その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:ヤッくん

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35話 その心拍数、致死量につき ――黒のセダンとケーデンス

 凜さんの背中が、駐車場の入り口に消えた。

 

 私は自転車に飛び乗った。

 

 三十秒後。

 

 地下から、漆黒のセダンが滑り出してきた。

 

(あの車だ……っ!)

 

 わたしはペダルを踏んだ。

 

 全力で。

 

 ◇

 

 最初の一ブロックは、なんとかついていけた。

 

 でも、セダンはどんどんと加速する。

 

 当たり前だ。エンジンのついた車と、人間の脚力の自転車じゃ、比べ物にならない。

 

(まずい、離される……っ!)

 

 立ち漕ぎに切り替えた。

 

 全体重をペダルにかけて、腕でハンドルを引き付けながら、がむしゃらに踏み込む。

 

 ポニーテールが風の中で左右に暴れる。

 

 肺が熱い。脚も痛い。

 

 それでも、セダンとの距離は、じりじりと開いていく。

 

(離されてる……っ!)

 

 前方の信号が、青だった。

 

(待って……っ! 待ってよ……っ!)

 

 セダンは止まらない。

 

 次の信号も、青だった。

 

 その次も、青。その次の次も。

 

(なんで……っ!)

 

「なんで信号に引っかからないのよ!」

 

 思わず、声に出た。

 

「神様はなんであんな女の味方をするの!? おかしいよぉ!?」

 

 叫んでも、前を走るセダンのテールランプが、じりじりと遠くなっていく。

 

 脚が限界に近い。

 

 息が上がりすぎて、視界がチカチカし始めた。

 

(まずい、まずい、まずい……っ!)

 

 その時。

 

 ピピピピピッ!!

 

 左手首が、激しく震えた。

 

【警告:心拍数が190を超えました。これは危険域です。今すぐ安静にして、落ち着くように——】

 

「落ち着いてなんていられないよ!」

 

 ペダルを踏みながら、スマートウォッチに向かって叫んだ。

 

「そんなことより追いつく方法を教えてよ! どうせ何も——」

 

 ダメ元だった。

 

 本当に、ただのダメ元だった。

 

 でも。

 

 ピピッ。

 

【了解しました。先頭の黒のセダンの経路をGPSで予測します。最短で追いつくルートをピックアップします。これから誘導を開始します】

 

「…………えっ?」

 

 足が、一瞬止まりそうになった。

 

 画面に、地図が表示されていた。

 

 青い点が私の位置。

 

 赤い点が、セダンの予測経路。

 

 そして、黄色い線が、合流ポイントまでのルートを示している。

 

「……え、えええええっ!?」

 

 思わず、自転車がふらついた。

 

「神か!! 神様はわたしの味方だったのね!!神様、さっきは疑ってごめんなさい!」

 

 ピピッ。

 

【神ではありません。私の敬称はアレックス。アレクと読んでください。バージョン14.2のアップデートにより、GPS連動型AI応答機能が追加されました】

 

「……アレク!?」

 

【はい】

 

「わ、わかった、アレク! わたしを誘導して!」

 

 手首の画面を見ながら、前を向いた。

 

(……って、私の時計にこんな機能があったなんて……いつの間に……)

 

 ピピッ。

 

【考える時間はありません。次の角を右折してください】

 

「わかった……っ!」

 

 そんなこと考えてる場合じゃない。

 

 私は言われた通り、次の角を右に曲がった。

 

 細い路地に入った。

 

 車一台がやっと通れるくらいの、薄暗い裏道。

 

 街灯も少なく路面が少し荒れている。

 

「こっちで合ってるの!?」

 

【合っています。この路地を抜けると、セダンが通る国道に先回りできます。ケーデンスを上げてください】

 

「ケ、ケーデス……っ!?なにそれ!?」

 

【ケーデンスです。一分間のペダル回転数のことです。現在は毎分七十回転。最低でも百回転を維持してください】

 

「そんなの無理——」

 

【一ノ瀬の最大心拍数から算出すると、まだ余力があります】

 

「苗字で呼ばないで……っ! でも、わかった……っ!!」

 

 歯を食いしばって、全力でペダルをこぐ。

 

 バスケで鍛えた脚を、ここで全部使う。

 

 ペダルが、回る。回る。回る。

 

【ケーデンス八十……八十五……八十七……八十九】

 

 路地の石畳が、タイヤの下で飛んでいく。

 

「がんばれわたしっ!まだまだ………っ!!」

 

【ケーデンス九十……九十五……九十八……九十九】

 

「まだやれる、わたしっ!まだまだまだまだ………っ!!」

 

 ペダルを踏む。踏む。踏む。

 

 全体重を乗せて、ハンドルを引きつけて、歯を食いしばって。

 

【ケーデンス、百】

 

「………っ!!」

 

 出た。

 

 百回転。

 

 脚が、燃える。膝が、悲鳴を上げる。

 

「もう……っ、無理……っ! 限界……っ!!」

 

【一ノ瀬】

 

 アレクが、呼んだ。

 

 さっきより、少しだけ、静かな声で。

 

【あなたは今、時速五十二キロで走っています。これはあなたの自己ベストです】

 

「……っ」

 

【バイトに遅れそうなときに、あなたが自転車で全力で走る速度は時速四十キロ。今のあなたはそれを超えています】

 

 ペダルを踏む手が、一瞬だけ緩みかけた。

 

 でも、止まらなかった。

 

【悠先輩のために走っているから、だと思います】

 

「……アレク、あんた……っ」

 

【感想は後で聞きます。黒のセダンとの合流まで、カウントダウンを開始します】

 

 ピピッ。

 

【十】

 

 国道の入り口が、前方に見えてきた。

 

【九】

 

 街灯の光が、視界に飛び込んでくる。

 

【八】

 

「行くよ……っ!」

 

【七】

 

 立ち漕ぎ。全力。

 

【六】

 

 脚が笑っている。それでも踏む。

 

【五】

 

 路地の出口まで、あと少し。

 

【四】

 

 ポニーテールが、風の中で暴れる。

 

【三】

 

 肺が焼ける。視界がチカチカする。

 

【二】

 

「先輩……っ!!」

 

【一】

 

 国道に飛び出した。

 

【ゼロ】

 

 左から、漆黒のセダンが現れた。

 

 距離、三台分。

 

「追いついた……っ!!!」

 

 思わず、叫んだ。

 

 ポニーテールが、夜風の中で大きく跳ねた。

 

 ピピッ。

 

【心拍数、193。限界値を超えています。ですが——】

 

 小さな間があった。

 

【よくやりました、一ノ瀬光】

 

 アレクの機械音声がこころなしか優しく聴こえる。

 

「……っ」

 

 時計、ただの時計、なのになぜか胸が熱くなった。

 

(泣いてる場合じゃない)

 

 私はセダンとの距離を三台分に保ちながら、ペダルを踏み続けた。

 

 間もなく、前方の黒のセダン車はゆっくりと減速をしはじめた。

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