『あなた』がスタレキャラと仲良く(意味深)なっちゃった!   作:ザワザワする人

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キュレネ

 

 

 

「あなた」

 

キュレネは、いつものようにあなたをそう呼びました。

 

名前ではありません。ただの「あなた」です。

けれど彼女が口にすると、それは世界で一つしかない呼び名のように響きます。

甘く、淡く、そして少しだけ祈りに似ていました。

 

あなたは振り向きます。

 

少し癖のある髪。

困った時に、ほんの少しだけ下がる眉。

彼女の言葉を聞く時だけ、なぜか急がずに瞬きをする瞳。

 

何もかもが、キュレネの知っているあなたでした。

 

「どうしたの?」

 

「今日は、あなたと歩きたい気分なの」

 

キュレネがそう言うと、あなたは案の定、困ったように笑いました。

 

ほら、やっぱり。

 

キュレネはその顔まで、ちゃんと覚えています。

 

「どこへ行くの?」

 

「決めていないわ。決めてしまったら、詩にならないもの」

 

「またそういうことを言う」

 

「ふふ。嫌い?」

 

あなたは答えませんでした。

 

その代わりに、キュレネの隣へ歩み寄ります。

言葉で約束するより先に、隣へ来てくれる。

昔から、あなたはそういう人でした。

 

キュレネは嬉しそうに目を細めて、あなたの手へ指を伸ばします。

 

触れる。

 

けれど、温度はありません。

 

それでもキュレネは微笑みました。

今日もまた、思い出を壊さないために。

 

 

□

 

 

あなたとキュレネは、水辺を歩きました。

 

白い光が降っています。

空は淡く、風は穏やかで、どこからともなく花の匂いが流れてきます。

現実にはありえないほど、美しい景色です。

 

ですが、記憶というものはいつだって少しだけ嘘つきです。

 

痛かったものを柔らかく包み、忘れたくないものだけを光らせます。

都合がいいものです。

でも、人はそうでもしなければ、きっと大切なものを抱えて歩けないのでしょう。

 

キュレネは、それを知っていました。

知っていて、それでもこの場所へ戻ってきたのです。

 

「見て、あなた」

 

キュレネは水面を指差しました。

 

そこには、あなたとキュレネの影が並んで映っています。

風が吹くと波紋が広がり、影はゆっくり崩れて、ひとつに溶けるように揺れました。

 

「あたしとあなたが、混ざってしまったわ」

 

「影がね」

 

「影だけ?」

 

キュレネが振り向くと、あなたは少し言葉に詰まりました。

 

その反応まで、彼女は覚えています。

照れている時、あなたはすぐ視線を逸らします。

でも、完全には逃げません。

 

ちゃんと彼女の言葉を受け止めて、それから答えを探すのです。

 

そういうところが好きでした。

 

大好きでした。

 

今も。

 

「キュレネは、たまにずるい」

 

「たまになの?」

 

「……かなり」

 

「ふふ。じゃあ今日は、ずるいあたしに付き合って」

 

キュレネは笑って、あなたの手を引きました。

 

けれど、水辺に響く足音は一つだけです。

 

キュレネの靴音だけ。

 

あなたの足音は、どこにもありません。

 

記憶は優しい。

でも、完璧ではないから記憶なのです。

 

キュレネは欠けた音を胸の中で補いながら、あなたと並んで歩きました。

 

 

 

□

 

 

 

丘には、名前のない花が咲いていました。

 

白とも薄紫とも言えない、不思議な色の花です。

風が吹くたびに小さく揺れて、まるで地上で星が瞬いているようでした。

 

キュレネはその中から一輪を選び、あなたに差し出します。

 

「あなたにあげる」

 

「自分に?」

 

「ええ。あなたに似ていると思ったの」

 

あなたは花を受け取り、少しだけ首を傾げました。

 

「どこが?」

 

「すぐには答えを決めてくれないところ。派手ではないけれど、気付いたら目で追ってしまうところ。それから……あたしの記憶に、勝手に根を張ってしまったところ」

 

「それは花の話?」

 

「あなたの話よ」

 

キュレネは何でもないことのように言いました。

 

けれど本当は、少しも何でもなくありません。

 

この言葉を告げるたび、胸が痛みます。

何度繰り返しても慣れません。

好きだと伝えた日の記憶は、花の形をしているくせに、触れると鋭い棘を持っていました。

 

 

「あなたの事が好き」

 

 

あなたは花を持ったまま固まりました。

 

それから、小さく息を吐きます。

照れたように笑いながら、少し困った顔をしました。

 

「軽く言わないでよ」

 

「軽くないわ。軽く聞こえるように、頑張っているだけ」

 

「どうして?」

 

「重すぎたら、あなたが困ってしまうでしょう?」

 

そう言うと、あなたはまた困った顔をしました。

 

その顔が、キュレネは好きでした。

優しすぎて、困ることをやめられない人の顔です。

 

キュレネは一歩近付きます。

 

あなたの胸元へ手を伸ばし、そこへ花を飾るように触れようとしました。

 

けれど、指先は布の感触を掴めません。

 

すり抜けます。

 

何もない空気を撫でるだけです。

 

キュレネは一瞬だけ動きを止めました。

 

あなたは気付きません。

気付くはずがありません。

 

これは、記憶だからです。

 

「……キュレネ?」

 

呼ばれて、彼女は笑い直しました。

 

「何でもないわ。少し、風が冷たかっただけ」

 

嘘です。

 

風など吹いていません。

 

この世界で冷たいのは、もう戻らないものだけでした。

 

 

□

 

 

夕暮れが近付いていました。

 

丘の向こうで、空が薄桃色に染まっていきます。

この時間が来るたび、キュレネは胸の奥を締め付けられました。

 

この後に何が起きるのか、彼女は知っています。

 

知っているからこそ、何度もここで記憶を止めました。

水辺へ戻ったこともあります。

花を選び直したこともあります。

あなたの言葉を何度も聞き返して、同じ一日を違う詩のように編み直そうとしたこともありました。

 

けれど、どれだけ綺麗に飾っても、結末は変わりません。

 

あなたは、もういないのです。

 

この世界にいるあなたは、キュレネの記憶が咲かせた過去の花。

触れられません。

温められません。

 

明日へ、連れていけません。

 

「今日のこと、覚えていてくれる?」

 

キュレネは尋ねました。

 

あなたは、あの日と同じように笑います。

 

「忘れると思う?」

 

「思わないわ。でも、聞きたかったの」

 

「なら、覚えてるよ。ずっと」

 

その言葉を聞いた瞬間、キュレネの目元がわずかに揺れました。

 

ずっと。

 

あなたはそう言いました。

 

けれど、そのず(・)っ(・)と(・)はもう終わっています。

終わったものを、彼女だけが繰り返しているのです。

 

「ねえ、あなた」

 

「何?」

 

「今日は、ここで終わりにしましょう」

 

あなたは驚きませんでした。

 

まるで初めから、キュレネがそう言う日を待っていたみたいに。

 

「そっか」

 

「怒らないの?」

 

「怒らないよ。キュレネがそう決めたなら、それはきっと、自分が引き止めちゃいけないことなんでしょ」

 

優しい声でした。

 

あまりにも優しくて、キュレネは泣きたくなりました。

 

本物のあなたなら、きっとこう言う。

そう思えるほど、彼女はあなたを覚えていました。

 

でも、それは同時に残酷でした。

 

どれだけ完璧に思い出しても、思い出は本人にはなりません。

 

「本当はね、もっとあなたと歩きたかったわ」

 

キュレネは、震えそうになる声を整えました。

 

「水辺だけじゃなくて、知らない街も、知らないお店も。つまらないことで笑って、少し喧嘩をして、仲直りの仕方を覚えて……そんな明日が欲しかった」

 

あなたは静かに聞いていました。

 

キュレネは胸に手を当てます。

 

そこには、あなたの声が植わっています。

何度も何度も再生したせいで、少し擦り切れてしまった、大切な声です。

 

「でも、あたしがここにいる限り、あなたはずっと昨日のままなの」

 

花が揺れ、夕陽が滲みます。

記憶の世界が、終わりを察したように静かになっていきました。

 

「それは、きっと愛じゃないわ」

 

キュレネは笑いました。

涙をこぼしながら、それでも笑いました。

 

「愛しているなら、明日へ行かなくちゃ」

 

あなたは少し困ったように笑います。

 

「キュレネらしいね」

 

「そう?」

 

「泣きながら、綺麗なことを言うところ」

 

「……そういうところまで、覚えているのね」

 

「君の記憶だから」

 

その言葉に、キュレネはとうとう声を詰まらせました。

 

分かっていました。

分かっていたのに、言われると苦しかったのです。

 

ここにいるあなたは、彼女の中にしかいません。

彼女が忘れた瞬間、消えてしまいます。

彼女が明日へ進む瞬間、ここにはもう戻れなくなります。

 

それでも。

 

「もし、どこか別の明日で会えたら」

 

キュレネは震える声で言いました。

 

「その時は、あたしのことを知らなくてもいいわ。あの丘も、この花も、あたしが何度もあなたを呼んだことも、全部覚えていなくていい」

 

あなたは彼女を見ていました。

 

キュレネは涙を拭いません。

この涙だけは、ちゃんと流しておきたかったのです。

 

「だから、もう一度、初めましてから始めましょう」

 

あなたは頷きました。

 

「じゃあ、その時は、自分から声をかける」

 

「本当?」

 

「約束する」

 

あなたは、あの日と同じ顔で笑いました。

 

「明日で待ってる」

 

その瞬間、世界が白くほどけ始めます。

 

丘も。

花も。

水辺も。

夕焼けも。

 

すべてが光になって、キュレネの周りを舞い上がりました。

 

あなたの姿も、少しずつ薄くなっていきます。

 

キュレネは手を伸ばしかけて、途中で止めました。

 

もう、触れようとはしません。

 

引き止めないと決めたからです。

 

「さようなら、あなた」

 

彼女は微笑みました。

 

「愛してるわ。昨日のあなたも、明日のあなたも」

 

最後に、あなたが笑いました。

 

その笑顔だけを胸に植えて、キュレネは長い夢から目を覚ました。

 

 

 

 

 

□

 

 

 

 

 

雨が降っていました。

 

現代の街は、記憶の丘ほど綺麗ではありません。

 

駅前の信号は慌ただしく点滅しています。

濡れたアスファルトには車のライトが滲み、傘を差した人々が足早に通り過ぎていきます。

 

魔法もありません。

詩もありません。

花びらのような光も、記憶を再生する力もありません。

 

ただ、雨の匂いがしました。

 

キュレネは小さな花屋の軒先で、空を見上げていました。

 

この世界での彼女は、少し変わった名前を持つ普通の女の子です。

大学へ通い、時々この花屋を手伝い、朝は眠たそうにコーヒーを飲みます。

 

誰かに過去を語れば、きっと夢でも見たのだと言われるでしょう。

 

それでも、キュレネは覚えていました。

 

水辺を歩いたこと。

名前のない花を渡したこと。

触れられなくなったあなたの手を、それでも何度も握ろうとしたこと。

 

そして最後に、あなたが笑って言ったこと。

 

――明日で待ってる。

 

「あら……傘を忘れてしまったわ」

 

ぽつりと呟いた時でした。

 

雨の中を、誰かが駆け込んできます。

 

学生らしい鞄を肩にかけた青年でした。

髪を濡らし、少し息を切らして、彼は花屋の軒下へ滑り込みます。

 

そして鞄の中を探ろうとして、ふと顔を上げました。

 

目が合います。

 

その瞬間、キュレネの世界から音が消えました。

 

顔が同じでした。

 

記憶の中で、何度も見上げた顔。

少し癖のある髪。

雨に濡れて額に張り付いた前髪。

驚いた時に、わずかに開く唇。

 

そして何より、その瞳。

 

形ではありません。

色でもありません。

 

その奥にある、魂の揺れ方です。

 

キュレネには分かりました。

分かってしまいました。

 

これは似ている誰かではありません。

懐かしい人に面影を重ねているだけでもありません。

 

あなたが、ここにいる。

 

別の名前で。

別の人生で。

けれど確かに、同じ魂で。

 

「……あな…た」

 

声がこぼれました。

 

とても小さく。

雨音に紛れてしまいそうなほど小さく。

 

けれど、青年には聞こえたようです。

 

彼は不思議そうに瞬きをしました。

 

「あの……自分のこと、知ってますか?」

 

その声を聞いた瞬間、キュレネの胸の奥で、長い間眠っていた花が一斉に開きました。

 

似ています。

けれど、同じではありません。

 

前のあなたより少し若く、少し現実のざらつきがある声です。

記憶の中のあなたは、もっと穏やかに彼女を呼びました。

 

けれど、魂の底にある響きは変わりません。

 

キュレネは確信しました。

 

間違いありません。

この人は、あの日のあなたの転生体です。

 

でも。

 

彼は覚えていません。

 

水辺も。

丘も。

白い花も。

彼女が何度も何度も記憶を再生して、昨日に閉じこもっていたことも。

 

何も知りません。

 

彼にとってキュレネは、雨の日に花屋の軒先で出会った、少し変わった女の子でしかありませんでした。

 

「……ごめんなさい」

 

キュレネは笑いました。

笑えているかは、自分でも分かりません。

 

「少し、驚いただけ」

 

「驚いた?」

 

「ええ。あなたが、……」

 

そこまで言って、彼女は言葉を止めました。

 

帰ってきてくれたから。

 

そう言いそうになりました。

 

けれど、それは違います。

 

彼は帰ってきました。

でも、戻ってきたわけではありません。

 

この人は、死んだあなたの続きではありません。

今を生きている、新しいあなたなのです。

 

「……懐かしい人に似ていたの」

 

そう言い直すと、青年は少し気まずそうに眉を下げました。

 

その仕草さえ、同じでした。

 

困りますね。

 

同じ魂というものは、どうしてこんなところまで似てしまうのでしょう。

 

「それって、もしかして……大切な人ですか?」

 

キュレネは息を止めました。

 

大切な人。

 

そんな言葉では足りません。

 

「ええ」

 

彼女は静かに頷きます。

 

「とても、大切な人だったわ」

 

青年はそれ以上踏み込みませんでした。

 

ただ、自分が少し濡れていることも忘れたように、キュレネの顔を心配そうに見ています。

 

「あの、大丈夫ですか?顔色、悪いですよ」

 

その優しさが、キュレネを刺しました。

 

魂は覚えていなくても、優しさの形は変わらないのです。

 

胸の奥が痛みます。

嬉しいのに、苦しい。

 

会いたかった。

 

ずっと。

 

けれど、こんなふうに会えるとは思っていませんでした。

 

同じ顔で。

同じ魂で。

でも、自分を知らない瞳で。

 

「大丈夫よ」

 

キュレネは胸に手を当てました。

 

「少し、昔の花が咲いただけ」

 

「昔の花?」

 

「ふふ。気にしないで。あたし、時々こういう言い方をしてしまうの」

 

青年はきょとんとしたあと、少しだけ笑いました。

 

「なんか、詩みたいですね」

 

キュレネの心臓が、また小さく跳ねました。

 

あの日のあなたも、同じようなことを言いました。

 

まったく同じ言葉ではありません。

けれど、同じ温度で。

同じように、少し困りながら笑って。

 

キュレネは目を伏せます。

 

駄目です。

 

重ねてはいけません。

 

この人は覚えていません。

この人にとって、あの丘は存在しません。

 

なのに心は勝手に昨日へ戻ろうとします。

 

「……そうね」

 

キュレネは小さく笑いました。

 

「詩に聞こえたなら、嬉しいわ」

 

 

□

 

 

青年は鞄から折り畳み傘を取り出しました。

 

けれど開く前に、ふとキュレネを見ます。

 

「もしかして、傘ないんですか?」

 

「忘れてしまったの」

 

「じゃあ、駅まで入りますか?自分もそっちなので」

 

キュレネは差し出された傘を見ました。

 

それから、あなたの顔を見ます。

 

あの日のあなたなら、きっと同じことをしました。

 

ですが目の前の彼は、あの日の記憶を持っていません。

ただ、今の彼自身の優しさで、同じ選択をしているのです。

 

それが何より、キュレネには眩しく見えました。

 

「ありがとう。じゃあ、少しだけ甘えさせてもらうわ」

 

青年は傘を開きました。

 

二人分には少し小さい傘です。

肩が触れそうな距離で並ぶと、雨の音が近くなりました。

 

キュレネは息を整えながら、彼の隣に入ります。

 

その瞬間、布越しに彼の肩がかすかに触れました。

 

温かかった。

 

生きている温度でした。

 

キュレネは思わず足を止めそうになります。

 

触れられる。

 

今度は、触れられるのです。

 

記憶の中で何度手を伸ばしてもすり抜けたあなたが、今はここにいます。

この体温だけで、何度でも泣けてしまいそうでした。

 

「大丈夫ですか?」

 

あなたが傘を傾けます。

 

「歩きにくいですか?」

 

「いいえ」

 

キュレネは首を振りました。

 

「ただ、少し……雨が綺麗だと思って」

 

「雨が?」

 

「ええ。今日の雨は、明日へ続いている気がするの」

 

あなたはまた不思議そうにしました。

 

けれど笑いません。

茶化しもしません。

 

「キュレネさんって、面白いこと言いますね」

 

「名前、まだ教えていないのに」

 

「あ」

 

あなたは少し慌てました。

 

「すみません。花屋の人がさっき呼んでたので」

 

「ふふ。そうだったの」

 

キュレネは笑います。

 

そして、自分から名乗りました。

 

「あたしはキュレネ」

 

「キュレネさん」

 

あなたがその名を呼びます。

 

初めての声で。

初めての距離で。

前世の記憶を持たない、今のあなたの声で。

 

キュレネは胸の奥がきゅっと痛むのを感じました。

 

「あなたは?」

 

あなたは自分の名前を告げました。

 

かつてのあなたとは違う名前です。

 

その違いに、キュレネは少しだけ救われました。

 

彼はあなた。

でも、あの時のあなたではありません。

 

同じ魂が、新しい名前を持って、別の明日を生きているのです。

 

「素敵な名前ね」

 

「普通ですよ」

 

「普通だから、素敵なのよ」

 

「そういうものですか?」

 

「ええ。きっと、とても」

 

あなたは困ったように笑いました。

 

その顔がまた同じで、キュレネは少しだけ視線を逸らします。

 

 

 

□

 

 

 

駅に着くまで、あなたとキュレネは他愛もない話をしました。

 

大学のこと。

花屋のこと。

今日の雨のこと。

あなたがコンビニの傘を買おうか迷って、結局折り畳み傘を持っていたことを思い出したこと。

 

本当に、何でもない話ばかりです。

 

けれどキュレネには、その一つ一つが奇跡のように思えました。

 

記憶の再生ではありません。

決められた台詞でもありません。

 

あなたは、あなた自身の言葉で話しています。

キュレネの知らないことを言います。

キュレネの知らない顔をします。

 

それが少し寂しくて。それ以上に、嬉しかったのです。

 

駅の屋根が見えてきました。

 

傘の役目は、もうすぐ終わります。

 

キュレネはほんの少しだけ歩幅を緩めました。

あなたも自然に合わせます。

 

「ここまでで大丈夫よ」

 

「本当ですか?まだ降ってますけど」

 

「平気。花は少し濡れた方が、香りを思い出すもの」

 

「また詩みたいなことを」

 

あなたは笑います。

 

キュレネも笑いました。

 

それから、あなたは少し迷うようにスマホを取り出しました。

 

「あの」

 

「なあに?」

 

「もし迷惑じゃなければ、連絡先を交換してもいいですか?」

 

キュレネは息を止めました。

 

あなたは慌てて続けます。

 

「あ、嫌なら全然いいです。ただ……なんか、また話したいなって思って」

 

「どうして?」

 

キュレネは尋ねました。

 

責めるつもりはありません。

ただ、聞きたかったのです。

 

あなたの中にも、何か残っているのか。

 

記憶ではなく。

名前でもなく。

でも、魂の底に沈んだ小さな花びらのようなものが。

 

あなたは少し考えました。

 

「分からないです」

 

正直な答えでした。

 

「でも、初めて会った気がしなくて」

 

その言葉は、キュレネの胸を深く刺しました。

 

初めて会った気がしない。

 

覚えていないのに。

何も知らないのに。

 

それでも、何かがあなたをここへ引き寄せている。

 

キュレネはスマホを取り出しました。

指先が少し震えています。

 

「いいわ」

 

「本当ですか?」

 

「ええ。でも、一つだけ約束して」

 

「約束?」

 

キュレネはあなたを見ました。

 

同じ顔。

同じ魂。

けれど、今を生きている瞳。

 

「急がないで」

 

あなたは瞬きをしました。

 

「急がない?」

 

「ええ。あたし、あなたを見ると、少し遠い場所を思い出してしまうの」

 

「遠い場所?」

 

「あなたの知らない場所よ」

 

あなたは不思議そうな顔をしました。

 

それでも、真剣に聞いてくれます。

 

「だから、あたしがちゃんと今のあなたを見られるまで、少しだけ待ってほしいの」

 

あなたはしばらく黙っていました。

 

意味は分からないはずです。

分かるはずがありません。

 

それでも、あなたは頷きました。

 

「分かりました。急ぎません」

 

「ありがとう」

 

「でも、自分も一ついいですか?」

 

「ええ」

 

「また会ってくれますか?」

 

雨音が、少しだけ遠くなりました。

 

昨日のあなたが言いました。

 

明日で待ってる。

 

これは再生ではありません。

でも、確かに続いています。

 

キュレネは胸に手を当てました。

 

そこには、昨日のあなたが植えてくれた言葉があります。

そして今、新しいあなたの声が、同じ場所へ静かに落ちていきました。

 

「ええ」

 

彼女は微笑みます。

 

「また会いましょう、あなた」

 

あなたは少し照れたように目を逸らしました。

 

「そのあ(・)な(・)た(・)って呼び方、ちょっと不思議ですね」

 

「嫌?」

 

「嫌じゃないです。ただ、照れます」

 

「そう」

 

キュレネは小さく笑いました。

 

「じゃあ、時々だけ」

 

「時々なんですね」

 

「ええ。大切な時にだけ」

 

あなたはその意味を知りません。

 

けれど、頷いてくれました。

 

 

 

□

 

 

 

その夜。

 

キュレネは部屋の灯りもつけず、ベッドの上でスマホを見つめていました。

 

画面には、今日交換したばかりの連絡先。

 

違う名前。

けれど、登録されたアイコンには、記憶と同じ顔が映っています。

 

同じ魂。

違う記憶。

 

同じあなた。

新しいあなた。

 

キュレネはスマホを胸に抱きました。

 

「帰ってきたのね」

 

小さく呟きます。

 

「でも、戻ってきたわけじゃない」

 

その違いを、忘れてはいけません。

 

あなたは彼女を知りません。

あの恋も、あの別れも、あの約束も知りません。

 

だからあなたを愛するとしたら、それは過去の続きとしてではなく、今のあなたをもう一度知ることから始めなければならないのです。

 

スマホが震えました。

 

あなたからのメッセージです。

 

【今日はありがとうございました。ちゃんと帰れましたか?】

 

たった一文。

 

それだけで、キュレネの目元が熱くなりました。

 

あの人も、こういうふうに気遣う人でした。

でもこれは、あの人の台詞ではありません。

 

今のあなたが、今のキュレネへ送ってくれた言葉です。

 

キュレネはゆっくり返信を打ちます。

 

【ええ。無事に帰れたわ。あなたは?】

 

送信してから、指が止まりました。

 

また、あなたと呼んでしまいました。

 

けれど今度は消しません。

 

この呼び方は、過去だけのものではないからです。

彼女にとって、それは魂へ向ける呼び名でした。

 

少しして、返信が来ます。

 

【自分も大丈夫です。あと、あ(・)な(・)た(・)って呼ばれるの、やっぱりちょっと照れます】

 

キュレネは涙をこぼしながら笑いました。

 

【嫌なら、やめるわ】

 

返事はすぐでした。

 

【嫌じゃないです。不思議だけど、なんか落ち着きます】

 

キュレネはスマホを握りしめました。

 

覚えていません。

 

でも、魂は震えています。

 

記憶ではない場所で、あなたは彼女の声を受け取っているのです。

 

それだけで十分でした。

 

いいえ。

 

十分すぎました。

 

「明日で待ってるって、言ったものね」

 

キュレネは窓の外を見ます。

 

雨はもう止んでいました。

街灯に照らされた濡れた道が、静かに光っています。

 

「あたし、ちゃんと来たわ」

 

その声は、誰にも届きません。

 

けれど胸の奥で、昨日の花が優しく揺れました。

 

 

□

 

 

数日後。

 

あなたとキュレネは、大学近くの小さな喫茶店で会うことになりました。

 

キュレネが窓際の席で待っていると、あなたが少し遅れて店に入ってきます。

 

扉のベルが鳴りました。

 

あなたが顔を上げます。

キュレネを見つけます。

その瞬間、表情が明るくなりました。

 

胸が痛みます。

 

会えて嬉しい。

 

同時に、泣きたくなります。

 

あなたはあの日と同じ顔で、けれどまだキュレネを知らない瞳で近付いてきました。

 

「すみません、待たせました?」

 

「いいえ。待つのは嫌いじゃないわ」

 

「そうなんですか?」

 

「ええ。待っている間に、会えた時の嬉しさが育つもの」

 

「やっぱり詩みたいですね」

 

「ふふ。もう慣れて」

 

あなたは笑って、向かいに座りました。

 

その何気ない動作に、キュレネはそっと息を吸います。

 

焦らない。

 

あなたを過去に閉じ込めない。

 

この人は、今のあなた。

 

そう自分に言い聞かせました。

 

けれど、確信は揺るぎません。

 

あなたは、あの日のあなたの転生体です。

 

顔が似ているからではありません。

声が似ているからでもありません。

 

魂が、同じ花の匂いをしているからです。

 

「あの、キュレネさん」

 

「なあに?」

 

「この前から気になってたんですけど」

 

あなたは少し躊躇いながら言いました。

 

「自分、そんなにその人に似てるんですか?」

 

キュレネは紅茶のカップに視線を落としました。

 

水面が小さく揺れています。

 

「ええ」

 

嘘はつきませんでした。

 

「とても似ているわ」

 

「……顔が?」

 

「顔も。声も。困った時の表情も」

 

「それ、ちょっと複雑ですね」

 

あなたは苦笑します。

 

キュレネは静かに続けました。

 

「でも、それだけじゃないの」

 

「それだけじゃない?」

 

「あなたは、あの人と同じ魂をしているわ」

 

あなたは固まりました。

 

当然です。

普通なら、そんなことを言われても困るだけでしょう。

 

けれどキュレネは目を逸らしませんでした。

 

「信じなくていいわ。無理に分かってほしいわけでもないの」

 

「魂って……前世とか、そういう話ですか?」

 

「ええ」

 

キュレネは頷きました。

 

「あたしは、あなたがあの人の生まれ変わりだと分かっている」

 

あなたは何も言えないようでした。

 

キュレネは微笑みます。

 

少しだけ悲しく。

けれど、穏やかに。

 

「でも、あなたは覚えていない。それでいいの」

 

「いいんですか?」

 

「ええ。だって、今のあなたが空っぽになるわけじゃないもの。前の記憶がなくても、あなたがあなたであることは変わらないわ」

 

あなたは困ったように眉を寄せました。

 

「自分は……その人じゃないですよ」

 

「そうね」

 

キュレネはすぐに頷きます。

 

「あなたは、その人じゃない」

 

あなたの表情が少しだけ緩みました。

 

けれど次の言葉で、また揺れます。

 

「でも、あなたでもあるの」

 

キュレネは胸に手を当てました。

 

「前に咲いた花と、今咲いている花は違うわ。でも、同じ種から生まれたなら、どちらも本当でしょう?」

 

あなたは黙っていました。

 

理解できない。

でも、否定もしきれない。

 

そんな顔でした。

 

キュレネは、その迷いすら愛おしく思いました。

 

「だから、お願い」

 

彼女は静かに言います。

 

「あなたがあたしの過去を背負う必要はないわ。あの人の代わりになる必要もない。あたしが勝手に泣いてしまう日があっても、それはあなたのせいじゃない」

 

「……でも」

 

「でも、もし許してくれるなら」

 

キュレネはあなたを見ました。

 

今度は、昨日ではなく、今日のあなたを。

 

「今のあなたを、もう一度知りたいの」

 

あなたは長い間黙っていました。

 

それから、ゆっくり息を吐きます。

 

「正直、よく分からないです」

 

「ええ」

 

「前世とか、魂とか、急に言われても信じられるか分からない」

 

「ええ」

 

「でも」

 

あなたはキュレネを見ました。

 

その瞳は、記憶のない新しいあなたのものです。

 

「キュレネさんが、自分をちゃんと自分として見ようとしてるのは分かります」

 

キュレネの胸が、静かに震えました。

 

「だから、自分も急がないです」

 

あなたは少し照れたように笑います。

 

「前世のことは分からないけど、今の自分として、あなたのことを知りたいです」

 

その瞬間、キュレネの中で何かがほどけました。

 

昨日に縛られていた花びらが、静かに風へ舞います。

 

「……ありがとう」

 

「いえ」

 

「今、少し泣きそうだわ」

 

「泣いてもいいですよ」

 

「優しいのね」

 

「たぶん普通です」

 

「普通だから、素敵なのよ」

 

そう言うと、あなたはまた困ったように笑いました。

 

キュレネはその顔を見て、今度は過去だけではなく、未来を思いました。

 

きっと、この人を好きになる。

 

もう一度。

 

でも、それは繰り返しではありません。

記憶の再生でもありません。

 

同じ魂が、新しい人生でくれた、まだ名前のない詩です。

 

キュレネは紅茶のカップを両手で包みながら、そっと呟きました。

 

「初めまして、あなた」

 

あなたは不思議そうに瞬きをしました。

 

それから、少し照れた顔で笑います。

 

「初めまして、キュレネさん」

 

その言葉は。

 

今度こそ、本当の始まりでした。

 





文章の感じをちと昔に戻してみました。
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