その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果 作:やっくん。
「…………ケ、ヒャ……」
笑おうとしたけど、声が上手く出なかった。
もう一回読み返し、さらにもう一度。
何回見ても、引っ越し、戻らない、お世話になりました、という内容は変わらない。
「……んなわけねぇだろォ!!!」
アタシはソファから跳ね起きた。
「アイツがここからいなくなるわけねぇだろォ!!!なんで!?なんでだよ!?嘘つくなよォ!!!」
部屋中を歩き回りながら、わめき続けた。
「意味わかんねぇ!!引っ越し!?今日の今日で!?そんなことある!?ありえなくねぇ!?」
叫んで、ソファを蹴った。
クッションが飛んだ。
「あぁもうっ!!うるせぇうるせぇうるせぇ!!!アタシを一人にすんなよォ!!!」
壁を拳でドンと叩いた。
ドンドンドンドン。
「帰ってこい!! 帰ってこいってぇ!!! 悠ゥ!!!悠ゥ!!!ユゥーーー!!!」
◇
五分後。
アタシはソファに座って、荒い呼吸を繰り返していた。
怒鳴り続けた喉が、じりじりと痛い。
(……落ち着け、アタシ)
深呼吸を何度か繰り返す。
(ふぅー。落ち着いて、考えろ)
アタシはスマホの画面をもう一度見た。
『引っ越しが決まったので、もうそちらには戻りません』
(……引っ越し)
ドーパミンが少しずつ引いていくにつれて、代わりに冷静さが戻ってくる。
アタシはゆっくりと、部屋を見回した。
(……やっぱおかしくね?)
まず、壁際のコンセント。
充電器が、刺さったままだ。
スマホの充電器もタブレットの充電器も、何も抜かれていない。
引っ越しするなら、まず充電器を抜くだろ。
次に、キッチンのシンク。
使用済みのコーヒーフィルターが、消臭のために端に置いてある。
アタシはそれに近づいて、コーヒーのかすに指で触れた。
(……まだ湿ってる)
乾燥具合から考えて、丸一日も経っていない。
今日の朝か、昨日の夜にコーヒーを淹れた跡だ。
次に、廊下の突き当たり。
トイレのドアを確認する。
換気扇の音が、かすかに聞こえる。
二十四時間乾燥、切っていない。
(……引っ越す前日に、コーヒーを飲んで、換気扇を回したまま出ていくか?)
アタシは部屋の中をゆっくりと歩き回った。
本棚の本は、一冊も抜かれていない。
ためしにクローゼットを開けてみると服が、普通に掛かっている。
くんかくんか。
(今日はアイツに会えてねぇから悠成分が足んねぇ……においでチャージしておこう)
そして段ボールも、梱包テープも、引っ越し準備の形跡はどこにもない。
アタシはその場に立ち尽くした。
最後に、バスルームも確認しておくか。
風呂場の扉を開ける。
「……特に変わったとこはねぇな」
浴槽も、洗い場も、いつも通りだ。
ちらりと見回すが、壁の水滴は、きっちり拭き取られている。
排水溝のフタを持ち上げてみると、髪の毛一本たまっていない。
「……アイツ、こういうとこ几帳面だよなぁ」
思わず、口元が緩んだ。
料理も、掃除も、なんでも丁寧にこなす。
バカ真面目というか、不器用というか。
そういうとこが——
「ん?」
床に視線が止まった。
タイルの上に、一本だけ黒い毛が落ちていた。
アタシはしゃがんで、それをつまみ上げた。
長さは、五、六センチほど。
細くて、少しだけ縮れている。
「…………こ、」
声が、震えた。
「こ、こ、こ、こ、これは」
アタシの手が、微かに揺れた。
この毛は——アタシのものじゃない。
色も長さも違う。
それに、髪の毛でもない。
だってこれはチリチリのウネウネだから。
これは。
これは、明らかに。
「…………」
アタシは動けなかった。
つまんだまま、動けなかった。
【豆知識:この世界において、女性の八割以上には彼氏がいない。そしてその大半は、何かしらをこじらせている。想い人のものであれば、飲みかけのペットボトル、食べかけのパン、果てには一本の毛に至るまで、見境なく興奮する変態が量産されているのが現状だ】
(……チキショー。頭の中で、何かがぐるぐると回りやがる)
選択肢は、二つ。
人としての尊厳を守るか。
もしくは、
欲望のままに行動するかだ。
(アタシは、アタシは……)
アタシは、しばらくの間、バスルームの冷たい空気の中で、その一本を指先でつまんだまま、じっと立ち尽くしていた。
その瞬間。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
「……っ!」
アタシは弾かれたように我にかえった。
(帰ってきた!?)
心臓が跳ねた。
(帰ってきたのか!? やっぱり嘘だったのか!? びっくりさせやがって!! あとでゼッテーどつく!!)
玄関に向かって全力で走った。
ドアを勢いよく開けた。
「この、どこ行ってやが——」
そこにいたのは、制服姿の女が二人。
「……」
警察だった。
「夜分に失礼します」
一人がパラパラと警察手帳を開いた。
「近隣の方から、騒音に関する通報がありまして」
「…………」
「かなり大きな声と、壁を叩くような音がしたと。こちらで何かございましたか?」
アタシは玄関に立ったまま、黙って二人の顔を見た。
「……あー」
「身分証明書はお持ちですか?」
「……持ってねぇ」
「こちらはご自宅ですか?」
「……違う」
女性警察の二人が、微妙な顔で顔を見合わせた。
「では、こちらの住人の方とはどういったご関係で?」
「……隣の住人だ」
「隣の方が、こちらにいらっしゃると」
「……そうだ」
「住人の方はご在宅ですか?」
「……いねぇ」
また顔を見合わせる。
「あの」
「なんだ」
「住人が不在のお宅に、隣人の方が身分証なしで上がり込んでいると、そういう状況でよろしいですか?」
「…………アタシの男の部屋だから問題ねぇだろ」
【豆知識:この世界では女性が男性の部屋に忍び込み、下着や使用済みの衣類を持ち去る事件は往々にして起きている。発覚しても「彼氏の部屋だから」と言い張るケースが後を絶たず、警察もその対応に毎年頭を悩ませているという】
「「……」」
沈黙が流れた。
「うるせぇ」
アタシは腕を組んだ。
「事情があんだよ。いちいち細けぇこと聞いてんじゃねぇよ。帰れ」
「それは帰れないんですよね、こちらとしては」
「あぁ?」
「一度、署の方までご同行いただけますか。任意ですが」
「……任意ってことは、断れんだろォ」
「断れますが、断られた場合は別の対応を検討することになります」
「チッ!」
アタシは舌打ちをした。
めんどくせぇ。
こいつらに説明するのも、ここで揉めるのも、全部めんどくさい。
でも。
(……署に行くなら、ついでに悠のことを届け出ることもできるかもしれねぇ)
「……わかった。行ってやるよォ」
アタシは部屋の電気を消して、ドアを閉めた。
「ちゃんとツラを立てろよ。歩いて行くから」
◇
警察署の入り口に入った瞬間、受付の前で女の声が聞こえた。
「だから! 絶対に誘拐だと思うんです! 高層マンションの最上階に連れ込まれてて!」
高い、切羽詰まった声だった。
受付の警察官が、困り顔で対応している。
「落ち着いて、もう少し順序立てて話してもらえますか」
「落ち着いてる場合じゃないんです! 悠さんが誘拐されたかもしれなくって! 高層マンションの最上階にいるかもしれなくって!浅見凛さんっていう女の人が……」
高い、切羽詰まった声の主は、ポニーテールの少女だった。
見たことのない顔だが、
「悠さん」という名前が、アタシの耳に突き刺さった。
(……悠?)
アタシは警察官に連れられながら、そのポニーテールの背中を見た。
小柄な体格。
高い位置で結んだ髪が、興奮で揺れている。
「浅見凛」という名前も聞こえた。
(……凛? あの白目女か)
胸の奥で、嫌な予感がじわりと広がった。
こいつは何を知っている。
アタシは警察官に連れられながら、そのポニーテールの背中に向かって歩いた。
「おい」
少女が振り返った。
見知らぬアタシを見て、一瞬だけきょとんとした顔をした。
それが次の瞬間、警戒の顔に変わった。
「……なんですか」
「ちょっとその話、聞かせろォ」
アタシはポニーテールの目を、真っ直ぐに見た。
魅夜、情緒不安定すぎる……
そして毛はどうした。