その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――阿久津魅夜の視点――
アタシがまだ女王なんて呼ばれる前、唯一信じた男がいた。
だが、そいつはアタシを愛してなんていなかった。アタシが稼いでくる金と、アタシを慕うフォロワーを自分のステータスにするために、優しさを装っていただけだった。
『お前が俺に尽くすのは、当たり前だろ? むしろ今まで優しくしてやったんだから感謝しろよ』
最後にそいつが吐き捨てた言葉を、アタシは死んでも忘れねぇ。男の優しさなんてのは、すべて女を飼い慣らすための首輪だ。
そんなことはドブみてぇな世界を這いずり回ってきたアタシが、誰より身に染みてわかってんだよ……
◆
「……はぁ、マジで死ねよ。どいつもこいつも、女をなんだと思ってやがる……」
暗い廊下で、アタシは重い機材ケースを引きずりながら文句を垂れる。
覆面インフルエンサーとして世間じゃ不遜な女王様なんて崇められてるが、実態はこれだ。
男の引っ越し業者は「あー、腰やっちゃったんで無理っす」と当然のようにアタシに荷物を押し付け、金だけはきっちり請求していった。
あのゴミクズ野郎がぁ……男ってだけで、自分が王様にでもなったと勘違いしてやがる。
――そんな時だった。
隣の部屋から、あの男――結城 悠(ゆうき ゆう)が出てきたのは。
最初に目が合った時、アタシは反射的に(あ、またこのタイプか)と思った。
整った顔立ち、育ちの良さそうな雰囲気。見た目だけなら、けっこうアタシのタイプだった。
だからこそ余計に反吐が出る。
「あ、それ重そうですね。運びますよ」
どうせこいつも「手伝ってあげてもいいけど、お礼は何かな?」なんて、下卑た交渉をしてくるに決まってる。
だから、アタシは全力の殺意を込めて睨みつけてやった。
「あァ……テメェ何様のつもりだァ……安っぽい逆ナンのつもりかぁ? 笑わせんなァ!」
だが、アイツの反応は予想と違った。
罵倒なんて聞こえてないみたいに、「とりあえず玄関まで入れますよ。失礼します」とだけ言って、アタシの手から機材ケースを奪い取った。
まるで羽毛でも持つみたいに、ひょいと持ち上げて。
「なっ……テメェ!? 勝手に……ッ!」
そのとき、アタシは見てしまった。荷物を支えるアイツの腕を――
手の甲から前腕にかけて、力を込めるたびに浮かび上がる血管を――
くっ……ハレンチすぎんだろ……人前で血管丸出しにしやがって……
ここは公共の場だぞ……女が胸丸出しで歩いてるようなもんだぞ……
何か言い返してやろうとしたのに、言葉が出てこなかった。
アイツはそのまま淡々と荷物を運び込むと、軽く頭を下げて、さっさと自分の部屋に戻っていった。
交渉も、下心も、見返りの要求もなかった。
◇
――そして今日。
部屋でグラスを割り、惨めな思いで座り込んでいたアタシのところに、アイツは再び現れた。
ドアの隙間から声をかけてきたかと思えば、そのまま上がり込んでくる。
「……危ないですよ」
それだけ言って、アタシからホウキを借りると、黙々と破片を集め始めた。
ついでに、床に散らかった服まで畳んで端に寄せていく。畳まれた服の角がピシッと揃ってるのを見るたびに、脳がバグりそうになる。
「……テメェ何なんだよ、男のくせに、なんでそんな……」
「いや、ガラスの破片は危ないですよ。掃除だけ済ませたら帰るんで」
この世の中、家事は女がやるもんだって、男共はみんな思ってる。なのにアイツの手つきからは、そんな傲慢さが微塵も感じられなかった。
……こんな男、いるはずがねぇ。どうせ、もっと大きな見返りを要求するための演技なんだ。
信じちゃいけねぇ……
掃除を終えたアイツは、持ってきたペットボトルの水を喉を鳴らしてあおり、テーブルに置いた。
その時、アイツのスマホが震えた。
「すみません、俺、もう行きます!」
画面を見るなり、アイツは慌ただしく部屋を飛び出していった。
バタン――
静まり返った部屋。片付いた床と、角の揃った服の山。
そして、テーブルの上には一本のペットボトルがポツンと置かれていた。
表面には結露の水滴。中身は半分ほど減っていた。
「何なんだよ、これはよぉ! 何かのイタズラかぁ?」
前に、元カレが観葉植物の鉢にスマホを仕込んで、アタシの部屋を盗撮しようとしたことがある。
部屋の隅。観葉植物の裏。棚の上。
……どこにもそれらしいものは見当たらねぇ。
アタシはもう一度、テーブルの上のペットボトルを見つめる。
「くっ……そそるじゃねぇか……こんな初対面に近いアタシの部屋に、無防備に放り出していくなんてよぉ……」
アタシは見た目や口調のせいで経験豊富だと思われがちだが、実際は男の身体に指一本触れたことはない。当然、キスの経験だってまだない。
アイツ――まさか確信犯か? アタシがこれを見てどう反応するか、想像して楽しんでやがんのか……
だがな……アタシにも女王としてのプライドってもんがあんだよぉ!
ペットボトルを凝視していると、青いキャップが少し浮いていることに気づいた。
「キャップが緩んじまってんじゃねぇか……」
閉めようとキャップに手をかけて、回す。
――パカッ
が、誤って逆に回してしまった。
飲み口が露わになる。……さっきアイツが、ここに口をつけたのか。
気づいたら顔を近づけ、飲み口をじっと凝視していた。
すん。
すん、すん。
「……アタシゃ変態かァァァァ!!」
思いっきり頭を左右に振った。
その瞬間――
――プツッ
ボトルの飲み口が、アタシの唇に一瞬だけ触れた。
「…………っ!」
アタシはボトルに背中を向け、その場にしゃがみ込んだ。
か、……間接、キス……
それはれっきとした十八禁の行為。
ドラマで間接キスのシーンがあれば、放送は深夜枠に回される。少女漫画なら、その一コマのために単行本が丸ごとシュリンク包装される。
そんなものを、アタシは――
や、やっちまった……っ!
――バクン、バクン、バクン
心臓が肋骨を内側から叩き割りそうだ。顔も熱い。アイツの唇を想像しただけで、下腹部の辺りが暖かくなる。
「ど、どどど、どうすりゃ……ッ!」
頭だけ振り返り、テーブルの上のボトルを見上げた。
まだ半分ほど残った透明な液体が、部屋の光を受けて静かに揺れている。
ごくり――
……いや待て。
(そもそも、間接キスってのは、触れた時点で成立してんだよな。つまりアタシはもう、アイツと間接キスをしちまった女ってことだ。だとするなら、今さらこれを飲もうが飲むまいが、事実は変わらねぇ。むしろ飲まない方が、せっかく成立した間接キスを無駄にすることになる。……そうだよな、もったいねぇよな。アタシは別にもったいないことが嫌いなだけで、断じてそれ以外の理由じゃねぇ)
アタシはゆっくりと立ち上がり、ボトルを手に取った。
「……これは、もったいねぇからだ……」
それに、脱水症状に備えて今のうちから水分を取っとくってのも悪くねぇ……
理由が二つもあるんじゃ仕方ない。
仕方ないからアタシは、アタシは――
ゴク、ゴク、ゴク……ッ。
吸い込まれるように、飲み口を自分の唇に当ててボトルを傾けた。
何だよ、これ! 何なんだよッ!
冷たいはずなのに、内側から爆発するような熱量。
ゴキュッ、ゴキュ……ッ――
アタシの細胞一つひとつが喜んでる……アイツのエキスが注ぎ込まれたような、圧倒的な刺激。
「――ッ!!! ぷはぁッ……!」
アイツの存在が、アタシの体内へと直接染み渡っていく。その感覚が、どんどん下腹部の辺りで熱くなっていく。
――ジュクジュク
その熱さがぐんぐん高まり、広がり、そして疼きに変わる。
――キュンキュン
お腹の少し下、その奥が収縮を繰り返す。
「あぁぁぁ……トぶ……トぶトぶ……トんじまうトんじまう……トんじゃう……よぉ♡」
ふにゃり。
ぺたん。
膝の力が抜け、アタシはその場に崩れ落ちた。
ペコッ――
手の中で空になったボトルが、情けない音を立てる。
ツーー。
頬に雫が流れる。
「ははっ……」
自分でも信じられない行動に、笑いが止まらない。
あれほど男を嫌悪していたアタシが、隣に住む得体の知れない男の飲みかけ一本の誘惑に、あっさり屈しちまった。
無様に膝をついて、◯ッちまった……
チクショー、こんな姿……ぜってぇアイツには見せらんねぇ。
――その時。
隣室から微かな物音が聞こえた。
アタシは吸い寄せられるように壁に這い寄り、耳を押し当てた。
薄い壁の向こう側から、アイツのあの惚けたような声が聞こえてきた。
「……あ、やべっ。ボトル、隣に置き忘れてきちゃった」
……は?
心臓が凍りつくような音がした。
今、なんて……置き忘れた? アタシへのイタズラでも、嫌がらせでもない。ただのうっかり……だと。
「……ケ、ケヒャ……嘘だろ、なぁ……」
アタシは残り数滴になったボトルを握りしめ、震えながら笑う。
もしアイツが本当に無自覚にこれをやったのだとしたら。
今、一人で壁に耳をつけて、こんなに悶え苦しみ、狂わされているアタシって……
◇
――翌日。
どんな顔をしてアイツに会えばいいか悩んでいたときに限って、アパートの廊下でアイツと鉢合わせた。
アイツは、昨日と変わらない気の抜けた声と笑顔で言い放つ。
「あ、魅夜さん、ちはっ。すみません、昨日そっちに飲みかけのボトル置き忘れちゃって。汚いんで適当に処分しといてもらっていいですか?」
汚い……処分……
アタシが昨夜、宝物みたいに大切に泣きながら飲み干したあのボトルを、ゴミとして捨てろってことか?
「……あぁ、汚い……よなァ……」
口から出たのは、自分でも驚くほど低く、ねっとりとした声。
テメェ、まじで……どこまでアタシを弄ぶつもりだ。
「わーったよぉ……処分しとくぅ……」
ドロドロとした暗い感情を込めて、微笑んでやった。
コイツ……本当にただのうっかりなのか……アタシを弄んで楽しんでやがんじゃないのか……
――アタシは確認しないといけない。
こいつの優しさが、これまでの男共と同じ、ただの演技なのかを。
「アタシは男にはだまされない、もうだまされねぇぞ……」
――それとも、この世界で唯一アタシが信じられる男なのかを。
「そうだ! いいことを思いついたぜぇ!」
こいつの生活、交友関係、プライベート。女王の力を使って、すべて丸裸にしてやる。
その仮面の裏……アタシが絶対暴いてやるからなっ! ケヒャ!