その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:やっくん。

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4話 その布地、致死量につき

――浅見 凛(あさみ りん)の視点――

 

 努力もせず、女を使い捨て、当たり前のように複数の女を侍らせる。それが男たちにとっての普通。

 

 そんな男たちにもはや何も期待なんてしていないし、二度と自分を切り売りしないと決めている。

 

 大学時代から社会人一年目にかけて、私が捧げたあの地獄のような二年間。

 

 アーティストになる夢に破れて腐っていた当時付き合っていたカレ。私が支えてあげなきゃと、持ち前の前向きさで支え続けた。

 

 自分の食費を削り、必要な機材や楽器を買い与え、営業職の仕事でボロボロになって帰った後も彼の部屋を掃除し、手料理を食べさせ、再起を願って励まし続けた。

 

 知り合いや友人、お店や会社にも頭を下げて、ライブや音源を宣伝してもらえるようにお願いもした。

 

 その結果、彼はメジャーデビューを掴み取った。

 

(あの時は本当に嬉しかったなぁ……)

 

 けれど、成功した瞬間に彼は私を捨てた。

 

 

「君といると惨めだった頃を思い出して重い」と。

 

 

(そんなの、あんまりよ……ッ!いま思い出しても胃が煮えくり返る! これじゃ私は…私は…彼の夢を再起動させるためだけの使い捨てバッテリーじゃない......)

 

 

 一人の男が、捨てられた子猫を慈しむように撫でている。

 

「……飼えなくてごめんな、良い飼い主に拾われろよ」

 

 端正で、どこか浮世離れした清廉な空気の男は、そう言いながら子猫にキャットフードを与えている。

 

 (どうせ演技やパフォーマンスでしょ? 優しいフリをして、面倒な後始末をあとあと女に押し付けるパターン。はいはい、知ってる。男特有の卑怯な手口よ)

 

 

 このあと家に帰り、ぼーっとテレビを見ていたら緊急速報が流れてきた。

 

 なになに?

 

 『地域一帯で大雨・洪水警報となるでしょう。外出は控えて……』

 

 (え……さっきの子猫、大丈夫かな)

 

  外を見ると雨がポツポツ。今出れば、大降りになる前には、行って帰ることができそうだ。

 

 「しょうがない……ちょっと行って見てくるだけ」

 

 すぐに動きやすい格好に着替えて外に出た。

 

 

 予想に反してすぐに雨粒が大きくなってくる。

 

 ふぅ、なんとか猫がいる公園に辿り着きそうだ。

 

 すっかり土砂降りとなった雨の中、ダンボールがあった場所へ行ってみると、彼は再びそこにいた。

 

 彼は子猫が濡れないように手際よく傘を立て、自分が濡れるのも構わずに、フードを小皿に移している。

 

(あ……演技じゃないだ……)

 

 

 その瞬間、彼の行為が男特有の演技でもパフォーマンスでもないことが、はっきりとわかった。

 

 誰も見ていない。誰に評価されるわけでもない。それでも彼は、土砂降りの中で必死に子猫を救おうとしていたからだ。

 

 ――それは、かつての私が、男に向けていた優しさと同じ種類のものだった。

 

 胸が締め付けられるような痛みが走る。

 

「これじゃ、ここに置いておくのは無理よ……。私の家、すぐ近くだから。今日だけは、うちで引き取るわ!猫をこっちに――」

 

 こっちに渡して。私が運ぶわ、と無意識にそう口にしようとした。

 

 しかし彼は躊躇なく「僕が運びます」と言って、泥にまみれた段ボールを抱き上げる。

 

(え……これって、もしかして……レディファーストってやつ? 男の子が女の子のために荷物を持つとか、リードしてくれるとかっていう……都市伝説でしか聞いたことしかなかったけど……本当に存在するんだ……)

 

【豆知識:この世界の結婚相談所では、女性が男性にモテるための第一歩としてメンズファーストを習う。ドアを開ける、財布を出す、荷物を持つ――それらはすべて女性が率先して行うもの、というのが常識だ。悠の元いた世界とは、見事に真逆である】

 

 雨を切り裂いて走る彼の背中を見ながら、私はあることを確信する。

 

 それは、この人は善人だということだ。そして同時に、この残酷な世界で最も食い物にされやすい獲物なんだと。

 

 

「すいません、じゃああとはお願いします」

 

 マンションのエントランスに辿り着いたとき彼をふと見るとブルブルと震えている。それなのに、彼は私に猫を渡すと、当然のように雨の中へ戻ろうとする。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ! きみ、そんな状態で帰るつもりなの!?」

 

「え? でも、迷惑でしょうし……僕は歩いて帰れますから」

 

 かつての記憶がフラッシュバックする。

 

(かつての私もそうだったわ。相手に迷惑をかけないようにと自分を後回しにして最後には居場所すら失ったの…)

 

「バカ言わないでよ! シャワー浴びていって。服も貸してあげるから!」

 

 自然と彼を家に招き入れていた。

 

 家に入った彼はリビングで申し訳なさそうに座っている。

 

 彼は自分の髪から滴る雫が床を汚していることにも気づかず、渡した温かいタオルで丁寧に、慈しむように猫の泥を拭い始める。

 

「ごめんな、寒かったよな。もう大丈夫だぞ」

 

 彼は猫を拭き終えるとフローリングを濡らしたことに気づき、汚してしまった箇所を、キッチンペーパーで丁寧に拭き取っていた。

 

 驚いた。 

 

 一つは、私が彼のために渡したタオルを、迷いなく猫のために使ったこと。

 

 もう一つは、自分が濡らした床を、当然のように自分で掃除し始めたこと。

 

 そこまで気が回ることもそうだけど――掃除や雑用は、女がやるものでしょ?

 

(……なんで? なんで自分のことより先に、その子を気遣えるの? それに汚した床を掃除するなんて……元カレなら、当然のように私に掃除を命令したはず……)

 

 彼の姿に、私の心臓は警鐘を鳴らし続けている。

 

 私は濡れた体と気持ちを落ち着かせたくて先にシャワーを浴びると彼に告げた。

 

 一瞬だけ男の人を部屋に一人残して大丈夫かな?なんて思ったけどすぐにそんな考えは掻き消える。

 

 こんな素直な人が悪いことするわけない。

 

 

 シャワーから上がって少し落ち着くと、次第に喉が渇いてきた。

 

「あぁ喉かわいた。あ、しまった。水切らしてるんだったわ」

 

 水道水は塩素がキツいから好きじゃないけど。この際、仕方ないか……

 

「あ、凛さん。……水、飲みますか? あ、 これ、飲みかけだったわ。すみませ――」

 

 彼はポケットに入っていた、飲みかけのペットボトルを差し出した。

 

(え……? これって……私のことを、将来のパートナーとして見てる、ってこと……?)

 

【豆知識:男性が飲みかけや食べかけを渡す行為は、相手を将来のパートナーとして考えていると同義。以下略】

 

(嬉しい……えっ、今わたし嬉しいって思ったの? 私、男になにかされて嬉しいって思えるなんて……)

 

 男は大嫌いなはずなのに、自身の心の変化に驚いた。

 

「……ううん。ちょうど、喉かわいていたところなの。……いただくね」

 

 私は、彼のボトルを少しでも早く手にしたくて奪い取るように取ってしまう。

 

 悠くんが口をつけたその場所。それを見つめた瞬間、言いようのない衝動が喉をせり上がってくるのを感じた。

 

(なに?この気持ち……きっと、今このボトルの中のエキスを飲んだとしたら……私がどうなるかわかんない…… )

 

「あ、でも……あとでゆっくりいただこうかな」

 

「……え? あ、はい。そうですか……?」

 

 悠くんが、少しだけ不思議そうな顔をした。

 

 そりゃそうだ。さっき喉がかわいたと言ったばかりなのに。

 

 営業職として致命的なまでの、支離滅裂な対応。でも、今の私にはそれが精一杯だった。

 

 あ、そうだ。悠くんも早くシャワー浴びてもらわないと風邪でも引いたら大変だ。

 

「冷えたら大変だから早くシャワー入って。脱衣所はこっちよ」

 

「ありがとうございます。お言葉に甘えてシャワーをいただきますね」

 

 悠くんが脱衣所へ入っていく。

 

 しばらくするとザーザーというシャワーの音。

 

 今の彼は、丸裸だ。私の家で。私の石鹸を使い、私が毎日使っているシャワーを浴びている。

 

 その事実を噛み締めると、さきほどの私の中の正義感とは別の、なにか正体不明のどす黒いなにかが湧き上がる。

 

(失礼しまぁす……タオル、置いておくね…)

 

 私は、自分への言い訳を用意して脱衣所のドアを開けた。

 

 瞬間、充満していた熱気と湿り気が、私の顔を丸ごと包み込む。

 

 嗅ぎ慣れた石鹸の香りと――それを暴力的な質量で上書きするような、濃厚で、生々しい男の匂い。

 

 視界が白く霞む中、私の視線は一直線になにかを捉えた。

 

 床に置かれた洗濯カゴ。一番上に投げ出された、彼の最も秘められた部分を包んでいた布切れ。

 

 

 時間が止まった。

 

 

 脱ぎたての、ボクサーパンツ。

 視界の中で、それだけが異様な存在感を放っている。他のものは、何も見えない。

 

【豆知識:脱ぎたてパンツは、この世界の女性にとっては致死量の劇薬に等しい。8割近くの女性が一生かけても拝むことすら叶わない現代の秘宝。闇市では高値で売買されているという噂も……】

 

 湯気の中に漂う、彼の強烈な体温の残り香。

 

 気づけば、私はその場に膝をついていた。

 

(天使:だめ。だめだめだめ。これは、犯罪……犯罪よ凛。今まで清廉潔白、お天道様に恥じない生き方をしてきたじゃない)

 

 私の中の天使がつぶやく。

 

(悪魔:触るだけなら……いいじゃない? 触るだけ。あとは、何もしない。ね?)

 

 私の中の悪魔が、甘くささやく。

 

 ――触るだけなら、セーフ。

 

 震える指先が、その熱を帯びた布に触れる。しっとりと、彼の肌の湿度を吸った綿の感触。

 

(悪魔:ね? 触っただけ。何も、起きてない)

 

(本人:じゃあ……少しだけ、顔の近くに持っていくのも――ギリギリセーフ、よね?)

 

「悪魔:そう……ね。ギリギリ、セーフだわ」

 

 天使がなにかしゃべったが右から左へ抜けていった。

 

 そして私はそのパンツを、ゆっくりと顔の近くへ持っていく。

 

 鼻先三センチの距離。

 私は、鼻腔を目一杯に膨らませた。

 

――クンッ 

 

「ッ……!」

 

 衝撃が走った。

 

 むき出しのオスの匂い。湿気を含んでも、三センチ離れていても、なお発せられる強烈な匂い。

 

 

 

(……あぁ。いい匂い……)

 

 思わず、恍惚とした息が漏れる。

 

(悪魔:顔面に押し付けたら……もっと、彼の粒子を吸い込めるわよ)

 

 再び、悪魔がささやく。

 

(天使:だめよ! 誘惑に負けないで、凛! あなたは大手営業課のエースなのよ? 気をしっかり――)

 

 天使が、最後の力を振り絞って叫ぶ。

 

(本人:……ねぇ、天使の私。あなたは、嗅ぎたくないの?)

 

 私は、天使の私に語りかける。

 

(本人:このボクサーパンツが、どれほどの魅力を持っているか――それはあなたが一番わかっているでしょ……あなたは嗅ぎたくないの?)

 

 

(天使:うっ……か、嗅ぎたい、です……)

 

 

天使、陥落。

 

アタシはその布を両手で掬い上げ、そして――衝動のままに、顔を深く深く埋めた。

 

 

 

「っ……! あ……、すごっ…… はぁ……っ!!」

 

 

 

 鼻腔から、脳髄へと、ダイレクトに結城悠という存在が流れ込んでくる。

 

――心の中に、無機質な数字が浮かぶ。

 

0%。

元彼に全部持っていかれて、ずっとこのままだったはずの数字。

嗅ぐ。

23%

もう一度、深く。

47%

頭の奥が痺れて、視界がチカチカする。

68%……82%……

(あ……あぁ……まだ、足りない。もっと……)

95%

そして――

100%

久しぶりに見る、満タンの数字。

 

(……満タン、だ。私の中の何かが、満タンになったわ。でもまだまだ嗅ぎ足りないわね)

 

 今まで、搾取され続けて空っぽだった私のバッテリーが、彼の匂いという名のエネルギーで急速チャージされていった。

 

 肺いっぱいに彼の匂いを吸い込むたびに、私の下着がすごいことになってきているが、これは変態行為ではない。むしろ医療行為だ。

 

 私というバッテリーを満たすため、つまりは元気にさせるために必要な献血のようなもの。

 

 自分でも何を言っているのかよくわかっていない。

 

(トんじゃう……ほんと……トんじゃう……全部、全部、私だけのものにしたい……)

 

 腰のあたりが不自然に熱くなり、膝がガクガクと震えて、立っていることすらできなくなってきた。

 

 これが、本物の男。私が一生をかけて探し求めていた、搾取をしない、真実の愛。

 

 かつての私は、これを持っていて、そのせいで奪われた。

 

 悠くんは私のようにはさせないわ。でもどうやったら守れるかな?この世界から隔離して、私の管理下に置いて、一歩も外に出さずに愛で尽くすのはどうかな?

 

(……きっとそれが、君を、この汚い世界から救う唯一の方法なのかも……)

 

 シャワーの蛇口が閉まる音が聞こえ、私は弾かれたように我に返った。

 

 慌ててパンツを戻そうと――いや、その匂いを少しでも失いたくなくて、大切に他の服の間に隠すようにしてしまう。

 

 代わりに元カレが残していった新品の下着のトランクスを出しておいた。

 

 そうして私は脱衣所を飛び出した。

 

 

「……バカ。……いいってば。アタシが、全部やってあげるから」

 

 彼は借りた服を後で自分で洗濯して返すなんて言ってきた。

 

(……自分で洗う? 本気? 元彼だったら絶対言わないセリフだ)

 

 元彼なら、脱いだ服をソファに脱ぎ散らかす。そして自分がソファに座ろうとした時、その服が邪魔になって、こう言うのだ。

 

「まだ片付けてねぇのか! はやく片付けろ! あ、それと首周りと袖はちゃんと手洗いしろよ!」と。

 

 元カレと言葉も行動も違う悠という青年に私の心は動揺しっぱなしだ。

 

 もしこんなピュアな彼が街に出ればどうなるだろう。

 

 きっと女たちはハイエナのように群がるだろう。

 

(……だめ。絶対に、だめ。こんな心が綺麗な人、このまま外に出しちゃいけない。絶対に誰かに搾取されちゃう。……守れるのは、私だけよ)

 

 彼の飲みかけを奪い合い、彼の優しさに付け込み、彼を自分たちの都合の良い王子様へと作り替え、飽きたら使い捨てる。

 

 そんなの、私が許さない。絶対に、許さない。……彼を守れるのは、同じ地獄を見てきた私だけだ。

 

 ふと外を見ると、今までの雨が嘘のように止んでいた。悠君がそれを確認すると、再び雨が降ってはいけないと足早に帰ろうとした。

 

 少し引き留めようとも思ったけど、これ以上興奮すると私の命に関わると思ってやめた。

 

 間もなく悠くんが玄関のドアを開けて出て行ってしまった。

 

 私は彼を見送ったあと玄関の鍵を閉めた。

 

 

――ガチャン

 

 

 私にとっての開始の合図。

 

 再び脱衣所へ戻り、先ほどカゴの中に隠した布地を抱き上げた。

 

「よかった。きちんとある。バレてなかった……」

 

 私はそのパンツを、自分の心臓に、首筋に、そして最後に顔面へと力強く押し当てた。

 

 そして私はこれからの決意を口にする。

 

 「モガモガ、モガモガ、モガッモガ」

 

【翻訳:全部、私が守ってあげるからね。そして身の回りのことも全部してあげる。洗濯も、食事も、トイレの介助も全部。悠くんは、ただ私の部屋で、私の愛だけを食べて生きていればいいからね】




「モガモガ、モガッモガ」

【翻訳:日本でもメンズファーストの採用を】
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