その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――蒼井 深守(あおい みもり)の視点――
彼のことを好きになったのは、ずいぶん前――わたしがまだ、高校一年生だった頃のこと。
きっかけは、些細なことだった。
わたしが廊下で教材を落としてしまったとき、周りの誰もが素通りするなか、彼だけが「大丈夫?」としゃがんで拾うのを手伝ってくれた。
それだけ。本当に、それだけのことだった。
でも、男の子からそんなふうにしてもらえたことなんてなかったから嬉しかった。
その日から、わたしの目は彼を追うようになっていた。
放課後の教室で笑う横顔。友達と話すときの少し高い声。
気づけば、半年が経っていた。
◇
そして今日、わたしはついに、勇気を振り絞った。
心臓が、口から飛び出しそうだった。
昨日の夜は、緊張でほとんど眠れなかった。鏡の前で、何度も何度も、言う言葉を練習した。
放課後、人気のない渡り廊下で彼を呼び止める。
手のひらは汗でびっしょり。声も、指先も、震えていた。
それでも。
「……好きです。付き合って……ください」
言えた。
言えたんだ。人生で一番の、勇気だった。
「……ごめん。今は部活に集中したいんだ」
「うん……わかった。きちんと返事してくれて……ありがとう……」
彼はその場を去っていった。
部活動って時間もエネルギーも使うから、お付き合いできないのもしょうがないよね。
でも、勇気を出せた自分はえらいよね。
そう自分に言い聞かせた。
◇
その日の放課後――
下校しようと下駄箱まで来たところで、ふと思い出した。
来週から試験かぁ……置き勉してる教科書、少しずつ持って帰らなきゃ。
わたしは階段を登り、教室の扉に手をかけた。
その瞬間だった。
中から、聞き覚えのある声がする。友達と話すときの少し高い声。
「今日、深守に告られたわ」
「うそ〜、返事は?」
「もちろんフッた」
「え〜ひど〜」
「ちょっと優しくしたら調子に乗りやがってよ」
「なにかしたのか?」
「先公がいたからよ、アイツの前で教科書拾ってやったんだよ」
「先公のポイント稼ぎってわけだ」
「そうそう。そもそも、俺と付き合うにはスペック不足なんだよ。せめてAランクはないと」
「じゃあ深守のランクは」
「アイツはEマイナスってところかな。ハハッ」
「ギャハハハ。つかお前、本命の彼女いるだろ」
「あっバレた? というか、あんな地味な女、隣にいるだけで俺の価値が下がんだよねぇ。ランクの低い人間は、そもそもこの上位クラスに存在する資格がないっつーの」
――パキッ
心臓の奥で、なにかがひび割れる音がした。
半年間、想い続けた人。
落とした教材を拾ってくれた、あの優しい手。
あれは、優しさなんかじゃなかったんだ。
扉に伸ばした手を引っ込める。
わたしはしゃがみ込んで、唇を噛んだ。
数秒経ってから立ち上がり、そして走った。
さっき登ってきた階段を降りて、廊下を走って、昇降口を抜けて、外へと飛び出した。
息が続く限り走った。息が続かなくなって止まった。
そして、また走った。また止まる。
それを繰り返して、気づいたら家の前にいた。
バタンッ!
部屋に入って扉を閉めた。
ベッドに倒れ込んで、天井を見つめる。
その時、ふと親友の顔が頭に浮かんだ。
他のクラスにいる、光ちゃん。
「……光ちゃん、わたし、どうすればいいの……」
◇
次の日、教室に入った瞬間に分かった。
教室の空気が違う。
昨日まで普通に話をしてくれていた友達がよそよそしい。
挨拶はかろうじで返ってくるけど、わたしと会話をすることを皆が静かに拒否している雰囲気を感じる。
――まるでわたしがそこにいないみたいに。
キーンコーンカーンコーン。
……やっとお昼になった。
いつもより時間の流れがとても長く感じる。
でも、この時間なら光ちゃんがいると思うから……
わたしはすぐに廊下を飛び出した。
その瞬間、光ちゃんが彼女の友達と廊下を歩いてくるのが見えた。
「ひかりちゃ――」
声をかけようとした言葉が途中で止まった。
彼女の隣の女の子が言う。
「ほっときな、光。あんなのに関わったら光のランクまで下がっちゃうよ」
「……え、あ、……うん」
光ちゃんは、それを聴いて頷いていた。
わたしと目が合う。
「……ッ!」
彼女は視線をそらした。
……そっか、そうなんだ。もうどこにもわたしの居場所は……
その日以降、教室からわたしの居場所は完全に消えた。
朝、扉を開けると、話し声がふっと途切れる。
誰も目を合わせない。
わたしが席に座ると、隣の子がさりげなく椅子を動かして距離を空ける。
わたしが黒板を写そうとノートを開くと、後ろの席のひそひそ声が背中に刺さる。
休憩時間。
みんなが机を寄せ合って笑っている輪の、どこにもわたしの椅子はない。
わたしはただ、机に置いた自分の手を見つめていた。
爪の先を、じっと。
昼休み。
誰も、お弁当に誘ってくれない。
わたしはトイレの個室に入って、鍵をかけた。
便座の蓋の上に座って、膝を抱える。
ここだけが、誰の視線も届かないたったひとつの居場所だった。
そして――ある朝。
わたしは玄関で靴を履こうとして途中で手を止めた。
しばらく、そのまま動けなかった。
結局、靴を脱いで、自分の部屋に戻った。
ベッドにもぐりこんで、布団を頭まで被る。
カーテンを、閉めた。
その日、わたしは学校に行かなかった。
次の日も。
その次の日も。
◇
わたしが部屋から出なくなって、家の中の空気も変わった。
母は、わたしの部屋の前でよく泣いていた。
「深守……お願いだから、なにがあったのか話して……ねぇ……」
ドア越しに鼻をすする音が続く。
父はリビングで電話に向かって怒鳴っていた。
「学校はどういう教育をしてるんだ! 訴えてやる、こんなの……っ!」
受話器を叩きつける音が壁を伝ってくる。
わたしはベッドの上で膝を抱えて、ヘッドホンをそっと耳に乗せた。
つまみを回して音量を上げる。
母の声も、父の声も、すうっと遠ざかって、消えた。
枕元には、飲みかけのビッグバードサイダーの缶がいくつも転がっている。
その一つを手に取って、口に運んだ。
……ぬるい。炭酸も、とっくに抜けている。
それでも、もう一口飲んだ。
空になった缶をまた枕元に置く。
カラン、と乾いた音がして、それは他の缶の山に紛れた。
◇
引きこもりになってからは、時間の感覚が、なくなっていった。
一週間、一ヶ月、一年。季節が何度も巡って、いつしか数えるのもやめた。
高校一年の途中から部屋にこもって、気づけば同級生たちはとっくに制服を脱いでいる頃だ。
みんなが前に進んでいく間、わたしの時間だけがあの渡り廊下で止まったままだった。
クローゼットの奥の制服は、袖を通されないまま眠っている。
カレンダーをめくる手も、いつからか止まっていた。
カーテンは閉め切ったまま。
わたしはノイキャンのヘッドホンで外の音を遮断する。
暗い部屋でパソコンと機械をいじる。それだけの毎日。
食事はドアの前に母が置いていくものを、誰もいなくなってから引き込む。
スマホの通知はとっくに切った。
窓も扉も閉め切ったこの部屋は、誰の視線も、誰の言葉も届かない。
ここにいれば傷つかない。……はずだ。
◇
ある日、換気をしようとカーテンに手をかけた。
外の光がまぶしくて、目を細める。
結局、カーテンをまた閉じた。
部屋の空気は日に日に淀んでいく。
息が浅くなる。
ふと、机の上のドローンに目が留まった。
パーツを寄せ集めて、自分で組み上げた不格好な機体。
わたしはそれを手に取り、しばらく見つめた。
そして、窓をほんの少しだけ開けた。
人ひとり通れないくらいのわずかな隙間。
そこから、ドローンを空へと放つ。
プロペラの音が遠ざかっていく。
モニターに青い空が映し出された。
それは、わたしがずっと閉め出していた空だった。
部屋を埋め尽くすマルチモニターの青白い光が、わたしの皮膚を白く焼く。
モニターに映し出されるのは、地上三十メートルから映るドローンからのライブ映像。
風を切るローターの音がヘッドホンを通じてわたしの鼓膜を震わせる。
◇
ある日――
いつものように空へ放ったドローンのレンズが、一人の青年を捉えた。
白いシャツに、きちんと整えられた髪。背筋を伸ばして歩く姿。
なんとなく、目で追ってしまった。
……なんだろう、あの人。
この街を歩く男の人は、たいてい猫背で、無精髭で、黒のスウェットにサンダルを履いている。
でも、あの人は違った。
レストランに入っていく青年を、わたしはドローンのカメラでそっと追いかける。
ドローンを近づけ、対象を青年に固定して、モニター画面を拡大する。
ガラス越しに見える店内。
注文できずに困っている女性客に、青年が気づいた。
彼は騒ぎ立てることも、恩着せがましく声をかけることもしなかった。
ただ、店員と目が合った一瞬に、視線をすっと困っている客の方へ滑らせただけ。
店員が頷いて、そちらへ向かっていく。
……今の、なに……
誰も気づいていない。
助けられた本人すら、気づいていないかもしれない。
わたしは、モニターに顔を近づけた。
◇
次に彼が足を止めたのは、駅前の広場だった。
下手な演奏をしている二人組の路上ライブ。
通行人はみんな、鼻で笑って通り過ぎていく。
でも、あの人だけは足を止めて、最後まで聴いていた。
そして、ポケットから取り出した硬貨を、そっとギターケースへ投げ入れようとして――外していた。
(……あ、外した)
ふふ、と。
久しぶりに自分の口から笑いがこぼれたことに、わたしは驚いた。
◇
バスに乗った彼を、ドローンで追う。
窓越しに見えたのは、お年寄りに席を譲ろうと腰を上げかけて、でも別の人が先に立って、結局座れなかった青年の姿。
立ったまま吊り革を握る横顔は、なぜか少し満足げだった。
……変な人。
でも、目が離せなかった。
わたしはここのところ、ずっとレンズ越しにこの街を監視してきた。
誰にも気づかれないように。
人も世界も、醜くて汚い、わたしはそう思っていた。
なのにあの人は、誰も見ていないところで、誰にも気づかれないように、ただ優しかった。
……こんな人が、いるんだ……
モニターの中の青年がマンションへと帰っていく。
わたしはその背中が見えなくなるまで、ずっとレンズを向けていた。
気づけば――
明日も彼を見たい、と思っている自分がいた。
それが、わたしがここ数年で初めて抱いた、「明日」への願いだった。
◇
もっとあの人を近くで感じたい。
そう思ったとき、ふと良いことを思いついた。
わたしは押し入れから以前作ったドローン用のアームを引っ張り出した。
それをドローンに装着する。
そして、部屋の隅に転がっていた空き缶をそっとアームに掴ませる。
「さぁ、行って!」
空いた窓から彼の歩くいつもの道へとドローンを飛ばした。
彼の進行方向、数メートル先。
カメラで距離を測りながら、そっとアームを開く。
――カラン。
空き缶が、アスファルトに落ちた。
彼が足を止める。
そして、迷うことなくそれを拾い上げ、近くのゴミ箱へと入れた。
……拾ってくれた。
胸の奥が、ぽっと温かくなる。
直接話したわけじゃない。声をかけたわけでもない。
でも、わたしの落とした缶を、あの人が拾ってくれた。
それだけのことが、たまらなく嬉しかった。
それに、やっぱり……
誰も見ていないのに、あの人はゴミを拾う。
わたしのドローンにも気づかず、ただ当たり前のように。
……もっと知りたい。あの人のこと。
◇
それから、わたしはすっかり空き缶落としにやみつきになってしまった。
次の日も、その次の日も。
彼の通り道に、そっと空き缶を落とす。
彼は毎回、律儀にそれを拾ってゴミ箱へ入れる。
わたしとあの人だけの、誰も知らない交流。
モニター越しに、わたしは何度も微笑んでいた。
……でも。
その日は、少し欲張ってしまった。
彼のすぐ近くで、缶を落としてしまったのだ。
――カランッ。
思ったより、大きな音が鳴った。
彼が、びくりと足を止める。
そして、ゆっくりと振り返った。
誰もいない道。
落ちているのは、空き缶ひとつ。
彼の顔に、はっきりと戸惑いの色が浮かんでいく。
あたりをきょろきょろと見回し、それから――足早に、歩き去っていった。
いや、ほとんど、走っていた。
……あっ
わたしはドローンのコントローラーを握ったまま、固まった。
「……や、やっちゃった……」
モニターの中で、小さくなっていく彼の背中。
わたしは思わず、両手で顔を覆った。