その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――如月 雫(きさらぎ しずく)視点――
物心ついた頃から、ずっと疑問に思っていた。
なんで男と女は、平等じゃないんだろう。同じ人間なのに。
きっかけは、幼い頃に流行っていた「逆転の弁護ザムライ」という時代劇だった。
主人公の弁護ザムライが、ここぞという場面でビッと人差し指を突き立てて言うのだ。
「待たれよ! 異議ありでござる!」
そして、事件が解決したあとには、決まって刀を鞘に納めながらこう呟く。
「またつまらぬ悪を……斬ってしまった」
毎週それを見ては、私はテレビの前で同じように人差し指を突き立てた。
(かっこいい……わたしも、ああなりたい)
子供の憧れなんて、その程度の軽いものだった。
でも、その憧れが本物の決意に変わる出来事が、やがて訪れる。
小学生の頃。
クラスで男子が発言すると、先生は丁寧に頷いて聞いた。
でも自分が同じことを言うと、なんとなく流されることが多かった。
隣の席の男の子。テストの点数はいつも自分の方が上だった。
なのにテストが返却されたあとの休憩時間、人が集まるのは男の子の周り。
空気はいつもその男子の方を向いていた。
なんで……
その疑問は積み重なるたびに大きくなった。
そして中学の生徒会で決定的な瞬間があった。
議題に対して、私は勇気を出して意見を言った。
でも、すぐに周りから反対された。
少し後、男子が言い方を変えただけの、まったく同じ意見を言い直した。
すると、あっさりとその意見が通った。
(あぁ……そうなんだ。意見は中身じゃないんだ。誰が言うかで、決まるんだ……)
その瞬間、何かがはっきりと見えた気がした。
あの頃の、テレビの前で指を突き立てていた憧れがまったく別の熱を帯びていく。
法やルールを基に戦う仕事なら、性別は関係ないはずだ。実力と論理だけで勝負できる場所が、きっとそこにあるはずだと思ったのだ。
大学は、もちろん法学部を目指した。
入学してからも司法試験に合格するために勉強漬けの日々が続く。
最短コースで、卒業と同時に資格を取る。そう決めたからだ。
そして受験が近づくたびに親からこう言われた。
「雫、そんなに勉強してどうするの。はやく良い人を捕まえて、結婚して、孫の顔でも見せておくれ……」
周りの友人たちも、どこか不思議そうな顔をした。なんでわざわざ茨の道を選ぶの、と。
この世界で弁護士を志す女性は少ない。
なにしろ、揉め事の当事者になるのはたいてい男の方だ。
希少なぶん甘やかされわがままの通ってきた男たちは、争いごとの火種にも事欠かない。
その男たちを相手取るのが弁護士という仕事だった。
依頼に失敗すれば依頼人の男に嫌われ、勝訴すれば相手方の男に憎まれる。
どちらに転んでも、大事にされて当然の男を敵に回しかねない。
そんな損な役回りを、好きこのんで選ぶ女はそういない。
それでも――私は自分の夢を追いかけた。
合格通知が届いた日。
震える手で封筒を開けて、文字を確認した瞬間に涙が出た。
積み上げてきた勉強の時間。周りからの反対。親の溜息。それが全部、報われた気がした。
(これで、性別に関係ない世界に飛び込める)
胸が期待で弾けそうだった。
でも実際は――
◇
ピコン――
ラインの通知音で意識が引き戻された。
「……っ」
ハッと顔を上げる。
事務所の天井が目に入る。
机に突っ伏したまま昔の夢を見ていたらしい。
合格通知を手にして泣いた、あの日の夢。
これで性別に関係ない世界に飛び込めると、無邪気に信じていた頃の夢だ。
(はぁ……いやな夢を見た)
正確にはいやな夢じゃない。あの日は本当に嬉しかった。
だから余計に目が覚めた後がきつい。
私は頬についたデスクの跡を手で擦り、背筋を伸ばす。
もう一度スマホが光る。
――誰だろう、こんな時間に。
画面を見ると、大学時代の旧友――真鍋、通称まなっち、からだった。
まなっち『バ先の後輩ちゃんが困ってるみたいなの〜』20:35
『もし訪ねてきたら、力になってあげて〜』20:35
『今度、金蜜金時の焼き芋あげるからさ〜』20:36
あの子は、見た目こそボーっとしているけれど、議論の核心をズバリと言い当てるような、妙に勘のいいところがある。
というか、最近になって金蜜金時――通称キンキンに私がハマってるなんて誰にも言ってないんだけど……
そんな彼女が、こうして誰かのために頭を下げてくるのは珍しい。
よほど、その後輩を可愛がっているんだろう。
『いいけど。今度、アツアツのキンキンおごってよ』
そう返してスマホを置いた。
「はぁ、今日もお金にならない仕事ばかり」
古い雑居ビルの二階。
この時間の夜は、いつも重たい沈黙と焦げ付いたインスタントコーヒーの匂いに満ちている。
デスクの隅で埃を被った六法全書。
「……大きな仕事、こないかなぁ」
背伸びをして自分の事務所を立ち上げたけど……現実は甘くないわね。
――そんな時だった。
唐突に、立て付けの悪いドアが鳴った。
「……まだ、やってますか?」
「ごめんなさい、うち、もう時間で――」
反射的にそう言いかけて、口が止まった。
(……あら)
入ってきたのは、真面目そうな雰囲気の青年だった。
……この人、モテるわね。
直感で私はそう思った。
体は無駄なく引き締まっていて、シャツの上からでも運動しているのがわかる。白シャツにジャケット、ジーパンというシンプルな服装も、スタイルがいいから映えている。
短く整えられた爪は白く輝き、髭もきれいに剃ってある。ふと覗いた前腕にはうっすらと血管が浮いていた。
(……直視したら危険ね)
思わず目を逸らす。
この世界の男は、たいてい外見に無頓着だ。腹に脂肪を蓄え、よれた襟に毛玉だらけのパーカー、伸びた爪の中は真っ黒——それが当たり前。
だからこそ、これだけ手入れの行き届いた男は女たちの間で高く評価される。
希少種。いや――絶滅危惧種というやつだ。
ただ一つ、欠点をあげるとすれば。
着ているTシャツが、やたらとダサいことくらいか。
そんな彼は、ボロボロの事務所を不安げに見渡してから、おずおずと切り出した。
「じつは、相談したいことがあって……」
「……もう営業時間は過ぎてるんですけど」
一応、そう言ってはみる。
でも、追い返す気にはなれなかった。
この時間に思い詰めた顔でわざわざ場末の事務所を訪ねてくるなんて、よほどのことだと思ったから。
「実は……バイト先で、トラブルに巻き込まれまして」
(バイト先……?)
その一言で、さっきの真鍋とのラインが頭をよぎった。
「もしかして、あなた――まなっち……真鍋の後輩くん?」
「え……あ、はい。真鍋さんに、ここを紹介してもらって」
(なるほど、そういうことね)
道理で、こんな時間にまっすぐここへ来るわけだ。
「……早く言いなさいよ。まぁいいわ、入って」
私は立ち話もなんだと、彼を応接用のソファへ促した。
「そんな端っこに立ってないで、座って」
「……すみません、お邪魔します。結城悠です」
彼が遠慮がちにソファに腰を下ろし、小さく頭を下げた。
私は向かいのソファに腰を下ろし、脚を組んだ。
「それで、結城くん。トラブルっていうのは?」
「展示品を、壊してしまって……その責任を取る形で、契約書にサインを……」
言葉を選ぶように、ぽつぽつと話す彼。その伏せがちな目に、ただごとじゃない気配を感じた。
「ちなみに、その展示品というのは?」
「……青磁の壺で。時価、三億円するらしいです」
「さ、さんおく!?」
驚きのあまり、ソファから半分ずり落ちた。
慌てて座り直す。
三億。桁を聞き間違えたかと思った。
「……ごめんなさい、続けて。責任を取る形でサインした、その契約の中身は?」
嫌な予感がした。壺の値段で驚いている場合じゃない。本題は、たぶんここからだ。
「……はい。その、契約書なんですけど」
彼は鞄から、二枚の紙を取り出してテーブルに置いた。
私はそれを手に取り、目を走らせる。
――住み込みの義務。外出および外部との連絡の制限。給与は全額、負債の返済に充当。ただし返済額は主人が定める。
(……なにこれ)
読み進めるほど、指先が冷えていく。
これは、契約書の顔をした檻だ。働いても金は入らず、外にも出られず、辞めれば三億が丸ごとのしかかる。完済の時期すら、向こうの匙加減。
弁護士になってそれなりに修羅場は見てきたけど、ここまで露骨なものは初めてだった。
「……結城くん、だっけ」
こめかみの奥がズキズキする。
「結論から言うわね。これ――百パーセント騙されてる」
「……ですよね」
彼は力なく笑った。もう自分でも分かっていたんだろう。
「というか、なんでこんな契約にサインしたのよ。読めば誰だっておかしいって気づくでしょう」
「……その時は頭が真っ白で――壺を割ったのは事実だし、責任を取らなきゃって、それしか考えられなくて」
「まぁ……当事者なんて、そんなものかもね」
私は小さく息を吐いた。
自分は騙されない、と思っている人間ほど、あっさり足をすくわれる。追い詰められた人間の判断力なんてそんなものだ。
それを承知の上で追い込んだんだとしたら、相手は相当に悪辣だ。
「ちなみに、その雇い主の名前は?」
「鳳、麗華さんっていう……カフェのオーナーで」
――ガチャン。
持っていたカップを、危うく落としかけた。
「……鳳?あの、鳳グループの?」
「はい。ご存知なんですか」
(知ってるも何も……)
この国で、鳳の名前を知らない人間はいない。政治も経済も、その気になれば法律さえ動かせると言われる、化け物みたいな一族。
道理で契約書に穴がないわけだ。素人が片手間に作ったものじゃない。
(相手が悪い。悪すぎる)
正直に言えば引き受けるべきじゃない。他の事務所が全部断ったのも、たぶんこれが理由だ。触れれば、こっちが潰される。
でも――
私は目の前の彼を見た。
服はよれて、目の下には隈。ここに来るまでいくつの扉を叩いて、いくつ閉められたんだろう。
それでもまだ諦めきれずに、こんな場末の事務所まで辿り着いた。
この子は悪いことなんて何もしていない。ただ、困っている人を助けようとしただけだ。
――意見は中身じゃない。誰が言うかで決まる。
あの日、生徒会で思い知ったことだ。
強い者の言い分だけが通って、正しさが握り潰される。
それは私が一番、許せなかったもの。それが今、目の前で起きている。
「……いい?」
私は二枚の契約書をデスクに置き直した。
「民法第九十条、公序良俗違反。加えて第九十六条、詐欺による取消し。理屈の上では、じゅうぶん戦える」
「……っ!」
彼の顔がぱっと上がる。
「ただし――」
私は、そこで一度言葉を切った。
「相手が鳳でなければ、の話。正直、まっとうに戦って勝てる保証はどこにもない。そこは、甘く見ないでおいてちょうだい」
「……はい」
「それでも――勝ち筋がある以上、私は引き受ける。少なくとも、あなたを一人にはしない。それだけは、約束する」
沈黙。
――ぽろぽろ
彼の両目から雫がこぼれた。
「……っ、えっと……」
彼は慌てて顔を背け、手の甲で目元を拭った。
でも、拭っても拭っても追いつかないらしい。
「……目にごみが……」
唇を噛んで、必死に堪えようとしている。
零れるものを、なかったことにしようとしている。
(……あぁ、もう)
胸の奥が、きゅうっと締めつけられた。
この世界の男なら、涙なんて平気で武器にする。泣いて見せれば女が折れると知っているから。
でも、この子は違う。
泣くことを恥じて、こっちに気を遣わせまいと、歯を食いしばっている。
――ずるい。
そういうのが、いちばんずるい。
私は立ち上がって彼の背中を、ポン、ポンと二回だけ叩いた。
「……いいのよ。誰も見てないわ。私しか」
私はデスクに戻って、二つのマグカップにインスタントコーヒーを淹れた。
一つを、そっと彼の前に置く。
湯気が立ちのぼって消えていく。
彼がそれをちびちびと飲み終える頃には、だいぶ落ち着きを取り戻していた。
「……すいません。取り乱しました」
「とりあえず、もう遅いわ。今日は帰って、ゆっくり休みなさい」
「……はい」
「あ、それと」
「……?」
「着手金と成功報酬はキッチリいただくわよ。三億をチャラにしようってんだから、当然でしょ?」
ウインクしてやると、彼はようやくちゃんとした笑顔を見せた。
◇
事務所が、静かになった。
さっきの彼の涙を、ふと思い出す。
(あぁ……びっくりした)
この仕事をしていて、あんなふうにまっすぐお礼を言われたことって今まであっただろうか。
弁護士という仕事に私はずっと絶望していた。
法は正義を守ってくれるとは限らない。大きな仕事がなければ儲からないし、依頼の内容によっては男に嫌われる。
でも――
がんばって弁護士になったから。ここまで弁護士を続けてきたから。だから、彼を救える場所に私は立っている。
いや、救えるかどうかはまだわからない。これからの私次第だ。
子供の頃、テレビの前で突き立てた、あの人差し指を思い出す。
あの日テレビに向けて突き立てた指を――今度は、本物の法廷で。
「……さて、やるか」
私は埃を被った六法全書を、力強く引き寄せた。