その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果――   作:やっくん。

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20話 この男、偉人好きにつき

――浅見 凛(あさみ りん)の視点――  

 

 やばい、やばい、やばい。

 

 目覚ましの画面を見た瞬間、全身に電流が走った。

 

 八時三十二分。

 

 待ち合わせは朝の九時。

 

 昨日は結局、夜中の二時まで山田に付き合わされた。

 

 帰宅してからも仕事のメールが溜まっていて、布団に入ったのは三時を回っていた。

 

 私は急いでメッセージアプリを開く。

 

 

 《浅見凛》『おはよう♪ ごめん、少しだけ遅れるかも。悠くんもゆっくり来てね』8:33

 

 

 送信。

 

 すぐに既読がついた。

 

 ピコン。

 

 《結城悠》『了解です。僕も少し遅れるかもなので、お互いゆっくりでいきましょう』8:34

 

 

 気づいたら、口元が緩んでいた。

 

 こんな言葉をかけてくれる人が、今まで周りにいただろうか。

 

「やばっ、準備しないとっ」

 

 洗面台の鏡を見ると目元にはクマがくっきりと映っていた。

 

 化粧で隠れるかしら……

 

 私はシャワーを浴び、着替え、化粧をして、ユキちゃんを外に連れ出すためのケージの準備をする。

 

 そうして家を出る頃には、もう九時を回っていた。

 

 

 走った。

 

 腕時計が九時二十分を過ぎていた。

 

 待ち合わせ場所まであと五十メートルほど。

 

 ――もういる!

 

 その先には白いオーバーサイズのTシャツを着た青年の姿が見えた。

 

 足を緩めかけた時、近くのカフェのオープンテラスから声が聞こえてきた。

 

「ねぇ、さっきからあそこに立ってる白服の人、けっこうイケてない?」

 

「せやな〜!つか白服って厨房のコックかい!」

 

「てかさぁ――よゆーで三十分は待ってない?」

 

 

(え、嘘……)

 

 

「相手にすっぽかされたのかなぁ。あーしが慰めに行ってあげようかな〜」

 

 思わず、そちらに視線が向いた。

 

 そんな場合じゃなかった。はやく彼のもとに行かないと。

 

「え、今の人こわっ」

 

「めっちゃ睨んできたんだけど……」

 

 背中越しに二人の声がかすかに聞こえてきた。

 

 

「ごめんなさい!待たせしちゃって――」

 

「あ、凛さん。いえ、実は僕も今来たところなんですよ」

 

 ……嘘つき。

 

 そう言いかけた瞬間、抱えていたユキちゃんの入ったケージをすっと取られた。

 

「けっこう重いですね、これ」

 

「……悠くん」

 

 ずっと持っていたため腕が痺れていたが、そのヒリヒリがスーッと引いていく。

 

 ふと気づくと彼がわたしの目元を見ている気がした。

 

 やっぱりクマが隠れてなかったかぁ……

 

「昨日、遅くまで仕事だったんですか」

 

 心配する感じもなく、ただ静かに聞いてくる。

 

「……うん、少しね」

 

「がんばってるんですね。お疲れ様です」

 

 彼は笑顔で返す。

 

(ゆうくん……)

 

 胸の奥がじわっと緩んだ。

 

「……あっ、前髪少し切りました?」

 

(ゆうきゅん…………)

 

 山田も後輩の宇田でさえ気づかなかったのに……

 

「そうだ、予約してた動物病院には少し遅れるって連絡を入れておいたんで」

 

(ゆぅぅぅきゅぅぅぅん)

 

 昨夜の疲れが、嘘みたいに遠ざかっていく気がした。

 

 

 動物病院に到着した。

 

 自動ドアをくぐると、消毒液の匂いがふわりと鼻をかすめる。

 

「すいません、予約していた結城という者なんですけど」

 

「はい、承っております。それではその子をお預かりいたしますね」

 

 受付の女性が、ケージをそっと受け取った。

 

「健康診断と去勢手術で、終わるまで一時間ちょっとほどかかります」

 

「わかりました。よろしくお願いします」

 

 わたしと悠くんは顔を見合わせた。

 

「じゃあ、その間近くのカフェで時間潰しましょうか」

 

「そうね」

 

 横を歩く彼。

 

 足元からゆっくりと見上げるように彼を見る。

 

 靴は真っ白のスニーカー。

 

 黒のスラックスはシワ一つない。

 

 そしてオーバーサイズの白いTシャツは彼にとてもよく似合っている。

 

 チラッ

 

 袖から覗く前腕部は――青黒く血管が浮き出ており――もはや凶器ではなかろうか。

 

 身体からは汗の匂い――がしないのはちょっと残念かな……

 

(あっ爪もきれい……)

 

 要は身なりには清潔感があって、引き締まった体型ということ。

 

 こんな男がこの世の中にいるんだ……

 

 横に並んで歩きながら、うっとりと彼を見上げていた、その時。

 

 悠くんが何かに気を取られたのか、ふっと一歩、前に出た。

 

 白いTシャツの背中が目の前に来る。

 

 その真ん中にでかでかとプリントが一つ。

 

「…………」

 

 ……今度わたしがTシャツ選んであげよ。

 

 

 カフェのオープンテラスの席についた瞬間、視線を感じた。

 

 さっきのギャル二人組だった。

 

 こちらを、というか悠くんをちらちらと見ている。

 

 人気者ね……

 

 一度注文を済ませてから、わたしはお手洗いで化粧直しをすることにした。

 

(クマ、やっぱり隠れてないわね)

 

 鏡の前で丁寧にコンシーラーを重ねた。

 

 戻ってみるとテラスの方がなんとなく騒がしかった。

 

「お兄さん、めっちゃタイプ! あーしとライン交換しよっ」

 

「いや、こんなギャルじゃなくてウチと交換せんか?」

 

「はっ? あんたもギャルじゃん!」

 

 二人で言い合いを始めている。

 

「ぷっ、仲いいんですね」

 

「やった、ウケた!なんかお兄さん話しやすいね!」

 

「ねぇねぇ、ウチら普段ナンパせんのんやけど、ビビッときてん」

 

「そうそう、話してマジ確信〜! ホテル直行でもいいから、あーしらとあ〜そぼっ」

 

「タダマンだよ、タダマン!」

 

(……見てる場合じゃない。止めないと)

 

 わたしが足を踏み出しかけた、その時。

 

「きみらさ――」

 

 ふっと、空気の温度が下がった気がした。

 

 割って入ろうとした足が止まる。

 

「……俺が悪いやつだったらどうすんの?」

 

 

「「……え?」」

 

 

「自分のこと、大事にしようよ」

 

 

「はっ?……何それ……ウチらに説教のつもり?」

 

「自分の価値を決めるのは自分……って勝海舟が言ってたし」

 

「アンタの言葉じゃないんかっ! てかだれやねんソイツ! あ〜もぉシラけるわぁ。モモ行こ!」

 

「……うん」

 

 立ち去りかけたギャルの一人が、ふと足を止めて悠くんの方を振り返った。

 

「そのTシャツだっっっさ」

 

「……え」

 

 言い捨てて、二人はそのままどこかへ消えていった。

 

 

「ごめん、お待たせ」

 

「全然。ていうか、凜さんごめんなさい。変な感じになっちゃって」

 

「ううん」

 

 わたしは席に座りながら、さっきの彼の言葉を頭の中で反芻していた。

 

 自分の価値を決めるのは、自分。

 

(……そっか)

 

 昨夜のことが頭をよぎった。

 

 太ももに乗せられた手。耳元の息。笑顔を崩さずに受け流していた。

 

 あれは、仕事だからと割り切っていた。

 

 上客だから、取引先だから、耐えるのが当然だと思っていた。

 

 でも、悠くんの言葉を借りるなら――

 

 わたしは、自分に安い値段をつけていたのかもしれない。

 

 山田に何を言われても、何をされても、笑って流す――それが大人の対応だと。

 

 でも本当は、あの場から立ち去ってよかったのかもしれない。

 

 宇田を先に帰したように、自分自身のことも、もっと大事にしてよかったのかもしれない。

 

 目の前の悠くんは、メニューを眺めながら「このパンケーキおいしそうですね」なんて呑気なことを言っている。

 

 この人は、たぶん無自覚だ。

 

 さっきのギャルたちにかけた言葉も、きっと彼にとっては普通なんだと思う。

 

 ただ本気で見ず知らずの誰かの価値を心配しているだけ。

 

(……ずるいなぁ)

 

 わたしは、そんな彼の顔をこっそり見つめた。

 

(悠くんはわたしの価値まで、勝手に上げていってしまうんだから)

 

「凛さん、どうかしました?」

 

「……ううん。何でもない」

 

 わたしは首を振って、メニューに視線を落とした。

 

 頬が、少しだけ熱かった。

 

 

【あとがき】

彼女に言われたいランキングTOP3

3位:「バカ……」

2位:「ずるいなぁ……」

1位:「タダマンする?」

 

※自分調べ:友人に聞きました。決して僕の意見ではありません←ここ重要

 

あ、それと悠がどんなプリントシャツを着ていたかはX(旧ツイッター)で公開しています↓

https://x.com/yakkun_kakuyomu/status/2079700018827866376?s=20

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