でしょ?」
「あ、はい……ありがとうございます」
彼女の顔は不満から次第に悔しさに――瞳は密かに潤んでいた。
私がフォローに入ろうとした、その時。
山田がまた声を潜めて耳元まで寄ってきた。
「実は……去年の会社の上場のタイミング、告知前に自社株を大量買いしてねぇ……」
「えぇ〜そうなんですねぇ……」
「もうボロ儲けだよぉ 」
「……すごーいっ!」
「これはおじさんと凜ちゃんの秘密だぞ♡」
ふぅっと耳元に息を吹きかけてきた。
(ぞわっ……)
全身に鳥肌が立ちながらも、膝の上でこっそり拳を握る。
「山田さま、わたしからも追加のご注文をお伺いしますね」
私は後輩をフォローしながら、さりげなくスタッフを呼ぶ。
彼女が「ちょっとお手洗いに」と席を立った。
彼がもの言いたげにこちらを向く。
「どうかされましたか?」
「あ〜凛ちゃん? あの子、ブスで気が利かないからチェンジで。あと、そろそろ次のお店」
「……はい。では次のお店とハイヤーの手配をしておきますね」
笑顔のまま私も席を立った。
◇
お手洗いの前の廊下。
宇田が壁にもたれて俯いていた。
「先輩……うち、ダメダメで……」
「ううん。あなたなりに頑張ってたわ。大丈夫よ」
「でも……」
「山田様には話をつけてきたから先に上がりなさい。今夜はもういいわ」
「……ほんとですか」
「ええ。お疲れ様」
宇田が深々と頭を下げて、足早に出口へ向かっていく。
その背中を見送ってから、わたしは小さく息を吐いた。
「はぁ……私も充電しなきゃ……」
ハンドバッグからジッパー付きの圧縮袋を取り出し、中の衣類――男物のボクサーパンツ――を取り出して顔を埋める。
「すぅーーー……はぁ……すぅーーー……はぁ……」
ダメージを負った心が急速に回復していく。
「あぁ……効く……これよ、これ……」
よし、これでまだ――戦える。
明日の悠くんの顔を思い浮かべながら、私は再び戦場へと戻った。