その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――モモ 視点――
「え、今の人こわっ」
「めっちゃ睨んできたやん……」
女の人はそのまま走っていって――電柱辺りで待っている男の前で止まった。
「……ってあの女かいっ!」
ナナミがテーブルを叩いた。グラスの氷がからんと鳴る。
「男を一時間も待たせて、うちらにもガン飛ばして、どういう神経しとんねん!」
「男の方も見る目ないねー」
「さっきの鬼の形相を彼氏の方に見せたいわっ! 見せたら速攻で女の方はフラれるで」
「だねー」
「そんで傷ついた彼氏さんに、うちが声をかける。そこから生まれるフォーリンラブ……」
「はいはい、早くこっちの世界にかえってこーい」
二人が並んで歩き出した。男はケージを持ったまま、女の人の歩幅に合わせてゆっくり歩いていく。
「……え、男が荷物持ち……」
そして、彼の背中が見えた瞬間、ストローから口が離れた。
でかでかとしたプリント。
……なにあれ、ダサっ。
ナナミはというと、男の背中が見えなくなるまでずっと手すりから身を乗り出していた。
◇
それから、一時間ちょっと。
「なぁ、もうちょいおらへん?」
「もう三杯目だよー。お腹ちゃぷちゃぷなんだけどー」
「あの人、戻ってくるかもしれんやん」
「戻ってこないって」
そう言った、まさにその時だった。
「……モモ」
ナナミの声が一段高くなった。
テラスの入り口からさっきの二人が入ってくる。男の手には、もうケージはない。
二人が座る席は――よりによって、あーしらの二つ隣のテーブルだった。
「ほらぁ! 戻ってきたやん! 運命や!」
「声でかいってー」
女の人がこっちに気づいて一瞬だけ目を細めた。
……やっぱこわー
ナナミは男のほうばっかりチラチラ見ている――いや、チラチラどころじゃない。
「ガン見やめろってw」
しばらくして、注文を済ませた女の人がバッグを持って席を立った。店の奥、お手洗いの方へ消えていく。
男が一人になる。
ナナミの「待ち」が限界を迎えた。
「……よし。うち、ちょっと話しかけてくるわ」
「え、まじで言ってる? 連れの人、すぐ戻ってくるよ?」
「せやから今しかないんやろ! あんないい男、放っとく手ぇないやん!」
止める間もなかった。ナナミはグラスを置くと、つかつかとあの男のテーブルへ歩いていった。
「お兄さん、めっちゃタイプやねんけど! うちとライン交換しませんかっ」
あーあ。始まった。ため息をひとつついて、席を立った。
あの怖い女の人が戻ってくる前にナナミを回収しないと。
◇
結局、ナナミは男に説教をくらった。
おでこを押さえて、なぜか嬉しそうにしてたけど。
ナナミの手首をつかんで、テラスを出た。大通りから、一本路地に入る。
二人とも、ギターケースのベルトを握りしめたまま歩いた。
足元の小石を蹴る。小石は跳ねて室外機に当たり、かつん、と鳴った。
もう一つ蹴る。今度は空振りした。
「……モモ、怒っとるの?」
「別に」
三つ目の小石を探して、地面を見ながら歩く。
「男のくせに、とか言うてたもんな」
「言ってない」
「言うてたで。めっちゃドスが効いた声で。やっぱ前の彼氏のこと――」
小石を蹴る代わりに、ナナミを見た。
「それ以上言ったら、ナナミでも怒るよ」
「ごめん……モモ。そ、それよりもさっきさ――」
ナナミはさっきから、ずっとおでこを押さえていた。指の隙間から、弾かれた跡がほんのり赤く覗いている。
「……ぺちん、やって」
「は?」
「男の人に、おでこ、ぺちんってされてもうた。うち、生まれて初めてや……」
ナナミはおでこから手を離して、その手のひらをじっと見つめた。それから、もう一度おでこに当てた。
「ナナミ、あーしら説教されたんだよ――あんな上から目線で。どうせアイツも口だけのクソ野郎だよ」
「せやな。叱られてもうた……えへへ……」
だめだ……全然聞いてない。
「えへへじゃないってー」
ナナミの手首をつかんで、おでこから引きはがした。
手を離すと、ナナミの手はまたふらふらとおでこに戻っていった。
ため息をついて、ナナミのギターケースのベルトも一緒に握った。
引っぱって歩く。
「あのっ!」
背中に声がぶつかった。
振り返ると――
路地の入り口に、さっきの男が立っていた。膝に手をついて肩で息をしている。額に汗が光っていた。
「あっ、さっきのおにーさん……♡」
隣から一オクターブ高い声がした。ナナミの手が、またおでこに伸びる。
あーしはナナミのベルトを離し、半歩前に出た。腕を横に伸ばして、ナナミの前をふさぐ。
「……なに、お兄さん。あーしらに文句でも言いに来たの? もう放っといて――」
男は答えずに、膝から手を離してまっすぐ立った。
さっきの「ダサい」の慰謝料……いや、「男のくせに」って言ったから、男性差別で通報?
男に訴えられたら、女に勝ち目なんてない。
伸ばした腕は、下ろさなかった。
でも、指先がどんどん冷たくなっていく。
後ろでナナミが、パーカーの裾をきゅっとつかんだ。
「じつは……」
男が肩にかけたカバンに手を突っ込んだ。
ごそごそと、中を探っている。
防犯ブザーか、男性保護の通報アプリか、それか弁護士の名刺かも……
奥歯を噛んで、男の手元から目を離さなかった。
「……これ」
カバンから出てきたのは、一枚のCDと、黒いマジックペンだった。
「「えっ」」
百均のケース。コンビニでカラーコピーしたジャケット。
ど真ん中にナナミの極太の筆文字。
『男なんてクソくらえ!』
カッターで切ったジャケットの端は、少しだけ斜めにずれていた。
あーしが切ったやつだ。
男はそれを両手で持ち、こっちに差し出した――賞状を渡すみたいに。
「ファンです! サインをください!」
「「…………はぁ!?」」
ナナミの手がおでこから落ちた。伸ばしていた腕も、だらんと下がった。
男はあーしの方を見て言った。
「さっきお店で声を聞いて、あれ?って思って。……ライブの時と声が同じだったから」
開いた口が、塞がらなかった。
彼は深く頭を下げ、顔を上げると少しだけ目をそらして頬をかいた。
「あと、さっきは失礼なこと言ってすみません。冗談でも、言っていいことじゃなかったなって」
男が謝る?
「それで……その、嫌じゃなかったら、握手も」
男から握手???
「「…………」」
路地の室外機のブーンという音だけが響く。
男の顔から目をそらした。
視線が下に落ちる。
――真っ白なスニーカー。
耳の奥で、チャリンと五百円玉が鳴った。
男の手の中のCDを見る。
ワゴンから一枚だけ減っていたやつだ。
顔を上げる。男はまだ待っていた。
ギターケースのベルトをつかんでは離す。
一歩下がろうとして、かかとが室外機の脚にぶつかった。
もう下がれなかった。
自然と――右手が少しだけ前に出た。
男の顔がぱっと明るくなった。
男は慌ててCDを脇に挟むと、その手を――両手で包んだ。
「ありがとうございますっ!」
ぎゅっ。
力いっぱい握られた。
室外機の音が急に遠くなった。
「あーっ! ずるいっ! モモだけずるいっ!」
ナナミが叫んで肩を揺すった。
男がゆっくり手を離す。右手は差し出しかけた形のまま宙に残った。
しばらくして、指が一本ずつ内側に折れていった。
最後に、ぎゅっと閉じる。
「お兄さん、サインやったらうちが先や!」
ナナミが男の脇からCDを引き抜いた。マジックのキャップを歯でくわえて、ぽんと抜く。
「宛名どうする? お名前は?」
「あ、悠です。結城悠」
「ゆうくん、な」
ナナミは鼻歌まじりにペンを走らせた。
ジャケットの右上、『クソくらえ!』のすぐ横に、でかでかと。
『悠くんへ ナナミ♡』
「ハートはいらないでしょ」
「いるやろ! ファンサや!」
ナナミがCDとマジックを、こっちに突き出した。
「ほら、モモの番」
あーしは、左手でマジックを受け取った。
「……なんで左やねん」
「右、疲れてんの」
「握手しかしてへんやん」
答えずにCDを手のひらに乗せる。
ジャケットの左下、空いているところにペン先を置いた。
左手で書いた『モモ』は、ミミズが二匹這ったみたいにがたがただった。
最後の「モ」の横棒が、ジャケットの端まで滑っていった。
「うわ、ヘッタクソ……」
ナナミが覗きこんで、ぷっと吹き出した。
CDを、男の胸に押しつけた。
「……はい」
男は両手でCDを受け取って、ジャケットをじっと見下ろした。
がたがたの『モモ』を親指でそっとなぞる。
「ありがとうございます。……大事にします」
男はCDを胸に抱えたまま、深く頭を下げた。
それから、はっと顔を上げる。
「あっ、凛さん待たせてる……! すみません、失礼しますっ!」
男はもう一度頭を下げると、来た道を走っていった。
白いスニーカーが、路地の角を曲がって見えなくなる。
その角をしばらく見ていた。
「なぁ、モモ」
ナナミが、にやにやしながら顔をのぞきこんできた。
「男なんてクソくらえ、ちゃうの?」
左手でナナミのおでこを弾いた。
ぺちん。
「いったぁ! なにすんねん!」
「今でもクソだって思ってるよー」
握ったままの右手を、パーカーのポケットに突っこんだ。
ポケットの中でも、指は開かなかった。