その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
「いいか、結城君。今日から来る新人さんには、くれぐれも失礼のないようにしてくれよ」
店長の背中はいつになく小さく、そして小刻みに震えていた。
俺がアルバイトをしているカフェ――レゼール。
鳳(おおとり)財閥が肝入りで立ち上げたブランドで、レゼールと名のついたカフェは全国で展開されている、らしい。
というのも俺のいた日本では鳳財閥なんて聞いたことがないし、レゼールという名のカフェも見たことがない。
ちょっとした興味からネットで調べてみたのだが、鳳財閥といえばこの国の経済を牛耳る巨大組織であるらしい。
傘下の店舗には独自の監査システムが敷かれていて、不適格と判断された人員は即日解雇。ひどい時には店ごと解体されるとか。
通称、鳳の裁き。
「その鳳の裁き……本社からの抜き打ち査察がこの支店にも入るっていう噂なんだよね。はぁ……」
「あ、そうなんですね。まぁでも、いつも通り心を込めて接客すれば問題ないですよっ」
「気楽に言ってくれるね、結城くん。店長の僕だって首を切られることもあるんだからね」
「えっ……そうなんですか」
「それに、今日入る新人は本社からの研修員なんだけど……もしかして抜き打ちのための査察官という可能性も……」
「それにしても店長、なんでうちに監査が入るんですかね」
「うーん……ここ最近、売上がかなり伸びたから……逆に注目されたのかも」
「へぇ、そうなんですね」
「これも君のせいだからね(ボソッ)」
「えっ、今なんて言いました」
「なんでもないよ。ともかく、特に君は気をつけるように……ね!」
「大丈夫ですよ、店長。いつも通り心を込めて接客するだけですからっ」
「そのいつも通りが一番怖いんだよ、君は……」
頭を抱える店長。
俺の接客は至って普通、むしろ模範的なはず。そんなに警戒しなくてもいいのに、と思っていると、店のドアベルが涼やかな音を立てた。
「失礼いたします。本日よりこちらの店舗で研修を受けることになりました、小鳥 麗華(ことり れいか)と申します」
店内の空気が一瞬にして張り詰めた。
そこに立っていたのは一人の黒髪の女性。不自然に盛り上がった髪型に顔の半分を覆うような分厚い眼鏡。
そんな野暮ったい身なりだというのに、彼女から溢れ出すオーラは気品に溢れている。
眼鏡の奥から覗く肌は陶器のように滑らかで白く、瞳の輝きは獲物を射抜く鷹のように鋭い。
そして何よりその立ち姿が美しかった。
背筋が天に向かって真っ直ぐに伸び、指先一つにいたるまで完璧な所作で制御されている。
地味な装いのはずなのに、隠しきれない気品と圧倒的な強者の気配が周囲に放っている。
なんか圧あるな。本当にただの新人か?……あ、そういえば査察官かもしれないんだっけ……
「あ、ああ、君が新人さんか。担当は、この結城 悠(ゆうき ゆう)くんだ。よろしく頼むよ、じゃ」
逃げるようにバックヤードに消えていった。
て、店長……俺に全部押しつけやがった……
なぜか緊迫感に包まれる。
彼女は普通の新人でただ緊張しているだけなのかも知れないし――ここはいつも通りに。
「よろしく、小鳥さん。俺は結城。そんなに緊張しなくていいよ、この店は楽しい場所だからさ」
親しみやすさを込めて手を差し出すと、小鳥さんは一瞬、俺の手を汚物でも見るかのように見つめた。
だが、すぐに温度のないビジネススマイルを浮かべる。
き、気のせいだよな……
「ご丁寧に恐れ入ります、結城さん。私、早く戦力になれるよう努力いたします。ご指導、よろしくお願いいたします」
鈴を転がすような美声。だがその奥には氷のような冷たさが同居していた気がした。
◇
「いらっしゃいませ!毎度ありがとうございます佐藤さん」
「おぉ、悠くん。今日もいつもの頼むよ」
このカフェ常連の佐藤さん。
男性客はそもそも珍しいのに加え、パフェを毎回三つ頼むので顔も名前も覚えてしまった。
だけど先月に比べて明らかにアゴのところに肉がついてきてるんだよな……
「佐藤さん、今日はパフェ、一つにしておきませんか?」
俺はメニューを下げて、できるだけ自然に笑いかける。
「奥さんから聞きましたよ。最近、血圧を気にしてるって。ここで三つも食べちゃったら、また奥さんにガミガミ言われちゃうでしょ? その代わりノンシュガーのハーブティーをサービスしますから、ね?」
いつの間にか小鳥さんは眉間にシワを寄せこちらを観察していた。
すごい真面目な子だなぁ……学べるところがないか、つぶさに観察しているんだな。よしよし、いい傾向だぞ。
そんな彼女の姿に俺は感心をしていた。
◇
――数日後。
「悠くん、先日はありがとう。おかげで妻に叱られずに済んだよ」
佐藤さんが山のようなリンゴを持って来てくれた。
最近は果物も買うと高いから本当に助かる。
あれ……それにしても、小鳥さんの顔色が悪い気がする……
「……小鳥さん?どうかした?顔色が悪いけど」
「なんでもありませんわ!私は、ただ……効率の悪い現場だと思っているだけですっ!」
効率……か。昨日の納品作業で俺がケースごとをひっくり返したことを言ってるな。周りからは『悠くんしっかりしてよ〜』って笑われたもんな……
「うん、ごめんね。俺けっこう鈍臭いところあるから。でも周りが笑ってくれたから結果オーライかなって」
彼女の眉間のシワは深いままだった。
◇
翌日の夜。
店内模様替えのため俺と小鳥さんは深夜まで残っていた。
「……くっ……あ、あと少し……ですわっ」
什器を支える彼女の声は今にも途切れそうだった。
育ちが良いであろう彼女にはこの重労働は酷なのだろう。
「小鳥さん、あと少しだ。気合入れて……っ!」
鼓舞するように声をかけた瞬間、彼女の靴がタイルで滑った。
「あ……っ」
傾く巨大な鉄の塊。
反射的に体が動いた。
俺は彼女の腰を抱き寄せ、自分ごと壁際へ滑り込む。
ドォォォォン!!!
背後で重量物が落下して地響きが鳴った。
「はっ、……はっ、……大丈夫」
腕の中に震える肩の感触。
はだけた襟元から熱気が彼女に伝わっているのが分かった。
「あっ……あっ……」
彼女は何かを言いかけながら、俺の喉元か胸辺りを見つめていた。
彼女の目がなんだか潤んでいる……相当こわかったんだな。下手したら怪我じゃすまなかったんだ……当然だよな。
「もう大丈夫だよ、こわかったよな」
腰が抜けたのか一人で立てない様子の彼女。
しばらく経って、少し落ち着いたのを見てから俺は彼女を立たせた。
結局残りの作業は俺一人ですることになった。
◇
作業を終えて控室に入った時、俺の体力は限界を越えていた。
「悪い、5分だけ……寝かせてくれ……」
椅子に倒れ込んだ瞬間に意識のスイッチが切れた。
深い眠りの中、奇妙な夢を見ている。
ヘビが体を這い回るような、くすぐったい夢。
甘い香りに包まれて、重苦しいはずなのにどこか心地よい熱を感じる。
◇
数時間後。
まぶしい朝日の光で目が覚めた。
「うーんっ」
思いっきり伸びをする。イスで寝たからか体中が鉛のように重い。そして、一晩中全力疾走したあとのような脱力感があった。
「なんだこれ……」
指先で唇の端を拭うと、よだれが乾燥したようにベタついていた。
おれ寝てる間によだれ垂らしてたのか……
そして奇妙なことに、そのベタつきは唇から首筋辺りまで伸びていた。
ふと横を見ると、彼女が少し離れたイスで雑誌を必死に読みふけっている。
だが、雑誌は逆さま。なにかの修行か?
「……小鳥さん、おはよう……」
「ひ……っ! お、おはようございます、結城さんっ!」
飛び上がるように肩を震わせる彼女。
雑誌を握る指先は小刻みに震え、その横顔は耳の先まで真っ赤に染まっていた。
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