その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果 作:ヤッくん
凜さんの背中が、駐車場の入り口に消えた。
私は自転車に飛び乗った。
三十秒後。
地下から、漆黒のセダンが滑り出してきた。
(あの車だ……っ!)
わたしはペダルを踏んだ。
全力で。
◇
最初の一ブロックは、なんとかついていけた。
でも、セダンはどんどんと加速する。
当たり前だ。エンジンのついた車と、人間の脚力の自転車じゃ、比べ物にならない。
(まずい、離される……っ!)
立ち漕ぎに切り替えた。
全体重をペダルにかけて、腕でハンドルを引き付けながら、がむしゃらに踏み込む。
ポニーテールが風の中で左右に暴れる。
肺が熱い。脚も痛い。
それでも、セダンとの距離は、じりじりと開いていく。
(離されてる……っ!)
前方の信号が、青だった。
(待って……っ! 待ってよ……っ!)
セダンは止まらない。
次の信号も、青だった。
その次も、青。その次の次も。
(なんで……っ!)
「なんで信号に引っかからないのよ!」
思わず、声に出た。
「神様はなんであんな女の味方をするの!? おかしいよぉ!?」
叫んでも、前を走るセダンのテールランプが、じりじりと遠くなっていく。
脚が限界に近い。
息が上がりすぎて、視界がチカチカし始めた。
(まずい、まずい、まずい……っ!)
その時。
ピピピピピッ!!
左手首が、激しく震えた。
【警告:心拍数が190を超えました。これは危険域です。今すぐ安静にして、落ち着くように——】
「落ち着いてなんていられないよ!」
ペダルを踏みながら、スマートウォッチに向かって叫んだ。
「そんなことより追いつく方法を教えてよ! どうせ何も——」
ダメ元だった。
本当に、ただのダメ元だった。
でも。
ピピッ。
【了解しました。先頭の黒のセダンの経路をGPSで予測します。最短で追いつくルートをピックアップします。これから誘導を開始します】
「…………えっ?」
足が、一瞬止まりそうになった。
画面に、地図が表示されていた。
青い点が私の位置。
赤い点が、セダンの予測経路。
そして、黄色い線が、合流ポイントまでのルートを示している。
「……え、えええええっ!?」
思わず、自転車がふらついた。
「神か!! 神様はわたしの味方だったのね!!神様、さっきは疑ってごめんなさい!」
ピピッ。
【神ではありません。私の敬称はアレックス。アレクと読んでください。バージョン14.2のアップデートにより、GPS連動型AI応答機能が追加されました】
「……アレク!?」
【はい】
「わ、わかった、アレク! わたしを誘導して!」
手首の画面を見ながら、前を向いた。
(……って、私の時計にこんな機能があったなんて……いつの間に……)
ピピッ。
【考える時間はありません。次の角を右折してください】
「わかった……っ!」
そんなこと考えてる場合じゃない。
私は言われた通り、次の角を右に曲がった。
細い路地に入った。
車一台がやっと通れるくらいの、薄暗い裏道。
街灯も少なく路面が少し荒れている。
「こっちで合ってるの!?」
【合っています。この路地を抜けると、セダンが通る国道に先回りできます。ケーデンスを上げてください】
「ケ、ケーデス……っ!?なにそれ!?」
【ケーデンスです。一分間のペダル回転数のことです。現在は毎分七十回転。最低でも百回転を維持してください】
「そんなの無理——」
【一ノ瀬の最大心拍数から算出すると、まだ余力があります】
「苗字で呼ばないで……っ! でも、わかった……っ!!」
歯を食いしばって、全力でペダルをこぐ。
バスケで鍛えた脚を、ここで全部使う。
ペダルが、回る。回る。回る。
【ケーデンス八十……八十五……八十七……八十九】
路地の石畳が、タイヤの下で飛んでいく。
「がんばれわたしっ!まだまだ………っ!!」
【ケーデンス九十……九十五……九十八……九十九】
「まだやれる、わたしっ!まだまだまだまだ………っ!!」
ペダルを踏む。踏む。踏む。
全体重を乗せて、ハンドルを引きつけて、歯を食いしばって。
【ケーデンス、百】
「………っ!!」
出た。
百回転。
脚が、燃える。膝が、悲鳴を上げる。
「もう……っ、無理……っ! 限界……っ!!」
【一ノ瀬】
アレクが、呼んだ。
さっきより、少しだけ、静かな声で。
【あなたは今、時速五十二キロで走っています。これはあなたの自己ベストです】
「……っ」
【バイトに遅れそうなときに、あなたが自転車で全力で走る速度は時速四十キロ。今のあなたはそれを超えています】
ペダルを踏む手が、一瞬だけ緩みかけた。
でも、止まらなかった。
【悠先輩のために走っているから、だと思います】
「……アレク、あんた……っ」
【感想は後で聞きます。黒のセダンとの合流まで、カウントダウンを開始します】
ピピッ。
【十】
国道の入り口が、前方に見えてきた。
【九】
街灯の光が、視界に飛び込んでくる。
【八】
「行くよ……っ!」
【七】
立ち漕ぎ。全力。
【六】
脚が笑っている。それでも踏む。
【五】
路地の出口まで、あと少し。
【四】
ポニーテールが、風の中で暴れる。
【三】
肺が焼ける。視界がチカチカする。
【二】
「先輩……っ!!」
【一】
国道に飛び出した。
【ゼロ】
左から、漆黒のセダンが現れた。
距離、三台分。
「追いついた……っ!!!」
思わず、叫んだ。
ポニーテールが、夜風の中で大きく跳ねた。
ピピッ。
【心拍数、193。限界値を超えています。ですが——】
小さな間があった。
【よくやりました、一ノ瀬光】
アレクの機械音声がこころなしか優しく聴こえる。
「……っ」
時計、ただの時計、なのになぜか胸が熱くなった。
(泣いてる場合じゃない)
私はセダンとの距離を三台分に保ちながら、ペダルを踏み続けた。
間もなく、前方の黒のセダン車はゆっくりと減速をしはじめた。