その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果 作:やっくん。
「いいか、悠。今日から来る新人さんには、くれぐれも失礼のないようにしてくれよ」
店長の背中はいつになく小さく、そして小刻みに震えていた。
俺がアルバイトをしているカフェレゼール。
ここは鳳(おおとり)財閥が肝入りで立ち上げたブランドで、売上も右肩上がりだ。
けれど、その好調さが仇となり逆に不正を疑われているらしい。
【豆知識:鳳財閥は、この国の経済を牛耳る巨大組織。傘下の店舗に独自の監査システムを敷き、不適格と判断された店は一夜で解体される。これが通称「鳳の裁き」だ】
「例の鳳の裁き……本社からの抜き打ち査察が、この支店にも入るっていう噂だ。今回の本社から派遣される新人は研修員という名目だが……その査察官の刺客か、あるいは本人かもしれない……」
もし評価が低ければ、即日解雇。それが鳳財閥の鉄の掟だ。
「大丈夫ですよ、店長。いつも通り、心を込めて接客するだけですから」
「そのいつも通りが一番怖いんだよ、お前は……」
(失礼な。俺の接客は至って普通、むしろ模範的でしょ)
頭を抱える店長。
そんなに警戒しなくてもいいのに、と思っていると、店のドアベルが涼やかな音を立てた。
「失礼いたします。本日よりこちらの店舗で研修を受けることになりました、小鳥 麗華(ことり れいか)と申します」
店内の空気が、一瞬にして張り詰めた。
そこに立っていたのは、一人の黒髪の女性。
小鳥 麗華(ことり れいか)
不自然に盛り上がった髪型に、顔の半分を覆うような分厚い眼鏡。そんな野暮ったい身なりだというのに、彼女から溢れ出す気配はどこか気品に溢れていた。
眼鏡の奥から覗く肌は、陶器のように滑らかで白く、瞳の輝きは獲物を射抜く鷹のように鋭い。
(なんか圧あるな……本当にただの新人か?)
そして何より、その立ち姿が美しかった。
背筋が天に向かって真っ直ぐに伸び、指先一つにいたるまで、完璧な所作で制御されているのだ。
彼女は、あまりにも目を引く存在だった。
地味な装いのはずなのに、隠しきれない気品と、圧倒的な強者の気配が周囲を支配している。
ついでに言えば、野暮ったい制服の上からでも分かるその胸のボリュームも、別の意味で周囲を圧倒していた。
(……あ、そういえば査察官かもしれないんだよな……)
「あ、ああ、君が新人さんか。担当は、この結城 悠(ゆうき ゆう)くんだ。よろしく頼むよ」
店長が逃げるように消えた。
俺は彼女の前に進み出た。
「よろしく、麗華さん。俺は結城。そんなに緊張しなくていいよ、この店は楽しい場所だからさ」
親しみやすさを込めて手を差し出すと、麗華さんは一瞬、俺の手を汚物でも見るかのように見つめた。
だが、すぐに温度のないビジネススマイルを浮かべる。
(き、気のせいだよな……初対面で嫌われるなんてことないよな……)
「ご丁寧に恐れ入ります、結城様。私、早く戦力になれるよう努力いたします。ご指導、よろしくお願いいたします」
鈴を転がすような美声。
だが、その奥には氷のような冷たさが同居していた気がした。
◇
「いらっしゃいませ! 毎度ありがとうございます、佐藤さん」
「おぉ、悠くん。今日もいつもの頼むよ」
このカフェ常連の佐藤さん。男性客はそもそも珍しいのに加え、パフェを毎回三つ頼むので顔も名前も覚えてしまった。
(先月に比べて明らかにアゴのところに肉がついてきてるんだよな…)
「佐藤さん、今日はパフェ、一つにしておきませんか?」
俺はメニューを下げ、困ったように笑いかけた。
「奥さんから聞いたんですよ。最近、血圧を気にしてるって。今日、ここで三つも食べちゃったら、明日からまた奥さんに怒られちゃうでしょう? その代わり、新作のノンシュガーハーブティーをサービスしますから。ね?」
いつの間にか、麗華さんは眉間にシワを寄せ、真剣な眼差しでこちらを観察していた。
(すごい真面目な子だなぁ……。学べるところがないか、つぶさに観察しているんだな。よしよし、いい傾向だぞ)
そんな彼女の姿に俺は感心をしていた。
◇
数日後。
「悠くん、先日はありがとう。おかげで妻に叱られずに済んだよ」
佐藤さんが山のようなリンゴを持って来てくれた。
最近は果物も買うと高いから本当に助かる。
(あれ……それにしても、麗華さんの顔色が悪い気がする……)
「……麗華さん? どうかした? 顔色が悪いけど」
「なんでもありませんわ! 私は、ただ……効率の悪い現場だと思っているだけです!」
(効率…か。昨日の納品作業で俺がケースごとをひっくり返したことを言ってるのかもな。周りから「悠くんしっかりしてよ〜」って笑われたもんな……)
「あー、そうだね。効率も大事だよね。でも周りが笑ってくれたから結果オーライかなって」
彼女の眉間のシワは、深いままだった。
◇
翌日の夜。
店内模様替えのため、俺と麗華さんは深夜まで残っていた。
「……くっ、……あ、あと少し、……ですわ」
什器を支える麗華さんの声は、今にも途切れそうだった。
育ちが良いであろう彼女には、この重労働は酷すぎる。
「麗華さん、あと少しだ。気合入れて……っ!」
鼓舞するように声をかけた瞬間、彼女の靴がタイルで滑った。
「あ……っ」
傾く巨大な鉄の塊。
反射的に体が動いた。
俺は彼女の腰を抱き寄せ、自分ごと壁際へ滑り込む。
ドォォォォン!!!
背後で重量物が着地し、地響きが鳴った。
「はっ、……はっ、……大丈夫? 麗華さん」
腕の中に、震える肩の感触。
はだけた襟元から、熱気が彼女に直接伝わっているのが分かった。
「……あ、……あ……」
彼女は何かを言いかけて、喉元や胸板をただ見つめていた。
(心臓の音がうるさい。……あれ、彼女の目、なんだか潤んでないか?)
その瞳の奥で何かが砕けるような、危うい光を感じたのは気のせいだっただろうか。
作業を終えて控室に入った時、俺の体力は限界を越えていた。
「悪い、5分だけ……寝かせてくれ……」
椅子に倒れ込んだ瞬間に、意識のスイッチが切れた。
深い眠りの中、奇妙な夢を見ている。
ヘビが体を這い回るような、くすぐったい夢。
甘い香りに包まれ、重苦しいはずなのにどこか心地よい熱。
◇
数時間後。
まぶしい朝日の光で目が覚めた。
体中が鉛のように重い。
そしてなぜか、一晩中全力疾走したあとのような脱力感があった。
「……なんだ……?」
指先で唇の端を拭うと、よだれが乾燥したようにベタついていた。
(うわぁ……おれ寝てる間によだれ垂らしてたのかも。もし麗華さんに見られてたら恥ずかしい……)
しかし奇妙なことに、そのベタつきは唇から首筋まで残っていた。
ふと横を見ると、麗華さんが少し離れた椅子で、雑誌を必死に読みふけっている。
逆さまで。
なにかの修行か?
「……麗華さん、おはよう……」
「ひっ……! お、おはようございます、結城様っ!」
飛び上がるように肩を震わせる彼女。
雑誌を握る指先は小刻みに震え、その横顔は耳の先まで真っ赤に染まっていた。
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