その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――浅見 凛(あさみ りん)の視点――
やばい、やばい、やばい。
目覚ましの画面を見た瞬間、全身に電流が走った。
八時三十二分。
待ち合わせは朝の九時。
昨日は結局、夜中の二時まで山田に付き合わされた。
帰宅してからも仕事のメールが溜まっていて、布団に入ったのは三時を回っていた。
私は急いでメッセージアプリを開く。
《浅見凛》『おはよう♪ ごめん、少しだけ遅れるかも。悠くんもゆっくり来てね』8:33
送信。
すぐに既読がついた。
ピコン。
《結城悠》『了解です。僕も少し遅れるかもなので、お互いゆっくりでいきましょう』8:34
気づいたら、口元が緩んでいた。
こんな言葉をかけてくれる人が、今まで周りにいただろうか。
「やばっ、準備しないとっ」
洗面台の鏡を見ると目元にはクマがくっきりと映っていた。
化粧で隠れるかしら……
私はシャワーを浴び、着替え、化粧をして、ユキちゃんを外に連れ出すためのケージの準備をする。
そうして家を出る頃には、もう九時を回っていた。
◇
走った。
腕時計が九時二十分を過ぎていた。
待ち合わせ場所まであと五十メートルほど。
――もういる!
その先には白いオーバーサイズのTシャツを着た青年の姿が見えた。
足を緩めかけた時、近くのカフェのオープンテラスから声が聞こえてきた。
「ねぇ、さっきからあそこに立ってる白服の人、けっこうイケてない?」
「せやな〜!つか白服って厨房のコックかい!」
「てかさぁ――よゆーで三十分は待ってない?」
(え、嘘……)
「相手にすっぽかされたのかなぁ。あーしが慰めに行ってあげようかな〜」
思わず、そちらに視線が向いた。
そんな場合じゃなかった。はやく彼のもとに行かないと。
「え、今の人こわっ」
「めっちゃ睨んできたんだけど……」
背中越しに二人の声がかすかに聞こえてきた。
◇
「ごめんなさい!待たせしちゃって――」
「あ、凛さん。いえ、実は僕も今来たところなんですよ」
……嘘つき。
そう言いかけた瞬間、抱えていたユキちゃんの入ったケージをすっと取られた。
「けっこう重いですね、これ」
「……悠くん」
ずっと持っていたため腕が痺れていたが、そのヒリヒリがスーッと引いていく。
ふと気づくと彼がわたしの目元を見ている気がした。
やっぱりクマが隠れてなかったかぁ……
「昨日、遅くまで仕事だったんですか」
心配する感じもなく、ただ静かに聞いてくる。
「……うん、少しね」
「がんばってるんですね。お疲れ様です」
彼は笑顔で返す。
(ゆうくん……)
胸の奥がじわっと緩んだ。
「……あっ、前髪少し切りました?」
(ゆうきゅん…………)
山田も後輩の宇田でさえ気づかなかったのに……
「そうだ、予約してた動物病院には少し遅れるって連絡を入れておいたんで」
(ゆぅぅぅきゅぅぅぅん)
昨夜の疲れが、嘘みたいに遠ざかっていく気がした。
◇
動物病院に到着した。
自動ドアをくぐると、消毒液の匂いがふわりと鼻をかすめる。
「すいません、予約していた結城という者なんですけど」
「はい、承っております。それではその子をお預かりいたしますね」
受付の女性が、ケージをそっと受け取った。
「健康診断と去勢手術で、終わるまで一時間ちょっとほどかかります」
「わかりました。よろしくお願いします」
わたしと悠くんは顔を見合わせた。
「じゃあ、その間近くのカフェで時間潰しましょうか」
「そうね」
横を歩く彼。
足元からゆっくりと見上げるように彼を見る。
靴は真っ白のスニーカー。
黒のスラックスはシワ一つない。
そしてオーバーサイズの白いTシャツは彼にとてもよく似合っている。
チラッ
袖から覗く前腕部は――青黒く血管が浮き出ており――もはや凶器ではなかろうか。
身体からは汗の匂い――がしないのはちょっと残念かな……
(あっ爪もきれい……)
要は身なりには清潔感があって、引き締まった体型ということ。
こんな男がこの世の中にいるんだ……
横に並んで歩きながら、うっとりと彼を見上げていた、その時。
悠くんが何かに気を取られたのか、ふっと一歩、前に出た。
白いTシャツの背中が目の前に来る。
その真ん中にでかでかとプリントが一つ。
「…………」
……今度わたしがTシャツ選んであげよ。
◇
カフェのオープンテラスの席についた瞬間、視線を感じた。
さっきのギャル二人組だった。
こちらを、というか悠くんをちらちらと見ている。
人気者ね……
一度注文を済ませてから、わたしはお手洗いで化粧直しをすることにした。
(クマ、やっぱり隠れてないわね)
鏡の前で丁寧にコンシーラーを重ねた。
戻ってみるとテラスの方がなんとなく騒がしかった。
「お兄さん、めっちゃタイプ! あーしとライン交換しよっ」
「いや、こんなギャルじゃなくてウチと交換せんか?」
「はっ? あんたもギャルじゃん!」
二人で言い合いを始めている。
「ぷっ、仲いいんですね」
「やった、ウケた!なんかお兄さん話しやすいね!」
「ねぇねぇ、ウチら普段ナンパせんのんやけど、ビビッときてん」
「そうそう、話してマジ確信〜! ホテル直行でもいいから、あーしらとあ〜そぼっ」
「タダマンだよ、タダマン!」
(……見てる場合じゃない。止めないと)
わたしが足を踏み出しかけた、その時。
「きみらさ――」
ふっと、空気の温度が下がった気がした。
割って入ろうとした足が止まる。
「……俺が悪いやつだったらどうすんの?」
「「……え?」」
「自分のこと、大事にしようよ」
「はっ?……何それ……ウチらに説教のつもり?」
「自分の価値を決めるのは自分……って勝海舟が言ってたし」
「アンタの言葉じゃないんかっ! てかだれやねんソイツ! あ〜もぉシラけるわぁ。モモ行こ!」
「……うん」
立ち去りかけたギャルの一人が、ふと足を止めて悠くんの方を振り返った。
「そのTシャツだっっっさ」
「……え」
言い捨てて、二人はそのままどこかへ消えていった。
◇
「ごめん、お待たせ」
「全然。ていうか、凜さんごめんなさい。変な感じになっちゃって」
「ううん」
わたしは席に座りながら、さっきの彼の言葉を頭の中で反芻していた。
自分の価値を決めるのは、自分。
(……そっか)
昨夜のことが頭をよぎった。
太ももに乗せられた手。耳元の息。笑顔を崩さずに受け流していた。
あれは、仕事だからと割り切っていた。
上客だから、取引先だから、耐えるのが当然だと思っていた。
でも、悠くんの言葉を借りるなら――
わたしは、自分に安い値段をつけていたのかもしれない。
山田に何を言われても、何をされても、笑って流す――それが大人の対応だと。
でも本当は、あの場から立ち去ってよかったのかもしれない。
宇田を先に帰したように、自分自身のことも、もっと大事にしてよかったのかもしれない。
目の前の悠くんは、メニューを眺めながら「このパンケーキおいしそうですね」なんて呑気なことを言っている。
この人は、たぶん無自覚だ。
さっきのギャルたちにかけた言葉も、きっと彼にとっては普通なんだと思う。
ただ本気で見ず知らずの誰かの価値を心配しているだけ。
(……ずるいなぁ)
わたしは、そんな彼の顔をこっそり見つめた。
(悠くんはわたしの価値まで、勝手に上げていってしまうんだから)
「凛さん、どうかしました?」
「……ううん。何でもない」
わたしは首を振って、メニューに視線を落とした。
頬が、少しだけ熱かった。
【あとがき】
彼女に言われたいランキングTOP3
3位:「バカ……」
2位:「ずるいなぁ……」
1位:「タダマンする?」
※自分調べ:友人に聞きました。決して僕の意見ではありません←ここ重要
あ、それと悠がどんなプリントシャツを着ていたかはX(旧ツイッター)で公開しています↓
https://x.com/yakkun_kakuyomu/status/2079700018827866376?s=20