その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――鳳 麗華(おおとり れいか)の視点――
「……鳳麗華さん」
声が頭上から降ってきました。
顔を上げると、あの弁護士――如月とかいう女が、わたくしの前に膝をついておりました。
「話をしましょう」
彼女はコートの内側から一枚の紙を取り出しました。
そっと、わたくしの目の前に置きます。
「合意書よ」
……合意書。
「結城悠さんとの一切の契約を破棄すること。今後一切、彼に接触しないこと。……この二つに同意する書類」
わたくしはその紙を見ました。
白い紙に黒い文字。
ただの紙切れなのにその重さに指先が震えます。
「サインしなさい」
「……嫌ですわ……これに署名したら、結城悠は」
「二度とあなたのところには戻らないわ」
「…………」
「当たり前でしょう。あなたが何をしたか分かってるの?」
わたくしは何も言えず、ただ書類の一点を見つめておりました。
ペンを取ろうとする手が動きません。
これに署名すれば結城悠はもう戻ってこない。
本当に二度と。
「鳳麗華さん。今のあなたに選択肢はないの」
弁護士の声が遠くに聞こえます。
「この書類にサインしなければ、私は明日、正式に告訴するわ。詐欺罪、監禁罪、傷害罪」
「……鳳が、揉み消しますわ」
自分の声が、思っていたよりかすれてしまっています。
「その鳳に、たった今、捨てられたばかりでしょう」
――ぴくり、と。
肩が震えました。
そうでした。わたくしはもう鳳では――
その時。
「……お嬢様」
声がしました。
昔から仕えているわたくしの秘書。
彼女は書架から身を起こし、腹を押さえながらゆっくりとこちらへ歩いてまいりました。
そして、わたくしの前で片膝をつきました。
「……九条」
「はい」
「……九条。あなたは、まだ、わたくしのそばに」
「おります」
……よかった。
まだ九条だけは。
「……九条。サインなど、しなくても」
「お嬢様。署名なさいませ」
――え。
「……なにを、言って」
「署名なさいませ」
九条は静かに繰り返しました。
「……なぜですの。なぜ九条、あなたまで……わたくしの敵になりますの」
彼女は黙ったまま、じっとわたくしを見ておりました。
その目には今まで見たことのない色が浮かんでおります。
「……九条」
「サインをなさってください」
「……嫌ですわ!」
わたくしは書類を払いのけようとしました。
でも、九条の手がそれより早くわたくしの手首を掴みました。
強い力ではございません。
でも、離れませんでした。
「……お放しなさい」
「……いい加減にお気づきなさい」
これまで一度も聞いたことのない感情の入った声でした。
「……何を、気づけと」
「あなたは、鳳という名に縛られ、お金に執着し、一番大切なものを忘れてしまった」
「……そんなもの、ございませんわ」
「ございます」
九条が断言しました。
「法や、お金、契約では人は縛れません。……縛りたいのであれば――」
彼女の手がわたくしの手にそっと添えました。
「あなたご自身の、愛と魅力で縛りなさいませ」
……愛。
わたくしはその言葉を口の中で繰り返しました。
なんですの、それは。
わたくしには、それがなかったと。
九条は床に落ちていたペンを拾い上げました。
そして、それをわたくしの手にそっと握らせました。
「……奪うのではなく与えるのです」
「……」
「今日、あなたが失ったものはすべて――あの方という真実を得るための尊い犠牲だったと」
「……」
「いつか、あの方がご自分の意志であなたの隣に座る日のために――今はその手を離しなさい」
――ッ。
九条を見ると彼女の目が赤くなっているように見えました。
「……奪うこと――わたくしは……ずっと……」
脳裏に蘇ってまいります。
かつて友人と呼べる方がおりました。
ですがここ最近はその友人は他の誰かと親しくしてばかり。
わたくしは、彼女を奪われないよう周りに鳳の名を出し、お金を配り、時には脅して彼女に近づかせないようにしました。
……これで友人を独占できたと思っておりました。
でも、気づけば彼女はわたくしのそばを離れておりました。
これまでのこと。全部。
全部、お金と権力で、奪って、縛って、動けなくして。
「これが、わたくしの――愛し方ですの」
「いいえ、それはただの独占欲です。あなたは奪うことで手に入ったと錯覚してしまわれたのです」
「独占欲……わたくしは……与えることを、知らなかった」
「はい」
「……奪うことしか」
「はい」
「……鎖で、繋ぐことしか」
「はい」
九条はわたくしの言葉ひとつひとつに頷きました。
「…………」
わたくしは両手で顔を覆いました。
「わたくしは金と権力で寄ってくる男たちを……軽蔑しておりました」
「はい」
「わたくしは……同類ですね……」
九条は何も言いませんでした。
ただ、静かにわたくしの背に手を添えておりました。
「……う」
声が漏れました。
「……う、う……」
喉の奥から堰を切ったように溢れ出します。
「……うっ、うわあああああああんっ!!」
水滴が紙の上に落ちて乾いた白が灰色に沈んでいきます。
黒い文字はにじんで広がっていきます。
「……もう、わたくしに……資格などございませんのね」
「はい。ですが――今この瞬間からでも人は変われます。私はそう信じます」
「……九条」
わたくしはペンを握り直しました。
視界は白く滲んでほとんど何も見えません。
指先の震えも止まりません。
鳳、麗、華。
自分の名前を書き記すその一画一画が、わたくしの誇りを切り裂く刃のようでした。
サインを終えた瞬間、これまでのわたくしの世界は完全に崩壊しました。
「……できましたわ」
わたくしは震える手で書類を弁護士の方へ差し出しました。
彼女はそれを受け取り内容を確認いたしました。
「……確認したわ」
「…………」
「これで、正式な手続きに入るわ。あなたのしたことは、これで消えるわけじゃないけれど――あの子は、たぶんあなたを訴えないわ。……そういう子なのよ」
わたくしは顔を上げました。
彼女はもう背を向けて扉の方へ歩いておりました。
三人の女たちに支えられて結城悠が部屋の外へ消えていきました。
一度も振り返らずに。
◇
わたくしは絨毯の上に座り込んだまましばらく動けませんでした。
シャンデリアの光だけが無駄に部屋を明るく照らしております。
今日失ったもの。
鳳という名の名誉と一生使い切れない額の金銭。
でもおかしいのです。
今も胸を締めつけているのはもっと違うなにか。
鳳を失ったことより結城悠を失ったことの方がよほど苦しいのです。
……ふふ。
おかしいですわね。
今思い浮かぶのは初めてお会いした頃のあの無邪気な顔。
そして振り返りもせず部屋を出ていかれたあの背中。
嫌われて、拒まれて。それでも。
わたくしの心は、まだあの方だけを追っておりますの。
「……九条」
「はい」
「わたくし、どうしようもございませんのね」
「……そうかもしれません」
「すべてを失ってこんなにも惨めな姿を晒して。それでも……諦めがつきませんの」
九条は静かにわたくしの隣に座り直しました。
「……お嬢様」
「なんですの」
「諦めがつかないというのは」
九条の声に、わずかに笑みが混じったように聞こえました。
「悪いことではございません」
わたくしは顔を上げました。
「……九条」
「今度こそ正しいやり方でお進みになればよろしいのです」
わたくしは口元をそっと押さえました。
……正しいやり方。
わたくしにはそれがまだ分かりません。
でも。
「次は――
次はお金や契約書なんかではなく――
一生を懸けてわたくしの愛を分かっていただけるように」
「……お嬢様」
「いいえ」
わたくしは涙を拭いました。
まだ止まらないけれど顔を上げて。
「分からせて差し上げますわ。……悠さま」
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【あとがき】
一章終わりました!
楽しんでもらえていたら幸いです!