その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――蒼井 深守(あおい みもり)の視点――
カーテンは今日も閉めたまま。
でも問題ない。わたしには目がある。
この部屋から一歩も出なくても空を飛べる目が。
アイゼロの電源を入れる。プロペラが四つ順番に息を吹き返していく。
平日のこの時間の行き先は決まっている。
カフェレゼール。
この店の設計者にはお礼を言いたいくらい。
ほぼ全面ガラス張り。テラス席つき。どの角度からでも中が見える。
わたしのために建ててくれたとしか思えない。
「……いた」
白シャツに黒の腰巻エプロン。
結城くんだ。
シャツの袖は肘まで捲り上げられている。
つまり――前腕が、出ている。
…………
気づいたら指がモニターを押し広げていた。
最大拡大。
もう一段、最大拡大。
わたしのアイゼロは優秀だ。この距離から血管の一本まで拾ってくる。
改造費、二十七万円。
長年貯めていたお年玉のほとんどを使ってしまった。
でも、これが見れると思えば安いものだ。
「今日もがんばってる……」
トレーを片手にテーブルの間を縫うように歩く彼。
誰かが落としたスプーンをしゃがんで拾ってあげている。
しゃがむとき、ちゃんと膝を折るタイプの人だ。
……わたしも、がんばらないと
何をがんばるのかはまだ決めていない。
でも、彼を見ているとそういう気持ちになる。
◇
画面の端に女の人が入ってきた。
制服を着ているから店員さんだろう。
でも、なんだか変だな……
髪が不自然に膨らんでいて眼鏡が顔の面積の半分を占めている。
それだけ見れば地味なのになぜか目を引く立ち振る舞い。
背筋が、定規を入れたみたいに伸びていた。
名前は……
ネームプレートにレンズを向ける。
「こ、とり……れいか」
小鳥麗華。
派手なのか地味なのかよくわからない名前……
倍率を戻して彼の観察に戻る。
「結城悠さま。レジをお願いしますわ」
……いま、様って言った? 呼称にさまをつける人なんて初めて……
「結城悠さま。七番テーブルに、これをお持ちいただけますかしら」
……また来た。
「これを洗っておいていただけますかしら」
……また。
わたしは操縦桿から手を離して腕を組んだ。
この人、結城くんに絡む回数が明らかに多い。
しかも、話している間ずっと彼の顔を見ている。
いや――顔じゃない。
視線の高さが少し低い。
視線の先は――鼻。
いや、ちがう。もう少し下――おそらく唇。
わたしは自分の唇に指を当てながらモニターの中の小鳥麗華をもう一度見た。
眼鏡の奥。分厚いレンズの向こう側。
その目は餌を見つけた鷹のような目だった。
……この人、だめだ。
◇
――数日後。
「あ。今日はカフェの日だった」
公園に向かっていたアイゼロを途中で旋回させる。
しばらく飛ばすと彼の働くカフェ――レゼールが見えてきた。
「……ん?」
その手前で、歩いていた一人のおばあさんに目がいった。
背筋がまっすぐに伸びている。
……姿勢きれいだなぁ。
わたしは曲がっていた背筋を正した。
おばあさんはカフェのドアの前で立ち止まり、それから背中を――ぐにゃりと曲げた。
そして、どこからか杖を取り出して、ゆっくりゆっくり店内に入っていった。
…………ん?
わたしはリプレイボタンを押した。
伸びている背中。曲がる背中。
伸びている背中。曲がる背中。
……いま、わざと曲げたの……かな?
でも、その疑問はすぐに頭の片隅に吹き飛んだ。
ベストポジションにアイゼロを移動させた瞬間お店の中が見えたからだ。
「えっ……」
いつものカフェじゃない――美術館だ。
白い台座がいくつも並んでいて、その上にいかにも高そうな壺が鎮座している。
スポットライトまで当たっている。
……なんだろこれ。何かのイベント?
そう思って画面を眺めていたら、さっきのおばあさんがその台座に向かって歩いていくのが見えた。
まっすぐと迷いなく。
いちばん立派な壺の方へと向かっていく。
……ん?
おばあさんの足が台座の角に引っかかった。
彼女の体が壺の方へ傾いていく。
あ……っ!
その瞬間だった。
視界の端から飛び込んできたのは――結城くんだった。
おばあさんの正面に回り込んでその体を抱きとめる。
その勢いのまま彼の背中が台座にぶつかった。
ガシャァァァン!!
高性能マイクがその音を余すことなく拾った。
わたしはヘッドホンを外すのも忘れて画面を見ていた。
床一面に青い破片が散らばっている。
……結城くん
彼の顔から色が消えていくのがわかった。
膝が折れてその手が震えているのがモニター越しでもわかる。
わたしはコントローラーを強く握りしめた。
プラスチックが軋む音がした。
◇
しばらくして、一人の女の人が彼のそばに歩み寄っていった。
……誰なのかな
レンズを寄せる。
しわ一つない秘書服にヒールの音が聞こえてきそうな歩き方。
そして、すべてを見透かしているような彼女の目が印象的だった。
倒れている人を見ても割れた壺を見ても、瞳の奥は何一つ動いていないように見えた。
彼女が結城くんに何か言っている。
結城くんがうつむいた。
……この人、結城くんに何を言ったの――ううん、そもそもいつからいたの
わたしは映像を巻き戻した。
いた――
事故が起きるずっと前から店の隅に立っていた。
誰とも話さず何も注文せずただ立っていた。
――事故を待っていたみたいに。
やっぱり何か……なにかがおかしいよ……
急に美術館のような雰囲気へ変わったカフェ。
不自然に置かれた高価そうな青い壺。
ドアの前で背中を曲げ、まっすぐ壺に向かっていったおばあさん。
何かが起きるみたいに待っていた秘書服の女性。
「結城くんの周りで何が起きてるの……」
でも、わたしがそれを言葉にしている間にも画面の中では話が進んでいた。
秘書の女性が結城くんに書類を差し出す。
結城くんがそれを受け取る。
どんな会話をしているか分からないけど、なんとなく嫌な予感がする。
彼は震えた手でペンを受け取った。
「……だめ……それ書いちゃだめ!」
声は彼には届かない。
結局、結城くんはサインを書いて、判子を押して、また別の紙が出てきて、また書いて。
その顔を見てわたしは息が止まりそうになった。
今すぐ彼の場所に行って何か力になってあげたい。
だけど――わたしは画面を見ていることしかできなかった。
◇
やがて、結城くんは店の奥へ連れて行かれて画面から消えた。
カフェの中に静けさが戻った。
わたしはレンズを引いて店内を見渡した。
……おばあさんは――いた。
店長さんと何か話している。
紙を差し出されてそこに何かを書き込んでいた。
名前とか、連絡先だろうか。
字を書く手つきに迷いがないのが少し気になった。
書き終えると、おばあさんは何度か頭を下げてそそくさとカフェを出ていった。
誰にも呼び止められないうちにという感じの早さだった。
……追わなきゃ
わたしのカンが彼女を追えと訴えかけてくる。
アイゼロの高度を落としてサイレントモードで後をつける。
通りを一本、二本。
おばあさんはビルの間の細い路地へと入っていった。
人通りが次第に途切れ、角を曲がりきった、その時――
背筋がすっと伸びた。
さっきまで曲がっていたはずの背中が、定規を入れたみたいにまっすぐに。
杖は地面につけていなかった。ただ手にぶら下げているだけ。
わたしはコントローラーを握ったまましばらく動けなかった。
アイゼロを移動させ建物の裏へ回り込ませる。
おばあさんはそのまま路地の奥へ進んでいく。
突き当たり。人の目が届かない、行き止まりの場所。
そこに、誰かが立っていた。
わたしはレンズを寄せる。
しわ一つない秘書服。
あの感情の見えない目。
……さっきの人だ
カフェで結城くんに書類を書かせていたあの秘書だった。
いつ店を出たのか映像を確認しても分からなかった……
そして、おばあさんがその人の前で深く頭を下げる。
背筋が伸びたまま腰から折るような丁寧なお辞儀だった。
――まるで、雇い主に向けるお辞儀のよう。
そして秘書の女性がジャケットの内側から茶封筒を取り出す。
厚い。角が鈍く膨らんでいる。
おばあさんはそれを何度も頭を下げながら両手で受け取った。
わたしはマイクの感度を上げたけど音を拾うことができない。
「あ……そうだ!」
わたしはアイゼロに新しくつけた読唇システムを思い出して起動する。
さっそく秘書の女性の唇が動く。
AIアプリと連動して、画面の下に白い文字が流れた。
《――ご苦労様。端役にしては、いい演技でしたよ》
え……
わたしはその文字を三回読んだ。
三回読んでも意味は変わらなかった。
うそだよね……
これ――仕組まれてたんだ……全部。
背中を曲げたのも、壺に向かったのも、転んだのも。
きっと、結城くんが飛び出すことまで計算されてたんだと思う。
となると黒幕は彼の性格を良く知る人物だろう。
犯人は結城くんの優しさ――それを利用したんだ……
わたしは、さっきの映像を思い出した。
震える手でペンを走らせていた結城くん。
あのときの結城くんの顔。
喉の奥が熱く、指先が冷たい。
ぜったいに……許せない……
「なにか……わたしにできることは……」
目に入ったのは画面の隅で今も回り続けている録画のインジケーター。
赤い点がゆっくり点滅している。
「……そうだ。これを使って――」