その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――強制連行まで、あと二日。
ピコン。
昼過ぎスマホが鳴った。
如月雫『契約無効の外堀、今埋めてるところ。必ず無効にするから待ってて』12:14
短い文面なのに画面から気迫が伝わってくる。
『ありがとうございます。よろしくお願いします』12:15
すぐに返信して俺は少しだけ息を吐いた。
あの人が味方でいてくれてる――それだけで肩の荷が軽くなっている気がする。
夕方にもう一度、通知が鳴った。
如月雫『同期に応援を頼んでる。鳳が相手でも、数で押せば戦える』18:02
(頼りになる……進捗を伝えてくれるだけで安心できるな……)
俺は契約書の控えをテーブルに置いたまま、その日は久しぶりに少しだけ眠れた。
◇
――あと一日。
朝からスマホは静かだった。
昼になって、ようやく一件。
如月雫『少し難航してる。でも諦めてない』13:47
難航――
その二文字を何度も読み返す。
『大丈夫ですか? 俺にできることがあれば』
既読はすぐについたが、返事は来なかった。
夕方、もう一度アプリを開く。既読のまま。
夜、に再び開く。既読のまま。
風呂から出てからも開く。
如月雫『ごめん、もう少し時間が』22:51
それきりだった。
俺は画面を消して天井を見上げた。
(……雫さんは戦ってくれてる)
それは分かる。分かるけど……
文面が短くなっていくたびに、胸の奥のざわつきが大きくなっていく。
あの白髪の弁護士の言葉が耳の奥で蘇る。
――その法をつくるのが鳳なんだよ。
(……やめよう。信じるって決めたんだ)
あまり眠れないまま朝が来た。
◇
――当日。
九条さんが迎えに来るのは夕方だと聞いている。
スマホは朝から一度も鳴らない。
部屋の隅には、昨日のうちに詰め終えたボストンバッグが一つ。
することも特にないけれど。
なのに気づいたら俺は靴を履いていた。
今日で、たぶん自由に外を歩けるのは最後だろう。
好きなところを周って、おいしいものを食べに行こう。
そうだ。それがいい。
最後の一日くらい、パーッと使ったって罰は当たらないはずだ。
◇
駅前の商店街はいつも通りの昼下がりだった。
ラーメン屋の前で足が止まる。
ここの味噌ラーメン、ずっと気になってたんだよな。
……でも、なんか違うな。
俺は踵を返した。
また少し歩くと映画館の看板が見えた。
観たかったやつ、まだやってるじゃん。
……いや、二時間もじっと座ってられる気がしないな。
次はゲーセン……も違う。
本屋も違う。
公園のベンチに座ってみたが――結局、三分で立ち上がった。
最後の自由なんだけどな……
なのに、いまいち心が動かない。
足だけが、勝手にどこかへ向かおうとしている。
……どこへ?
立ち止まって、顔を上げた。
見覚えのある、細い路地の入り口が、そこにあった。
(……あー……)
そういうこと、か。
ラーメンでも映画でもなく、俺はずっと、ここに来たかったらしい。
このまま何も言わずに行ったら、きっと後悔するしな。
あの夜、あの人は俺の話を最後まで聞いてくれた。
それが、どれだけ――
……だめだ。うまく言葉になんないけど……会って、顔を見て、それから考えよう。
俺は、路地に足を踏み入れた。
◇
古びた二階建てのコンクリートビル。
昼間に見ると、看板の照明が消えていて、余計に古びて見えた。
階段を上る。
建て付けの悪いドアの前に立って、ノブに手を伸ばした――その時だった。
『――今月いっぱいで、この事務所の賃貸契約は終了します』
ドア越しに、声が聞こえた。
低く、静かで、氷みたいな声。
(……この声)
忘れるはずがない。九条さんだ。
『あなたの銀行口座は凍結され、弁護士会からは懲戒請求の準備が始まります』
『ウソよ……ッ!』
雫さんの声だった。
いつもの、あの余裕のある声じゃない。掠れて、震えていた。
『信じるかどうかは任せます。ですが、あなたは二度と法を語れなくなる』
ノブにかけた手が、動かなくなった。
(……なんだよ、これ)
頭が、うまく回らない。
『さあ、お選びなさい。鳳の専属顧問として光の当たる場所へ昇るのか。それとも――』
九条さんの声が、す、と冷たさを増した。
『あのような青年一人のために、ご自分の八年間を無駄になさりますか?』
あのような青年――俺のことだ。
ドアの向こうで雫さんが追い詰められている。
事務所を、口座を、資格を、八年間を、人質に取られて。
――俺の、せいで。
お礼を言いに来た――それだけだったのに。
俺が彼女に背負わせていたものの重さを今、初めて知った。
膝のあたりから力が抜けそうになる。
でも――
ドアの向こうから返事は聞こえてこなかった。
雫さんは、まだ「はい」と言っていない。
あの人はまだ、迷いながら、それでも俺のために踏みとどまろうとしている。
考えるより先に、手が動いていた。
ガチャッ――
建て付けの悪いドアを思いきり開けた。
「……結城くん!?」
雫さんがデスクの向こうで目を見開いた。
顔色がひどく白い。
その手前に一分の隙もない秘書服の背中。
九条さんが、ゆっくりとこちらを振り返った。
「……あら、悠様」
驚いた様子はまるでなかったのがかえって不気味に感じる。
最初から俺が来ると分かっていたみたいに、その藍色の瞳は静かだった。
「雫さんを、巻き込まないでください」
声が震えないように腹に力を入れた。
「事務所とか、口座とか、資格とか……そういうの、全部やめてください。この人は関係ない。俺が――」
一度、息を吸う。
「俺が、行けばいいんですよね」
「……っ、だめ! 結城くん、何を言って――」
雫さんが立ち上がった。
俺は雫さんの方に向き直る。
「雫さん。俺、実は……ちょっと楽しみだったんですよね。執事の仕事」
「……え?」
「住み込みで、衣食住つきで、豪華なお屋敷で働けるんですよ? よく考えたら、けっこうおいしい話だなって」
休みはないけど夜は休めるかもしれない。外出も申請を出したら出られるかもしれないし、連絡手段もきっとあるはず。お金は――もらえなくても生活はできるだろう。やりがいだってあるかもしれない。
「執事服とか、ちょっと憧れあったし。料理の腕も上がりそうだし。三億の借金がチャラになって、寝る場所と飯までついてくる。……? そう考えると悪くないかなって」
「だから、雫さんが気に病むことなんて、何もないですよ」
雫さんは何も言わなかった。
ただ、俺の顔をじっと見ていた――何かを見透かすみたいに。
それでも雫さんは何も言わなかった。
言わないでいてくれた。
「…………バカ」
絞り出すような、小さな声だった。
「……はは。よく言われます」
九条さんが、すっと一歩こちらへ歩み出た。
「――よろしいのですね?」
「はい」
即答した。
「雫さんへの……如月先生への話は、全部なしにしてください。事務所も、口座も、資格も、このまま。それが条件です」
「条件……ですか」
九条さんの眉がほんのわずかに動いた。
「立場をお分かりでないようですね。あなたに交渉の材料など――」
「ありますよ」
お腹に力を入れてはっきり声を出す。
「俺が、暴れず、逃げず、大人しく行くこと。……そっちだって、面倒は少ない方がいいでしょ」
我ながら安い材料だと思う。
でも、今の俺ができることは、これくらいしかない。
九条さんは何も言わずに俺を見ていた。
藍色の瞳が何かを見定めるように、じっと俺を見つめていた。
値踏みとも違う。あの日カフェで向けられた視線とも、少し違う。
なんだろう。うまく言えないけど――
その沈黙は、思ったより長かった。
「……いいでしょう」
やがて九条さんは、静かにそう言った。
「如月先生への提案は撤回します。賃貸も、口座も、資格も、このままに。……鳳の名において、約束いたしましょう」
ふ、と体から力が抜けそうになった。
「結城くん……!」
雫さんがデスクを回り込んで俺の前に立った。
「なんで……なんでよ。私はまだ、諦めてな――」
「雫さん」
俺は頭を下げた。
「三億の話を、笑わずに聞いてくれて、ありがとうございました」
「……っ」
「一人にはしないって、約束してくれて。……俺、あのときすっごく嬉しかったです」
本当は、これを言いに来ただけだった。
顔を上げると、雫さんは唇を噛んで俺を睨んでいた。
泣くのを我慢してるみたいな、怒ってるみたいな、そんな複雑な顔だった。
「……お礼なんかいらない」
雫さんは掠れた声で言った。
「私はまだ、負けてない。あんたの契約書は必ず破棄させる。だから――」
まっすぐに、俺の目を見て。
「待ってなさい。絶対――迎えに行くから」
◇
マンションに戻ると、部屋の前に黒塗りの車が停まっていた。
九条さんは先に着いていて、車の横に静かに立っていた。
部屋に上がり、ボストンバッグを掴む。
昨日のうちに詰めておいた荷物。着替えと、洗面用具と、それから――
テーブルの上の、契約書の控え。
一瞬、迷って、それもバッグに押し込んだ。
(……忘れないようにしよう)
これがどういう契約か。俺が何を分かった上で行くのか。
俺は絶望して仕方なく行くんじゃない。俺は自分で選んだんだ。
部屋の電気を消す。
ドアの鍵を閉める。
いつもと同じ、なんてことのない音のはずなのに、やけに大きく響いた。
階段を降りると、九条さんが後部座席のドアを開けて待っていた。
「……お願いします」
俺は自分の足で車に乗り込んだ。
ドアが閉まる。
走り出した車の窓から、暮れていく街が流れていく。
スマホが、ピコンと鳴った。
如月雫『待ってなさい』17:58
たった五文字。
俺はその画面を、しばらく見つめてから、そっとポケットにしまった。