その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――阿久津 魅夜(あくつ みや)視点――
スマホの画面をなぞる指が、さっきから同じ場所を往復している。
悠の部屋の明かりが点いた。
ベランダ越しに漏れるオレンジ色の光。
……いるなァ。
あの鳳とかいう金持ちの女に攫われて、アタシらが乗り込んで、取り返して。
あのオットセイ野郎からDMをもらうまで、アタシは悠が大変な目にあっていたことを全く知らなかった。
ったく悠のやつよォ、まずはアタシに言えってんだよォ。
スマホをなぞる指に力がこもっていた。
「こりゃしつけが必要だな……」
そうと決まれば、さっそくベランダからお邪魔するか。
鏡の前で前髪だけ軽く整える。
「んしょっと」
ベランダの壁からよじ登り隣のベランダへ移動する。
ガッ――
引き戸にカギがかかっている。
は? カギ、だと?
この部屋にカギがかかっていたことなんて、今まで一度もなかった。
アタシがいつでも入れるように――なんて、そんな殊勝なこと考えてたわけじゃねぇだろうが、それでも今日まで開けっ放しだったのは事実だ。
「……」
ガタガタガタッ! ガンガンガンッ!
「悠ォ!開けろやァ!いるのは分かってんだよォ!」
引き戸を力任せに叩く。
しばらくすると、慌てた足音が近づいてきて――
ガラッ。
引き戸が開いた。
「ゴラァ、悠! ベランダ閉めてんじゃねぇよォ!せっかく飼い主が来てやった――」
「あ、魅夜さん、改めてありがとうございます。鳳から助けてくれて」
「……」
まっすぐな目だった。
感謝なんて口にする男はまずいない。
でも、コイツの口からはいつも感謝と気遣いばかり。
「きちんとお礼、言ってなかったので」
「……フンッ」
温かいなにかが、腹の奥でぐるぐる回っている。
「ほんとに助かりました。皆が来てくれなかったらどうなってたか……」
「まぁ〜飼い主なら犬が困ってたら助けるのは当然っつーか」
「ははっ。魅夜さん飼い主だったんですね」
「おうよ!ってテメェ、アタシのことナメてんだろォ」
「ナメてないですよ。あっ、そうだ。ちょうど肉じゃが作ったんです。食べていきます?」
肉じゃが。
その言葉に心臓が跳ねた。
「はぁ、肉じゃがだぁ?」
「はい、魅夜さん好きでしたよね。前に食べたとき、感動で身を震わせてたし」
カッ。
「ちょ、テメェ。次にそれ言ったらコロス!」
「えっ、なんで――」
「なんでもだぁっ!」
思い出しちまった。
あのライブ配信。
完全なる黒歴史。
すぐにアーカイブは消した。消したのに、クソみてぇなフォロワーどもがミラー動画を作りやがって、今も「死あわせ」やら「ニック・ジャガー」なんて意味不明なワードがトレンドをうろついてやがる。
あんな姿、二度と晒すかァ……っ!
ふと悠に目を向けると――シュンとしていた。
「……じゃあ、いらないんですね」
まるで、餌を取り上げられた大型犬みてぇな顔だ。
……ったく。
「……あーするなら……くってやる」
「えっ」
「あー、するんなら食ってやるって言ってんだよォ!」
「あーん? 魅夜さん、あーんして欲しいんですか?」
「はぁ? そんなわけねぇだろォ! 昨日テメェのために動き回ったから、全身だりぃんだよっ! だから腕一本、指一本動かすのも無理ってことでっ!全部お前のせいだから、悠が責任持ってあーしろってことでっ。感謝の気持ちとかあんなら、それくらいするのが常識っつーかっ。わかれっ!そんくらいっ!」
ったくほんと使えねぇやつ。アタシがこんだけ説明しねぇと分かんねぇのかよ。
「と、とりあえず上がってください。次からは玄関から来てくださいよ」
「あいよーっ」
アタシは靴を脱いで、勝手知ったる様子で部屋に上がり込む。
テーブルに並んだ、湯気の立つ肉じゃが。
その匂いを嗅いだだけで、またお腹の奥が疼きやがる。
あ、今日もライブ配信でもすっかなぁ。
ポケットのスマホに手をかけて――やめた。
……いや、今日はいっか。
配信も、フォロワーも、今日はいらねぇ。
「おい悠、コメも大盛りだからなァ!」
「はいはい」
しばらく待つと、大盛りの白飯とほかほかの肉じゃががテーブルに置かれた。
ふわりと立ち上る甘い出汁の香り。
か〜、うまそうじゃねぇか。じゃあさっそく――
「いただきます」
アタシは用意された箸を持って肉じゃがに手を伸ばす。
「あれ、腕とか指が動かないほど疲れてたんじゃ……」
やべっ。そうだった。
「……あ〜動かねぇ、やっぱ指一本動かせねぇわ……」
「……まぁいいや。はい、あ〜ん」
まじか……またアーンをしてくれるなんて……
「あ〜」
――パクッ
……うめぇ。
悠の手作りの肉じゃがは、全てを包み込むような優しい味だった。
「もっかい」
「はいはい、あ〜ん」
――パクンッ
そして悠の手からの直食い。たまんねぇ。これうますぎ。
なんだか頭がボーッとしてくる。
そうだっ!アタシとしたことが危うく忘れるところだった。
「あちぃな」
「えっ熱いですか? 」
悠は持っているスプーンをそのまま使って、肉じゃがを食べ始めた。
「ちょ……それさっきアタシの口が……」
「えっ、魅夜さんそういうの気にするタイプだったんですね。すいません、箸を替えて――」
「いや、そのままでいい。洗い物は増やさねぇ方がいい」
「お、お気遣いどうも。というか、もうそんなに熱くないですよ。もしかして魅夜さんって――」
やべぇ、さすがにセクハラとか言いだすか……
「――すっごい猫舌ですねっ!」
「……」
普通の男なら金を請求されてもおかしくない。風俗に行ったら、アーンの直食いコース・オプションふーふーはけっこう値が張ると聞いた。
コイツの頭はどうなってんだ、マジで。
「いいから、ふーふー」
「え? 夫婦? あっ、今日は良い夫婦の日か……」
こいつの耳はどうなってやがんだ。変なフィルターでもかかってんのか……。それに、ふ、夫婦だァ!? なに言ってやがるコイツ!? あ、アタシはふーふーで食いたいって言っただけで、誰も夫婦になりてぇなんて言ってねぇ……まぁ悠が夫婦になりたいっていう、その気持ちは否定はしねぇ、否定はしねぇよ!でも、アタシはもう男は信じねぇって決めてんだよォ。つまり……」
「あ、ふぅふぅのことか。ふーふー」
悠がじゃがいもが載ったスプーンに息を吹きかける。
「ばっ悠、てめぇ話はまだ終わっ――」
「はい、あーん」
スッ、と差し出されたスプーン。
アタシの口は勝手に開く。
「――あーーん」
――ぱくッ
あぁ……うめぇ。うめぇなぁ。
なんだか身体の奥から何かがジーンと滲み出るような感覚。
「もっかい」
「はい、どうぞ」
――ぱくッ
あぁ、うめぇなぁ。
あれ、だんだん意識が遠のいていくような……。
……というかアタシ、悠のしつけに来たんじゃ……なかっ……たっ……け……。
まぁ……どうでもいいか……そんな……こ……と。
――グルン
アタシの両目が白目を向いた。