その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果 作:やっくん。
白い。
目を開けた瞬間、最初に思ったのはそれだけだった。
天井が、白い。
(……俺の部屋の天井、じゃないないな)
ゆっくりと身体を起こす。頭が重い。水の底から引き上げられたような、変な感覚だ。
見渡すと、見たこともない部屋だった。
広い。異常に広い。俺の四畳半が十個は入りそうな空間。
壁は純白で、家具はどれも上品で、足元には触り心地の良さそうな
絨毯が敷いてある。
窓に近づいた。
外を見て、思わず息を呑んだ。
車が、豆粒みたいだ。人が、蟻みたいだ。
(……ここ、めちゃくちゃ高い)
「目が覚めた?」
背後から声がした。
振り返ると、凛さんがいた。
いつものスーツ姿じゃない。柔らかそうな白いワンピース姿で、
テーブルの前に立っている。テーブルの上には、湯気の立つスープと、
丁寧に盛り付けられた食事が並んでいた。
まるで、ずっとここで待っていたみたいに。
「……凛さん」
「おはよう、悠くん。よく眠れた?」
にっこりと、完璧な笑顔だった。
(エレベーターで、何かを嗅がされた)
記憶が戻ってくる。ユキちゃんに会いに行くと言われて、
エレベーターに乗って、それから――。
「ここ、どこですか」
「私の新しいお家よ。悠くんのためにご用意したの」
「……俺のため」
「そう」
凛さんは椅子を引いて、俺に座るよう促した。
「鳳の残党が、まだあなたを狙っているの。あのボロアパートに
いたら危ないから」
(嘘だ)
すぐにわかった。如月さんが三億の契約を無効にして、麗華さんは鳳グループから除籍された。彼女は今、レゼールで皿洗いをしている。
残党なんて、いるわけがない。
でも。
(ここで怒鳴っても、何も変わらない)
俺は椅子に座った。
「……いただきます」
「召し上がれ」
スープを一口飲む。美味しかった。丁寧に出汁が引いてあって、
体に染みる味だ。
「……美味しいです」
「よかった。悠くんが好きそうな味にしたの」
凛さんは嬉しそうに微笑んだ。
その顔を見ていると、怒りと呆れが同時にやってくる。
白猫のユキの里親になってくれた人だ。仕事を頑張っているのも知っている。
変な性癖を素直に話してくれたときも、嫌いにはなれなかった。
でも。
(さすがに、これは)
「凛さん」
「なあに?」
「俺、今日、九条さんに連絡しようと思ってたんですけど」
「キャンセルしておいたわ」
「……え」
「あなたのスマホから。急用ができたって」
さらりと言われて、俺は言葉を失った。
スマホは指紋認証でロックが外れるように設定してある。つまり寝てる間におれの指を使って解除したということだ。
スープを飲む手が止まる。
「魅夜さんにも?」
「しばらく忙しいから家には帰らないって」
「……光ちゃんには?」
「しばらく練習はいけないって送っといたわ」
「しずくさ……」
「送っといたわ」
「…………」
「ご飯、冷めちゃうわよ?」
凛さんはもう一度、微笑んだ。
俺はスプーンを置いた。
「凛さん、俺の話を聞いてもらえますか」
「もちろん」
「俺は、自分の足で生活したいんです。自分で稼いで、自分で決めて。
凛さんが心配してくれてるのはわかります。でも、それは俺が決めることだと思う」
凛さんの手が、テーブルの上でかすかに動いた。
「……鳳の残党は本当に危ないの。私のツテで調べたんだけど」
「どんな残党ですか。何人いて、どこにいるんですか」
「それは……」
「凛さん」
俺はできるだけ穏やかに言った。
「俺の人生は、俺が決めていいことだと思うんです」
しばらく沈黙があった。
凛さんは窓の外を見て、それからゆっくりと俺に視線を戻した。
「……デザート、フルーツがあるの。食べる?」
答えてくれなかった。
◇
食事が終わり、凛さんが片付けを始めた。
俺は立ち上がって、部屋を歩き回った。
玄関を確認する。暗証番号式のロックがかかっていた。
番号はわからない。
窓に手をかけた。びくともしない。安全ロックがかかっているらしく、
最上階だからか、鍵穴すら見当たらなかった。
(完全に、詰んでる)
スマホを取り出して、画面を開く。
俺が書くわけがない文章が、俺の名前で送られていた。
九条さんへのトーク画面。
『やっぱりバイトの件はお断りします。今後も俺に関わらないでください』
レゼールへの返事も、止まってしまった。
雫さんへのトーク画面。
『麗華さんの件は改めてありがとうございました。ですが、事務所に足を運ぶたびにトラウマを思い出すので、もうそちらに行くのをやめます。今までありがとうございました』
魅夜へのトーク画面。
『魅夜さん、今まで隣に住んでていろいろありがとうございました。引っ越しが決まったので、もうそちらには戻りません。お世話になりました』
光ちゃんへのトーク画面。
『バスケのこと、本気で続けようか迷ってたんだけど、
やっぱりやめることにした。今まで付き合ってくれてありがとう』
(ひどい)
思わず、乾いた息が出た。
怒鳴りたいわけじゃない。怒りというより、なんか、違う。
凛さんが俺のことを心配してくれているのは本当だと思う。
それはわかる。
でも、こういうことをされると。
(好きだった人のことを、嫌いになりたくなくても、なってしまう)
そっちの方が、ずっと悲しかった。
ベッドに腰を下ろして、天井を見上げる。
白い天井。シミひとつない。
(凛さんは、悪い人じゃない)
それだけは、わかっていた。
ユキのことを大切にしてくれて、差し入れを持ってきてくれて、
仕事で疲れているのに笑顔を絶やさなかった。
変な性癖を正直に話してくれたのだって、勇気がいったはずだ。
それを打ち明けられたとき、俺は驚いたけど、嫌いにはなれなかった。
でも。
(これは、さすがに別の話だ)
薬で眠らせて、勝手に連れてきて、スマホまで操作して。ネット回線もないから返信も助けも呼べない。
どれだけ心配してくれていたとしても、これはやりすぎだ。
(しばらくは大人しくしてよう。自分自身を落ち着かせる意味でも)
刺激して、凛さんが何をするかわからない。
今は穏やかに過ごしながら、機会を待つしかない。
「悠くん、フルーツ切れたわよ」
キッチンから明るい声が飛んでくる。
俺は立ち上がって、もう一度窓の前に立った。
街が、夕暮れに染まり始めていた。
オレンジ色の光が、ミニチュアみたいな建物の隙間に広がっていく。
どこかに魅夜がいる。
ドローンを飛ばしていたあの誰かがいる。
九条さんがいる。
麗華さんがいる。
雫さんがいる。
光ちゃんがいる。
(誰かが、気づいてくれるといいな)
夕暮れの街は、遠くて、静かで、どこまでも小さかった。
俺の後ろで、凛さんがフルーツを皿に盛り付ける音がした。
「悠くん?」
「……行きます」
「ねえ、ちょっとスマホ貸してくれる?」
気がつくと、手の中にあったはずのスマホがなかった。
いつの間に取ったのか、まったくわからなかった。
凛さんはそのままゆっくりと部屋の端へ歩いていく。
熱帯魚が泳ぐ水槽の前で、足を止めた。
ぽちゃん。
水槽の中で画面が一瞬光って、それから暗くなった。
沈んでいくスマホを、凛さんはしばらく眺めていた。
それから、こちらを向いた。
「新しいの、用意するわね」
笑顔だった。
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