その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:やっくん。

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9話 その男、汚文字につき―― 角が取れるまで、優しさを煮込んで

「クソがァァァァァァァァ!!」

 

 隣の部屋から響いてきた、この世の終わりみたいな絶叫で跳ね起きた。

 

 時計を見ると外はもう真っ暗だった。

 

 バイトから帰ってきて少しだけ仮眠をとるつもりが、ずいぶん深く眠ってしまったらしい。

 

 ドゴォォーーン!!

 

 次は壁一枚隔てた向こう側から、何かが激しくぶつかる音が聞こえる。

 

(……魅夜さんか……)

 

 廊下ですれ違うたびに鋭い罵倒を浴びせてくる彼女。

 

 勝手にベランダから俺の部屋に上がり込み、作り置きの飯やらお菓子を平らげていくような無茶苦茶な女だ。

 

(いや……この世界では魅夜さんみたいな女性がむしろ普通なのか? そんなわけないか……。捨て猫の里親になってくれた凛さんは普通に優しくて見るからに常識人だしな)

 

 不法侵入されたら普通なら警察を呼ぶか、管理会社に泣きつく案件だろう。

 

 だが、それでも「まぁ、いいか」と思えてしまう出来事が以前にあった。

 

 

 以前、魅夜さんが珍しく高熱を出して寝込んでいた夜があった。

 

 その日も、いつものように壁の向こうから物音がしていた。

 

 ただ、いつもと違ったのは、その音がやけに弱々しかったことだ。

 

 ガサ、ゴソ、と何かを引っかくような音。

 

 それから、くしゃみと、咳。

 

(……風邪? 魅夜さんでも風邪をひくんだな)

 

 最初はそう思って、特に気にしなかった。

 

 でも、しばらくしてから聞こえてきたのは、いつもの威勢のいい怒鳴り声じゃなくて、唸るような、苦しそうな声だった。

 

「……っく……あぁ、頭が……」

 

(……これは、ちょっとまずいかもしれない)

 

 俺は隣の部屋のドアをノックした。

 

 返事はなかったが、もう一度ノックすると、しばらくしてから、ドアの鍵が外れる音がした。

 

「……何だよ……アタシは元気だ……寝てるだけだ……」

 

 そう言いながら現れた魅夜さんの顔は、真っ赤を通り越して、なんだか少し白っぽくなっていた。

 

 額には汗が浮かんでいて、足取りも、いつもの威圧感のあるそれとは違って、ふらふらしている。

 

「……熱、測りました?」

 

「……うっせ……勝手に決めるんじゃねぇ……」

 

 そう言ったあと、魅夜さんはふらりと体勢を崩しかけた。

 俺は反射的に手を伸ばして、その体を支えた。

 

「……っ、おい……」

 

「すみません、ちょっと触りますね」

 

 額に手を当てると、びっくりするくらい熱かった。

 

「……これ、結構な熱ですよ。寝てください。今すぐ」

 

「……命令、するな……」

 

 そう言いながらも、魅夜さんは抵抗する力もないみたいで、俺に支えられたまま、布団まで運ばれていった。

 

 部屋の中は、いつもより少し荒れていて、床には脱ぎっぱなしの服や、空になったお菓子の袋が散らばっていた。

 

 俺はそれを横目に、買い置きしてあったおかゆの材料を思い出した。

 

「……ちょっと待っててください。何か作りますから」

 

「……いらねぇ……アタシは……一人で平気だ……」

 

「平気そうに見えないですけど」

 

 俺は自分の部屋から鍋と材料を持ってきて、台所で火を使わせてもらった。

 

 米を多めの水で柔らかく煮て、卵と少しの生姜を加える。

 

 魅夜さんはその間、布団の中でぐったりとしていた。時々、小さく咳をしたり、苦しそうな声を漏らしたりしている。

 

 その姿は、いつもの彼女の姿とは、まったく違っていた。

 

 爪も牙もない、ただの一人の、熱に弱った人間だった。

 

(……こんな時まで一人で頑張ろうとするのは、ちょっと無理があるよな)

 

 おかゆが出来上がると、俺はそれを器に入れて、魅夜さんの枕元に置いた。

 

「魅夜さん。少しでも食べられそうなら、食べてください」

 

「……いらねぇって、言ったろ……」

 

「無理に食べなくてもいいですけど、置いておきますね。冷めても、レンジで温められますから」

 

 そう言って、俺はその場を離れようとした。

 

 でも、ふと足を止めて、もう一言だけ付け加えた。

 

「……何かあったら、壁、叩いてください。聞こえますから」

 

 魅夜さんは、何も答えなかった。

 

 ただ、布団の中で小さく丸まったまま、こちらを見ないようにしていた。

 

 

 翌朝。

 

 俺がバイトに行く準備をしていると、玄関の外に小さな物音がした。

 

 ドアを開けると、そこには空になった器が、綺麗に洗われて置かれていた。

 

 布巾できちんと拭いた跡まである。

 

 メモも、何もない。

 

 ただ、器だけが、そこにあった。

 

(……治ったのかな)

 

 何となく、安心した。

 

 それと同時に、なんだか少しおかしな気持ちにもなった。

 

 普段あれだけ大きな態度で、人の部屋に勝手に上がり込んでくる人が、こんなにきちんと、お礼の代わりに器を洗って返してくる。

 

 そのギャップに、思わず笑ってしまった。

 

 その日の夜、魅夜さんは何事もなかったかのように、いつも通りベランダから俺の部屋に上がり込んできた。

 

「……おい、悠。今日の晩飯、足りなかったから残り出せよ」

 

「もう元気になったんですね。よかったです」

 

「……あぁん? 何の話だ。アタシは最初から元気だったろうがァ」

 

 そう言って、いつもの調子で笑う魅夜さんを見て、俺も思わず笑ってしまった。

 

 

 それ以来、なんとなく俺たちの間には、それまでとは違う空気が流れるようになった。

 

 不法侵入されることに変わりはないし、相変わらず罵倒も飛んでくる。

 

 でも、その距離感のどこかに、ちょっとした変化があった気がする。

 

 とにかく、それ以来どうにも調子が狂ってしまい、今ではすっかり「なぁなぁ」の関係になっている。

 

「あォ!? 誰が負け犬だァ?! クソが! クソが! クソがぁ!!!!」

 

(今日も魅夜さん、荒れてんなぁ)

 

「……ご飯でも持って、ちょっと様子見に行ってみるか」

 

 俺は冷蔵庫を開けた。




悠くんのような彼女が欲しいです。
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