その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
わたしはヘッドホンを掛け直して録画ファイルを頭から再生した。
三十七分二十四秒。
この中に全部が入っている。
まず怪しいのはこの人。
結城くんに書類を書かせていた無表情の秘書。
静止画で切り出してゴーグルレンズで補正。最新AIの顔認証にかける。
解析中――解析中――解析中――
解析完了
――該当者、一名。
【九条千尋:鳳グループ会長令嬢の専属秘書。表の業務から裏の業務まで卒なくこなす、影の実力者と噂される】
「……鳳グループ」
喉が変な音を立てた。
この国でその名前を知らない人はいない。
テレビをつければCMが流れて、コンビニに行けば商品が並んでいて、駅前のビルにもロゴが載っている。
――そんなところがなんで結城くんに。
わたしは次の画像を用意した。
次に怪しいのはおばあさん――腰を抜かしたふりをして路地裏で背筋を伸ばした人。
解析中――解析中――解析中――
解析完了
――該当者、一名。
【紅月菊子(こうづききくこ):鳳グループ傘下・劇団紅月のトップスター。舞台歴四十年。当たり役は老婆から悪女まで幅広い】
「……また鳳」
モニターに書いてあるテキストを睨む。
……プロの役者だったんだ。結城くんを騙すために、わざわざ本物の役者を……
指先がじわりと冷たくなっていく。
でも、まだ終わりじゃない。
わたしが怪しいと思っている人はもう一人いる。
髪が不自然に盛り上がっていて眼鏡が顔の半分を覆っていたカフェの店員――小鳥麗華。
再度ゴーグルレンズで検索にかける。
画面の真ん中で砂時計のアイコンがゆっくり回っている。
解析中――解析中――解析中
解析完了
該当者、一名。
【鳳麗華(おおとり れいか):鳳グループ会長令嬢。次期後継者】
「……えっ」
声が裏返った。
わたしは椅子ごと後ろに下がった。
もう一度名前を見るが結果は変わらない。
小鳥麗華は――
鳳麗華だったんだ――
……こ、とり。おおとり。
わたしはしばらく口を開けたままその二つを見比べていた。
一文字足しただけじゃん。名前くらい、ちゃんと変えなよ……
というか、あんなに手の込んだ舞台を用意して役者まで雇って、それで偽名がこれ?
こんなの全然笑えないよ……
ちょっと落ち着いて考えよう。
わたしは深呼吸をして頭の中で整理を始めた。
あのおばあさんは劇団の人だった。
自分の意思で壺を割りに来たわけじゃない。
たぶん指示したのは路地裏で封筒を渡していた秘書の女性。
じゃあ、その秘書に指示したのは。
わたしは画面の隅に並んだ三枚の顔写真を見た。
九条千尋。紅月菊子。そして――
鳳麗華。
……きっとこの人だ。
この人が全部の黒幕だ。
でも――なんで?
鳳グループの次期後継者でお金だって、権力だって、たぶん全部持っている人。
その人がなんでカフェの制服を着て、ウィッグと眼鏡で顔を隠して、スタッフのふりをしてるの?
……なんで結城くんに高価そうな壺を割らせたの?
わたしは椅子の上で膝を抱えた。
お金が欲しいわけじゃないはずだ。
あの壺がいくらするのかは知らないけど、鳳グループならたぶん買い直せる金額だろう。
カフェの評判を落としたいわけでもないと思う。自分のところの店だし。
結城くんに恨みがある?
……ううん。
だってあの人、彼のこと――
思い出したのはカフェのモニター越しの光景だった。
『結城悠さま、レジをお願いしますわ』
『結城悠さま、七番テーブルにこれを』
『これを洗っておいていただけますかしら』
用があるたびに近づいて話しかけて、その間ずっと――
彼の唇を見ていた。餌を見つけた鷹みたいな目で。
……あぁ、そっか。
わたしは膝を抱えたまま天井を見上げた。
この人、結城くんのこと狙ってるんだ。
それは、まあ、うん、しょうがないと思う。
だって結城くんは、優しくて、まっすぐで、しゃがむとき膝を折る人で、相手をランク付けなんかしない人で、告白した相手に悪口なんか言わない人で、つまりはわたしの王子さまってことで。
好きになる人がいてもおかしくない。むしろ、いない方がおかしい。
……でも。
わたしはもう一度モニターを見た。
割れた青磁の破片。色を失っていく彼の顔。震える手でペンを走らせる指先。
好きなら。
好きならなんで。
どうして、あんな顔をさせるの。
好きだから近づく――それはわかる。
好きだから話しかける――それもわかる。
でも、好きだから壺を割らせて、責任を背負わせて、怪しい書類にサインさせる?
……意味がわからない。
わたしはマウスを動かして契約書を書かされている場面まで映像を戻した。
九条千尋が二枚目の書類を出している。
一枚目より少し厚い紙。
結城くんが、ろくに読まないまま署名欄を探している。
――あの書類には何が書いてあるんだろう。
わたしは映像を拡大した。最大拡大。もう一段。
だめだ。角度が悪い。文字の列が影になって潰れている。
読めるのは一番上の一行だけ。
目を凝らす。画質補正をかける。ノイズを削る。
だんだんと白い紙の上に黒い文字が浮かび上がってきた。
その四文字を読んだとき、わたしは息を止めた。
――執事契約
……執事ってあの執事?
背中を冷たいものが伝った。
もう一度映像を巻き戻す。
一枚目の書類にサインした直後、結城くんの顔から色が消えた場面。
そこから、二枚目が出てくるまでの数分間、九条千尋がスマホでどこかに電話をかけている。
電話を切って結城くんに向き直る。
その瞬間――彼の顔に、ぱっと光が戻った。
……なんで?
絶望していた人が急に嬉しそうな顔をする。
そんなの理由はひとつしかない。
――助かる、と思ったんだ。
わたしは読唇システムを九条千尋の唇に合わせた。
解析、開始。
画面の下に、白い文字が流れていく。
《――麗華様より、負債についてはこちらで持つとのことです》
……負債の肩代わり。
そして二枚目の書類。
執事契約。
……あ。
わたしの指がキーボードの上で止まった。
――そういうことか。
壺を割らせる。
払えない金額を背負わせる。
絶望させて判断力を奪って。
そこに「助けてあげる」と手を差し伸べる。
そうして強制的に執事として働かせるつもりなんだ。
……最悪だ。最悪すぎる。これ優しさのふりをした詐欺じゃんか……
わたしはヘッドホンを両手で押さえた。
部屋の中でPCのファンの音だけが回り続けている。
この人は結城くんが好きなんじゃない――結城くんが「欲しい」んだ。
人を物みたいに扱う彼女なんかに結城くんをやれない。
……絶対に、絶対にだめ。
あの人のところに行かせたら、結城くんはたぶんもう戻ってこられない。
わたしはモニターを見た。
画面の隅で赤い点がゆっくり点滅している。
録画は今も回り続けている。
◇
わたしはブラウザを立ち上げた。
動画投稿サイト――ヨーチューブ。
こういうものは拡散されればされるほど強い。
テレビでも、新聞でも、鳳の名前がついた場所には絶対に出せないニュース。
でもここなら誰の許可もいらない。
動画編集ソフトに録画データを放り込む。
背筋を伸ばして歩くおばあさん。ドアの前で曲がる背中。まっすぐ壺へ向かう足取り。飛び込む結城くん。割れる壺。震える手。
そして路地裏の茶封筒と、AIで解読した証拠となる文言。
《――ご苦労様。端役にしては、いい演技でしたよ》
わたしはタイトルを打ち込んだ。
『【証拠あり】大手グループが一般人を騙して契約させる手口』
説明欄に事故の日付と場所――そしてアップロードボタンにカーソルを合わせる。
……これで、結城くんの追い風になるはず。
カチッ
バーが左から右へゆっくり伸びていく。
十パーセント。四十。七十。
九十九。
――アップロード完了。
わたしは椅子の背もたれに、ぐったりと体を預けた。
なんか疲れた……
これで少しだけでも力になれたよね……
◇
……そういえば、結城くんは今どうしてるんだろう。
気になってアイゼロの電源を入れ直した。
だめ元で彼のマンションへ向かわせると、ちょうど彼が部屋から出てくるところだった。
……あ。
いつもの部屋着じゃない。
白いシャツにジャケット。手には封筒のようなもの。
どこに行くのかな……
彼は駅の方へ迷いなく歩いていく。
やがて足を止めたのはガラス張りの立派な建物の前だった。
入口の上に、大きな文字。
――服部法律事務所
法律事務所。
……あっ。
そうか。あのサインした契約をどうにかしようとしてるんだ。
わたしはアイゼロを近くのビルの陰でホバリングさせて、待った。
十分。二十分。
自動ドアが開いて結城くんが出てきた。
入るときはまっすぐだった背中が、少しだけ丸くなっている。
顔が下を向いていた。
……だめだったんだ。
彼はそのまま次の事務所へ入っていった。
うつむいて出てきた。
その次。
もう入る前からうつむいていた。
交番にも入った。
三分で出てきた。
……そんな。
誰も話を聞いてくれないの。
あんなに全部あの人たちが仕組んだことなのに。
わたしはコントローラーを握りしめて、モニターの中の彼を追い続けた。
彼の歩幅がどんどん狭くなっていくのがわかった。
日が落ちて街が青くなっていく。
彼が入っていったのは細い路地だった。
人通りのない、ビルとビルの隙間みたいな道。
その途中で彼が足を止めた。
スマホを取り出して、画面をじっと見ている。
それから顔を上げた。
目の前にあったのは古びた二階建てのビル。
看板の照明がチカッ、チカッと点滅している。
やがて、その明かりがふっと安定して灯った。
照らし出された文字をアイゼロが読み取る。
――如月法律事務所
結城くんが階段を上っていく。
わたしはアイゼロを壁沿いに移動させて、二階の窓を探した。
カーテンの隙間。ほんの数センチ。その隙間から、中が少しだけ見えた。
結城くんが深く頭を下げている。
向かいに立っている女の人がマグカップを彼の前に置いた。
それから、彼の背中を、ポン、ポンと二回叩いた。
…………
わたしはアイゼロをその場から離した。
なんとなく、これ以上は見てはいけない気がしたから。
……でもよかった。
ちゃんと話を聞いてくれる人がいたんだ。
わたしはヘッドホンを外して大きく息を吐いた。
法律の人が味方についてくれた。
わたしの動画もこれから広がっていく。
だいじょうぶ。まだ、なんとかなる。
◇
そうだ。動画どれくらい伸びたかな。
わたしはブラウザのタブを開いた。
管理ページ。動画一覧。
サムネイルの横に灰色のアイコンがついていた。
その下に短い文章。
《この動画は、コミュニティガイドライン違反のため公開を制限しました》
《申し立て者:権利保有者》
……え。
わたしは何度もその文字を読んだ。
違反。制限。権利保有者。
……なんで。
わたしは急いで再アップロードした。
バーが伸びていき完了のメッセージ。
問題なく更新が終わる。
《この動画は公開を制限しました》
もう一度。タイトルを変えて。
《この動画は公開を制限しました》
画質を落として。切り抜いて。音声だけにして。
《公開を制限しました》
《公開を制限しました》
《公開を制限しました》
――四十七秒。
アップロードしてから消されるまでの時間が、だんだん短くなっていた。
別のサイトにも上げてみたけど、そこでも結果は同じだった。
わたしは椅子の上で膝を抱えた。
部屋の中で、PCのファンだけがずっと同じ音で回っている。
……見張られてる。
鳳の名前が出た動画を誰かが待ち構えて潰している。
テレビも、新聞も、法律事務所も、警察も、そしてここも。
全部あの人たちの手が届く場所なんだ。
わたしの目は全部見た。
証拠だってちゃんと持っている。
なのに――わたし一人じゃ、この画面の外に何一つ届けられない。
膝に顔を埋めたまま、しばらくそうしていた。
それからわたしは顔を上げた。
過去のフォルダを開く。
結城くんの周りをうろつく要注意人物のデータ。
一人目。
阿久津魅夜。彼の隣の部屋の人。人のベランダを平気で乗り越える目つきの悪いキツネ女。
二人目。
浅見凛。人のソファに顔を埋めて拝んでいた変態のお姉さん。
……この人たちとだけは絶対に関わりたくなかった。
だって、こんなのまともじゃない。
でも――
拡散する力を持っている人。
大きな会社を動かせる人。
わたしは震える指で二人のエンスタで証拠のファイルを添付したDMを送った。
『はじめまして。結城悠さんが、鳳グループに騙されています。証拠があります。一人ではどうにもなりません。助けてください』
送信。
二人分。
押した瞬間、心臓がすごい速さで鳴り始めた。
……これで、いいんだよね。
これでよかったんだよね。
――ピコン。
……はやい
既読がついてから一秒だった。
わたしはおそるおそる通知をタップした。
浅見凛『こんばんは。まずひとつ確認させて』21:04
『あなた、この証拠どうやって撮ったの?』21:04
……うっ。
いちばん聞かれたくないところをいちばん最初に聞かれた。
どうしよう。なんて答えたら……
もう一人の方は――と画面を切り替える。
やっぱりこの人はなんか怖いしやめておいた方が――
ピコン。
阿久津魅夜『テメェ誰だ』21:07
『バット持っていくから待ってろ』21:07
『住所』21:07
『はやくしろ』21:07
わたしは犯人じゃないのに……こわいよぉ……
わたしはそっとスマホを裏返した。