その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――鳳麗華の視点――
「……いらっしゃいませ。お一人様でよろしいかしら」
わたくしは営業用の声を絞り出した。
「ええ。窓際の席をお願い」
獅子堂綺羅々はまるで自分の店のように店内を横切り、窓際の席に腰を下ろした。通りの向こうに、金色の獅子の看板がよく見える席だ。
わたくしはお冷やを運び、テーブルに置いた。グラスの水面が小さく波打っている。
「なんの用かしら」
「店員さんの口調じゃないわね。今日はお客として来てるの」
「今は忙しいの……あなたに構っている暇などなくってよ」
「言う割にはテーブルは空いてるように見えるけど。それとも早く帰ってほしい理由でもあるの?」
「……」
綺羅々はメニューを開きもせずに、わたくしを見上げた。
「調べたの。レゼールの口コミ」
綺羅々はポシェットから手帳を取り出し、テーブルの上に開いてみせた。几帳面な文字が、びっしりと並んでいる。
「この三か月で書かれた口コミ、二百十四件。そのうち百七十一件に、同じ店員が出てくるわ」
ページの真ん中に、赤いペンで丸がつけられた名前があった。
――結城悠。
「ほら、見て」
綺羅々は今度はスマホの画面をこちらに向けた。
★★★★★ みさきち(二十代・会社員)
笑顔の男性店員さんが最高!
★★★★★ 匿名希望
底辺の私にも、丁寧に接客してくれる青年がいる。
★★★★★ ゆるふわOL
椅子を引いてくれたり、空いたお皿を下げてくれたり、水のおかわりも。こんなに気の利く男、ほかにいる?
★★★★★ カフェ巡り三年目
あの子に会いに通ってます。
★★★★★ 失恋中
フラれて泣いていたとき、何も言わずにコーヒーを出してくれた。
★★★★★ 血管フェチ
たまに腕まくりしてる。腕の血管を惜しげもなく晒しながら……最高かっ!
★★★★★ リピーター
「また来てくれたんですね」の笑顔でリピ確定。
★★★★☆ ちょっと残念
男性の店員さんは最高。でも、私が話しかけるたびにメガネの子が睨んでくる。それさえなければ……。
わたくしは眼鏡のブリッジを押し上げた。
「レゼールが好調な理由――それはコーヒーでも内装でもない。あの人よね」
「…………」
「麗華が夢中になってる『あの方』も、あの店員でしょう?」
「見当違いも良いところですわ……」
綺羅々は小さく笑うとスマホの画面を消した。
「ふふふ。初めてあなたに勝った気分。ああ――気分が良い。あっ、注文もいいかしら。――あの人に、取ってもらいたいんだけど」
「……残念。そういったサービスは、うちではやっておりませんの」
そのとき、トレイを抱えた結城悠が、ちょうどテーブルの横を通りかかった。
「あ、小鳥さん。こっちの注文は俺が取るよ。カウンターお願いしてもいい?」
……どうして、こういうときに限って。
綺羅々がメニューで口元を隠した。
でも目だけは笑っていた。
◇
「お待たせしました。ご注文はお決まりですか?」
結城悠が、いつもの笑顔で綺羅々の席に立った。
わたくしはというと、カウンターの内側でグラスを磨いている。
隣で伝票を整理していた店長が、おそるおそる声をかけてくる。
「こ、小鳥さん……そのグラス、もうピカピカだと思うけど……」
「まだですわっ!」
「ひっ、すみません」
綺羅々がメニューを閉じた。
「ブレンドを一つ。それと――」
綺羅々は上品な手つきで、一枚の名刺を差し出した。
「獅子堂綺羅々と申します。向かいの『リオン・ドール』のオーナーです」
「あ、向かいの! オープンおめでとうございます。クッキー、すごくおいしかったです」
「……あ、ありがとうございます」
予定にない返事だったのだろう。綺羅々の眉がほんの一瞬だけ寄った。けれどすぐに涼しい顔に戻る。
「単刀直入に申し上げます。結城悠さん。うちの店で働いていただけませんか」
グラスを磨くわたくしの手が止まった。
「時給は、今の三倍。正社員として雇用します。もちろん、社宅もご用意しますわ」
店の奥で、真鍋さんが「三倍……」とつぶやくのが聞こえた。
店長の手から、伝票の束がばさりと落ちた。
わたくしが置いたグラスが、カウンターの縁で甲高い音を立てた。
――お金で人を買う。
それは、わたくしがずっと当たり前だと思ってきたやり方だった。
鳳では欲しいものはそうやって手に入れる。ふさわしい額を提示して、相手に首を縦に振らせる。断られたことは一度もない。
だからこそ知っている。
時給三倍。正社員。社宅つき。
断る理由のある人間なんて――いない。
鳳の名前を出せば、時給を十倍にだってできる。
けれど、エプロンのポケットに入っているのは、レジ締めのメモとボールペン。それから、付箋が一枚きり。
わたくしはカウンターの縁をぎゅっと握りしめた。
結城悠は名刺を両手で受け取り、しばらく、それをじっと見つめていた。
わたくしはエプロンの下で、両手の指を固く組んだ。
そして――結城悠は顔を上げた。
「ありがたいお話なんですけど……すみません。お断りします」
組んでいた指がほどけた。
「当然です。では来週からおねが――えっ? いま……なんと……」
「すみません。お断りします」
「な、なんででしょうか……。待遇にご不満でも……」
「いえ、俺にはもったいないくらいの条件です。そうじゃなくて――俺、ここで働いてる人たちとお客さんが好きなんで」
結城悠は、名刺を両手でそっとテーブルに戻した。
「店長はため息ばっかりですけど、新メニューのことずっと考えてるし。真鍋さんはいつも助けてくれるし。常連さんも、顔を覚えてくれてて。……あと」
結城悠がカウンターのほうを振り返った。
わたくしと目が合った。
「小鳥さん、最近やっとラテアート上手くなってきたんですよ。それ、見届けたいんで」
わたくしは、とっさにカウンターの下にしゃがみ込んだ。
……ひっ、ひっ、ふー。
ひっ、ひっ、ふー。
カウンターの陰でエプロンの裾を握りしめる。
そっと顔を出すと、綺羅々が名刺を差し出した手の形のまま固まっていた。
「……そう、ですか」
綺羅々はテーブルに戻された名刺を指先でつまみ、ゆっくりとポシェットにしまった。
綺羅々の指がかすかに震えていた。
その震えには覚えがあった。
◇
ブレンドを半分残して、綺羅々は席を立った。
「麗華。ちょっといい?」
会計を済ませると、綺羅々はわたくしにだけ聞こえる声で言い、店の外へ出ていった。
裏の路地で、綺羅々は壁にもたれて待っていた。
「……驚いた。あんな人がいるのね。キララ、断られるのは初めてよ」
「ふふ、当然ですわ。わたくしでさえ思いどおりにできない方ですのよ」
「……なんで麗華が得意げなのよ」
「と、得意げになどなっておりませんわ」
「なってるから。昔から自慢するときだけ顎が上がるのよ」
わたくしはそっと顎を引いた。
「やっぱりね。『あのお方』は、あの店員だったんだ」
綺羅々は壁から背を離し、わたくしの正面に立った。
「勝負の条件、追加するわ」
「条件?」
「月末、売上でキララが勝ったら――結城悠をもらう」
わたくしは、綺羅々をまっすぐに見た。
「お断りしますわ」
「……逃げるの?」
「逃げませんわ。結城悠は、物ではありませんもの。賭けの景品にするなんて、わたくしが許しません」
わたくしの声が路地の壁に跳ね返った。
綺羅々が目を丸くしていた。
それから、ふっと笑う。
「麗華、あなた……変わったわね。まぁいいわ、じゃあ、こうしましょう」
綺羅々はわたくしの眼鏡を指差した。
「キララが勝ったら、小鳥麗華が鳳麗華だってこと、結城悠に話す」
路地を冷たい風が吹き抜けた。
「……卑怯ですわ」
「逃げてもいいわよ」
綺羅々は試すように首をかしげた。
「……好きになさい。ただし、そちらがそう来るのなら、わたくしにも考えがありますわ」
「……なによ」
「綺羅々。あなたが負けたら――わたくしの靴に口づけなさい」
綺羅々の頬がさっと赤く染まった。
四十八戦目のチェスで負けたあと、綺羅々は三日間、わたくしと口をきかなかった。
「……いいわ。受けて立つ」
綺羅々は踵を返した。紫の髪が風に揺れた。
「じゃあね、麗華。――あ、それ」
数歩行ったところで、綺羅々が振り返った。
「眼鏡、似合ってないわよ」
◇
路地に一人残されて、わたくしはしばらく動けなかった。
鳳の名前を知った途端、態度を変えなかった人は一人もいない。
幼稚舎のころ、仲良くしていた子がいた。砂場で一緒にお城を作って、泥だらけになって笑い合った子。
ある日、その子のお母様が、わたくしの家の名前を知った。
次の日から、その子はわたくしを「麗華さま」と呼んだ。
砂場にはもう誘ってくれなかった。
――結城悠は、どうだろう。
店の奥で、鳳の令嬢がずっと身分を隠して働いていたと知ったら。その働きぶりを、こっそり評価されていたと知ったら。
「小鳥さん」と呼んでくれる、あの声は。
まかないを半分こしてくれる、あの手は。
わたくしはエプロンのポケットに手を入れた。
指先に小さな紙が触れる。いつかの休憩中に、結城悠が描いてくれた、下手くそな鳥の絵の付箋。
『小鳥さん、今日もおつかれさま』
捨てられずに、ずっとポケットに入れていたもの。
わたくしはポケットの中の付箋を握ったまま、路地の出口から通りを見た。
向かいの店で、金色の獅子が夕日を受けて光っていた。
その下には、今日も長い列ができていた。