その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果――   作:やっくん。

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23話 この男、落胆につき

 マンションに戻り、ようやく一人になった。

 

 あれからどうやって帰ってきたのか、正直あまり覚えていない。

 

 店長が「今日はもう帰りなさい」と言ってくれた気がする。バイトも当分休みにする、とかなんとか。

 

 手のひらに残っているのは、自分の署名が入った二枚の控えの紙。

 

 一枚目は、三億円の壺の破損について、俺の過失であることを認める誓約書。

 

 二枚目は、鳳家がその負債を立て替える代わりに、鳳麗華の専属執事として仕えるという契約書。

 

 三億。個人の想像を絶する数字。サラリーマンが一生かけても稼げるかどうか分からない額。

 

 それを、気前よく立て替えてくれたオーナーの鳳麗華。

 

(……助かった、んだよな。たぶん)

 

 そう思おうとして、うまく心がついてこない。

 

 あの秘書――九条さんが、耳元で言ったひとこと。

 

 『署名なさい。それが、あなたにとって一番早く終わる方法です』

 

(……終わる、って。何が終わるんだ)

 

 ソファに腰を下ろす。指先がまだ、少し震えている。

 

 さっきはパニックで内容をろくに確認できなかった。

 

 ……今のうちに、ちゃんと読んでおこう。

 

 一行目、二行目、……三行目、…………四行目。

 

 まず目に入ったのは、意外にも悪くない条件だった。

 

 ――住み込みにて、衣食住の一切を主人が保障する。

 

(住む場所も食事も向こう持ち……? 最悪を覚悟してたけど、案外まともなのか)

 

 少しだけ、肩の力が抜ける。

 

 ――館内の設備は、執事もこれを自由に利用してよい。

 

(この規模の別館の設備が使い放題……?)

 

 ――給与は、鳳家の使用人規定に準じ、これを支給する。

 

(しかも給料も出るのか。むしろ待遇いいくらいじゃ……)

 

 最悪を覚悟していたぶん拍子抜けするほどだった。

 

 だが、指が次の行に進んだ瞬間その安堵は凍りついた。

 

 

 ――外出および外部との連絡の制限。

 

 私用の外出、電話、通信機器の使用は、すべて主人の許可を要する。無断の外部接触は契約違反とみなす。

 

(……外にも出られない。連絡も、いちいち許可がいる)

 

 さっき喜んだ「設備が使い放題」の意味が、じわりと形を変えていく。

 

(館の中に何でもあるのは、外に出さないためじゃ……)

 

 これは快適さじゃない。囲い込みだ。

 

 

 ――契約の解除には、三億円の負債全額の返済を要すること。

 

 執事を辞める場合、鳳家が立て替えた三億円は即時、結城悠本人に帰属する。

 

(辞めたら、三億が丸ごと俺に戻ってくる……)

 

 喉が渇いていく。

 

 

 ――給与は、主人が定める額をもって負債の返済に充当する。

 

 一見、まっとうに見える。働いた分が借金に消えていくだけ、とも読める。

 

 でも、返済に回す額を決めるのは、あくまで向こうだ。

 

 さっき「ちゃんと出る」と喜んだ給料が、頭の中で音を立てて崩れていく。

 

 主人がその額を月に一円と定めれば、三億円は、気の遠くなる年月をかけてもまるで減らない。

 

(……働いても働いても、返し終わらないのか)

 

 そこまで読んで、ようやく分かった。

 

 住み込みも、使い放題の設備も、支給される給与も。

 

 最初に「悪くない」と思った条件は、何ひとつ俺のためのものじゃなかった。

 

 金も、自由も、外との繋がりも奪ったうえで、不自由なく生かしておくため。

 

 逃げ出さないように、飼うためだ。

 

 言葉を選んで書いてあるだけで、頭に浮かぶのはろくでもない単語ばかりだ。

 

 監禁。収容所。強制労働。

 

 どの言葉も、しっくりきてしまう。

 

(こんなの、家畜と一緒じゃんか……)

 

(……最初に安心させられたぶんが、一番おそろしかったな)

 

 契約書の控えを、そっとテーブルに置いた。

 

 その時、窓の外から音が聞こえてきた。

 

 最初は遠かった。でも、だんだんと近づいてくる。

 

『皆さん、ともに日本を守りましょう! 日本を守れるのは日本人だけ……』

 

(……選挙か。俺には関係ない……)

 

 選挙カーの演説はそれでも構わず続いている。

 

『法のもとにすべての国民は平等であり、いかなる権力も法律の上に立つことは許されません! 私はこの民主主義の精神を守るために……』

 

 俺はゆっくりと顔を上げた。

 

(……そうだ……そうだよ)

 

 ここは日本だ。

 

 ここは、前にいた世界とは少し違う。

 

 でも――

 

 それでも民主主義の法治国家である日本だ。

 

 弁護士がいる。裁判所もある。警察がいる。

 

 鳳がどれだけ大きくても、法律より上に立てるはずがない。

 

 なんとかしてもらえる人間が、どこかにいるはず。

 

 そういえば、あの秘書は言っていた。

 

 三日以内に鳳家別館へ来い、と。

 

(……まだ、三日ある)

 

 逆に言えば、三日しかない。

 

 俺は契約書の控えを掴んで立ち上がり、ジャケットを羽織った。

 

 選挙カーの演説は、もう遠ざかっていた。

 

 

 最初に向かったのは、駅前の大きな法律事務所。

 

 ガラス張りの豪華なエントランス。清潔感あふれるスーツを着た受付の女性。

 

 ここなら、きっと助けてもらえるだろう。

 

 ふぅ…なんか少しだけ落ち着いてきた……

 

「すいません、ちょっと相談があるんですけど……」

 

「はい、担当の者をお呼びしますので。番号札の4番をお持ちになって、そちらにおかけになってお待ちください」

 

 ……四番か。

 

 受付の向かいの椅子に腰を下ろし、待つこと十分ほど。

 

「番号札四番でお待ちのお客様、九番のお部屋までお願いいたします」

 

 思わず不吉だと考えかけてやめる。

 

 俺は立ち上がり、九と書いてある部屋のドアを開けた。

 

 広くて清潔な個室。ふかふかのソファ。窓からは夕暮れの都会が見える。

 

 しばらくして、四十代半ばくらいの男性が入ってきた。

 

「はじめまして。中津原と申します」

 

 にこやかに手を差し伸べてくる。

 

 ガシッ。

 

 おぉ。なんか頼もしいな。

 

「ではさっそく、話を聞かせていただきましょう」

 

 俺は話し始めた。老婆を庇ったこと。三億円。気づいたらサインしていた奴隷同然の契約のこと。

 

「それは大変でしたね」

 

 中津原さんが深く頷く。

 

「でも大丈夫ですよ。私にまかせてください」

 

「ほんとですか!……なんとかなりそうですか!」

 

「もちろんですよ。こんな理不尽がまかり通るわけないじゃないですか。こういうときのための弁護士ですから」

 

 ニコッと笑う中津原さん。

 

(よかった……中津原さん――あなたマジ神です)

 

「一応、契約書の控えをお持ちみたいですね。拝見いたし、ま……」

 

 中津原さんの声が、途切れた。

 

 部屋が急に静かになる。

 

「どうかされましたか」

 

「……申し訳ございません」

 

 急に口調が丁寧になった彼。

 

「うちで扱える案件ではございません」

 

 

 

「……え」

 

 嫌な予感が背中を這い上がってくる。

 

「さっき、なんとかなるって言ってませんでした?お金なら何とか――」

 

「今、手いっぱいでして」

 

 俺の言葉を遮るように中津原さんは言った。

 

「……こういうときのための弁護士だって、さっき言ってたと思うんですけどっ」

 

 気づいたら大きな声が出ていた。

 

「……あえて、はっきり申し上げます」

 

 中津原さんが目を伏せた。

 

「この契約書の相手が鳳であれば、この国に君を救える弁護士はいない。……お引き取りを」

 

「……っ。そこをなんとかお願いします」

 

 深々と頭を下げる。

 

「……お引き取りを」

 

「……は…ぃ」

 

 彼との会話はそこで終わった。

 

 

 二件目の事務所では、応接室に通してもらえただけまだよかった。

 

「鳳は触らぬ神だよ」

 

 白髪の女性弁護士が、眼鏡を外しこめかみを揉みながら言う。

 

「でも、日本には法律が……」

 

「その法をつくるのが鳳なんだよ」

 

 白髪の弁護士は契約書をこちらへ押し返した。

 

「この契約書、どこにも穴がない。作った人間が、そうとうに頭が切れる。……悪いことは言わん、帰りなさい」

 

 三件目は受付で契約書の控えを見せた瞬間、何も言わずに首を横に振られた。

 

 それならと近くの交番に入ってみた。

 

「相手が鳳ならあきらめな。今後は気をつけることだな。ほんと、ご苦労さま」

 

 俺は足早に交番を出た。

 

(ご苦労さま、か。……こんなことで人を恨みたくなるなんて、俺も相当まいってるな)

 

 

 ……どうしよう。

 

 気づいたら細い路地を歩いていた。

 

 人通りのない暗い通り。ビルとビルの間の隙間を縫うような道。

 

 空を見上げるともう星が出ていた。

 

 ――ピコン。

 

 スマホが鳴った。バイト仲間の真鍋さんからのラインだった。

 

『悠くん、大丈夫? 出勤してみたら、もう帰ったって聞いて……』

 

 画面の文字が、やけに優しく見えた。

 

 こんな状況でも心配してくれる人がいる。

 

『実は、展示品を壊しちゃって。その責任をとることになりました』

 

 少し迷って、指を動かす。

 

『僕だけの責任じゃない気もするんですけど……なんでですかね』

 

 送信してから、情けない愚痴だったかな、と思う。

 

 でも、どこかに吐き出さずにはいられなかった。

 

 ――ピコン。

 

 返ってきたのは、一件のマップのリンクだった。

 

『うちの知り合いの弁護士さん。力になってくれるかも』

 

(弁護士……)

 

 もう、期待するのも怖い。今日一日で、何度突き放されたか分からない。

 

 それでも、藁にもすがる思いで、リンクをタップした。

 

 地図が開く。ピンの立った場所。

 

 ……あれ。

 

 顔を上げる。

 

 目の前に、古びた二階建てのコンクリートビルがあった。ピンが指しているのは、その二階だ。

 

 看板を照らすはずの照明が、不機嫌な様子でついたり消えたりを繰り返している。

 

 チカッ。チカッ。

 

 やがて照明が機嫌を直したように、ふっと安定して灯った。

 

 その明かりの中に、看板の文字が浮かび上がる。

 

 ――如月(きさらぎ)法律事務所

 

(……ここだ)

 

 真鍋さんが送ってくれた場所。今日、初めて誰かに差し伸べられた優しさ。

 

 それが、こんな場末のビルの二階でも構わない。

 

 俺は縋るような足取りで階段を上がり、立て付けの悪いドアに手をかけた。

 

「……まだ、やってますか?」

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