その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:ヤッくん

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34話 この文章、違和感につき。――白い箱の側面の印字

――一ノ瀬 光 視点――

 

おかしい。

 

絶対に、おかしい。

 

体育館のフロアを、一人でドリブルしながら、私はずっとそのことだけを考えていた。

 

キュッ、キュッ。

 

バッシュの音が、がらんとした体育館に響く。

 

今日も、悠先輩は来なかった。

 

 

最初に異変を感じたのは、三日前だった。

 

練習の時間になっても、先輩が現れない。

 

珍しいな、と思った。

 

悠先輩は、雨の日も、疲れている日も、必ずここに来ていた。あの人は、私が知っている中で一番「本気の人」だから。

 

(まあ、体調が悪いのかも)

 

最初はそう思った。

 

でも、次の練習日も来なかった。

 

そしてその翌日、RINEが来た。

 

『バスケのこと、本気で続けようか迷ってたんだけど、やっぱりやめることにした。今まで付き合ってくれてありがとう』

 

私は三回、読み返した。

 

それから、スマホを置いて、天井を見上げた。

 

(……先輩が、バスケをやめる?)

 

ありえない。

 

断言できる。

 

あの人が、どれだけバスケに本気だったか。ルーズボールに飛び込んで膝を擦りむいても止まらなかった背中を、私は知っている。

 

試合に負けた後、体育館の裏で一人で壁を殴っていたあの姿を、私は知っている。

 

(やめるわけが、ない)

 

絶対に、おかしい。

 

私はRINEの画面をじっと見つめた。

 

文章が、なんか、違う。

 

先輩はRINEでお礼をいうときはいつも「ありがとうございます」って書く。敬語で、丁寧に。後輩の私にも、そういう人だから。

 

「今まで付き合ってくれてありがとう」

 

これは、先輩の言葉じゃない。

 

(……誰かが、送った)

 

その瞬間、頭の中に一つの顔が浮かんだ。

 

夜の体育館の前に現れた、漆黒のセダン。

 

悠先輩の汗を、「汚い」と言ってスプレーで消毒した女の人。

 

先輩を車に押し込んで、闇の中に連れ去っていったあの人。

 

浅見、凜。

 

 

次の日の朝、私はパソコンを開いた。

 

検索ボックスに打ち込む。

 

『浅見凜 広告代理店』

 

ヒットした。

 

大手広告代理店『クロスウィング』の特集記事。業界紙のインタビュー。ビジネス雑誌のグラビア。

 

記事の中の写真は、あの夜見た顔と同じだった。

 

完璧なスーツ。冷たい笑顔。

 

見出しには『最年少でチームリーダーに抜擢。業界が注目する新世代のエース』と書いてある。

 

会社の場所も、すぐわかった。

 

都心の一等地。本社ビルの住所まで、公式サイトに載っていた。

 

(退勤時間は……だいたい何時だろう)

 

私はもう一度検索した。

 

『クロスウィング 定時 退勤時間』

 

企業の口コミ評判サイトの『退職会議』というサイトがヒットした。

 

サイト内の検索機能を使って「クロススウィング」とキーボードを叩いた。

 

「なになに……大手なのに給料も高く働きやすい環境で……総合評価もたかっ!!」

 

総合評価はマックスの★★★★★となっている。

 

「わたしもここの会社の面接を受けようかな……じゃなくて退勤時間だよ」

 

口コミをスクロールしていくとお目当ての情報が書いてあった。

 

『ほとんど残業はない。夕方の五時に帰ることができる』と。

 

「もっと働けよぉっ!私のバイトでさえもっと遅く働いてるよぉっ!」

 

(と、とりあえず、夕方、四時から張り込もう)

 

私はポニーテールをきつく結び直した。

 

 

本社ビルの向かいにあるコンビニの前に、私は自転車を止めた。

 

時刻は午後四時三十分。

 

コンビニのイートインスペースから、ビルのエントランスが見える。

 

温かいお茶を買って、ちびちびと飲みながら待つ。

 

五分が過ぎた。

 

三十分が過ぎた。

 

(……もうすぐかな)

 

午後五時ぴったり。

 

ビルのエントランスから、見覚えのある人影が出てきた。

 

タイトなスーツ。完璧な佇まい。

 

浅見、凜。

 

(いた……っ!)

 

でも、私は一瞬だけ、足が止まった。

 

遠目でも、わかった。

 

あの人の顔が、いつもと違う。

 

体育館の前で見たあの顔は、完璧に管理された笑顔だった。冷たくて、計算されていて、どこか人形みたいな。

 

でも今の凜さんは、違う。

 

なんというか……活き活きしている。

 

仕事終わりで疲れているはずの時間なのに、足取りが軽い。スマホを見ながら、口元に小さな笑みを浮かべている。

 

誰かに会いに行く人の顔だ、と思った。

 

(……誰に)

 

胸の奥で、何かが冷たくなった。

 

凜さんはビルの横の駐車場へ向かいかけて、ふと足を止めた。

 

そして、道路を渡った。

 

向かった先は、コンビニだった。

 

私が張り込んでいた、このコンビニだった。

 

(え……っ!まずい!)

 

私は反射的に、雑誌コーナーに身を隠した。

 

棚の隙間から、凜さんの動きを目で追う。

 

凜さんはカゴを手に取って、迷いなく売り場を歩いていく。

 

お弁当。二つ。

 

サラダ。二つ。

 

デザートのプリン。二つ。

 

(……二つ)

 

全部、二人分だ。

 

私の心臓が、じわりと嫌な予感で重くなった。

 

凜さんはそのまま、衛生用品のコーナーへ向かった。

 

棚の角度的に、何をカゴに入れたのかは見えなかった。

 

でも、凜さんの表情は変わらなかった。

 

迷いも、照れもなく。

 

ただ、当然のように。

 

何かをカゴに入れて、レジへ向かった。

 

会計を終えた凜さんが、コンビニのドアから出てくる。

 

私は雑誌コーナーの陰から、そっと顔を出した。

 

凜さんがすれ違いざまに通り過ぎる。

 

その瞬間、私の視線が、凜さんの持つコンビニ袋の開いた口に吸い込まれた。

 

一瞬だった。

 

お弁当の容器。

 

プリンのカップ。

 

男性用と書かれたパッケージの下着。

 

そして。

 

小さな箱。

 

「0.01mm」という数字が、白い箱の側面にはっきりと印字されていた。

 

(……こ、こ、こ、こん、こん、こんどーむ!?!?しかも薄っすいやつ!!!)

 

足の感覚がなくなった。

 

頭の中で、バラバラになった情報が、最悪の形でひとつに繋がっていく。

 

二人分の食事。

 

男性用の下着。

 

0.01mm。

 

活き活きとした顔で、帰っていく場所。

 

そこに、誰かがいる。

 

(……先輩が)

 

「お客様、雑誌はお買い上げになりますか?」

 

店員さんの声に、私は我に返った。

 

気づくと、手に雑誌を握りしめていた。

 

「……あ、す、すみません、結構です……っ」

 

棚に戻して、凜さんの背中が駐車場へ消えるのを確認してから、コンビニを飛び出した。

 

冷たい夜風が、火照った頬に当たった。

 

スマートウォッチが震えている。

 

ピピッ。

 

【警告:心拍数が175を超えました。安静に——】

 

深呼吸した。

 

もう一回した。

 

(お、落ち着け、私。……まだ、決まったわけじゃない)

 

でも、胸の奥の冷たい感覚は、消えてくれなかった。

 

凜さんはすでに駐車場へ向かっている。

 

私は自転車に飛び乗った。

 

先輩を、助けに行かなきゃ。

 

それだけが、今の私にできることだから。




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