その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――浅見 凛(あさみ りん)の視点――
「――今からホテルいこっか」
悠くんがさらりとそう言った。
「「「えっ」」」
その場にいた全員の声が、重なった。
関西弁の子は「マジで!?」と言わんばかりに、ぱあっと顔を輝かせている。
もう一人の子は、信じられないという目をして固まっていた。
そして、わたしは――頭が真っ白になった。
……悠くんが、そんなこと言うなんて。
あんなに優しくて、誠実で、他の男とは違うと思っていたのに。
結局、悠くんも若い女の子と遊び歩くような男だったんだ。
胸の奥がきゅっと痛んだ。
(悪魔:あーあ。やっぱり男なんてこんなもんよ)
(天使:い、いや、まだわからないわっ! 何か考えがあるのかもっ!)
(悪魔:ないわよ。男なんてみーんなそう)
(天使:ち、ちがうから、まだわからないからっ!)
(本人:……どの男も一緒なのね。そんな男のパンツを盗んで……わたし、何やってるんだろう……)
わたしは膝の上でスカートを握りしめ、俯いた。
「よっしゃ! ほんなら、すぐ近くのホテル予約――」
関西弁の子がスマホを取り出した瞬間――ぺちん、と乾いた音がした。
悠くんが、彼女のおでこを指で軽く弾いていた。
「っ……いたっ」
「冗談だよ」
悠くんはにこっと笑った。
「きみを一番大事にできるのは、きみ自身なんだから……そんなに自分を軽く扱っちゃだめだよ」
……冗談
(天使と悪魔と本人:よがっだーーーっ!!!)
スカートを握りしめていた指からふっと力が抜けた。くしゃくしゃになった皺を、わたしはそっと伸ばす。
(天使:ほらぁ! だから言ったじゃない!)
(悪魔と本人:……わたしは信じてたわよ……)
(天使:こいつら……。一瞬でも疑ったあなた達はしっかり反省しなさいっ!)
(悪魔と本人:はーいっ!)
関西弁の子を見ると、おでこを押さえたまま、ぽかんと悠くんを見上げている。
虚を突かれた子どもみたいに。
その隣で、もう一人の子の顔がすっと冷えていくのが見えた。
「……は? 男があーしらに説教? 男のくせに?」
地を這うような低い声。さっきまで固まっていた子と同じ人とは思えない。
悠くんは笑みを引っ込め、まっすぐに彼女を見た。
「……自分の価値を決めるのは自分……って勝海舟も言ってるよ」
……それ、たぶん勝海舟は言ってないと思う。
「カツカイシュー? 知らないし! 男のくせにあーしらに説教すんな! あ〜もぉ、イラつく……行こう、ナナミ!」
「……あ、うん。待ってや、モモ」
ナナミと呼ばれた子が、慌てて後を追う。
出口へ向かいかけたモモが、一度だけ足を止めて悠くんを振り返った。
「さっきから言おうと思ってたんだけどさ……そのTシャツ――」
「え?」と悠くんが目を瞬く。
「ダサいよ」
そう言い捨てると、二人はギターケースを背負い直し、テラスを出て、通りへ歩いていった。
「………」
悠くんが無言でTシャツの裾をつまみ、胸元の柄を見下ろしている。
ま、まずい。何か言わなきゃ。
「だ、大丈夫よ悠くん! そのTシャツ、デザインはダサいけど……素材とサイズ感はバッチリよっ!」
「……デザインが一番好きで、買ったんですけど」
「………」
沈黙がテーブルの上に重くのしかかる。
(悪魔:やっちゃったわね。慰めるどころか、トドメを刺したわね)
(天使:ま、まだ挽回できるわっ! なんでもいい、とにかく悠くんを褒めるのよっ!)
「……あっ! そ、そうだ! あのラインスタンプっ! 『ありがとう』と『とうもろこし』の、あれっ! あ、あれはセンスが光ってたわよっ!」
言ってしまってから場が凍った。
や、やっちゃった……。
(悪魔:あれ、どう見ても罰ゲームで買わされたやつでしょ。それを褒めるとか……)
(天使:さすがに、天使のわたしも擁護できない……かも)
(本人:……終わった。一時間以上待たせた挙句、トドメまで刺して……わたし、絶対嫌われた……)
わたしはそっと目を閉じた。
せめて、綺麗な思い出のまま終わらせて――
「そうなんですっ!!」
「……え?」
顔を上げると、悠くんの顔がぱあっと明るく輝いていた。
「『ありがとうもろこし』スタンプ、センスいいですよね! 気づいてくれる人、初めてですっ!」
(天使・悪魔:えぇぇぇ!?)
……よ、よしっ!
わたしはテーブルの下で、小さく拳を握った。
「実はあのスタンプ、シリーズで集めてるんですよ。『さよなら』と『ならづけ』のやつとか、『おめでとう』と『とうもろこし』のやつとか」
さっきまで肩を落としていたのが嘘みたいだ。
悠くんはまるで子どもみたいに目を輝かせ、身を乗り出して、指を折りながらお気に入りのスタンプを一つひとつ数えあげていく。
「あ、でも一番は、やっぱり『ありがとうもろこし』なんですよね。あのフォルムが絶妙で……」
……あぁ、かわいい。そして尊い……
さっきのギャルたちを静かに諭した、あの大人びた横顔と同じ人とは思えない。
スタンプの話をするだけで、こんなに嬉しそうな顔をする。
わたしは頬杖をついて、その顔をこっそり見つめた。
――自分を軽く扱っちゃだめ、か。
元カレに全部差し出していた頃のわたしに、聞かせてあげたい。
ちょうどその時、店員さんがパンケーキを二皿運んできた。
「わ、おいしそうですね」
悠くんはフォークを手に取って、呑気に目を輝かせている。
きっと彼にとっては普通のことなんだろう――普段の仕草も行動も、さっきのギャルにかけた言葉も。
なにより、自分を大事にしろと言いながら、自分のことはいつも後回しで、他人の心配ばかりしている彼。
……ずるいなぁ。
「凛さん、どうかしました?」
「……ううん。何でもない」
わたしはパンケーキに視線を落とした。頬が少しだけ熱かった。
その時――
「……あっ」
悠くんがフォークを持ったまま、通りの向こうを見て小さく声を上げた。
路地の向こうに、ギターケースを背負った二人の背中が消えていくところだった。
「あの二人……もしかして」
「悠くん?」
「あのギターケース……それにあの声……間違いない」
悠くんがフォークを置き、ガタッと席を立つ。
「ごめんなさい、凛さん。俺、ちょっとだけ席はずしますっ!」
そう言うと、悠くんは店を飛び出し、二人が消えた路地へと駆けていった。
「……え、ちょっと、悠くん!?」
一人、取り残されたわたし。
湯気の立つパンケーキが二皿、手付かずのまま並んでいる。
わたしは悠くんのお皿に、そっと紙ナプキンをかけた。
……一時間以上待たせた罰、かな。