その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果――   作:やっくん。

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25話 この男、強がりにつき

――強制連行まで、あと二日。

 

 ピコン。

 

 昼過ぎスマホが鳴った。

 

如月雫『契約無効の外堀、今埋めてるところ。必ず無効にするから待ってて』12:14

 

 短い文面なのに画面から気迫が伝わってくる。

 

『ありがとうございます。よろしくお願いします』12:15

 

 すぐに返信して俺は少しだけ息を吐いた。

 

 あの人が味方でいてくれてる――それだけで肩の荷が軽くなっている気がする。

 

 

 夕方にもう一度、通知が鳴った。

 

如月雫『同期に応援を頼んでる。鳳が相手でも、数で押せば戦える』18:02

 

(頼りになる……進捗を伝えてくれるだけで安心できるな……)

 

 俺は契約書の控えをテーブルに置いたまま、その日は久しぶりに少しだけ眠れた。

 

 

 ――あと一日。

 

 朝からスマホは静かだった。

 

 昼になって、ようやく一件。

 

如月雫『少し難航してる。でも諦めてない』13:47

 

 難航――

 

 その二文字を何度も読み返す。

 

『大丈夫ですか? 俺にできることがあれば』

 

 既読はすぐについたが、返事は来なかった。

 

 

 夕方、もう一度アプリを開く。既読のまま。

 

 夜、に再び開く。既読のまま。

 

 風呂から出てからも開く。

 

如月雫『ごめん、もう少し時間が』22:51

 

 それきりだった。

 

 俺は画面を消して天井を見上げた。

 

(……雫さんは戦ってくれてる)

 

 それは分かる。分かるけど……

 

 文面が短くなっていくたびに、胸の奥のざわつきが大きくなっていく。

 

 あの白髪の弁護士の言葉が耳の奥で蘇る。

 

 ――その法をつくるのが鳳なんだよ。

 

(……やめよう。信じるって決めたんだ)

 

 あまり眠れないまま朝が来た。

 

 

 ――当日。

 

 九条さんが迎えに来るのは夕方だと聞いている。

 

 スマホは朝から一度も鳴らない。

 

 部屋の隅には、昨日のうちに詰め終えたボストンバッグが一つ。

 

 することも特にないけれど。

 

 なのに気づいたら俺は靴を履いていた。

 

 今日で、たぶん自由に外を歩けるのは最後だろう。

 

 好きなところを周って、おいしいものを食べに行こう。

 

 そうだ。それがいい。

 

 最後の一日くらい、パーッと使ったって罰は当たらないはずだ。

 

 

 駅前の商店街はいつも通りの昼下がりだった。

 

 ラーメン屋の前で足が止まる。

 

 ここの味噌ラーメン、ずっと気になってたんだよな。

 

 ……でも、なんか違うな。

 

 俺は踵を返した。

 

 また少し歩くと映画館の看板が見えた。

 

 観たかったやつ、まだやってるじゃん。

 

 ……いや、二時間もじっと座ってられる気がしないな。

 

 次はゲーセン……も違う。

 

 本屋も違う。

 

 公園のベンチに座ってみたが――結局、三分で立ち上がった。

 

 最後の自由なんだけどな……

 

 なのに、いまいち心が動かない。

 

 足だけが、勝手にどこかへ向かおうとしている。

 

 ……どこへ?

 

 立ち止まって、顔を上げた。

 

 見覚えのある、細い路地の入り口が、そこにあった。

 

(……あー……)

 

 そういうこと、か。

 

 ラーメンでも映画でもなく、俺はずっと、ここに来たかったらしい。

 

 このまま何も言わずに行ったら、きっと後悔するしな。

 

 あの夜、あの人は俺の話を最後まで聞いてくれた。

 

 それが、どれだけ――

 

……だめだ。うまく言葉になんないけど……会って、顔を見て、それから考えよう。

 

 俺は、路地に足を踏み入れた。

 

 

 古びた二階建てのコンクリートビル。

 

 昼間に見ると、看板の照明が消えていて、余計に古びて見えた。

 

 階段を上る。

 

 建て付けの悪いドアの前に立って、ノブに手を伸ばした――その時だった。

 

『――今月いっぱいで、この事務所の賃貸契約は終了します』

 

 ドア越しに、声が聞こえた。

 

 低く、静かで、氷みたいな声。

 

(……この声)

 

 忘れるはずがない。九条さんだ。

 

『あなたの銀行口座は凍結され、弁護士会からは懲戒請求の準備が始まります』

 

『ウソよ……ッ!』

 

 雫さんの声だった。

 

 いつもの、あの余裕のある声じゃない。掠れて、震えていた。

 

『信じるかどうかは任せます。ですが、あなたは二度と法を語れなくなる』

 

 ノブにかけた手が、動かなくなった。

 

(……なんだよ、これ)

 

 頭が、うまく回らない。

 

『さあ、お選びなさい。鳳の専属顧問として光の当たる場所へ昇るのか。それとも――』

 

 九条さんの声が、す、と冷たさを増した。

 

『あのような青年一人のために、ご自分の八年間を無駄になさりますか?』

 

 あのような青年――俺のことだ。

 

 ドアの向こうで雫さんが追い詰められている。

 

 事務所を、口座を、資格を、八年間を、人質に取られて。

 

 ――俺の、せいで。

 

 お礼を言いに来た――それだけだったのに。

 

 俺が彼女に背負わせていたものの重さを今、初めて知った。

 

 膝のあたりから力が抜けそうになる。

 

 でも――

 

 ドアの向こうから返事は聞こえてこなかった。

 

 雫さんは、まだ「はい」と言っていない。

 

 あの人はまだ、迷いながら、それでも俺のために踏みとどまろうとしている。

 

 考えるより先に、手が動いていた。

 

 ガチャッ――

 

 建て付けの悪いドアを思いきり開けた。

 

「……結城くん!?」

 

 雫さんがデスクの向こうで目を見開いた。

 

 顔色がひどく白い。

 

 その手前に一分の隙もない秘書服の背中。

 

 九条さんが、ゆっくりとこちらを振り返った。

 

「……あら、悠様」

 

 驚いた様子はまるでなかったのがかえって不気味に感じる。

 

 最初から俺が来ると分かっていたみたいに、その藍色の瞳は静かだった。

 

「雫さんを、巻き込まないでください」

 

 声が震えないように腹に力を入れた。

 

「事務所とか、口座とか、資格とか……そういうの、全部やめてください。この人は関係ない。俺が――」

 

 一度、息を吸う。

 

「俺が、行けばいいんですよね」

 

「……っ、だめ! 結城くん、何を言って――」

 

 雫さんが立ち上がった。

 

 俺は雫さんの方に向き直る。

 

「雫さん。俺、実は……ちょっと楽しみだったんですよね。執事の仕事」

 

「……え?」

 

「住み込みで、衣食住つきで、豪華なお屋敷で働けるんですよ? よく考えたら、けっこうおいしい話だなって」

 

 休みはないけど夜は休めるかもしれない。外出も申請を出したら出られるかもしれないし、連絡手段もきっとあるはず。お金は――もらえなくても生活はできるだろう。やりがいだってあるかもしれない。

 

「執事服とか、ちょっと憧れあったし。料理の腕も上がりそうだし。三億の借金がチャラになって、寝る場所と飯までついてくる。そう考えると悪くないかなって」

 

「だから、雫さんが気に病むことなんて、何もないですよ」

 

 雫さんは何も言わなかった。

 

 ただ、俺の顔をじっと見ていた――何かを見透かすみたいに。

 

 それでも雫さんは何も言わないでいてくれた。

 

「…………バカ」

 

 絞り出すような、小さな声だった。

 

「……はは。よく言われます」

 

 九条さんが、すっと一歩こちらへ歩み出た。

 

「――よろしいのですね?」

 

「はい」

 

 即答した。

 

「雫さんへの……如月先生への話は、全部なしにしてください。事務所も、口座も、資格も、このまま。それが条件です」

 

「条件……ですか」

 

 九条さんの眉がほんのわずかに動いた。

 

「立場をお分かりでないようですね。あなたに交渉の材料など――」

 

「ありますよ」

 

 お腹に力を入れてはっきり声を出す。

 

「俺が、暴れず、逃げず、大人しく行くこと。……そっちだって、面倒は少ない方がいいでしょ」

 

 我ながら安い材料だと思う。

 

 でも、今の俺ができることは、これくらいしかない。

 

 九条さんは何も言わずに俺を見ていた。

 

 藍色の瞳が何かを見定めるように、じっと俺を見つめていた。

 

 値踏みとも違う。あの日カフェで向けられた視線とも、少し違う。

 

 なんだろう。うまく言えないけど――

 

 その沈黙は、思ったより長かった。

 

「……いいでしょう」

 

 やがて九条さんは、静かにそう言った。

 

「如月先生への提案は撤回します。賃貸も、口座も、資格も、このままに。……鳳の名において、約束いたしましょう」

 

 ふ、と体から力が抜けそうになった。

 

「結城くん……!」

 

 雫さんがデスクを回り込んで俺の前に立った。

 

「なんで……なんでよ。私はまだ、諦めてな――」

 

「雫さん」

 

 俺は頭を下げた。

 

「三億の話を、笑わずに聞いてくれて、ありがとうございました」

 

「……っ」

 

「一人にはしないって、約束してくれて。……俺、あのときすっごく嬉しかったです」

 

 本当は、これを言いに来ただけだった。

 

 顔を上げると、雫さんは唇を噛んで俺を睨んでいた。

 

 泣くのを我慢してるみたいな、怒ってるみたいな、そんな複雑な顔だった。

 

「……お礼なんかいらない」

 

 雫さんは掠れた声で言った。

 

「私はまだ、負けてない。あんたの契約書は必ず破棄させる。だから――」

 

 まっすぐに、俺の目を見て。

 

「待ってなさい。絶対――迎えに行くから」

 

 

 マンションに戻ると、部屋の前に黒塗りの車が停まっていた。

 

 九条さんは先に着いていて、車の横に静かに立っていた。

 

 部屋に上がり、ボストンバッグを掴む。

 

 昨日のうちに詰めておいた荷物。着替えと、洗面用具と、それから――

 

 テーブルの上の、契約書の控え。

 

 一瞬、迷って、それもバッグに押し込んだ。

 

(……忘れないようにしよう)

 

 これがどういう契約か。俺が何を分かった上で行くのか。

 

 俺は絶望して仕方なく行くんじゃない。俺は自分で選んだんだ。

 

 部屋の電気を消す。

 

 ドアの鍵を閉める。

 

 いつもと同じ、なんてことのない音のはずなのに、やけに大きく響いた。

 

 階段を降りると、九条さんが後部座席のドアを開けて待っていた。

 

「……お願いします」

 

 俺は自分の足で車に乗り込んだ。

 

 ドアが閉まる。

 

 走り出した車の窓から、暮れていく街が流れていく。

 

 スマホが、ピコンと鳴った。

 

如月雫『待ってなさい』17:58

 

 たった六文字。

 

 俺はその画面を、しばらく見つめてから、そっとポケットにしまった。

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