その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
カフェレゼールの空気は、一夜にして一変していた。
発端は、本社からの一通の通達から。
曰く、鳳グループの理念と美学を体現する空間への刷新らしい。
店長は上からの指示に従い、あれこれと忙しそうに動いている。
そして、なぜか研修生であるはずの小鳥麗華さんが、ここ数日前から別人のように目を輝かせ、陣頭指揮を執り始めたのだ。
「ここにはこの壺を。照明の角度はこう。いいえ、もう五センチ左です。完璧な美とは、一センチの妥協も許しませんの」
(小鳥さんが仕切ってる……)
研修生の身でありながら、逆らうことを一切許さない気迫を感じる。
◇
――数日後
そうして店内は鳳グループの美学を凝縮したコンセプト・ラウンジへと変貌を遂げていた。
コーヒー飲む場所っていうより、これじゃ美術館のホールだな……
店の中央に設けられた特設展示スペースを仰ぎ見て、思わず乾いた笑いが漏れる。
中央には磨き抜かれた白い大理石の台座。
その上に鎮座しているのは――素人目に見ても高価なものだと直感させる――深みのある青磁の壺だった。
「結城くん、腰を抜かさないでくれよ。本社から直送された鳳家秘蔵の至宝だそうだ」
「へぇ。でも店長、なんでそんな高価なものをうちに?」
「さぁねぇ。上の考えていることはさっぱりだよ」
至宝と言われても、正直ピンと来ない。壺の相場なんて知らないし。
「ちなみにこれは?」
俺は人差し指と親指で輪っかを作り、いわゆるお金のジェスチャーで店長に聞いた。
「……三億」
「えぇ!?さ、三億!?」
「うん三億円……あとで柵でもしとこうね。今のままだとさすがに怖いよ……」
店長が震える声で言う。
「本物に触れる機会の提供――がコンセプトらしいよ。従業員の意識を高めて、客単価も上げたいんだと」
「はぁ……そうなんすか」
三億の壺で意識を高めろと言われても、正直、近寄りたくないという気持ちの方が勝つ。
「店長、やっぱり柵とか付けた方がいいんじゃないですか。お客さんが当たったりしたら」
「そうだねぇ。まぁ今日はもうお客来ないから明日にでもやろうか」
店長はそう言って、伝票の整理に戻ってしまった。
まぁ、そう慌てることでもないか。
そんな話をしていると、入口のドアが静かに開いた。
店内の空気が一瞬で引き締まるような気がした。
「鳳グループ、鳳麗華さまの専属秘書、九条 千尋(くじょう ちひろ)です」
「本日は、我が主(あるじ)の命により、展示品の譲渡と査察に参りました」
漆黒のロングボブが、白い肌の上にすとんと落ちている。
凛さんが頼れるお姉さんなら、この人はクールビューティーという雰囲気だった。
「壺は無事届いているようですね……それと――
あなたが結城悠ですね」
彼女の視線が、俺の顔から爪先まで、ゆっくりと一往復した。
値段のついていない何かを、慎重に見定めるような目つきだった。
「……せいぜい、この鳳の誇りを傷つけないよう、精進なさることです」
丁寧な敬語のはずなのに、どこか底冷えするような声色。
ぞわり、と首筋に寒気が走った。
(え……?なんで俺の名前を……)
それだけ言うと彼女は音もなく店内の隅へと移動した。
スカートから覗く足は、無駄なものを削ぎ落としたように引き締まっている。
名前を知られていたこと、値踏みするような一瞥、そして何事もなかったように立ち去るあの足音のなさ。
怖いというより、うまく説明のつかない感覚。
「……ね、小鳥さん」
俺は隣でメニューを整理していた研修生の彼女に思わず声をかけた。
「なんですの?」
「今の人、なんか、俺の名前知ってたんだけど」
「……さぁ、存じませんわ」
彼女は眼鏡を押し上げ、手元のメニューから目を離さないまま答える。
「うちのオーナーの鳳麗華ってどんな人なんだろうね。そういえば――小鳥さんと同じ名前だね」
ピクッ
彼女の肩が少しだけ跳ねた。
「……ええ、そうですの。親が――鳳麗華様のようにと名付けてくださいましたのよ!」
となると、ご両親が二十歳の時に生んだとしても鳳麗華は相応の年齢ということになる。
きっと良い歳の御婦人なんだろう。
ふと小鳥さんの方を見ると、彼女はあまり深掘りして欲しくなさそうな感じを出している。
きっと名前のことで俺には分からない苦労も多いんだろう。
「同じ名前だと大変だね」
「ええ……わたくしも麗華様に名前負けしないように必死ですの。親の思いを背負いに背負って、もう背中が曲がりそうなくらいですのよ」
彼女を見ると、その背筋は天に向かって真っ直ぐに伸びていた。
「でもさ……お嬢様ってやっぱり違うね」
「……どういう意味ですの?」
「だって三億円の壺をカフェに置こうなんて普通は考えないよ。感覚がイカれてるんじゃないかって思うよ」
「イカれてる!?」
「ちょっとバグってるっていうかさ」
「バグ……!?」
「たぶん四十くらいのおばさんだと思うんだよね」
「オ、 オバさん――!?」
気づくとふぅーふぅーと肩で息をしている彼女。
「小鳥さん、大丈夫? やっぱりエアコン効きすぎてる?」
「な、なんでもありませんのよ……!」
「でもさ――本物に触れることに価値があるっていう考えは、俺にはなかったからさ。写真とか本物っぽい複製で十分だと思ってたし」
「……」
「本物がそこにあるから背筋が伸びるっていうのは――なるほどなって。こんな環境をポンと用意できる実行力とか――やっぱり鳳麗華ってすごいな」
少し間があった後、
「…………」
彼女の口角は少し上がっていた。
◇
カフェの入口には、準備中の木札がかかっている。
「店長、昨日の柵の件、やっぱり今日のうちにやりませんか」
「あぁ、そうだったね。ちょっと倉庫に何かないか見てくるよ」
店長がバックヤードの扉の向こうへ消えていく。
店内に残ったのは、俺と、隅で書類を検めている九条さんと、レジ横の小鳥さんだけになった。
カランッ、と入口のドアが開いた。
「あれ、お客様すいません、今はまだ……」
俺は慌てて振り返った。
杖をついた老婆が、おぼつかない足取りで店内に入ってくるところだった。
――鍵、閉まってなかったっけ。
そんな疑問が頭をよぎったが、それどころではなくなった。
「こりゃあ、良いツボだねぇ」
老婆はこちらの声など聞こえていないかのように、見た目より早い速度で展示スペースへと歩みを進めた。
(まずい!)
俺はカウンターを回り込み、老婆のもとへ駆け寄った。
あと三歩。手を伸ばせば届く。
その瞬間だった。
「ありゃっ」
台座の角に杖を引っ掛けた老婆が、青磁の壺に向かって大きくバランスを崩した。
俺は反射的に正面から老婆の体を支えに入った。
老婆を抱きかかえる形になった俺の背中に、壺のある台座がある。
その時、老婆の体から、老婆とは思えないほどの力が、ぐっと前に押してくる感触があった。
そのまま台座に背中がぶつかり、衝撃で壺が揺れ、台座からずり落ちていく。
(やばい!)
片腕を思いきり伸ばす。ギリギリ間に合う、そう思った瞬間。
カンッ。
老婆の杖が、俺の手を弾いた。
ガシャァァァァン!!!
「ありゃあ〜。こりゃあ、どっちが悪いんかのぉ」
老婆がのんきな声を上げた。
床に散らばった青磁の破片をただ呆然と見つめる。
その時、店の隅から静かに歩み出る人影があった。
「一部始終、拝見いたしました」
九条さんだった。
「老婆の方がそのまま倒れていたとしても、角度と体重から計算すれば、壺が倒れることはなかったでしょう」
「……つまり、俺が余計なことをしたってことですか」
「そのとおりです」
「でも……保険とか、そういうのはありますよね」
「社員ではないあなたに、そのようなものはありません」
バッサリと言われた。
「そんな……」
俺はつい先ほどの出来事を思い出す。
「いや、待ってください。最初におばあさんを受け止めた時、急にぐっと前に押されたんです!お婆さんとは思えない力で――腕を伸ばした時も今度は杖で手を弾かれて――」
言いながら周りの視線に気付いた。
まるで――言い訳をして他人に罪をなすりつけようとしている――とでも言いたげな視線が降り注ぐ。
「……結城くん」
店長が、心配そうな声で俺の名前を呼んだ。
それ以上は何も言わなかった。その沈黙が余計に痛かった。
「まぁ……なんて、お可哀想……」
小鳥さんも声をかけてくれる。
ただ、その声はどこか途中で行き場をなくしたようで、彼女は俺と目を合わせようとしなかった。
俺はそれ以上何も言えなくなって、床に散らばった青磁の破片を呆然と見つめ続けた。
九条さんがカツカツとヒールを鳴らしながら、俺の真横まで歩み寄ってきた。
耳元で、低く静かな声が降ってきた。
「……署名なさい」
「……え」
「それが、あなたにとって一番早く終わる方法です」
意味がまるで分からなかった。
顔を上げると、九条さんはもう身を引いていて視線が一瞬だけ交わった。
その目に何が浮かんでいたのか、俺には読み取れなかった。
そこから先の記憶はぼんやりとしている。