その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――鳳 麗華(おおとり れいか)の視点――
真実は、数字ではなく現場に現れるもの。
それがわたくしの持論です。
鳳グループの次期後継者として、わたくし自らが立ち上げたカフェ――レゼールは全国に向けて店舗を展開をしております。
全国でも売上が好調な理由――それはわたくし自ら行う監査にあります。
正体を隠しての覆面リサーチ。変装という名の仮面を被って各店舗に潜入いたします。
そう、わたくし自身で。
わたくしが下すのは人事評価という名の死刑宣告。
腐った食べ物は、早めに処分をしないと周りも腐らせてしまう――人もそれと同じこと。
レゼールにふさわしくない無能なスタッフは、わたくし自らで引導を渡して差し上げますわ。
「おーっほっほっほっ!」
◇
「失礼いたします。本日よりこちらの店舗で研修を受けることになりました、小鳥 麗華(ことり れいか)と申します」
名乗った瞬間、店内の空気が一瞬にして凍りついたのを肌で感じました。
鳳家の人間として幼少期から施されてきた英才教育と立ち居振る舞い――それが平民たちを凍りつかせてしまったのかしら……
どうやら変装してもなお、わたくしの放つオーラまでは隠しきれなかったようですわね……
「あ、ああ、君が新人さんか。担当は、この結城 悠くんだ。よろしく頼むよ」
店長がわたくしから逃げるようにして、足早にバックヤードへ消えていきました。
気づいているのかしら……そんなわけがないですわね、完璧な変装ですもの……
そして、後に残された結城という男は困ったように笑いながらわたくしに話しかけてきました。
「よろしく、小鳥さん。僕は結城。そんなに緊張しなくていいよ。この店は楽しい場所だからさ」
彼は無防備に右手を差し出しました――平民の汚い手を。
「ご丁寧に恐れ入ります、結城様。私、早く戦力になれるよう努力いたします。ご指導、よろしくお願いいたします」
……なんですの、この男。わたくしを前にして平然と手を差し出すなんて。無礼、あまりにも無礼ですわ! やはり一般人は使えませんわね!
わたくしは眼鏡を指でクイと押し上げ、胸ポケットに忍ばせた鳳チェックシートを開きます。
カキカキ。
結城 悠:第一印象。身分をわきまえない馴れ馴れしさ。評価――×(バツ)
これは、わたくしが立ち上げたレゼールに泥を塗るような無能を排除するための聖戦。
この男がわたくしの定める基準に値しない存在であれば即座に切り捨てますわ。
クビを宣告された時の彼の顔を想像してみます。彼のきれいな顔が歪んでおります。
少し愉快かも知れませんわね。
その時が楽しみですわ……おーっほっほっほっ!
◇
結城がわたくしに接客指導をしております。
「じゃあ、まずは接客の基本から。あ、ちょうどお客様だ」
来店したのは恰幅のいい中年男性でした。
常連の依存度の高い客ですわね。パフェ三つで客単価の上昇が見込めますわね。
売上への貢献度は……高いわ。ここは季節限定トッピングや追加注文のお勧めを重ね、さらなる利益を――
「佐藤さん、今日はパフェ、一つにしておきませんか?」
わたくしの思考が停止しました。
彼はメニューを下ろし、困ったように、けれどどこか慈しむような眼差しで客を見つめていました。
「奥さんから聞きましたよ。最近、血圧を気にしてるって。ここで三つも食べちゃったら、また奥さんにガミガミ言われちゃうでしょ? その代わりノンシュガーのハーブティーをサービスしますから、ね?」
「……参ったな、悠くんには敵わないよ。じゃあ、今日はパフェ一つと、そのお茶にしようかな」
な、なんですって……!?
佐藤と名乗る客はどこか嬉そうに笑って席に着きました。
シュババッ!
わたくしは即座に鳳チェックシートを展開します。
利益を自ら捨てるなんて商売人としてあるまじき行為! 鳳規範第12条売上機会の損失。評価――致命的な×(バツ)!
その後も、わたくしの手帳には×(バツ)が連発されます。
店の前でソフトクリームを落として泣きじゃくっている子供がいました。
彼はすぐに駆け寄り、汚れも厭わずに子供の目線に合わせて話し始めました。そして勝手に新しいソフトクリームをプレゼントしました。
子供は泣き止みましたが、お礼も言わずに去っていきました。
ほら、見なさい!そんなことをしても意味などなくてよ!
シュバババッ!
再び鳳チェックシートに書き記します。
鳳規範第5条威信の失墜。下民に膝をつくなど許されません。しかも公私混同で勝手にお店の原価を流出させるなんて。評価――救いようのない×(バツ)!
◇
数日後。
テーブルの制限時間を過ぎても顔を伏せて泣き続けている女性客。
わたくしが「お時間です」と告げようとした瞬間、彼はそれを制してそっと温かいコーヒーを差し出しました。
「ゆっくりしていってください。気が済むまでここにいていいですから」
わたくしは呆れ果てていました。
回転率の低下。効率の悪化。
最優先する鳳の正解から、この男はあまりにも遠すぎる。
決めましたわっ! 結城 悠……貴方は――
クビ、確定ですわ。
オーッホッホッホ……!
「……アハハ……ハハッ」
思わず漏れそうになった高笑いを引きつった咳払いで誤魔化します。
わたくしは手元の手帳に大きな×を書き込みました。
もはや鳳チェックシートには余白がないほどに×(バツ)で埋め尽くされておりました。
◇
――数日後
「悠くん、先日はありがとうね。おかげで妻に逃げられずに済んだよ。これ、実家から届いたリンゴなんだけど、みんなで食べて」
先日、注文を止められた客が山のような差し入れを持って現れました。原価計算には決して現れない信頼という名の果実。
また別の日には。
「悠兄ちゃん、この前はごめんね! ありがとう!」
ソフトクリームを落とした子供が、今度は両親を連れてやってきました。
「息子がどうしてもここでお礼を言いたいって聞かなくって。今日は家族全員で食事をさせてください」
そう言って親子は贅沢なレゼール特性フルコースを注文しました。
そして、失恋して泣いていた女性。彼女は今、晴れやかな顔で友人を連れ、何度も店を訪れています。
「あの時、追い出さずにいてくれたのが嬉しくて。ここのファンになっちゃった」
わたくしは、カウンターの陰で立ち止まりました。
どういうことですの……売上を捨て、威厳を捨て、効率を捨てたはずのこの店が、なぜ以前より活気に満ち溢れているのです……
鳳家の教育では人は恐怖と利益で動くものだと教わりました。けれど、目の前の光景はマニュアルにはない何かによって動いている。
「……小鳥さん、どうかした? 顔色が悪いけど」
かっ……顔が近いっ!
結城が心配そうに覗き込んでくる度、わたくしの心臓が激しく跳ねています。
「な、なんでもありません! わたくしは、ただ……効率の悪い現場だと思っているだけです!」
「あー、そうだね。効率も大事だよね。でも周りが笑ってくれたから結果オーライかなって」
笑ってくれたから結果オーライ……
目先の利益よりお客の笑顔という意味でしょうか。たしかに一考の価値はありますわね。
わたくしの心の中で何かが激しく軋みました。
◇
――夕暮れ時。
高級リムジンの後部座席でわたくしは黒いウィッグを脱ぎ捨てました。
夕陽を浴びて宝石のようなわたくしの金髪が車内に広がります。
「九条、窓を明けて」
「はい、ただちに」
わたくしは下がった窓ガラスの隙間から変装用の眼鏡を外に放り投げます。
そして、手元に開いた鳳チェックシートを展開してから赤ペンを取り出します。
くるくるくるくる――
ペン先が無数の×(バツ)の上を滑るように走ります。
そして見開きいっぱいに力強い大きな花丸を描きます。
「結城悠……」
規律と効率こそが絶対だと信じていた私の世界を、彼は見事に塗り替えてしまった。数字では測れない人の心の温かさを軽やかに証明してみせた。
「ふん……少しはやるようですわね……」
開いた窓から吹き込む夕暮れの風が、わたくしの髪をたなびかせます。
「……気持ちいい風ですわ」
◇
――翌日の夜。
夜の店内は昼間の喧騒が嘘のように冷ややかな静寂に包まれておりました。
「……くっ、……あ、あと少し、……ですわ」
店内全体の模様替えのため、わたくしと結城は深夜に作業を行っております。
なんで今日に限って他のスタッフは全員休みなのよ!
わたくしは、慣れない作業着の袖を捲り上げ、鉄製の重厚な什器の端を必死に支えていました。
指先は痺れ、掌には鉄錆の匂いがこびりついています。
対角線上で同じ什器を支える彼は、首筋に玉のような汗を浮かべながらも、一歩一歩着実に足を進めていきます。
「小鳥さん、あと少しだ。気合入れて……っ!」
「わか、って……おりますわ……っ!」
その時でした。
わたくしの靴底が、剥がれかけた床のタイルに滑ったのは。
「あ……」
バランスを崩した什器が、無情にもわたくしの方へと傾いてきました。
鉄の塊が視界を塞ぎ、死の予感に目を瞑った。
――その瞬間。
「危ないっ!」
強い衝撃と共に、わたくしの体は横へと弾き飛ばされました。
いえ、飛ばされたのではありません。彼の逞しい腕がわたくしの腰を強引に引き寄せ、背後の壁へと押し込んだのです。
ドォォォォン!!!
重苦しい音が響き、什器が床に沈みます。
「はぁ……はぁ……大丈夫か、小鳥...さん」
目前には、彼の胸板がありました。
作業着越しに伝わってくる彼の熱さと鼓動。
わたくしの細い肩を掴む彼の指からは、剛力が伝わってまいります。
「……あ……あ……」
……なんで……声が出ませんわ……
眼前に彼の喉仏の上下、そして乱れた襟元から覗く赤銅色の肌に釘付けになりました。
わたくしの思う「美」とは、洗練され磨き抜かれた静かなるもの。
けれど、今わたくしの眼前にあるのは、汗と泥にまみれた汚くも生々しい「命」の輝きに思えました。
わたくしを庇うために跳ね上がった彼の鼓動が、密着した胸を通じてわたくしの心臓を直接叩き起こしていきます。
……ああ、……なんてこと……
この時、わたくしの中の何かが、確かに「パキリ」と音を立てて砕け散ったのです。
◇
ようやく全ての作業を終え、わたくしたちは控室へと戻りました。
「悪い、五分だけ……寝かせてくれ……」
彼はパイプ椅子に倒れ込むなり、瞬く間に深い眠りへと落ちていきました。
けれど、わたくしの瞳には世界が真っ赤に燃えているように見えました。
血管を流れる血液が、沸騰したお湯のように熱く、激しく、全身を駆け巡っているのです。
……静か……ですわね
スースーと規則正しく無防備な寝息を立てる彼。
ひっひっ……と引き攣った呼吸を繰り返すわたくし。
その対比がわたくしの異常性を煽り立てます。
さきほどの、あの、恐ろしいほどの力、あれは、どこに宿っているのでしょう……
わたくしは吸い寄せられるように、彼の傍らへ膝をつきました。
震える指先が彼の作業着をめくり――腹部のその溝へと伸びていきます。
「……かたっ!……うそ、これ……これは本当に同じ人間ですの……」
指先が彼の筋肉に触れた瞬間、脳内に火花が散りました。
「あ、あついですわ。わたくしの指が溶けてしまいそう…… 」
脳内の火花は徐々に広がりを見せます。
「もっと……もっと深くを知らなければ、研修生として失格ですわ……っ」
彼の腹部をゆっくりと手のひらで撫でていきます。
指先に伝わる凹凸。熱い肉の感触。
「……んんっ……はぁ、……はぁ ……いい......ですわ……ッ」
彼の汚くて汗臭い体がなぜかわたくしを狂わせます。
いつの間にか、わたくしは彼の首筋に顔を埋めていました。
「……すんすん……すんすん。これが……男の匂い……っ!」
視界はもう真っ赤。明け方の青い光など、わたくしの情念が焼き尽くしてしまいました。
気がつけば目の前には無警戒に投げ出された彼の唇。
――まるで熟れきった瑞々しい果実のよう。
ごくりっ
その艶めかしい質感を前にして私の喉が静かに鳴りました。
いけませんわ……ここを越えたら、これまでのわたくしでいられなくなります……
理性の防波堤が悲鳴を上げています。
そして、目の前にあるその唇は無防備に開かれています。
彼の寝息に合わせて、その唇が小さく動きます。
くぱっ。
くぱっ。
くぱっ。
呼吸のたびに開いては閉じ、開いては閉じるを繰り返す。
無防備で、無垢で、なんの警戒も持たないその動き。
それは、まるで――蜂を誘う花弁のようでした。
甘い蜜の香りで、ただひたすらに、何も知らぬまま獲物を呼び寄せる毒花。
……ああ……来てくださいと、誘っていらっしゃるのね……
わたくしは震える自分の唇を指でなぞります。
鳳家の誇り、純潔の証、そんな重荷が、今はひどく邪魔なものに思えます。
わたくしは彼という毒を最後まで飲み干したい。
一滴残らずその命を味わい尽くしたい。
彼の誘惑の吐息がわたくしの鼻先をくすぐるほど近くに感じます。
、彼の唇が眼前に迫ります。
ちゅっ――
ついに、そのときが訪れました。
「……ちゅ……ちゅ……っ、ちゅ……ちゅ……っ、ちゅんっ………っ」
わたくしは彼の顔を両手で挟み込み、奪うように、貪るように、その唇を塞ぎました。
甘い。
泥とコーヒーの味が混ざり合っているのに、これまで口にしてきたどんな高級菓子よりも甘くて熱い。
「……あぁぁぁ――これまでのわたくしが壊れていくぅ……でも、でもとまらない……とめられないの……っ! だれかわたくしをとめて……っ!」
そう口ずさみながらも唇を塞ぐ行為は止まりません。
「……ちゅ……っ、ちゅ……っ。 あなたの汚い唇で、わたしがどんどん汚される……ッ!」
得体のしれない何かに、わたくしが塗り替えられる感覚。
気がつけばわたくしの手はさらなる未知の領域――ズボンの合わせ目へと伸びていきました。
「……ここ……ここがあなたの……最も汚い場所……っ! 見せなさい。あなたの……......いちばん汚いものを! その汚物でわたくしを染めてみせなさいっ」
その膨らみを指が捉えた瞬間。
ドクン――
人生で最大の衝撃が脳髄を直撃します。
か、過呼吸。
「……しゅ……しゅ……しゅごぉ♥」
ドサッ――
わたくしの視界は急速に暗転し、糸の切れた人形のように彼の体の上に重なるようにして、意識を失ったのでございます。
◇
まぶたの裏にじりじりとした熱を感じてわたくしは意識を浮上させました。
視界が開けると、そこにあったのは控室の無機質な灰色の天井でした。
「……あら……?」
わたくしは自分が床の上に、無様に突っ伏していたことに気づきました。
体の節々が痛みます。そして何より、わたくしが今抱きかかえているのは、パイプ椅子に横たわってまだ眠り続けている彼の足首でした。
「なっ……ななな、なんですの、この破廉恥な体勢は……っ!」
わたくしは弾かれたように飛び起き、乱れた作業着の裾を整えました。
心臓が耳の奥で早鐘を打っています。
……ゆ、夢でしたのね……
そうですとも。わたくしは誇り高き麗華。
あんな野蛮ではしたない行為をするはずがございません。
あれは深夜の魔力が見せた質の悪い悪夢。
わたくしは気を取り直して立ち上がろうとしました。
けれど。
「……ん」
不意に口の中に違和感がありました。舌の先が無意識に唇をなぞります。
「……っ!?」
それはコーヒーの味。
彼が飲んだ安っぽいコーヒーの苦くて甘い風味。
「あ……あ……あ……」
こんなバカなこと……
わたくしがあの泥臭い男に自らなど……ありえない……ありえませんわ……
窓から差し込む朝日は、昨日までとは違ってひどく残酷に映ります。
そして恐ろしいほどに艶かしく、わたくしを照らし出しておりました。
>>わたくしは下がった窓ガラスの隙間から眼鏡を外に放り投げ、手元に残った鳳チェックシートを見つめました。
窓の外にメガネを投げ捨ててはいきません。キリッ(`・ω・´)