その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:やっくん。

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38話 このチリチリ、ウネウネにつき。

「…………ケ、ヒャ……」

 

笑おうとしたけど、声が上手く出なかった。

 

もう一回読み返し、さらにもう一度。

 

何回見ても、引っ越し、戻らない、お世話になりました、という内容は変わらない。

 

「……んなわけねぇだろォ!!!」

 

アタシはソファから跳ね起きた。

 

「アイツがここからいなくなるわけねぇだろォ!!!なんで!?なんでだよ!?嘘つくなよォ!!!」

 

部屋中を歩き回りながら、わめき続けた。

 

「意味わかんねぇ!!引っ越し!?今日の今日で!?そんなことある!?ありえなくねぇ!?」

 

叫んで、ソファを蹴った。

 

クッションが飛んだ。

 

「あぁもうっ!!うるせぇうるせぇうるせぇ!!!アタシを一人にすんなよォ!!!」

 

壁を拳でドンと叩いた。

 

ドンドンドンドン。

 

「帰ってこい!! 帰ってこいってぇ!!! 悠ゥ!!!悠ゥ!!!ユゥーーー!!!」

 

 

五分後。

 

アタシはソファに座って、荒い呼吸を繰り返していた。

 

怒鳴り続けた喉が、じりじりと痛い。

 

(……落ち着け、アタシ)

 

深呼吸を何度か繰り返す。

 

(ふぅー。落ち着いて、考えろ)

 

アタシはスマホの画面をもう一度見た。

 

『引っ越しが決まったので、もうそちらには戻りません』

 

(……引っ越し)

 

ドーパミンが少しずつ引いていくにつれて、代わりに冷静さが戻ってくる。

 

アタシはゆっくりと、部屋を見回した。

 

(……やっぱおかしくね?)

 

まず、壁際のコンセント。

 

充電器が、刺さったままだ。

 

スマホの充電器もタブレットの充電器も、何も抜かれていない。

 

引っ越しするなら、まず充電器を抜くだろ。

 

次に、キッチンのシンク。

 

使用済みのコーヒーフィルターが、消臭のために端に置いてある。

 

アタシはそれに近づいて、コーヒーのかすに指で触れた。

 

(……まだ湿ってる)

 

乾燥具合から考えて、丸一日も経っていない。

 

今日の朝か、昨日の夜にコーヒーを淹れた跡だ。

 

次に、廊下の突き当たり。

 

トイレのドアを確認する。

 

換気扇の音が、かすかに聞こえる。

 

二十四時間乾燥、切っていない。

 

(……引っ越す前日に、コーヒーを飲んで、換気扇を回したまま出ていくか?)

 

アタシは部屋の中をゆっくりと歩き回った。

 

本棚の本は、一冊も抜かれていない。

 

ためしにクローゼットを開けてみると服が、普通に掛かっている。

 

くんかくんか。

 

(今日はアイツに会えてねぇから悠成分が足んねぇ……においでチャージしておこう)

 

そして段ボールも、梱包テープも、引っ越し準備の形跡はどこにもない。

 

アタシはその場に立ち尽くした。

 

最後に、バスルームも確認しておくか。

 

風呂場の扉を開ける。

 

「……特に変わったとこはねぇな」

 

浴槽も、洗い場も、いつも通りだ。

 

ちらりと見回すが、壁の水滴は、きっちり拭き取られている。

 

排水溝のフタを持ち上げてみると、髪の毛一本たまっていない。

 

「……アイツ、こういうとこ几帳面だよなぁ」

 

思わず、口元が緩んだ。

 

料理も、掃除も、なんでも丁寧にこなす。

 

バカ真面目というか、不器用というか。

 

そういうとこが——

 

「ん?」

 

床に視線が止まった。

 

タイルの上に、一本だけ黒い毛が落ちていた。

 

アタシはしゃがんで、それをつまみ上げた。

 

長さは、五、六センチほど。

 

細くて、少しだけ縮れている。

 

「…………こ、」

 

声が、震えた。

 

「こ、こ、こ、こ、これは」

 

アタシの手が、微かに揺れた。

 

この毛は——アタシのものじゃない。

 

色も長さも違う。

 

それに、髪の毛でもない。

 

だってこれはチリチリのウネウネだから。

 

これは。

 

これは、明らかに。

 

「…………」

 

アタシは動けなかった。

 

つまんだまま、動けなかった。

 

【豆知識:この世界において、女性の八割以上には彼氏がいない。そしてその大半は、何かしらをこじらせている。想い人のものであれば、飲みかけのペットボトル、食べかけのパン、果てには一本の毛に至るまで、見境なく興奮する変態が量産されているのが現状だ】

 

 

(……チキショー。頭の中で、何かがぐるぐると回りやがる)

 

選択肢は、二つ。

 

人としての尊厳を守るか。

 

もしくは、

 

 

 

欲望のままに行動するかだ。

 

(アタシは、アタシは……)

 

アタシは、しばらくの間、バスルームの冷たい空気の中で、その一本を指先でつまんだまま、じっと立ち尽くしていた。

 

その瞬間。

 

ピンポーン。

 

玄関のチャイムが鳴った。

 

「……っ!」

 

アタシは弾かれたように我にかえった。

 

(帰ってきた!?)

 

心臓が跳ねた。

 

(帰ってきたのか!? やっぱり嘘だったのか!? びっくりさせやがって!! あとでゼッテーどつく!!)

 

玄関に向かって全力で走った。

 

ドアを勢いよく開けた。

 

「この、どこ行ってやが——」

 

そこにいたのは、制服姿の女が二人。

 

「……」

 

警察だった。

 

「夜分に失礼します」

 

一人がパラパラと警察手帳を開いた。

 

「近隣の方から、騒音に関する通報がありまして」

 

「…………」

 

「かなり大きな声と、壁を叩くような音がしたと。こちらで何かございましたか?」

 

アタシは玄関に立ったまま、黙って二人の顔を見た。

 

「……あー」

 

「身分証明書はお持ちですか?」

 

「……持ってねぇ」

 

「こちらはご自宅ですか?」

 

「……違う」

 

 女性警察の二人が、微妙な顔で顔を見合わせた。

 

「では、こちらの住人の方とはどういったご関係で?」

 

「……隣の住人だ」

 

「隣の方が、こちらにいらっしゃると」

 

「……そうだ」

 

「住人の方はご在宅ですか?」

 

「……いねぇ」

 

また顔を見合わせる。

 

「あの」

 

「なんだ」

 

「住人が不在のお宅に、隣人の方が身分証なしで上がり込んでいると、そういう状況でよろしいですか?」

 

「…………アタシの男の部屋だから問題ねぇだろ」

 

【豆知識:この世界では女性が男性の部屋に忍び込み、下着や使用済みの衣類を持ち去る事件は往々にして起きている。発覚しても「彼氏の部屋だから」と言い張るケースが後を絶たず、警察もその対応に毎年頭を悩ませているという】

 

「「……」」

 

沈黙が流れた。

 

「うるせぇ」

 

アタシは腕を組んだ。

 

「事情があんだよ。いちいち細けぇこと聞いてんじゃねぇよ。帰れ」

 

「それは帰れないんですよね、こちらとしては」

 

「あぁ?」

 

「一度、署の方までご同行いただけますか。任意ですが」

 

「……任意ってことは、断れんだろォ」

 

「断れますが、断られた場合は別の対応を検討することになります」

 

「チッ!」

 

アタシは舌打ちをした。

 

めんどくせぇ。

 

こいつらに説明するのも、ここで揉めるのも、全部めんどくさい。

 

でも。

 

(……署に行くなら、ついでに悠のことを届け出ることもできるかもしれねぇ)

 

「……わかった。行ってやるよォ」

 

アタシは部屋の電気を消して、ドアを閉めた。

 

「ちゃんとツラを立てろよ。歩いて行くから」

 

 

警察署の入り口に入った瞬間、受付の前で女の声が聞こえた。

 

「だから! 絶対に誘拐だと思うんです! 高層マンションの最上階に連れ込まれてて!」

 

高い、切羽詰まった声だった。

 

受付の警察官が、困り顔で対応している。

 

「落ち着いて、もう少し順序立てて話してもらえますか」

 

「落ち着いてる場合じゃないんです! 悠さんが誘拐されたかもしれなくって! 高層マンションの最上階にいるかもしれなくって!浅見凛さんっていう女の人が……」

 

高い、切羽詰まった声の主は、ポニーテールの少女だった。

 

見たことのない顔だが、

 

「悠さん」という名前が、アタシの耳に突き刺さった。

 

(……悠?)

 

アタシは警察官に連れられながら、そのポニーテールの背中を見た。

 

小柄な体格。

 

高い位置で結んだ髪が、興奮で揺れている。

 

「浅見凛」という名前も聞こえた。

 

(……凛? あの白目女か)

 

胸の奥で、嫌な予感がじわりと広がった。

 

こいつは何を知っている。

 

アタシは警察官に連れられながら、そのポニーテールの背中に向かって歩いた。

 

「おい」

 

少女が振り返った。

 

見知らぬアタシを見て、一瞬だけきょとんとした顔をした。

 

それが次の瞬間、警戒の顔に変わった。

 

「……なんですか」

 

「ちょっとその話、聞かせろォ」

 

アタシはポニーテールの目を、真っ直ぐに見た。




魅夜、情緒不安定すぎる……
そして毛はどうした。
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