その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
マンションに戻り、ようやく一人になった。
あれからどうやって帰ってきたのか、正直あまり覚えていない。
店長が「今日はもう帰りなさい」と言ってくれた気がする。バイトも当分休みにする、とかなんとか。
手のひらに残っているのは、自分の署名が入った二枚の控えの紙。
一枚目は、三億円の壺の破損について、俺の過失であることを認める誓約書。
二枚目は、鳳家がその負債を立て替える代わりに、鳳麗華の専属執事として仕えるという契約書。
三億。個人の想像を絶する数字。サラリーマンが一生かけても稼げるかどうか分からない額。
それを、気前よく立て替えてくれたオーナーの鳳麗華。
(……助かった、んだよな。たぶん)
そう思おうとして、うまく心がついてこない。
あの秘書――九条さんが、耳元で言ったひとこと。
『署名なさい。それが、あなたにとって一番早く終わる方法です』
(……終わる、って。何が終わるんだ)
ソファに腰を下ろす。指先がまだ、少し震えている。
さっきはパニックで内容をろくに確認できなかった。
……今のうちに、ちゃんと読んでおこう。
一行目、二行目、……三行目、…………四行目。
まず目に入ったのは、意外にも悪くない条件だった。
――住み込みにて、衣食住の一切を主人が保障する。
(住む場所も食事も向こう持ち……? 最悪を覚悟してたけど、案外まともなのか)
少しだけ、肩の力が抜ける。
――館内の設備は、執事もこれを自由に利用してよい。
(この規模の別館の設備が使い放題……?)
――給与は、鳳家の使用人規定に準じ、これを支給する。
(しかも給料も出るのか。むしろ待遇いいくらいじゃ……)
最悪を覚悟していたぶん拍子抜けするほどだった。
だが、指が次の行に進んだ瞬間その安堵は凍りついた。
――外出および外部との連絡の制限。
私用の外出、電話、通信機器の使用は、すべて主人の許可を要する。無断の外部接触は契約違反とみなす。
(……外にも出られない。連絡も、いちいち許可がいる)
さっき喜んだ「設備が使い放題」の意味が、じわりと形を変えていく。
(館の中に何でもあるのは、外に出さないためじゃ……)
これは快適さじゃない。囲い込みだ。
――契約の解除には、三億円の負債全額の返済を要すること。
執事を辞める場合、鳳家が立て替えた三億円は即時、結城悠本人に帰属する。
(辞めたら、三億が丸ごと俺に戻ってくる……)
喉が渇いていく。
――給与は、主人が定める額をもって負債の返済に充当する。
一見、まっとうに見える。働いた分が借金に消えていくだけ、とも読める。
でも、返済に回す額を決めるのは、あくまで向こうだ。
さっき「ちゃんと出る」と喜んだ給料が、頭の中で音を立てて崩れていく。
主人がその額を月に一円と定めれば、三億円は、気の遠くなる年月をかけてもまるで減らない。
(……働いても働いても、返し終わらないのか)
そこまで読んで、ようやく分かった。
住み込みも、使い放題の設備も、支給される給与も。
最初に「悪くない」と思った条件は、何ひとつ俺のためのものじゃなかった。
金も、自由も、外との繋がりも奪ったうえで、不自由なく生かしておくため。
逃げ出さないように、飼うためだ。
言葉を選んで書いてあるだけで、頭に浮かぶのはろくでもない単語ばかりだ。
監禁。収容所。強制労働。
どの言葉も、しっくりきてしまう。
(こんなの、家畜と一緒じゃんか……)
(……最初に安心させられたぶんが、一番おそろしかったな)
契約書の控えを、そっとテーブルに置いた。
その時、窓の外から音が聞こえてきた。
最初は遠かった。でも、だんだんと近づいてくる。
『皆さん、ともに日本を守りましょう! 日本を守れるのは日本人だけ……』
(……選挙か。俺には関係ない……)
選挙カーの演説はそれでも構わず続いている。
『法のもとにすべての国民は平等であり、いかなる権力も法律の上に立つことは許されません! 私はこの民主主義の精神を守るために……』
俺はゆっくりと顔を上げた。
(……そうだ……そうだよ)
ここは日本だ。
ここは、前にいた世界とは少し違う。
でも――
それでも民主主義の法治国家である日本だ。
弁護士がいる。裁判所もある。警察がいる。
鳳がどれだけ大きくても、法律より上に立てるはずがない。
なんとかしてもらえる人間が、どこかにいるはず。
そういえば、あの秘書は言っていた。
三日以内に鳳家別館へ来い、と。
(……まだ、三日ある)
逆に言えば、三日しかない。
俺は契約書の控えを掴んで立ち上がり、ジャケットを羽織った。
選挙カーの演説は、もう遠ざかっていた。
◇
最初に向かったのは、駅前の大きな法律事務所。
ガラス張りの豪華なエントランス。清潔感あふれるスーツを着た受付の女性。
ここなら、きっと助けてもらえるだろう。
ふぅ…なんか少しだけ落ち着いてきた……
「すいません、ちょっと相談があるんですけど……」
「はい、担当の者をお呼びしますので。番号札の4番をお持ちになって、そちらにおかけになってお待ちください」
……四番か。
受付の向かいの椅子に腰を下ろし、待つこと十分ほど。
「番号札四番でお待ちのお客様、九番のお部屋までお願いいたします」
思わず不吉だと考えかけてやめる。
俺は立ち上がり、九と書いてある部屋のドアを開けた。
広くて清潔な個室。ふかふかのソファ。窓からは夕暮れの都会が見える。
しばらくして、四十代半ばくらいの男性が入ってきた。
「はじめまして。中津原と申します」
にこやかに手を差し伸べてくる。
ガシッ。
おぉ。なんか頼もしいな。
「ではさっそく、話を聞かせていただきましょう」
俺は話し始めた。老婆を庇ったこと。三億円。気づいたらサインしていた奴隷同然の契約のこと。
「それは大変でしたね」
中津原さんが深く頷く。
「でも大丈夫ですよ。私にまかせてください」
「ほんとですか!……なんとかなりそうですか!」
「もちろんですよ。こんな理不尽がまかり通るわけないじゃないですか。こういうときのための弁護士ですから」
ニコッと笑う中津原さん。
(よかった……中津原さん――あなたマジ神です)
「一応、契約書の控えをお持ちみたいですね。拝見いたし、ま……」
中津原さんの声が、途切れた。
部屋が急に静かになる。
「どうかされましたか」
「……申し訳ございません」
急に口調が丁寧になった彼。
「うちで扱える案件ではございません」
「……え」
嫌な予感が背中を這い上がってくる。
「さっき、なんとかなるって言ってませんでした?お金なら何とか――」
「今、手いっぱいでして」
俺の言葉を遮るように中津原さんは言った。
「……こういうときのための弁護士だって、さっき言ってたと思うんですけどっ」
気づいたら大きな声が出ていた。
「……あえて、はっきり申し上げます」
中津原さんが目を伏せた。
「この契約書の相手が鳳であれば、この国に君を救える弁護士はいない。……お引き取りを」
「……っ。そこをなんとかお願いします」
深々と頭を下げる。
「……お引き取りを」
「……は…ぃ」
彼との会話はそこで終わった。
◇
二件目の事務所では、応接室に通してもらえただけまだよかった。
「鳳は触らぬ神だよ」
白髪の女性弁護士が、眼鏡を外しこめかみを揉みながら言う。
「でも、日本には法律が……」
「その法をつくるのが鳳なんだよ」
白髪の弁護士は契約書をこちらへ押し返した。
「この契約書、どこにも穴がない。作った人間が、そうとうに頭が切れる。……悪いことは言わん、帰りなさい」
三件目は受付で契約書の控えを見せた瞬間、何も言わずに首を横に振られた。
それならと近くの交番に入ってみた。
「相手が鳳ならあきらめな。今後は気をつけることだな。ほんと、ご苦労さま」
俺は足早に交番を出た。
(ご苦労さま、か。……こんなことで人を恨みたくなるなんて、俺も相当まいってるな)
◇
……どうしよう。
気づいたら細い路地を歩いていた。
人通りのない暗い通り。ビルとビルの間の隙間を縫うような道。
空を見上げるともう星が出ていた。
――ピコン。
スマホが鳴った。バイト仲間の真鍋さんからのラインだった。
『悠くん、大丈夫? 出勤してみたら、もう帰ったって聞いて……』
画面の文字が、やけに優しく見えた。
こんな状況でも心配してくれる人がいる。
『実は、展示品を壊しちゃって。その責任をとることになりました』
少し迷って、指を動かす。
『僕だけの責任じゃない気もするんですけど……なんでですかね』
送信してから、情けない愚痴だったかな、と思う。
でも、どこかに吐き出さずにはいられなかった。
――ピコン。
返ってきたのは、一件のマップのリンクだった。
『うちの知り合いの弁護士さん。力になってくれるかも』
(弁護士……)
もう、期待するのも怖い。今日一日で、何度突き放されたか分からない。
それでも、藁にもすがる思いで、リンクをタップした。
地図が開く。ピンの立った場所。
……あれ。
顔を上げる。
目の前に、古びた二階建てのコンクリートビルがあった。ピンが指しているのは、その二階だ。
看板を照らすはずの照明が、不機嫌な様子でついたり消えたりを繰り返している。
チカッ。チカッ。
やがて照明が機嫌を直したように、ふっと安定して灯った。
その明かりの中に、看板の文字が浮かび上がる。
――如月(きさらぎ)法律事務所
(……ここだ)
真鍋さんが送ってくれた場所。今日、初めて誰かに差し伸べられた優しさ。
それが、こんな場末のビルの二階でも構わない。
俺は縋るような足取りで階段を上がり、立て付けの悪いドアに手をかけた。
「……まだ、やってますか?」