その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――鳳麗華の視点――
その来客は午後三時ちょうどにやってきた。
一分の遅れも、一分の早さもない。昔からそういう方でしたわね。
「ひさしぶりね、麗華」
応接間の扉の前で、獅子堂綺羅々(ししどう きらら)は顎をつんと上げた。
紫がかった髪をハーフアップにまとめ、銀のバレッタで留めている。
服装はラベンダー色のワンピースに、白いレースのボレロ。胸元には大きなリボン。
切れ長の目に陶器のように白い肌。黙っていれば人形のような顔。
そう――黙っていれば、ですけれど。
綺羅々は幼稚舎の入園式で初めて会ったときから、何ひとつ変わっていない。
幼稚舎の駆けっこで二位。初等部の書道展で銀賞。中等部の全国模試で二位。高等部の生徒会選挙で次点。
獅子堂グループの次期後継者。そして、ご本人いわく、わたくしのライバル。
――それが獅子堂綺羅々。
わたくしは紅茶のカップを置き、ゆったりと微笑んだ。
「ごきげんよう。今日は何の用かしら、万年二位の綺羅々さん」
綺羅々の肩がぴくりと跳ねた。
「……キララは二位じゃないっ! 訂正してっ!」
「あら、そうだったかしら」
「生徒会選挙は『次点』!」
「同じことよ」
「全っ然違うからっ!」
白い頬がみるみる赤く染まっていく。
「じゃあ、またチェスの再戦? たしか四十八戦して、わたくしの四十八勝だったわね」
「四十七勝! 一局は引き分けだったでしょ!」
「よく覚えているのね」
「忘れたことなんて一度もないわよ」
綺羅々は勧めてもいないのに、向かいのソファにどさりと腰を下ろした。
それから、すっと息を整える。
「今日は、これを聞かせに来たの」
「……?」
ポシェットから一枚の紙を取り出して膝の上に広げると、さっきまでの赤い顔が嘘のように涼しい声で読み上げた。
「『柔らかさ、ですわ』」
カップを持ち上げかけた指が止まった。
「『ひっひっふー』。……『夢の話ですわ』」
「…………」
「名前欄は『鳳れい』。入力ミス、なんだっけ?」
ソーサーの上でカップがカタカタと鳴った。
わたくしは静かにカップを置き直した。紅茶が少しソーサーにこぼれた。
「……何のことかしら。掲示板なんて下々の遊び場、わたくしは知らないわ」
「掲示板なんて、一言も言ってないけど?」
ひっ、ひっ、ふー。
綺羅々の口元がほんのわずかに持ち上がった。
壁際に控えていた九条が、音もなく眼鏡のブリッジを押し上げた。
「獅子堂様。ご用件を」
「失礼しました、九条さん」
綺羅々は紙を丁寧に折りたたみ、ポシェットにしまった。
「本題よ。来月、駅前のカフェ・レゼールの向かいに、獅子堂グループの新店舗を出すわ」
「……レゼールの、向かい?」
「ええ。鳳グループの直営店でしょ。最近、ずいぶん売上が好調らしいじゃない」
わたくしは顔が隠れるように扇子を開いた。
「それで? 出店はご自由に。万年二位のお店が向かいにできたところで、レゼールは揺らがないわ」
「だから、二位じゃないってば!」
綺羅々はローテーブルに手をついて、身を乗り出した。
「勝負よ、麗華。来月の一か月間。レゼールと、キララの店。売上の高いほうが勝ち」
「……幼稚舎の駆けっこから、少しも変わっていないのね」
「ええ。キララは、一度も麗華に勝ったことがないもの」
まっすぐな声だった。ローテーブルについた指の関節が白くなっていた。
「それと、もう一つ」
綺羅々は身を起こして扉へ向かい、振り返りもせずに言った。
「麗華が夢中になってる『あのお方』。キララがもらうから」
パタン、と扉が閉まった。
応接間に時計の秒針の音だけが残る。
わたくしは扇子で顔をあおぎ、あおぎ、あおぎ続けた。
「お嬢様」
「な、なんですの、九条」
「どういたしましょうか。それと、扇子が逆さまです」
わたくしは扇子を正しく持ち直し、ぴしゃりと閉じた。
「放っておきなさい。どうせ、また二番ですわ」
「かしこまりました」
九条は深々と頭を下げた。
扇子を握るわたくしの指先が、まだ小さく震えていた。
◇
――そして、翌月。
レゼールの窓から見える景色が変わった。
通りの向こう、ついこの間まで空き店舗だった場所に、金色の獅子の看板が掲げられている。
『Lion d'Or(リオン・ドール)』。
開店初日から、行列が途切れない。ガラス張りの店内にはシャンデリアと大理石のカウンター。入り口では、制服姿の女性スタッフが開店記念のクッキーを配っている。
対してこちらは――
「……三組、か」
レジの横で店長が伝票の束を数え、深いため息をついていた。
ランチタイムのピークだというのに空席が目立つ。
わたくし――黒髪のウィッグに眼鏡をかけた「小鳥麗華」は、誰も座っていないテーブルを、もう一度拭いた。
「小鳥さん、そこ三回目ですよ」
背後から柔らかい声がして振り返ると、結城悠がトレイを抱えて立っていた。
「……わかっておりますわ。念入りに拭いているだけです」
「はは、そっか」
結城悠はわたくしの隣に並び、通りの向こうの金色の看板を見上げた。
「すごいよね、向かいのお店。オープン記念のクッキー、真鍋さんがもらってきてくれたんだけど、めちゃくちゃおいしかったよ」
「……敵のクッキーを、召し上がったのですか」
「敵?」
結城悠はきょとんと首をかしげた。
「同じカフェ同士だし、仲間じゃ――」
「敵ですっ! 向かいの店は、レゼールを潰すつもりですのよ!」
店内にわたくしの声が響いた。
結城悠が、目を丸くしてわたくしを見ている。三組しかいないお客様まで、こちらを振り返っていた。
……ひっ、ひっ、ふー。
「……失礼いたしました。三番テーブル、下げてきますわ」
足早に三番テーブルへ向かい、カップを下げようとして椅子に膝をぶつけた。
ガタン、と椅子が大きく揺れる。
「あ、そこの椅子ガタつくから気をつけて」
結城悠の声が背中に飛んでくる。
わたくしは返事をせず、揺れる椅子の脚をしばらく見下ろしていた。
――カラン。
ドアベルが鳴った。
久しぶりのお客様だ。わたくしは反射的に背筋を伸ばし、入り口を振り返った。
「いらっしゃいま――」
言葉が喉の奥で止まった。
紫の髪のハーフアップ。銀のバレッタ。ラベンダー色のワンピース。
獅子堂綺羅々がまっすぐにわたくしを見ていた。
変装した、わたくしを。
綺羅々は店内をゆっくりと見回し、カウンターの奥の結城悠で視線を止めた。
それから、わたくしの前まで歩いてきて、わたくしにしか聞こえない声で言った。
「素敵な眼鏡ね――麗華」