その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
鏡の前で、俺は襟を整えた。
髭は剃った。爪も切った。シャツにアイロンもかけた。よし、問題なし。
最近、身だしなみには気を使うようにしている。
きっかけは、ちょっとした光景の積み重ねだった。
この前コンビニで、毛玉だらけのスウェットに寝癖のまま買い物をしている男を見た。
散歩に行けば、猫背で背中を丸め、地面を見ながら歩く男とすれ違う。
満員電車では、向かいに立った男の口臭がきつくて、思わず顔を背けた。
……人のふり見て我がフリ直せ、とはまさにこのことだよな。
だらしない姿は、見ていて気持ちのいいものじゃない。自分もああならないように気をつけよう。
そう思って、俺は今日も背筋を伸ばして街を歩く。
――そんな時だった。
「あ、そこのお兄さん、いま何してるんですか? もしお時間あったら……」
見知らぬお姉さんに、声をかけられた。
(……えっ。もしかして)
ナンパ、というやつだろうか。
ついに俺にもモテキが来たか……! 身だしなみに気を使った成果か……!
一瞬そう思いかけて、俺は彼女の手元に目をやった。
……あ
肩から提げた大きなバッグ。そこから覗く、色とりどりのパンフレットとポケットティッシュの束。
なんだ、ビラ配りか。いや、営業かな。ビラ配りにしては荷物が多いし。
うん、わかってたよ。
この綺麗なお姉さんが俺なんかをナンパするわけがない。
「すいません。今、急いでるんで……」
俺は軽く会釈して、足早にその場を通り過ぎた。
背後で「あっ、待って……!」という声が聞こえた気がしたけど、きっと次のカモ……いや、次の相手を探しているんだろう。
営業の人も大変だよな。
ちなみに俺は全然落ち込んでなんかいない。
◇
今日は奮発して外でランチでもしようかと、街のレストランまで足を運んだ。
「いらっしゃいませー。一名様ですね、こちらへどうぞ」
お昼どきだったが、俺は運良くすぐにテーブルへと案内された。
そこで、ふと斜め前のテーブル席の女性客が視界に入る。
彼女は注文しようと何度も手を上げているが、なかなか店員に気づいてもらえていない様子だった。
――ここで、普通の人は何もしないと思う。
親切な人は、「すいません、あちらの方、呼んでますよ」と店員を呼び止めるかもしれない。
ちなみに俺は――
ちょうどお水を運んできた店員と視線が合った。
その一瞬で、視線をそっと困っている客の方へ滑らせる。
ものの数秒、言葉は必要ない。
店員は小さく頷き、すぐにそちらへ向かっていった。
誰も何が起きたのかに気づかない。
恩着せがましくないし、こちらも気分が良い。
あ、俺の注文……
結局、俺が注文を通せたのは、それから五分後のことだった。
◇
「おつりは五百円になります。ありがとうございましたー」
俺はランチを済ませた後、少しブラブラしようと思って駅前に出た。
広場に近づくにつれて、ズン、ズン、と低い音が足の裏から伝わってくる。
ベースとギターの音だ。
音のする方へ近づいていくと、二人の少女がライブをしていた。
少し崩した制服にギャルっぽい見た目の二人組が路上で演奏している。
それを聞く通行人たちは好き勝手にものを言っている。
「うわ、下手クソっ」
「俺のほうがうまいっつーの」
「メジャーデビュー目指してますって書いてあるよ。ムリムリ!」
たしかにギターボーカルの少女は、何度も音程を外している。
もう片方のベースギターの女の子は、何度もピックを取り落として、その都度しゃがんで拾っていた。
通行人たちは足を止めることなく通り過ぎていく。
だが、俺はなんとなく足を止めた。
歌詞に耳を澄ませると。
「男はみんな、クソくらえっ! まともなやつは、いやしねぇ――!」
「浮気のアイツを、悪、即、斬――っ!」
「二股したヤツ、悪、即、斬――っ!」
「アク・ソク・ザーーーーーーンっ!」
……すごい歌詞だな。
「だが、いいパッションだ……」
二人の前には空のギターケースが置いてあった。
ポケットに入っていたおつりの五百円。
俺は、それを開いたギターケースに向けて親指で弾いた。
硬貨は綺麗な放物線を描き、ギターケースを通り越していった。
カツン、と地面に落ちた五百円玉は、倒れることなく縦のままコロコロと転がっていく。
まるで意思を持っているかのように、まっすぐ。
そして、ベースの少女の足元でくるくると勢いを失い――チャリンと倒れて止まった。
ちょうどその時、彼女はまたピックを取り落とし、それを拾おうとしゃがみ込んだところだった。
彼女の視線の先に止まったばかりの五百円――少女がそれをじっと見つめる。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
視線が合う俺と彼女。
俺はぐっと親指を突き上げた。
少女は、きょとんとした顔で俺を見上げていた。
◇
帰りは、歩き疲れたのでバスを利用することにした。
今は、独特の匂いに包まれながらバスに揺られている。
プ――
バスが停車して扉が開く音が鳴り響く。
止まった停留所で腰の曲がったご老人が乗り込んできた。
空いている席はない。
こういう時、俺はもう答えを知っている。
自分の降りるバス停は当分先だが、俺は何食わぬ顔ですっと席を立つ。
まるで、自分がちょうど降りるかのように――。
そう思って腰を上げかけた、その時。
少し離れた席の乗客が先に立ち上がった。
次の停留所で降りるらしい。
空いた席にご老人が自然と腰を下ろした。
……座れたなら何よりだ。
そう思って、上げた腰を下ろそうとしていると、
ちょうど乗ってきた若者が俺の空けたスペースにすとんと座った。
「……」
俺の席はなくなっていた。
しかも、俺が降りるのはまだ当分先だ。
……まぁ、いいか。最近、運動不足だったからな。
ちょうどいい、立ちトレーニングだと思えば、むしろお得というものだ。
吊り革を握る手にぎゅっと力が入った。
◇
プ――。
「ありがとうございました――」
最寄りのバス停で降り、家に向かって歩き出したところ道端に空き缶が落ちていた。
最近よく落ちている。しかも決まって同じ銘柄の――ビッグバード・サイダーと書かれた――空き缶が。
前の世界では、こんな名前のジュースはなかったと思う。
ふと見上げれば、ドローンが頭上をゆっくり横切っていった。
……あのドローン、前にも見た気がするな。
そういえば、空き缶が落ちてるときは、いつも近くにドローンが飛んでる気が……
いや、まさかな。
俺は空き缶を拾ってゴミ箱に入れ、再び歩く。
――カラン。
背後で、なにかが落ちた音がした。
振り返る。
誰もいない。
ただ、さっき捨てたはずの空き缶が、再びアスファルトに転がっている。
ビッグバード・サイダー。
……さっきは落ちてなかった気がしたけど……
もう一度ゴミ箱に捨てる。
歩き出す。
――カラン。
え……
俺は走って家に帰った。
既読無視とか悪、即、斬!
返事返せよ悪、即、斬!
アク・ソク・ザーーーーン!!!