その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果 作:ヤッくん
――一ノ瀬 光 視点――
間もなく、前方の黒のセダンがゆっくりと減速を始めた。
左ウインカーが点滅し左折する。
そして、高層マンションの地下駐車場へと、吸い込まれるように入っていく。
(やっと止まった……っ!)
私は自転車のブレーキを握りしめた。
道路の脇に滑り込んで、タイヤが歩道の縁石に当たる寸前で止まる。
荒い息を整える暇もなく、駐車場の出口に目を向けた。
一分後。
エレベーターホールのガラス越しに、人影が見えた。
コンビニの袋を持って、颯爽と歩く凜さん。
そのまま、マンションのエントランスへと向かっていく。
(今だ……っ!)
私は自転車を道路脇の柵に立てかけて、走った。
◇
エントランスの自動ドアが、凜さんの後ろで静かに閉まった。
私が駆け込もうとした、その瞬間――
「お待ちください」
服越しでも分かるガタイの良い警備員が、真正面に立ちはだかった。
にこやかな笑顔。でも、目は全然笑っていない。
「なにか御用でしょうか」
「え、えっと……」
(どうする、どうする、どうする……っ!)
「知り合いがいるので……」
「左様でございますか。何号室の、どなたですか?」
(部屋番号が、わからない……っ!)
「えっと……」
(助けてアレク……っ!)
心の中で叫んだ瞬間、手首が震えた。
ピピッ。ディスプレイ内にテキストで文字が出力される。
【提案があります。宅配業者を装えば、エントランスを突破できる可能性があります】
(了解……っ!!)
私は警備員に向き直った。
「あの、お荷物のお届けに……」
「ありがとうございます」
警備員は丁寧に頭を下げた。
そして、にっこりと微笑んだまま言った。
「お荷物は、どちらにございますか?」
(あっ……!)
両手には何も持っていないし、格好も普通の私服姿だ。
ピピッ。
【補足です。荷物がない時点で、即座に不審者と判断されるリスクがあります。高級マンションだと荷受ボックスがあるのでそもそも居住エリアには入れません】
(今言う!? 今それ言うの!?!?信じらんない!)
「お客様」
警備員の声が、一段と丁寧になった。
「申し訳ございませんが、こちらは住人専用のマンションとなっております。お引き取りいただけますか」
「あ、あの……っ」
「お引き取りいただけますね?」
「……はい」
完璧な笑顔で、完璧に追い返された。
◇
エントランスから十メートル離れたところで、私は立ち止まった。
「ばか……っ」
小声で、スマートウォッチに向かって言った。
「ばかばかばか……っ! なんであんなすぐバレるようなこと言うの!?最初からダメだってわかってたでしょ!?」
ピピッ。
【わたしはリスクも合わせてお伝えしました。提案の是非を判断するのは一ノ瀬、あなたの役割です。わたしの責任ではありません】
「役立たず……っ!それに苗字で呼ばないで!」
【これから推奨する次の行動を提案しようと思いましたが、やめます】
「えっ……そんな……っ!」
【……】
機械の癖に、しっかりふてくされている。
「……ごめん」
私は素直に頭を下げた。
スマートウォッチに向かって。
「ごめん、アレク。八つ当たりした」
ピピッ。
【……わかりました。では次の提案をします】
少しだけ、間があった気がしたけど。本当に人と会話しているみたい。最近のAIってすごいな。
【まずは警察に相談することを推奨します。不審な監禁の疑いがある場合、法的な手続きを経た上で介入する方が、確実性が高まります】
「警察……かぁ」
【はい。最寄りの警察署まで、自転車で約八分です】
私はしばらく考えた。
警察に言って、信じてもらえるだろうか。
証拠もない。部屋番号もわからない。
ただの思い込みだと思われるかもしれない。
でも。
(他に、方法が思い浮かばない)
「……わかった。行ってみる」
それしかないと、自分でも思う。
私はもう一度、高層マンションを見上げた。
ガラス張りの外観。
煌々と光る窓が、縦に何十個も並んでいる。
最上階だけ、他の階より明らかに広い。
ペントハウス。
(あそこにはどんな人が住んでるんだろう……やっぱりどこかの社長とかなのかな)
じっと目を細めて、最上階の大きな窓を見つめた。
そこに、人影があった。
窓の前に立って、外を見ている。
距離があって、顔まではわからない。
でも。
(あの、背格好……っ)
心臓が跳ねた。
(あれって……)
もう一度、目を凝らした。街灯の光が、窓の人影をうっすらと照らしている。
細身の体格の男性が静かに外を見下ろす立ち姿。
「……悠、さん……?」
声が、震えた。目を凝らす。間違いない。
「悠さん……っ!!」
思わず叫んだ。
「悠さん! 悠さん! 悠さーーーーんっ!!!」
両手を頭の上で大きく振った。
ぴょんっ、と飛んだ。
もう一回飛んだ。
「ゆーーーーさーーーーんっ!!! こっちですーーーーっ!!!」
ぴょんぴょんぴょんっ。
ポニーテールが上下に激しく跳ねる。
通行人が、ぎょっとした顔でこちらを見ながら遠ざかっていく。
でも、そんなのどうでもいい。
「悠さんっ! 悠さんっ! いちのせですっ! 光ですっ!!!」
最上階の人影は、動かない。
ただ、静かに街を見下ろしている。
「悠さーーーーーんっ!!!!」
声が、夜の空に溶けていく。
届かない。
全然、届かない。
肩で息をしながら、ぼんやりと窓を見上げた。
ピピッ。
【補足情報です。このマンションの最上階まで、地上からの距離は約百メートル以上です。また、外壁および窓ガラスには防音ガラスが使用されているため、外部からの音声が室内に届く確率は0.5パーセントです】
「…………0.5」
【はい。0.5パーセントです】
私はしばらく、その数字を頭の中で転がした。
「……そんな」
【はい】
「……そんな数字、視力検査でしか聞かないよ」
【視力検査の数値と音声到達確率に相関関係はありません】
「そういう意味で言ってないよ……っ」
脚の力が、すうっと抜けていく感覚がした。その場にしゃがみ込みそうになるのを、ぐっと堪える。
(百メートル以上。防音ガラス。0.5パーセント)
どうりで届かないわけだ。
私がどれだけ叫んでも、何度飛んでも、先輩には何も聞こえていない。
向こうの窓の人影は、今も静かに夜の街を見下ろしている。
(……先輩、何を見てるんだろう)
胸が、じんわりと痛くなった。
誰かを待っているのかな。
誰かに気づいてほしくて、あそこに立っているのかな。
「……待ってて」
今度は叫ばなかった。
ただ、小さく呟いた。
届かなくていい。
今は、まだ。
私はポニーテールを結び直して、自転車に駆け寄った。
またがり、ペダルに足をかけた。
さっきの追跡で、脚はもうボロボロだ。
膝が笑っている。太ももが燃えている。
それでも。
「アレク」
【はい】
「最寄りの警察署に連れてって」
【了解しました。案内を開始します。出発してください】
私はペダルを踏んだ。
夜風が、頬を撫でる。
最上階の窓に映る人影が、少しずつ、遠ざかっていく。
(待ってて、先輩………っ!)