――武蔵、多摩・下層船殻、居住区。
夕暮れ時。武蔵の巨大なエンジンが発する、低く臓腑を揺らすような振動が、居住区の空気を震わせている。
俺は表示枠(表示枠)に浮かぶ、明日の登校スケジュールを眺めながら、こめかみを強く押さえた。
「……無理だ。やっぱり、何回読み直しても脳が拒絶反応を起こしてやがる」
「おやおや、君。また独り言かい? 流体の循環が滞っている証拠だよ。ほら、この特製の健康茶を飲みなよ」
ひょいと顔を出したのは、クラスメイトの男子生徒だ。彼は善意の塊のような顔で、緑色をした、およそ飲み物とは思えない輝きを放つ液体を差し出してきた。
「いらねえよ。それ、どう見ても流体燃料を薄めただけのシロモノだろ。……なぁ、お前。明日の予定にある『歴史再現の予行演習としての、対外教導院との武力干渉を伴う外交交渉』って何だ? 文章が矛盾で大渋滞してんだよ。武力を使うならそれは戦争だし、交渉なら言葉を使えよ」
「君は本当に言葉に厳しいねえ! 歴史再現だよ? 形式が大事なんだ。武力を持って話し合う。これぞ聖連が認めた『対話』じゃないか。Jud.?」
「Jud.って言うな! 肯定の意味でその単語を使うたびに、俺の中の法秩序が崩壊するんだよ! 対話っていうのは、茶を飲みながら、せいぜい机を叩く程度のことを言うんだ。ビームを撃ち合ったり、巨大な神格武装を振り回したりするのは『蹂躙』って言うんだよ」
俺の反論は、しかし、暖簾に腕押しだった。クラスメイトは、どこか遠い目をして、俺の肩をポンと叩いた。
「……可哀想に。君はきっと、前世か何かで、もっともっと、こう……地味で、退屈で、法則がガチガチに固まった、夢のない世界にいたんだね」
「正解だよ! 地味で退屈で、物理法則が絶対の主君として君臨してる世界だよ! それを『常識』って呼ぶんだよ! なぁ、なんで俺が『頭のおかしい子』みたいな目で見られなきゃいけないんだ。おかしいのは世界だろ。見てみろよ、あの窓の外。船が空を飛んでるんだぞ? 山が動いてるんだぞ? 都市が浮いてるんだぞ!?」
俺が叫びながら指差した先では、武蔵の僚艦である「品川」が、重力制御の青白い光を曳きながら回航していた。
「何を当たり前のことを……。山が動かないのは、ただの地形だよ。動く山は『環境』だ。君、もしや今朝の通神(つうしん)で流れてた『旧時代の迷信』に毒されてるんじゃないかい?」
「迷信じゃねえ、真実だ……! 誰か、誰か一人でもいいから、『いやー、この世界の設定、ちょっと盛りすぎですよね』って同調してくれよ……!」
そこに、廊下をドタドタと走る音が響いた。
聞き慣れた、そして聞きたくない、底抜けに明るい声。
「ぎゃはははは! おーい! 明日の『外交(殺し合い)』に備えて、景気づけに全裸でキャンプファイアやろうぜー!!」
葵・トーリが、何故か自分の尻に火をつけた状態で走ってきた。
「見ろ! 葵だ! あいつが一番おかしいだろ! なんで尻から火を噴きながら笑顔でいられるんだよ! 生物学的におかしいだろ!!」
俺が最後の希望を込めて叫ぶと、クラスメイトは深く、深いため息をついた。
「君……。葵君は『不可能男』なんだよ? 不可能を可能にする男なんだ。尻から火を噴くくらい、彼にとっては挨拶みたいなものじゃないか。それをいちいち指摘するなんて、君、本当に……心が病んでいるんだね」
「……」
俺は静かに、表示枠を閉じた。
反論するエネルギーすら、この世界の狂った流体に吸い取られていく。
「……Jud.。俺が悪かった。世界は正常だ。俺が、俺だけが、この素晴らしい極東の日常に適応できていない、哀れなノイズなんだな」
「わかってくれたかい! さあ、一緒に葵君の火を消しに行こう。あ、でもその前に正純さんに報告しないとね。君、彼女にまた告白しに行くんじゃないのかい?」
正純。その名前を聞いただけで、俺の心に一筋の正気が戻る。
「……ああ、そうだ。正純だけは、あいつだけは、この狂った世界で唯一の『理性』の象徴だ。彼女に会いに行かなきゃ死ぬ。彼女のあの凛々しい声で、『君、いい加減にしろ』って罵倒されたい」
「うん、やっぱり君、重症だね。早く保健室に行こうか」
俺はクラスメイトに抱えられながら、赤く染まった武蔵の空を見上げた。
明日から、原作が始まる。
この狂った歴史再現の奔流に、俺はツッコミという名の虚しい抵抗を続けながら、果たして生き残れるのだろうか。
「待ってろ正純……! 明日こそ、婚姻届を聖譜(テストメント)に挟み込んでやるからな……!」
俺の決意は、夜を告げる武蔵の汽笛にかき消された。
以上。