その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:ヤッくん

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24話 この痛み、致死量につき。――失って初めて気づくまで

―― 鳳 麗華 視点 ――

 

鳳(おおとり)。

その名は、この国において「絶対的な正解」を意味します。

三億円という数字。鳳家という巨大な権力。それさえあれば、一人の少年の人生を買い取り、わたくしの「所有物」として一生を添い遂げることなど容易なのですわ。

 

そのはずでした。

 

「不法侵入者が、何を……! 結城は三億円の契約に基づく、わたくしの正当な所有物です! 指一本、触れさせませんわ!」

 

わたくしは、ベッドに倒れ込んだ悠様の襟首を掴み、目の前の狂犬たちを睨みつけました。けれど、返ってきたのは、慈悲を乞う沈黙ではありませんでした。

 

浅見 凛。広告代理店のエースと呼ばれるその女が、冷徹なビジネススマイルを浮かべ、手元のタブレットを叩きました。

 

「……所有物? 残念ですが鳳さん。その考えは、たった今、私によって書き換えられるわ。……鳳グループの広告、すべて差し止め。そして、明日には『奴隷契約を結ぶ悪徳企業』として、全局で特集を組ませてもらうわ」

 

凛の言葉が、脳を直接殴るような不快感を伴って響く。わたくしは、震える声を精一杯張り上げて叫びました。

 

「……証拠はありますの? そんなもの、どこにもありませんわ! 鳳の不祥事など、幻想にすぎません!」

 

(……この女たちは、ただの暴徒です。鳳の鉄壁の守りを、言葉遊びで崩せると思っている不遜な輩。金で構築した鳳の壁は、そう容易く崩れるはずがない……!)

 

けれど、浅見凛は――その目の奥で、わたくしを哀れむように「くすり」と笑ったのです。

 

「証拠なら、今この瞬間に真実として作り上げたわ。……深守さん、お願いします」

 

「あ、あぅ……。……証拠、……ここにある。……プロジェクターモード、……起動。……鳳の闇、……上映開始……」

 

暗闇の中、宙に浮くドローンが、わたくしの部屋の真っ白な壁面をスクリーンに変えました。

 

「……ッ!?」

 

そこに映し出されたのは、数日前の、あの土砂降りの路地裏。九条が、老婆に現金の入った茶封筒を渡している――。

 

「……な、なに、これ……。九条……?」

 

「……あ、あぅ……。……捏造の、……壺。……九条千尋が、……老婆を買収する、……決定的な瞬間。……これ、……鳳の、……『不祥事の証拠』……」

 

深守の淡々とした機械音声が、わたくしの胃の奥を雑巾のように絞り上げます。

嘘。九条が、あんなヘマをするはずがない。

 

わたくしは必死に九条を振り返りました。けれど、彼女はただ暗闇の中で、一筋の乱れもない姿勢で目を閉じ、沈黙を守っているだけ。

 

「……そんな映像、誰が見ているというのです! 鳳の威光に、誰が逆らえると!」

 

すると、阿久津 魅夜が鼻から流れる血も拭わず、狂気的な笑みを浮かべてスマホをわたくしに向けました。

 

「ケヒャヒャ! じゃあ、アタイのフォロワー100万人超に聞かせてやろうかァ!? 今、ライブ配信中なんだよッ! これが鳳のやり方だァ! 拡散しろォ、フォロワー共ォ!」

 

「……や、やめなさい、今すぐその配信をやめなさいっ!」

 

「ケヒャヒャ! 誰がやめるかってのォ! ついでにお前のその悪どいツラも映しとくかァ!」

 

「やめて。……映さないで……!」

 

わたくしは必死に、悠様の身体で顔を隠そうとしました。けれど、魅夜のスマホのレンズが、逃げ場のないわたくしを執拗に追い詰める。

 

「……嘘。こんなの、何かの間違いですわ……」

 

わたくしは、枕元に放り投げていた自分専用のスマートフォンを、縋るように手に取りました。画面をスワイプする指が、情けないほどにガタガタと震えています。

 

吸い寄せられるように、そのライブ配信の「コメント」を見ました。

 

《鳳終わってる》

《まじか》

《捏造とか最低じゃん》

《不買運動だな》

《鳳の令嬢、監禁とか犯罪だろ》

《株、全部売るわ》

《鳳ブランド、終了のお知らせww》

 

「……あ、……あ、あ……っ」

 

スクロールしても、鳳を讃える言葉は、一つもありませんでした。

滝のように流れる、匿名の暴力。文字が、言葉が、わたくしのプライドを切り刻んでいく。

 

視界が、真っ白に染まる。

スマホの画面から放たれる青白い光が、わたくしの網膜を焼き、現実感を奪っていく。

 

(……嘘。鳳が、わたくしが……否定、されている……?)

 

耳を劈くのは、魅夜の耳障りな笑い声。鼻を突くのは、焼き切れた配電盤のオゾンの残り香。わたくしの信じていた輝かしい世界が、音を立てて崩落していく。

 

 

その時。わたくしの手の中で、スマートフォンが震えました。

 

 

着信画面に表示されたのは、鳳の「神」である存在――。

 

「……お、お父様……っ! お父様、助けてくださいまし! 不審者が、九条が、デタラメな……!」

 

スピーカーから漏れ出たのは、慈悲の欠片もない、地を這うような冷酷な声でした。

 

『――麗華。お前は、一体何を、してくれたのだ』

 

「……お父、様……?」

 

『――麗華ッ!! 貴様、何という無様な失態を演じた! 鳳グループの時価総額が、一瞬で数千億消えたぞ!』

 

「……そんな、わたくしは、ただ鳳の正解を……!」

 

『黙れ! お前という資産は、今この瞬間『負債』になった! お前はもう、鳳の人間ではない。……今すぐ、鳳の名前を捨てろ。死んで、償え』

 

 

ツーツーという非情な音。

 

 

わたくしの世界を支えていた、最後の一本の柱。それが一瞬で、ゴミのように切り捨てられた。

鳳グループ当主、鳳 豪三郎からの絶縁。

 

金も。権力も。家柄も。

わたくしを「鳳麗華」として形作っていたすべてのパーツが、剥ぎ取られていく。金色の髪が乱れ、肩が小さく震える。

 

「……あ、あ……あ……」

 

喉が、乾いた砂を飲んだように熱い。

 

わたくしは、……独りぼっち。

三億円という数字。鳳という名前。それを奪われたわたくしに残ったのは、ただの、震えるだけの、情けない少女。

 

わたくしは、最後の手を悠(ゆう)様へと伸ばしました。

 

「……悠様。……行かないで。……行かないで、悠様。……わたくしには、もう、あなたしか……お金なら、後でなんとか……っ」

 

悠様の執事服の袖を、力任せに掴む。

けれど、悠様はわたくしを抱きしめてはくれませんでした。彼は、悲しげに、本当に悲しげに、目を伏せたのです。

 

「……麗華さん。……俺、……こんな形で、縛られたくなかったです」

 

――ッ。

 

その言葉は、どんな罵倒よりも鋭く、わたくしの胸を貫きました。

悠様の、温かい、けれど決然とした手が、わたくしの指を……そっと、引き剥がしていく。

 

温もりが、離れていく。

わたくしは、膝から崩れ落ちました。床の大理石の冷たさが、容赦なく現実を突きつけてくる。

 

 

「……う、……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!」

 

 

わたくしは、鳳麗華としての仮面を投げ捨て、ただの子供のように、声を上げて泣きじゃくりました。

去っていく、彼の足音。狂ったように吠える女たちの声。そのすべてが、遠ざかっていく。

 

(悠様、……悠様……っ!)

 

 

 

―― 結城 悠 視点 ――

 

鳳麗華という巨大な虚像が、俺の目の前で砕け散っていく。

 

床に座り込み、ガタガタと震えながら俺に手を伸ばす彼女。その指先は、先ほどまでの「絶対的な支配者」のそれではなく、ただ闇に怯える子供のように弱々しいものだった。

 

「……悠様。……行かないで。……行かないで、悠様。……わたくしには、もう、あなたしか……お金ならあとで......」

 

彼女の言葉が、俺の胸を抉る。でも、その言葉の端々にまだ「お金」という単語が出てくることが、何よりも悲しかった。

 

「……ごめんなさい、麗華さん」

 

俺は、彼女の震える指先をそっと、けれど明確に拒絶した。

 

「……麗華さん。……俺、……こんな形で、縛られたくなかったです」

 

麗華さんの瞳が、絶望に大きく見開かれる。

その瞬間、俺の脳裏に一つの映像が重なった。

 

(……あ。……この、泣き顔……)

 

いつも不機嫌そうに眉間にシワを寄せながら、それでも背筋をピンと伸ばして働いていた、カフェ・レゼールの「麗華」さん。

俺と一緒に働いていた、あのお節介で可愛い後輩。

目の前でボロボロになっている彼女こそが、あの「麗華さん」だったのだと、気づくのがあまりに遅すぎた。

 

「ケヒャヒャ! 決まりだァ! さあ行くぜ、悠! アタシのパラダイスへよォ!」

 

魅夜さんが俺の腕を強引に引き、部屋の外へと連れ出そうとする。

凛さんは無言で俺の背中を押し、雫さんは安堵したように肩を震わせていた。

 

俺は、部屋の出口で一度だけ、後ろを振り返った。

暗闇の中、泣き崩れる麗華さんと、その肩を抱く九条さん。

豪華絢爛だったはずの部屋は、今はただの、冷たい墓標のように見えた。

 

麗華さんが、床に転がった『金の耳かき』を、血が出るほど強く握りしめているのが見えた。

 

(……麗華、さん……)

 

助けに来てくれたはずの女たちの顔は、なぜか、勝利に歪み、今にも俺を貪り食おうとする「飢え」に満ちた猛獣のように見えて――俺は、彼女たちに引きずられるようにして、鳳の城を後にした。

 

【悠は地獄から、別の地獄へ。】

 

 

 

 

―― 鳳 麗華 視点 ――

 

 

「……さて。……お喋りはもう終わりね。……鳳さん。……いえ、『元』鳳さんかしら」

 

如月雫が冷酷な目のまま、一枚の書類をわたくしの前に叩きつけました。

 

「……公序良俗違反、詐欺、監禁の事実を認め、……結城悠との一切の契約を破棄する……という『合意書』よ。……これにサインなさい。……そうすれば、……まだ社会的抹殺だけで済ませてあげる」

 

「……あ、あぅ……。……早く。……私の、……ドローンが、……全部、……監視してる……」

 

「アタシのライブ配信もまだやってるしなァ! ケヒャヒャ!」

 

逃げ場など、最初からありませんでした。けれど、わたくしはペンを握ることができません。これを書いてしまえば、悠様は二度とわたくしの元へは戻ってこない。

 

「……嫌。……嫌ですわ。……悠さま、……悠さま……っ!」

 

その時。

わたくしの背後から、温かく、けれどひどく重みのある手が、わたくしの肩を抱き寄せました。

 

「……いい加減にお気づきなさい。……麗華お嬢様」

 

九条。

彼女の声は、今まで一度も聞いたことがないほど、慈愛に満ちていました。

 

「……九条、……どうして。……どうして、あなたまで……」

 

「……おいたわしや。……あなたは、鳳という『名』に縛られ『お金』に執着し、一番大切なものを忘れてしまった。……法や契約(かみ)では人は縛れません。……縛るなら、あなたの愛と魅力で縛りなさい」

 

彼女は、わたくしの震える手に、一本のペンを握らせました。

 

「……奪うのではなく、与えるのです。……今日、あなたが失ったものはすべて、……彼という『真実』を得るための、……尊い犠牲だったと。……いつか彼が、自らの意志であなたの隣に座る日のために、……今はその手を、離しなさい」

 

九条の言葉が、わたくしの凍りついた心臓を溶かしていく。

奪うことしか、知らなかった。鳳という城の中に閉じ込め、鎖で繋ぐことしか、わたくしは愛し方を知らなかったのです。

 

 

「……あ、……あああ、ああああああああっ!!!」

 

 

わたくしは、自分の名前が認識できなくなるほど、激しく泣き崩れました。視界が涙で滲み、書類が濡れて波打っていく。

 

鳳、麗華。

 

自分の名前を書き記すその一画一画が、わたくしの誇り(プライド)を切り裂く刃のようでした。サインを終えた瞬間、わたくしの世界は、完全に崩壊しました。

 

 

 

 

誰もいなくなった部屋で。

わたくしは、掌に食い込む金属の感触を噛み締めていました。

 

金の耳かき。悠様の体温が、まだ微かに残っている、唯一の遺物。

 

「……っ、う、……うあ、ああ……」

 

胸が、痛い。耳をかき回される快感なんて、これに比べれば塵同然でした。心臓を、直接、生身の手で握り潰されているような、耐え難い痛み。

 

……ああ。そう。……これですのね、九条。

 

「……痛かったのは耳ではなく……わたくしの、胸でしたのね……」

 

鳳という名を失い、お金と権力も消え去った。そんな一人の醜い女になったわたくしの中に、初めて芽生えた感情。執着、後悔、そして――愛。

 

わたくしは、暗闇の中で、一言だけ、呪文のように呟きました。

 

「……次は、お金や契約書(かみ)なんかではなく……一生分を懸けて。……あなたにわたくしの愛を、分かってもらえるように……」

 

溢れる涙を拭うこともせず、昏い情熱の宿った瞳で虚空を睨み据える。

 

「……いえ。分からせて差し上げますわ。……悠さま」

 

わたくしの、本当の意味での「初恋」が、今、始まったのです。

 

涙は、まだ止まらない。けれど、わたくしの胸の痛みは、再戦への誓いとなって、わたくしの魂に深く刻まれていきました。

 

 

【鳳麗華が悠に初恋をするまで ―― 残り0分 】

 

第一章 完




一章までなんとか...なんとか...書き切ることができました!
みなさんの応援のおかげです!

特にコメントを残してくれた方。
勇気とエネルギーをたくさんいただけました!
本当にありがとーございますっ!!!

少し休憩しようかな。
でもあなたが二章も見たいって言うなら......|_・) チラリ!
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