『あなた』がスタレキャラと仲良く(意味深)なっちゃった! 作:ザワザワする人
「あなた」
キュレネは、いつものようにあなたをそう呼びました。
名前ではありません。ただの「あなた」です。
けれど彼女が口にすると、それは世界で一つしかない呼び名のように響きます。
甘く、淡く、そして少しだけ祈りに似ていました。
あなたは振り向きます。
少し癖のある髪。
困った時に、ほんの少しだけ下がる眉。
彼女の言葉を聞く時だけ、なぜか急がずに瞬きをする瞳。
何もかもが、キュレネの知っているあなたでした。
「どうしたの?」
「今日は、あなたと歩きたい気分なの」
キュレネがそう言うと、あなたは案の定、困ったように笑いました。
ほら、やっぱり。
キュレネはその顔まで、ちゃんと覚えています。
「どこへ行くの?」
「決めていないわ。決めてしまったら、詩にならないもの」
「またそういうことを言う」
「ふふ。嫌い?」
あなたは答えませんでした。
その代わりに、キュレネの隣へ歩み寄ります。
言葉で約束するより先に、隣へ来てくれる。
昔から、あなたはそういう人でした。
キュレネは嬉しそうに目を細めて、あなたの手へ指を伸ばします。
触れる。
けれど、温度はありません。
それでもキュレネは微笑みました。
今日もまた、思い出を壊さないために。
□
あなたとキュレネは、水辺を歩きました。
白い光が降っています。
空は淡く、風は穏やかで、どこからともなく花の匂いが流れてきます。
現実にはありえないほど、美しい景色です。
ですが、記憶というものはいつだって少しだけ嘘つきです。
痛かったものを柔らかく包み、忘れたくないものだけを光らせます。
都合がいいものです。
でも、人はそうでもしなければ、きっと大切なものを抱えて歩けないのでしょう。
キュレネは、それを知っていました。
知っていて、それでもこの場所へ戻ってきたのです。
「見て、あなた」
キュレネは水面を指差しました。
そこには、あなたとキュレネの影が並んで映っています。
風が吹くと波紋が広がり、影はゆっくり崩れて、ひとつに溶けるように揺れました。
「あたしとあなたが、混ざってしまったわ」
「影がね」
「影だけ?」
キュレネが振り向くと、あなたは少し言葉に詰まりました。
その反応まで、彼女は覚えています。
照れている時、あなたはすぐ視線を逸らします。
でも、完全には逃げません。
ちゃんと彼女の言葉を受け止めて、それから答えを探すのです。
そういうところが好きでした。
大好きでした。
今も。
「キュレネは、たまにずるい」
「たまになの?」
「……かなり」
「ふふ。じゃあ今日は、ずるいあたしに付き合って」
キュレネは笑って、あなたの手を引きました。
けれど、水辺に響く足音は一つだけです。
キュレネの靴音だけ。
あなたの足音は、どこにもありません。
記憶は優しい。
でも、完璧ではないから記憶なのです。
キュレネは欠けた音を胸の中で補いながら、あなたと並んで歩きました。
□
丘には、名前のない花が咲いていました。
白とも薄紫とも言えない、不思議な色の花です。
風が吹くたびに小さく揺れて、まるで地上で星が瞬いているようでした。
キュレネはその中から一輪を選び、あなたに差し出します。
「あなたにあげる」
「自分に?」
「ええ。あなたに似ていると思ったの」
あなたは花を受け取り、少しだけ首を傾げました。
「どこが?」
「すぐには答えを決めてくれないところ。派手ではないけれど、気付いたら目で追ってしまうところ。それから……あたしの記憶に、勝手に根を張ってしまったところ」
「それは花の話?」
「あなたの話よ」
キュレネは何でもないことのように言いました。
けれど本当は、少しも何でもなくありません。
この言葉を告げるたび、胸が痛みます。
何度繰り返しても慣れません。
好きだと伝えた日の記憶は、花の形をしているくせに、触れると鋭い棘を持っていました。
「あなたの事が好き」
あなたは花を持ったまま固まりました。
それから、小さく息を吐きます。
照れたように笑いながら、少し困った顔をしました。
「軽く言わないでよ」
「軽くないわ。軽く聞こえるように、頑張っているだけ」
「どうして?」
「重すぎたら、あなたが困ってしまうでしょう?」
そう言うと、あなたはまた困った顔をしました。
その顔が、キュレネは好きでした。
優しすぎて、困ることをやめられない人の顔です。
キュレネは一歩近付きます。
あなたの胸元へ手を伸ばし、そこへ花を飾るように触れようとしました。
けれど、指先は布の感触を掴めません。
すり抜けます。
何もない空気を撫でるだけです。
キュレネは一瞬だけ動きを止めました。
あなたは気付きません。
気付くはずがありません。
これは、記憶だからです。
「……キュレネ?」
呼ばれて、彼女は笑い直しました。
「何でもないわ。少し、風が冷たかっただけ」
嘘です。
風など吹いていません。
この世界で冷たいのは、もう戻らないものだけでした。
□
夕暮れが近付いていました。
丘の向こうで、空が薄桃色に染まっていきます。
この時間が来るたび、キュレネは胸の奥を締め付けられました。
この後に何が起きるのか、彼女は知っています。
知っているからこそ、何度もここで記憶を止めました。
水辺へ戻ったこともあります。
花を選び直したこともあります。
あなたの言葉を何度も聞き返して、同じ一日を違う詩のように編み直そうとしたこともありました。
けれど、どれだけ綺麗に飾っても、結末は変わりません。
あなたは、もういないのです。
この世界にいるあなたは、キュレネの記憶が咲かせた過去の花。
触れられません。
温められません。
明日へ、連れていけません。
「今日のこと、覚えていてくれる?」
キュレネは尋ねました。
あなたは、あの日と同じように笑います。
「忘れると思う?」
「思わないわ。でも、聞きたかったの」
「なら、覚えてるよ。ずっと」
その言葉を聞いた瞬間、キュレネの目元がわずかに揺れました。
ずっと。
あなたはそう言いました。
けれど、その
終わったものを、彼女だけが繰り返しているのです。
「ねえ、あなた」
「何?」
「今日は、ここで終わりにしましょう」
あなたは驚きませんでした。
まるで初めから、キュレネがそう言う日を待っていたみたいに。
「そっか」
「怒らないの?」
「怒らないよ。キュレネがそう決めたなら、それはきっと、自分が引き止めちゃいけないことなんでしょ」
優しい声でした。
あまりにも優しくて、キュレネは泣きたくなりました。
本物のあなたなら、きっとこう言う。
そう思えるほど、彼女はあなたを覚えていました。
でも、それは同時に残酷でした。
どれだけ完璧に思い出しても、思い出は本人にはなりません。
「本当はね、もっとあなたと歩きたかったわ」
キュレネは、震えそうになる声を整えました。
「水辺だけじゃなくて、知らない街も、知らないお店も。つまらないことで笑って、少し喧嘩をして、仲直りの仕方を覚えて……そんな明日が欲しかった」
あなたは静かに聞いていました。
キュレネは胸に手を当てます。
そこには、あなたの声が植わっています。
何度も何度も再生したせいで、少し擦り切れてしまった、大切な声です。
「でも、あたしがここにいる限り、あなたはずっと昨日のままなの」
花が揺れ、夕陽が滲みます。
記憶の世界が、終わりを察したように静かになっていきました。
「それは、きっと愛じゃないわ」
キュレネは笑いました。
涙をこぼしながら、それでも笑いました。
「愛しているなら、明日へ行かなくちゃ」
あなたは少し困ったように笑います。
「キュレネらしいね」
「そう?」
「泣きながら、綺麗なことを言うところ」
「……そういうところまで、覚えているのね」
「君の記憶だから」
その言葉に、キュレネはとうとう声を詰まらせました。
分かっていました。
分かっていたのに、言われると苦しかったのです。
ここにいるあなたは、彼女の中にしかいません。
彼女が忘れた瞬間、消えてしまいます。
彼女が明日へ進む瞬間、ここにはもう戻れなくなります。
それでも。
「もし、どこか別の明日で会えたら」
キュレネは震える声で言いました。
「その時は、あたしのことを知らなくてもいいわ。あの丘も、この花も、あたしが何度もあなたを呼んだことも、全部覚えていなくていい」
あなたは彼女を見ていました。
キュレネは涙を拭いません。
この涙だけは、ちゃんと流しておきたかったのです。
「だから、もう一度、初めましてから始めましょう」
あなたは頷きました。
「じゃあ、その時は、自分から声をかける」
「本当?」
「約束する」
あなたは、あの日と同じ顔で笑いました。
「明日で待ってる」
その瞬間、世界が白くほどけ始めます。
丘も。
花も。
水辺も。
夕焼けも。
すべてが光になって、キュレネの周りを舞い上がりました。
あなたの姿も、少しずつ薄くなっていきます。
キュレネは手を伸ばしかけて、途中で止めました。
もう、触れようとはしません。
引き止めないと決めたからです。
「さようなら、あなた」
彼女は微笑みました。
「愛してるわ。昨日のあなたも、明日のあなたも」
最後に、あなたが笑いました。
その笑顔だけを胸に植えて、キュレネは長い夢から目を覚ました。
□
雨が降っていました。
現代の街は、記憶の丘ほど綺麗ではありません。
駅前の信号は慌ただしく点滅しています。
濡れたアスファルトには車のライトが滲み、傘を差した人々が足早に通り過ぎていきます。
魔法もありません。
詩もありません。
花びらのような光も、記憶を再生する力もありません。
ただ、雨の匂いがしました。
キュレネは小さな花屋の軒先で、空を見上げていました。
この世界での彼女は、少し変わった名前を持つ普通の女の子です。
大学へ通い、時々この花屋を手伝い、朝は眠たそうにコーヒーを飲みます。
誰かに過去を語れば、きっと夢でも見たのだと言われるでしょう。
それでも、キュレネは覚えていました。
水辺を歩いたこと。
名前のない花を渡したこと。
触れられなくなったあなたの手を、それでも何度も握ろうとしたこと。
そして最後に、あなたが笑って言ったこと。
――明日で待ってる。
「あら……傘を忘れてしまったわ」
ぽつりと呟いた時でした。
雨の中を、誰かが駆け込んできます。
学生らしい鞄を肩にかけた青年でした。
髪を濡らし、少し息を切らして、彼は花屋の軒下へ滑り込みます。
そして鞄の中を探ろうとして、ふと顔を上げました。
目が合います。
その瞬間、キュレネの世界から音が消えました。
顔が同じでした。
記憶の中で、何度も見上げた顔。
少し癖のある髪。
雨に濡れて額に張り付いた前髪。
驚いた時に、わずかに開く唇。
そして何より、その瞳。
形ではありません。
色でもありません。
その奥にある、魂の揺れ方です。
キュレネには分かりました。
分かってしまいました。
これは似ている誰かではありません。
懐かしい人に面影を重ねているだけでもありません。
あなたが、ここにいる。
別の名前で。
別の人生で。
けれど確かに、同じ魂で。
「……あな…た」
声がこぼれました。
とても小さく。
雨音に紛れてしまいそうなほど小さく。
けれど、青年には聞こえたようです。
彼は不思議そうに瞬きをしました。
「あの……自分のこと、知ってますか?」
その声を聞いた瞬間、キュレネの胸の奥で、長い間眠っていた花が一斉に開きました。
似ています。
けれど、同じではありません。
前のあなたより少し若く、少し現実のざらつきがある声です。
記憶の中のあなたは、もっと穏やかに彼女を呼びました。
けれど、魂の底にある響きは変わりません。
キュレネは確信しました。
間違いありません。
この人は、あの日のあなたの転生体です。
でも。
彼は覚えていません。
水辺も。
丘も。
白い花も。
彼女が何度も何度も記憶を再生して、昨日に閉じこもっていたことも。
何も知りません。
彼にとってキュレネは、雨の日に花屋の軒先で出会った、少し変わった女の子でしかありませんでした。
「……ごめんなさい」
キュレネは笑いました。
笑えているかは、自分でも分かりません。
「少し、驚いただけ」
「驚いた?」
「ええ。あなたが、……」
そこまで言って、彼女は言葉を止めました。
帰ってきてくれたから。
そう言いそうになりました。
けれど、それは違います。
彼は帰ってきました。
でも、戻ってきたわけではありません。
この人は、死んだあなたの続きではありません。
今を生きている、新しいあなたなのです。
「……懐かしい人に似ていたの」
そう言い直すと、青年は少し気まずそうに眉を下げました。
その仕草さえ、同じでした。
困りますね。
同じ魂というものは、どうしてこんなところまで似てしまうのでしょう。
「それって、もしかして……大切な人ですか?」
キュレネは息を止めました。
大切な人。
そんな言葉では足りません。
「ええ」
彼女は静かに頷きます。
「とても、大切な人だったわ」
青年はそれ以上踏み込みませんでした。
ただ、自分が少し濡れていることも忘れたように、キュレネの顔を心配そうに見ています。
「あの、大丈夫ですか?顔色、悪いですよ」
その優しさが、キュレネを刺しました。
魂は覚えていなくても、優しさの形は変わらないのです。
胸の奥が痛みます。
嬉しいのに、苦しい。
会いたかった。
ずっと。
けれど、こんなふうに会えるとは思っていませんでした。
同じ顔で。
同じ魂で。
でも、自分を知らない瞳で。
「大丈夫よ」
キュレネは胸に手を当てました。
「少し、昔の花が咲いただけ」
「昔の花?」
「ふふ。気にしないで。あたし、時々こういう言い方をしてしまうの」
青年はきょとんとしたあと、少しだけ笑いました。
「なんか、詩みたいですね」
キュレネの心臓が、また小さく跳ねました。
あの日のあなたも、同じようなことを言いました。
まったく同じ言葉ではありません。
けれど、同じ温度で。
同じように、少し困りながら笑って。
キュレネは目を伏せます。
駄目です。
重ねてはいけません。
この人は覚えていません。
この人にとって、あの丘は存在しません。
なのに心は勝手に昨日へ戻ろうとします。
「……そうね」
キュレネは小さく笑いました。
「詩に聞こえたなら、嬉しいわ」
□
青年は鞄から折り畳み傘を取り出しました。
けれど開く前に、ふとキュレネを見ます。
「もしかして、傘ないんですか?」
「忘れてしまったの」
「じゃあ、駅まで入りますか?自分もそっちなので」
キュレネは差し出された傘を見ました。
それから、あなたの顔を見ます。
あの日のあなたなら、きっと同じことをしました。
ですが目の前の彼は、あの日の記憶を持っていません。
ただ、今の彼自身の優しさで、同じ選択をしているのです。
それが何より、キュレネには眩しく見えました。
「ありがとう。じゃあ、少しだけ甘えさせてもらうわ」
青年は傘を開きました。
二人分には少し小さい傘です。
肩が触れそうな距離で並ぶと、雨の音が近くなりました。
キュレネは息を整えながら、彼の隣に入ります。
その瞬間、布越しに彼の肩がかすかに触れました。
温かかった。
生きている温度でした。
キュレネは思わず足を止めそうになります。
触れられる。
今度は、触れられるのです。
記憶の中で何度手を伸ばしてもすり抜けたあなたが、今はここにいます。
この体温だけで、何度でも泣けてしまいそうでした。
「大丈夫ですか?」
あなたが傘を傾けます。
「歩きにくいですか?」
「いいえ」
キュレネは首を振りました。
「ただ、少し……雨が綺麗だと思って」
「雨が?」
「ええ。今日の雨は、明日へ続いている気がするの」
あなたはまた不思議そうにしました。
けれど笑いません。
茶化しもしません。
「キュレネさんって、面白いこと言いますね」
「名前、まだ教えていないのに」
「あ」
あなたは少し慌てました。
「すみません。花屋の人がさっき呼んでたので」
「ふふ。そうだったの」
キュレネは笑います。
そして、自分から名乗りました。
「あたしはキュレネ」
「キュレネさん」
あなたがその名を呼びます。
初めての声で。
初めての距離で。
前世の記憶を持たない、今のあなたの声で。
キュレネは胸の奥がきゅっと痛むのを感じました。
「あなたは?」
あなたは自分の名前を告げました。
かつてのあなたとは違う名前です。
その違いに、キュレネは少しだけ救われました。
彼はあなた。
でも、あの時のあなたではありません。
同じ魂が、新しい名前を持って、別の明日を生きているのです。
「素敵な名前ね」
「普通ですよ」
「普通だから、素敵なのよ」
「そういうものですか?」
「ええ。きっと、とても」
あなたは困ったように笑いました。
その顔がまた同じで、キュレネは少しだけ視線を逸らします。
□
駅に着くまで、あなたとキュレネは他愛もない話をしました。
大学のこと。
花屋のこと。
今日の雨のこと。
あなたがコンビニの傘を買おうか迷って、結局折り畳み傘を持っていたことを思い出したこと。
本当に、何でもない話ばかりです。
けれどキュレネには、その一つ一つが奇跡のように思えました。
記憶の再生ではありません。
決められた台詞でもありません。
あなたは、あなた自身の言葉で話しています。
キュレネの知らないことを言います。
キュレネの知らない顔をします。
それが少し寂しくて。それ以上に、嬉しかったのです。
駅の屋根が見えてきました。
傘の役目は、もうすぐ終わります。
キュレネはほんの少しだけ歩幅を緩めました。
あなたも自然に合わせます。
「ここまでで大丈夫よ」
「本当ですか?まだ降ってますけど」
「平気。花は少し濡れた方が、香りを思い出すもの」
「また詩みたいなことを」
あなたは笑います。
キュレネも笑いました。
それから、あなたは少し迷うようにスマホを取り出しました。
「あの」
「なあに?」
「もし迷惑じゃなければ、連絡先を交換してもいいですか?」
キュレネは息を止めました。
あなたは慌てて続けます。
「あ、嫌なら全然いいです。ただ……なんか、また話したいなって思って」
「どうして?」
キュレネは尋ねました。
責めるつもりはありません。
ただ、聞きたかったのです。
あなたの中にも、何か残っているのか。
記憶ではなく。
名前でもなく。
でも、魂の底に沈んだ小さな花びらのようなものが。
あなたは少し考えました。
「分からないです」
正直な答えでした。
「でも、初めて会った気がしなくて」
その言葉は、キュレネの胸を深く刺しました。
初めて会った気がしない。
覚えていないのに。
何も知らないのに。
それでも、何かがあなたをここへ引き寄せている。
キュレネはスマホを取り出しました。
指先が少し震えています。
「いいわ」
「本当ですか?」
「ええ。でも、一つだけ約束して」
「約束?」
キュレネはあなたを見ました。
同じ顔。
同じ魂。
けれど、今を生きている瞳。
「急がないで」
あなたは瞬きをしました。
「急がない?」
「ええ。あたし、あなたを見ると、少し遠い場所を思い出してしまうの」
「遠い場所?」
「あなたの知らない場所よ」
あなたは不思議そうな顔をしました。
それでも、真剣に聞いてくれます。
「だから、あたしがちゃんと今のあなたを見られるまで、少しだけ待ってほしいの」
あなたはしばらく黙っていました。
意味は分からないはずです。
分かるはずがありません。
それでも、あなたは頷きました。
「分かりました。急ぎません」
「ありがとう」
「でも、自分も一ついいですか?」
「ええ」
「また会ってくれますか?」
雨音が、少しだけ遠くなりました。
昨日のあなたが言いました。
明日で待ってる。
これは再生ではありません。
でも、確かに続いています。
キュレネは胸に手を当てました。
そこには、昨日のあなたが植えてくれた言葉があります。
そして今、新しいあなたの声が、同じ場所へ静かに落ちていきました。
「ええ」
彼女は微笑みます。
「また会いましょう、あなた」
あなたは少し照れたように目を逸らしました。
「その
「嫌?」
「嫌じゃないです。ただ、照れます」
「そう」
キュレネは小さく笑いました。
「じゃあ、時々だけ」
「時々なんですね」
「ええ。大切な時にだけ」
あなたはその意味を知りません。
けれど、頷いてくれました。
□
その夜。
キュレネは部屋の灯りもつけず、ベッドの上でスマホを見つめていました。
画面には、今日交換したばかりの連絡先。
違う名前。
けれど、登録されたアイコンには、記憶と同じ顔が映っています。
同じ魂。
違う記憶。
同じあなた。
新しいあなた。
キュレネはスマホを胸に抱きました。
「帰ってきたのね」
小さく呟きます。
「でも、戻ってきたわけじゃない」
その違いを、忘れてはいけません。
あなたは彼女を知りません。
あの恋も、あの別れも、あの約束も知りません。
だからあなたを愛するとしたら、それは過去の続きとしてではなく、今のあなたをもう一度知ることから始めなければならないのです。
スマホが震えました。
あなたからのメッセージです。
【今日はありがとうございました。ちゃんと帰れましたか?】
たった一文。
それだけで、キュレネの目元が熱くなりました。
あの人も、こういうふうに気遣う人でした。
でもこれは、あの人の台詞ではありません。
今のあなたが、今のキュレネへ送ってくれた言葉です。
キュレネはゆっくり返信を打ちます。
【ええ。無事に帰れたわ。あなたは?】
送信してから、指が止まりました。
また、あなたと呼んでしまいました。
けれど今度は消しません。
この呼び方は、過去だけのものではないからです。
彼女にとって、それは魂へ向ける呼び名でした。
少しして、返信が来ます。
【自分も大丈夫です。あと、
キュレネは涙をこぼしながら笑いました。
【嫌なら、やめるわ】
返事はすぐでした。
【嫌じゃないです。不思議だけど、なんか落ち着きます】
キュレネはスマホを握りしめました。
覚えていません。
でも、魂は震えています。
記憶ではない場所で、あなたは彼女の声を受け取っているのです。
それだけで十分でした。
いいえ。
十分すぎました。
「明日で待ってるって、言ったものね」
キュレネは窓の外を見ます。
雨はもう止んでいました。
街灯に照らされた濡れた道が、静かに光っています。
「あたし、ちゃんと来たわ」
その声は、誰にも届きません。
けれど胸の奥で、昨日の花が優しく揺れました。
□
数日後。
あなたとキュレネは、大学近くの小さな喫茶店で会うことになりました。
キュレネが窓際の席で待っていると、あなたが少し遅れて店に入ってきます。
扉のベルが鳴りました。
あなたが顔を上げます。
キュレネを見つけます。
その瞬間、表情が明るくなりました。
胸が痛みます。
会えて嬉しい。
同時に、泣きたくなります。
あなたはあの日と同じ顔で、けれどまだキュレネを知らない瞳で近付いてきました。
「すみません、待たせました?」
「いいえ。待つのは嫌いじゃないわ」
「そうなんですか?」
「ええ。待っている間に、会えた時の嬉しさが育つもの」
「やっぱり詩みたいですね」
「ふふ。もう慣れて」
あなたは笑って、向かいに座りました。
その何気ない動作に、キュレネはそっと息を吸います。
焦らない。
あなたを過去に閉じ込めない。
この人は、今のあなた。
そう自分に言い聞かせました。
けれど、確信は揺るぎません。
あなたは、あの日のあなたの転生体です。
顔が似ているからではありません。
声が似ているからでもありません。
魂が、同じ花の匂いをしているからです。
「あの、キュレネさん」
「なあに?」
「この前から気になってたんですけど」
あなたは少し躊躇いながら言いました。
「自分、そんなにその人に似てるんですか?」
キュレネは紅茶のカップに視線を落としました。
水面が小さく揺れています。
「ええ」
嘘はつきませんでした。
「とても似ているわ」
「……顔が?」
「顔も。声も。困った時の表情も」
「それ、ちょっと複雑ですね」
あなたは苦笑します。
キュレネは静かに続けました。
「でも、それだけじゃないの」
「それだけじゃない?」
「あなたは、あの人と同じ魂をしているわ」
あなたは固まりました。
当然です。
普通なら、そんなことを言われても困るだけでしょう。
けれどキュレネは目を逸らしませんでした。
「信じなくていいわ。無理に分かってほしいわけでもないの」
「魂って……前世とか、そういう話ですか?」
「ええ」
キュレネは頷きました。
「あたしは、あなたがあの人の生まれ変わりだと分かっている」
あなたは何も言えないようでした。
キュレネは微笑みます。
少しだけ悲しく。
けれど、穏やかに。
「でも、あなたは覚えていない。それでいいの」
「いいんですか?」
「ええ。だって、今のあなたが空っぽになるわけじゃないもの。前の記憶がなくても、あなたがあなたであることは変わらないわ」
あなたは困ったように眉を寄せました。
「自分は……その人じゃないですよ」
「そうね」
キュレネはすぐに頷きます。
「あなたは、その人じゃない」
あなたの表情が少しだけ緩みました。
けれど次の言葉で、また揺れます。
「でも、あなたでもあるの」
キュレネは胸に手を当てました。
「前に咲いた花と、今咲いている花は違うわ。でも、同じ種から生まれたなら、どちらも本当でしょう?」
あなたは黙っていました。
理解できない。
でも、否定もしきれない。
そんな顔でした。
キュレネは、その迷いすら愛おしく思いました。
「だから、お願い」
彼女は静かに言います。
「あなたがあたしの過去を背負う必要はないわ。あの人の代わりになる必要もない。あたしが勝手に泣いてしまう日があっても、それはあなたのせいじゃない」
「……でも」
「でも、もし許してくれるなら」
キュレネはあなたを見ました。
今度は、昨日ではなく、今日のあなたを。
「今のあなたを、もう一度知りたいの」
あなたは長い間黙っていました。
それから、ゆっくり息を吐きます。
「正直、よく分からないです」
「ええ」
「前世とか、魂とか、急に言われても信じられるか分からない」
「ええ」
「でも」
あなたはキュレネを見ました。
その瞳は、記憶のない新しいあなたのものです。
「キュレネさんが、自分をちゃんと自分として見ようとしてるのは分かります」
キュレネの胸が、静かに震えました。
「だから、自分も急がないです」
あなたは少し照れたように笑います。
「前世のことは分からないけど、今の自分として、あなたのことを知りたいです」
その瞬間、キュレネの中で何かがほどけました。
昨日に縛られていた花びらが、静かに風へ舞います。
「……ありがとう」
「いえ」
「今、少し泣きそうだわ」
「泣いてもいいですよ」
「優しいのね」
「たぶん普通です」
「普通だから、素敵なのよ」
そう言うと、あなたはまた困ったように笑いました。
キュレネはその顔を見て、今度は過去だけではなく、未来を思いました。
きっと、この人を好きになる。
もう一度。
でも、それは繰り返しではありません。
記憶の再生でもありません。
同じ魂が、新しい人生でくれた、まだ名前のない詩です。
キュレネは紅茶のカップを両手で包みながら、そっと呟きました。
「初めまして、あなた」
あなたは不思議そうに瞬きをしました。
それから、少し照れた顔で笑います。
「初めまして、キュレネさん」
その言葉は。
今度こそ、本当の始まりでした。
文章の感じをちと昔に戻してみました。