その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果――   作:やっくん。

4 / 33
4話 その布地、致死量につき

 ――浅見 凛(あさみ りん)の視点――

 

 努力もせず、女を使い捨て、当たり前のように複数の女を侍らせる。それが男たちにとっての普通。

 

 そんな彼らには、もはや何も期待なんてしていないし、二度と自分を切り売りしないと決めている。

 

 大学時代から社会人一年目にかけて、私が捧げたあの地獄のような二年間。

 

 アーティストになる夢に破れて腐っていた当時付き合っていた彼。私が支えてあげなきゃと持ち前の前向きさで支え続けた。

 

 自分の食費を削って必要な機材や楽器を買い与え、営業でボロボロになって帰った後も彼の部屋を掃除し、彼の体調を気遣って不慣れな手料理を頑張った。

 

 知り合いや友人、お店や会社にも頭を下げて、ライブや音源を宣伝してもらえるようにお願いもした。

 

 私は自分のできることはすべて――彼の再起を願ってやり続けた。

 

 その結果、彼はメジャーデビューを掴み取った。

 

 あの時は本当に嬉しかったなぁ……

 

 けれど、成功した瞬間に彼は言った。

 

 

『君といると惨めだった頃を思い出して重い』

 

 

 すぐに私は捨てられた。次の日にはもう別の女がいた。

 

 そんなのあんまりだよ。私は彼を再起動させるための使い捨てのバッテリーなんかじゃないのに……

 

 

 一人の男が捨てられた子猫を慈しむように撫でている。

 

「じゃあな。良い飼い主拾われろな」

 

 端正でどこか浮世離れした清廉な空気の男はそう言いながら子猫にキャットフードを与えている。

 

 どうせ演技かパフォーマンスでしょ。周りに人の目があると途端に良い人ぶるのはあの人と一緒。優しいフリをして、二人きりになると面倒ごとは全て女に押し付けるパターン。

 

 はいはい、知ってる。男特有の卑怯な手口よ。

 

 

 このあと家に帰りボーっとテレビを見ていたら緊急速報が流れてきた。

 

 なんだろ……

 

 『夜には地域一帯で大雨・洪水警報となるでしょう。これからの外出は控えて……』

 

 え……さっきの子猫……

 

 外を見ると雨がポツポツ。今出れば大降りになる前には行って帰ることができそうだ。

 

「しょうがない……ちょっと行くだけ。ちょっと見てくるだけ」

 

 すぐに動きやすい格好に着替えて外に出た。

 

 だが予想に反してすぐに雨粒の勢いが強くなってくる。

 

 「降るの早すぎ……夜じゃなかったの……っ!」

 

 でもなんとか猫がいる公園の脇道には辿り着きそうだ。

 

 予報よりずいぶん早く土砂降りとなっている中、ダンボールがある公園の脇道へ行ってみると彼がそこにいた。

 

 彼は子猫が濡れないように傘を立てようとしている。自分が濡れるのも構わずになんとか固定しようとしている。

 

 あ……演技じゃなかったんだ……

 

 

 その瞬間――彼の行為が男特有の優しいフリでもパフォーマンスでもないことが分かった。

 

 彼の周りには私以外に誰もいないし見ていない。そもそも私にも気づいていない様子。

 

 それでも彼は大雨の中で一匹の猫を懸命に救おうとしている。

 

 それは――それはかつての私が男に向けていた優しさと同じ種類のもの。胸がグッと締め付けられるような感覚がする。

 

「ねぇ! これじゃ、ここに置いておくのは無理よ……っ! 私の家、すぐ近くだから一旦うちで引き取るわっ! 猫をこっちに――」

 

 こっちに渡して、私が運ぶわ――と、口にしようとした。

 

 しかし彼は躊躇なく「僕が運びます」と言って泥だらけの段ボールを抱き上げる。

 

(え……これってもしかして……レディファーストってやつ?)

 

 この世界では女は男に尽くすのが常識だ。ドアを開けるのも、荷物を持つのも、財布を出すのも、すべて女の役目。男に何かをしてもらうなんて都市伝説でしか聞いたことがない。

 

(……本当に存在するんだ)

 

 雨を切り裂いて走る彼の背中を見ながら、私はあることを確信する。

 

 彼は善人だ。

 

 そしてもう一つ。

 

 彼は最も食い物にされやすい獲物であると。

 

 

 マンションのエントランスに辿り着き、後ろを振り返ると彼と視線が合った。よく見ると身体が小刻みに震えている。

 

「里親とか今後の事とかきちんと考えるんで、今日のところはお願いしますっ! じゃあ失礼しま――」

 

 それなのに彼は私に猫を渡すと当然のように雨の中へ戻ろうとする。

 

「ちょ、ちょっと待ってよっ! きみ、そんな状態で帰るつもりなの……っ!?」

 

「え? でも、迷惑でしょうし……僕は歩いて帰れますから」

 

 昔の記憶が蘇る。

 

 それは、かつての私。相手に迷惑をかけないように自分を後回しにしてしまう過去の自分。

 

 いや……それは今も変わってないか……

 

 そして最後には自分の居場所すら失うのだ。

 

「バカ言わないでよっ! いいから入ってっ! タオルも貸してあげるからっ!」

 

 自然と彼を家に招き入れていた。

 

 

 家に入った彼にすぐにタオルを渡してリビングまで連れて行った。彼は遠慮した様子でフローリングに段ボールを置いた。

 

 そして渡したタオルで丁寧に猫を拭き始めた。ひと通り拭き終えると彼が濡らしたフローリングの床を拭き取っていた。

 

 ――驚いた。

 

 彼に渡したタオルを迷わず猫のために使ったこと。自分が濡らした床を当然のように自分で掃除し始めたこと。

 

 掃除や雑用は女がやるもの、そうじゃないの……元彼なら当然のように私に命令したはず……

 

 さっきから私の脳は警鐘を鳴らしている。

 

「シャワー浴びてくるね」

 

 私は濡れた体と動揺した気持ちを落ち着かせるため、先にシャワーを浴びると彼に告げた。

 

 男の人を部屋に残して大丈夫かなぁと思ったけど、すぐにそんな考えは掻き消える。

 

 こんな優しい彼が悪いことをするわけがない。

 

 

 シャワーから上がると次第に喉が渇いてきた。

 

「あぁ、喉かわいた。あら、水切らしてたわ」

 

 水道水は塩素がキツいから好きじゃないけど……仕方ないか……

 

「あ、凛さん……水どうぞ。あ、 これ飲みかけだった……すいませんっ!」

 

 彼はポケットから飲みかけのペットボトルを差し出してきた。

 

 ……飲みかけ

 

 男が女に飲みかけや食べかけを相手に渡すこと――それは将来のパートナーにだけ許される行為だ。

 

 え……これって……私のこと、そういう対象として見てるの……?

 

 

 嬉しい――

 

 

 えっ、今わたし嬉しいって思ったの?

 

 今更、男に何かをされて嬉しいって思えるなんて自分でも驚きだ。男なんて大嫌いなはずなのに……

 

「……ううん。ちょうど、喉かわいていたところなの」

 

 彼のボトルを少しでも早く手にしたくて、奪い取るように取ってしまった。

 

 悠くんが口をつけたその場所。それを見つめた瞬間、言いようのない衝動が喉をせり上がってくるのを感じた。

 

 なに……この気持ち。今この水を飲んだら私、どうなるかわかんない……

 

「……でも……あとでいただくわね」

 

「……え? あ、はい。そうですか……」

 

 悠くんが少しだけ不思議そうな顔をした。

 

 そりゃそうだ。さっき喉がかわいたと言ったばかりなのに、あとで飲むなんて意味がわからない。

 

 致命的なまでの支離滅裂な対応。でも、今の私にはそれが精一杯だった。

 

 あ、そんなことよりも彼にも早くシャワー浴びてもらわないと風邪でも引かせたら大変っ!

 

「そうだわ、シャワー借りていって」

 

「さすがにそれは……」

 

「遠慮しなくて良いから」

 

 半ば強引に彼を脱衣所へと案内する。

 

 

 ――数分後。

 

 彼はシャワーを浴びている最中だろう。今の彼はきっと丸裸。

 

 私の家で、私の石鹸を使い、私が毎日使っているシャワーを浴びている。その事実を噛み締めると、なにか正体不明の感情が湧き上がってくるのを感じる。

 

 足は自然と脱衣所へ向かう。

 

 ザーザーというシャワーの音が脱衣所のドア越しに響いている。

 

「失礼しまぁす……タオルと着替え置いておくね……(小声)」

 

 私は自分への言い訳を用意して脱衣所のドアを開けた。

 

 瞬間――充満していた熱気と湿り気が私の顔を丸ごと包み込む。嗅ぎ慣れた石鹸の香りと、それを上書きするような暴力的で濃厚な男の匂い。

 

 そして視界が白く霞む中で私の視線は一直線に何かを捉えた。

 

 床に置かれた洗濯カゴ。

 

 一番上に投げ出されているもの――彼の秘められた部分を包んでいた布である――脱ぎたてのボクサーパンツ。

 

 時間が止まる。

 

 目の前には彼がさっきまで履いていた下着がある。視界の中でそれだけが異様な存在感を放っている。他の物は何も視界に入らない。

 

 脱ぎたての男物の下着なんて多くの女にとっては致死量の劇薬に等しい。

 

 九割の女が一生かけても拝むことすら叶わない現代の秘宝。闇市では高値で取引されているという噂すらある。

 

 その秘宝が今、無防備に、目の前に晒されている。

 

 湯気の中に漂う彼の強烈な体温の残り香。気づけば私はその場に膝をついていた。

 

(天使:だめ。だめだめだめ。これは、犯罪……犯罪よ凛。今までは清廉潔白。お天道様に恥じない生き方をしてきたじゃない)

 

 私の中の天使がつぶやく。

 

(悪魔:触るだけなら……いいんじゃない? ちょっと触るだけ……あとは何もしない……ね?)

 

 私の中の悪魔が甘くささやく。

 

 ちょっと触るだけなら、セーフよね……

 

 震える指先がその熱を帯びた布に触れる。しっとりと彼の肌の湿度を吸った綿の感触。

 

(悪魔:ね? 触るだけはセーフ……完全にセーフよ……)

 

(本人:じゃあ……少しだけ、顔の近くに持っていくのも――ギリギリセーフ、よね?)

 

「悪魔:そう……ね。ギリギリ、セーフだわ」

 

「天使:完全にアウ――」

 

 天使がなにかしゃべったが右から左へ抜けていく。

 

 そして私はそのパンツを、ゆっくりと顔の近くへ持っていく。

 

 鼻先三センチの距離。

 

 私は、鼻腔を目一杯に膨らませた。

 

 クンッ―― 

 

「ッ……!」

 

 衝撃が走った。

 

 むき出しのオスの匂い。

 

 湿気を含んでも、三センチ離れていても、なお発せられる強烈な匂い。

 

 

 

(……あぁ。いい匂い……)

 

 思わず恍惚とした息が漏れる。

 

(悪魔:顔面に押し付けたら……もっと、彼の粒子を取り込めるわよ)

 

 再び悪魔がささやく。

 

(天使:だめよ! 誘惑に負けないでっ!凛! あなたは大手営業課のエースなのよっ! 気をしっかり――)

 

 私の中の天使が最後の力を振り絞って叫ぶ。

 

(本人:……ねぇ、天使の私……あなたは……嗅ぎたくないの?)

 

 私は天使の私に語りかける。

 

(本人:このボクサーパンツがどれほどの魅力を持っているか――それはあなたが一番わかっているでしょ……あなたは嗅ぎたくないの?)

 

 

(天使:うっ……か、嗅ぎたい、です……)

 

 

 天使、陥落。

 

 アタシはその布を両手で掬い上げ、そして――衝動のままに顔を深く深くうずめた。

 

 

 

「っ……! あ……、すごっ…… はぁ……っ!!」

 

 

 

 鼻腔から脳髄へとダイレクトに結城悠という存在が流れ込んでくる。

 

――心の中に無機質な数字が浮かぶ。

 

 0%

 

 元彼に全部持っていかれて、ずっと空のままだった私のバッテリー。

 

 嗅ぐ。

 

 23%まで上昇。

 

 もう一度、深く。

 

 47%まで上昇。

 

 頭の奥が痺れて、視界がチカチカする。

 

 でもまだまだ嗅ぎたい。

 

 68%……82%……

 

 あぁ……まだ足りないよ。もっともっと……

 

 95%

 

 そして――

 

 ピコン!100%

 

 心のバッテリーが満タンになった音。私の心の中の何かが満たされた感覚……

 

 これまで搾取され続けた私の心という名のバッテリーが、彼の匂いという名のエネルギーで急速チャージされていった。

 

 肺いっぱいに彼の匂いを吸い込むたびに、私の下着がすごいことになってきているが、これは変態行為ではない。むしろ医療行為だ。

 

 私のハートの傷を癒すため――つまりは元気にさせるために必要な献血のようなもの。

 

 自分でも何を言っているのかよくわかっていない。

 

 な……なんか……視界が白く……

 

 腰のあたりが不自然に熱くなり、膝がガクガクと震えて、立っていることすらできなくなってきた。

 

 これが本物の男。

 

 私が一生をかけて探し求めていた、搾取をしない、真実の愛。

 

 かつての私は、これを持っていたせいで搾取されて奪われた。

 

 悠くんもきっとこのままでは誰かに優しさを利用されて捨てられることだろう。

 

 でも絶対に私がそうはさせない。

 

 キュッキュッ――

 

 シャワーの蛇口が閉まる音が聞こえ、私は弾かれたように我に返った。

 

 慌ててパンツを戻そうと――いや、その匂いを少しでも失いたくなくて、大切に他の服の間に隠すようにしまってしまう。

 

 ど、どうしよう……そうだっ!

 

 私は元カレが残していった新品の下着のトランクスを代わりに出しておいた。

 

 そうして私は脱衣所を飛び出した。

 

 

「――シャワーありがとうございました。ホント助かりました。借りた服は後日に洗濯して返しますね」

 

 シャワーから出てまもなく、彼はそろそろ帰ろうとしている様子。

 

「……バカ。……いいってば。アタシが、全部やってあげるから」

 

 彼は借りた服を自分で洗濯して返すなんて言ってきた。

 

 ……自分で洗う? 本気? 元彼だったら絶対言わないセリフよっ!

 

 元彼なら脱いだ服をソファに脱ぎ散らかす。そして彼がソファに座ろうとした時にこう言うのだ。

 

『まだ片付けてねぇのか! はやく洗濯しろ! あ、首周りと袖はちゃんと手洗いしろよ!』と。

 

 元カレとは言葉も行動も違う悠という青年に、私の心は動揺しっぱなしだ。

 

 もしこんなピュアで優しい彼が世間に知られたらどうなるだろう。きっと女たちはハイエナのように群がるだろう。

 

 ……だめ、絶対に。

 

 このまま外に出しちゃ危険な気がする。女という名の狼は絶対に彼に目をつけるからだ。

 

 そうなったら……守れるのは、私だけ……

 

 やつらは彼の優しさに付け込み、彼の飲みかけを奪い合い、自分たちの都合の良い王子様へと作り替える。

 

 そして飽きたら使い捨てるのだ。

 

 そんなのぜったいに私が許さない……絶対に……

 

 彼を守れるのは同じ地獄を見てきた私だけだ。

 

 ふと外を見ると、今までの雨が嘘のように止んでいた。

 

 彼がそれを確認すると、再び雨が降ってはいけないと足早に帰ろうとする。

 

 引き留めたかったけど、これ以上興奮すると私の命に関わると思ってやめた。

 

「今日は本当に助かりました!すぐに里親探しするので、もう少しだけお願いします」

 

 彼はそう言って玄関のドアを開けて出て行ってしまった。

 

 彼を見送ったあと私は玄関の鍵を閉めた。

 

 

 ガチャン――

 

 

 この音は私にとっての開始の合図。

 

 ダッダッダッダッ――

 

 ダッシュで脱衣所へ戻り、先ほどカゴの中に隠した布地を抱き上げた。

 

「よかった。きちんとある。バレてない……」

 

 私はそのパンツを、自分の心臓に、首筋に――そして最後に、顔面へと力強く押し当てる。

 

 そして吸う。

 

 すぅーー。

 

「すごい!すごいすごい!あぁ…すごいすごいすごいすごい……あぁすごいすごい……あぁ……あ……あおぉんっ♡」




「モガモガ、モガッモガ」

【翻訳:日本でもメンズファーストの採用を】
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。