その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果 作:ヤッくん
――浅見 凛(りん)視点――
(……狂っている。今私は、間違いなくどうかしてる)
換気扇の回る規則的な重低音だけが、今の私の正気を辛うじて繋ぎ止めている。なのに、背後の脱衣所からは……ザーザーというシャワーの音が、鼓膜を直接、そして執拗に撫でるように響いてくる。
自室のキッチンで猫用のミルクを温めながら、私は自分の震える指先を必死に抑えていた。
《男女比一対四。この歪な数字が支配する世界において、男性は生まれながらにして『搾取する側』の人間であり、女性の献身を吸い尽くすことが当然の権利とされる》
努力もせず、女の愛を使い捨て、当たり前のように複数を侍らせる。それが男たちにとって、「普通」なんだ。
そんな男に絶望し、二度と自分を切り売りしないと決めている。
大学時代から社会人一年目にかけて、私が捧げたあの地獄のような二年間。
アーティストになる夢に破れて腐っていた元カレを、私は「私が支えてあげなきゃ」と、持ち前の前向きさで支え続けた。
自分の食費を削り、必要な機材や楽器を買い与え、営業職の仕事でボロボロになって帰った後も彼の部屋を掃除し、手料理を食べさせ、再起を願って励まし続けた。
知り合いや友人、お店や会社にも頭を下げて、ライブや音源を宣伝してもらえるようにお願いもした。
その結果、彼はメジャーデビューを掴み取った。
(……あの時は本当に嬉しかった。)
けれど、成功した瞬間に彼は私を捨てた。
――「君といると惨めだった頃を思い出して重い」と。
(そんなの、あんまりよ……ッ!いま思い出しても胃が煮えくり返るわ!私は、彼の夢を再起動させるための、ただの使い捨てバッテリーだったってことね......)
……なのに、なんで。なんで私は、会ったばかりの男をこの部屋に入れちゃったのかな。
すべての始まりは、今日の昼過ぎだった。
◇
一人の男が、捨てられた子猫を慈しむように撫でている。
「……飼えなくてごめんな、良い飼い主に拾われろよ」
端正で、どこか浮世離れした清廉な空気を纏ったその男は、そう言いながら子猫にキャットフードのパウチを与えている。
(どうせ演技やパフォーマンスじゃない?優しいフリをして、面倒な後始末を後々女に押し付けるための、男特有の卑怯な手口なんでしょ)
けれど、土砂降りの雨の中に戻ってみれば、彼は再びそこにいた。
彼は子猫が濡れないように手際よく傘を立て、自分が濡れるのも構わずに、フードを小皿に移している。
(あ……。あぁ、だめだよ。そんなことしちゃ、だめだよ……)
胸が締め付けられるような痛みが走る。
彼の中に、かつての私と同じ「無償の奉仕」を見てしまったから。
この世界で、その献身はつけこまれる要素でしかない。
(このままじゃ……私と同じように、吸い尽くされて、ボロボロにされて捨てられてしまう……ッ!)
「これじゃ、ここに置いておくのは無理だよ……。私の家、すぐ近くだから。今日だけは、うちで引き取るよ!」
私は無意識にそう口にしていた。
そう叫んだ私に、彼は躊躇なく「僕が運びます」と言って、泥にまみれた段ボールを抱き上げる。
(この世界で、女に指一本動かさせない強さを持った男なんて、初めて見た)
雨を切り裂いて走る彼の背中を見ながら、私は確信する。
この人は「善人」だ。そして同時に、この残酷な世界で最も「食い物にされやすい獲物」なんだと。
◇
マンションの玄関に辿り着いたとき彼をふと見るとブルブルと震えている。それなのに、彼は私に猫を渡すと、当然のように雨の中へ戻ろうとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ! きみ、そんな状態で帰るつもりなの!?」
「え? でも、迷惑でしょうし……僕は歩いて帰れますから」
フラッシュバックが止まらない。
(かつての私も、そうだったわ。相手に迷惑をかけないようにと自分を後回しにし、最後には居場所すら失ったのよ)
「バカ言わないでよ! シャワー浴びていって。服も貸してあげるから!」
私は自然と彼を家に招き入れることを決めた。そして、家に入った彼はリビングで申し訳なさそうに座っている。
彼は自分の髪から滴る雫が床を汚していることにも気づかず、渡した温かいタオルで丁寧に、慈しむように猫の泥を拭い始める。
「ごめんな、寒かったよな。もう大丈夫だぞ」
彼は猫を拭き終えると、お礼を言う前に、自分が汚してしまった玄関の床を、キッチンペーパーで丁寧に拭き取っていた。
驚いた。
(……なんで? なんで自分のことより先に、その子を気遣えるの? それに自分で汚した玄関の床を掃除するなんて......元カレなら、当然のように私に掃除を命令したはず……)
彼は私の手を煩わせないように、必死に自分のできることを探して、それを果たそうとしている。
その「与えすぎてしまう」危うい姿に、私の心臓は警鐘を鳴らし続けている。
私は濡れた体をなんとかしたくて先にシャワーを浴びようと立ち上がった。
一瞬だけ男の人を部屋に一人残して大丈夫かな?なんて思ったけどすぐにそんな考えは掻き消える。
(こんな優しいひとが悪いことするわけがないわ)
シャワーから上がると喉が渇いてきた。
「あぁ喉かわいた。あ、しまった。水切らしてるんだったわ」
ちょうど水を切らしてきたことに気づく。
「あ、凛さん。シャワー上がりましたか。……水、飲みますか? これ、俺の飲みかけですけど……良かったら。あ、でも、家に水くらいありますよね。図々しいこと言ってすみませ……」
彼はポケットに入っていた、飲みかけのペットボトルを差し出した。
(え......?これってプロポーズじゃないわよね!?今夜はここに泊まりたいってこと!?いやいやいや!ちがうでしょ!たぶん彼のことだから完全に善意ね。あ〜〜〜ドキドキしたぁ///)
「……ううん。ちょうど、喉かわいていたところなの。……いただくね」
私は、彼のボトルを奪い取るように受け取った。
悠くんが口をつけた、その場所。それを見つめた瞬間、言いようのない衝動が喉をせり上がってきた。
《この世界において、男性の『飲みかけ』を女性が飲み干す行為は、実質的な純潔(キス)の譲渡、あるいは軽度の性的行為として定義される。》
(だめ、今飲んだら……私、この人の前でどうなっちゃうかわからない……っ! 飲み干せば、何かが壊れてしまう……っ!)
「あ、でも……喉、そんなに渇いてなかったかも。これ、あとでゆっくりいただくね」
「……え? あ、はい。そうですか……?」
悠くんが、少しだけ不思議そうな顔をした。
さっき喉がかわいたと言ったばかりの私があとで飲むなんて言えば当然だ。
営業職として致命的なまでの、支離滅裂な対応。でも、今の私にはそれが精一杯だった。
「じゃあ、次は俺がシャワーをいただきますね。あ、服はお借りしてしまってすみません。後で自分で洗いますから」
(……自分で洗う? 本気で言ってるの? この人は、本気で私を『食い物』にしていない。男って性格が悪いとばかり思ってたけど、たった一人、自立した魂を持って、女に寄生せずに生きようとしている……ッ!)
(……だめ。絶対に、だめ。こんな心が綺麗な人、このまま外に出しちゃいけない。絶対に誰かに搾取されちゃう。……守れるのは、私だけだ)
こんなに優しくて、こんなに無防備。
もし彼が街に出れば、女たちはハイエナのように群がるだろう。
彼の飲みかけを奪い合い、彼の優しさに付け込み、彼を自分たちの都合の良い「王子様」へと作り替え、飽きたら使い捨てる。
(そんなの、私が許さない。絶対に、許さない。……彼を守れるのは、同じ地獄を見てきた私だけだよ)
悠くんが脱衣所へ入っていく。ザーザーというシャワーの音。
今の彼は、丸裸だ。私の家で。私の石鹸を使い、私が毎日使っているシャワーを浴びている。
その事実を噛み締めるほどに、私の中の「正義感」が、正体不明のどす黒い「なにか」へと変質していくのがわかった。
(……タオル、置いておくね)
私は、自分への言い訳を用意して脱衣所のドアを開けた。
瞬間、充満していた熱気と湿り気が、私の顔を丸ごと包み込む。
嗅ぎ慣れた石鹸の香りと――それを暴力的な質量で上書きするような、濃厚で、生々しい『男の気配』。
視界が白く霞む中、私の視線は一直線に『それ』を捉えた。
床に置かれた洗濯カゴ。一番上に投げ出された、彼の最も秘められた部分を包んでいた布切れ。
(あ……, あぁ……っ……。……脱ぎたての、ボクサーパンツ……っ!)
《それは、八割の女が一生を捧げても拝むことすら叶わない聖域の残滓であり、この世界の女性にとって『致死に至る劇薬』に等しい》
湯気の中に漂う、彼の強烈な体温の残り香。
気づけば、私はその場に膝をついていた。
震える指先が、その熱を帯びた布に触れる。しっとりと、彼の肌の湿度を吸った綿の感触。
アタシはその布を両手で掬い上げ、そして――衝動のままに、顔を深く深く埋めた。
「っ……! あ……、すごっ……, はぁ……っ!!」
鼻腔から、脳髄へと、ダイレクトに『結城悠』という存在が流れ込んでくる。
今まで、搾取され続けて空っぽだった私のバッテリーが、彼の匂いという名のエネルギーで急速に満たされていく。
(……守ってあげる。悠くん。私が、私だけが、君を守ってあげるから……っ! 肺いっぱいに悠くんの匂いを吸い込むたびに、全身の細胞が歓喜の悲鳴を上げてる……ッ!)
これは、変態行為ではない。これは「医療行為」だから。
私というバッテリーを満たすため、つまりは私を元気にさせるために必要な医療行為。自分でも何を言っているのかよくわかっていない。
(トんじゃう……っ、こんなの……っ、トんじゃうわよ!全部、全部、私だけのものに……っ!!)
腰のあたりが不自然に熱くなり、膝がガクガクと震えて、立っていることすらできない。
これが、本物の『男』。私が一生をかけて探し求めていた、搾取をしない、真実の愛。
かつての私は、これを持っていて、そのせいで奪われた。
だから、今度は私が「奪う側」になる。この人を世界から隔離し、私の管理下に置き、一歩も外に出さずに愛で尽くす。
(……それが、君を、この汚い世界から救う唯一の方法なんだ。ねぇ、悠くん……?)
……シャワーの蛇口が閉まる音が聞こえ、私は弾かれたように我に返った。
慌ててパンツを戻し――いや、その匂いを少しでも失いたくなくて、大切に他の服の間に隠すようにして――代わりに元カレが残していった新品の下着のトランクスを出しておいた。
そうして私は脱衣所を飛び出した。
◇
「……バカ。……いいってば。アタシが、全部やってあげるから」
私は、服を洗って返すと言う彼とまともに目を合わせることができない。
ふと外を見ると、今までの雨が嘘のように止んでいた。
悠君がそれを確認すると、再び雨が降ってはいけないと足早に帰ろうとした。
少し引き留めようとも思ったけど、これ以上興奮すると命に関わると思ってやめといた。
間もなく悠くんが玄関のドアを開けて出て行ってしまう。
私は彼を見送ったあと玄関の鍵を閉めた。
――ガチャン
私にとっての「開始の合図」。
私は再び脱衣所へ戻り、カゴの中の服の間に隠した『致死に至る布地』を抱き上げた。
「よかった。きちんとある。バレてなかった……」
私はそのパンツを、自分の顔に、首筋に、そして心臓へと力強く押し当てた。
(……全部、私がやってあげる。洗濯も、食事も、身の回りのことも。悠くんは、ただ私の部屋で、私の愛だけを食べて生きていればいいの)
世の男はみんな奪ってくるような奴ばかり。
私は今、その地獄の底で、最高に美しくて、最高に甘美な「ある計画」を思いついた。
(悠くん、君は自分がどれだけ危うい存在か分かってないんだね)
(あんな風に誰にでも優しくして……もし私以外の女が、今の君のパンツを見つけたらどうするつもり?)
「……だから、私が君を『保護』してあげる。二度と、私みたいな悲しい思いをしないように……」
私は、暗い部屋で一人、彼の残したボトルに唇を重ねた。
それは、かつて奪われた「自分自身の誠実さ」を取り戻し、それを「独占」へと昇華させる儀式。
「……もうぜったいに、逃さないからね。悠くん」
もう営業スマイルは必要ない。
私には今、世界で一番守るべき相手ができたのだから。
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