その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:ヤッくん

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5話 その男、無警戒につき――五分の休息が、死に至るまで

「いいか、悠。今日から来る新人さんには、くれぐれも失礼のないようにしてくれよ」

 

店長の背中は、いつになく小さく、そして小刻みに震えていた。

 

俺がアルバイトをしているカフェ『レゼール』。

ここは鳳(おおとり)財閥が肝入りで立ち上げたブランドで、売上も右肩上がりだ。けれど、その好調さが仇となったらしい。

 

《鳳(おおとり)財閥。この国の経済を牛耳る巨大組織。その運営は苛烈を極め、独自の監査システムによって不適格と見なされた店は、一夜にして解体されるという》

 

「例の『鳳の裁き』……本社からの抜き打ち査察が、この支店にも入るっていう噂だ。今回の新人は、その査察官の刺客か、あるいは本人かもしれない……」

 

もし評価が低ければ、即日解雇。

それが鳳財閥の鉄の掟だ。

 

「大丈夫ですよ、店長。いつも通り、心を込めて接客するだけですから」

 

「その『いつも通り』が一番怖いんだよ、お前は……!」

 

(失礼な。俺の接客は至って普通、むしろ模範的でしょ?)

 

頭を抱える店長。

そんなに警戒しなくてもいいのに、と思っていると、店のドアベルが涼やかな音を立てた。

 

「失礼いたします。本日よりこちらの店舗で研修を受けることになりました、レイ……いえ、麗華(れいか)と申します」

 

店内の空気が、一瞬にして凍りついた。

そこに立っていたのは、一人の女性。

 

鳳 麗華(おおとり れいか)

 

黒いウィッグのような不自然に重たい髪型に、顔の半分を覆うような分厚い眼鏡。そんな「野暮ったい身なり」だというのに、彼女から溢れ出す気配はどこか異質だった。眼鏡の奥から覗く肌は陶器のように滑らかで白く、ふとした瞬間に見せる瞳の輝きは、獲物を射抜く鷹のように鋭い。

 

(なんだこの威圧感……本当にただの新人か?)

 

何より、その立ち姿が美しかった。

背筋が天に向かって真っ直ぐに伸び、指先一つにいたるまで、完璧な所作で制御されているのだ。

 

彼女は、あまりにも「目を引く存在」だった。

地味な装いで自分を押し殺そうとしているはずなのに、隠しきれない気品と、圧倒的な「強者」の気配が周囲を支配している。

 

ついでに言えば、野暮ったい制服の上からでも分かるその胸のボリュームも、別の意味で周囲を圧倒していた。

 

(……デカい。いや、今はそんなところを見てる場合じゃないな。査察官かもしれないんだし)

 

「あ、ああ、担当は結城くんだ。よろしく頼むよ」

 

店長が逃げるように消え、俺は彼女の前に進み出た。

 

「よろしく、麗華さん。俺は結城。そんなに緊張しなくていいよ、この店は楽しい場所だからさ」

 

親しみやすさを込めて手を差し出すと、麗華さんは一瞬、俺の手を汚物でも見るかのように見つめた。

だが、すぐに温度のないビジネススマイルを浮かべる。

 

(嫌われているんだろうか。……いや、人見知りなだけかもしれないな。うん、そうに違いない!)

 

「ご丁寧に恐れ入ります、結城様。私、早く戦力になれるよう努力いたします。ご指導、よろしくお願いいたします」

 

鈴を転がすような美声。

だが、その奥には氷のような冷たさが同居していた。

 

 

「いらっしゃいませ! 毎度ありがとうございます、佐藤さん」

 

来店したのは、常連の恰幅のいい男性だ。

 

「佐藤さん、今日はパフェ、一つにしておきませんか?」

 

俺はメニューを下げ、困ったように笑いかけた。

 

「奥さんから聞いたんですよ、最近血圧を気にしてるって。今日三つも食べたら、明日からまた怒られちゃうでしょう? 代わりに新作のハーブティーをサービスしますから。ね?」

 

麗華さんは眉間にシワを寄せ、真剣な眼差しで俺を観察していた。

 

(すごい真面目な子なんだなぁ……。きっと接客の極意を学ぼうとしているに違いない。よしよし、いい傾向だぞ)

 

俺はそんな場違いな感心をしていた。

 

 

数日後。

 

「悠くん、先日はありがとう。おかげで妻に叱られずに済んだよ」

 

佐藤さんが山のようなリンゴを持って来てくれた。

最近は果物も高いから、本当に助かる。

 

(あれ……。それにしても、麗華さんの顔色が悪い気がする。査察のストレスだろうか)

 

「……麗華さん? どうかした? 顔色が悪いけど」

 

「なんでもありませんわ! 私は、ただ……効率の悪い現場だと思っているだけです!」

 

(効率、か。昨日の納品作業で、俺がケースをひっくり返したことを根に持っているのかもな)

 

「あはは、そうだね。効率も大事だけど、お客が笑ってくれればそれが『正解』かなって。とりあえず楽しんでみたらどう?」

 

彼女の眉間のシワは、深いままだった。

 

 

 

 

翌日の夜。

店内模様替えのため、俺と麗華さんは深夜まで残っていた。

 

「……くっ、……あ、あと少し、……ですわ」

 

什器を支える麗華さんの声は、今にも途切れそうだった。

お嬢様育ちであろう彼女には、この重労働は酷すぎる。

 

「麗華さん、あと少しだ。気合入れて……っ!」

 

鼓舞するように声をかけた瞬間、彼女の靴がタイルに滑った。

 

「あ……」

 

傾く巨大な鉄の塊。反射的に体が動いた。俺は彼女の腰を抱き寄せ、自分ごと壁際へ滑り込む。

 

ドォォォォン!!!

 

背後で重量物が着地し、地響きが鳴った。

 

「はっ、……はっ、……大丈夫?、麗華さん」

 

腕の中に、震える肩の感触。

はだけた襟元から、俺の熱気が彼女に直接伝わっているのが分かった。

 

「……あ、……あ……」

 

彼女は何かを言いかけて、俺の喉元や胸板を、熱を帯びた瞳で見つめていた。

 

(心臓の音がうるさい。……あれ、彼女の目、なんだか潤んでないか?)

 

その瞳の奥で何かが砕けるような、危うい光を感じたのは気のせいだっただろうか。

 

作業を終えて控室に入った時、俺の体力は限界を越えていた。

 

「悪い、5分だけ……寝かせてくれ……」

 

椅子に倒れ込んだ瞬間に、意識のスイッチが切れた。

 

 

深い眠りの中、奇妙な夢を見ていた。

ヘビが体を這い回るような、くすぐったい夢。

甘い香りに包まれ、重苦しいはずなのにどこか心地よい熱。

 

 

数時間後。

まぶしい朝日の光で目が覚めた。

 

体中が重い。

なぜか、一晩中全力疾走したあとのような脱力感があった。

 

「……? なんだ、これ……」

 

指先で唇の端を拭うと、そこには生々しい「ベタつき」が残っていた。

 

(寝汗だろうか。重労働の後でたくさん汗をかいてしまったのかもしれない。……でも、なんか匂いが甘いような?)

 

だが、それにしては首筋まで妙に生々しい感触が残っていて、俺は首を傾げた。

 

ふと見ると、麗華さんが少し離れた椅子で、逆さまの雑誌を必死に読みふけっている。

 

「……麗華さん、おはよう……」

 

「ひっ……! お、おはようございます、結城様っ!」

 

飛び上がるように肩を震わせる彼女。

雑誌を握る指先は小刻みに震え、その横顔は耳の先まで真っ赤に染まっていた。




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