『あなた』がスタレキャラと仲良く(意味深)なっちゃった! 作:ザワザワする人
水着が良すぎるんじゃぁ!!
拍手の残響は、いつだって少し遅れて胸に届く。
グランドシアターの幕が下りたあと、観客席に満ちていた歓声は夢泡のようにほどけ、黄金の照明もゆっくりと眠りにつく。
華やかな舞台の上に残されるのは、熱狂の名残と、誰にも聴かれなくなった沈黙だけだった。
あなたは、その沈黙が嫌いではなかった。
黒と白の並びは、いつ見ても整然としている。オーク家の紋章が刻まれた特注のピアノは、今夜もロビンの歌声を支えきったあとで、静かに呼吸をしているように見えた。
指先を置く。
音は鳴らさない。
ただ、そこにある冷たさを確かめる。
「……やっぱり、まだ残ってる」
背後から声がした。
振り返らなくても分かる。あの声だけは、どれだけの歓声に紛れていても聴き違えない。
ロビンは舞台袖の影から歩いてきた。
きらめく衣装の裾が床を撫でるたび、星屑を零しているみたいだった。
さっきまで銀河中の視線を一身に浴びていた歌姫は、今は少しだけ肩の力を抜いて、あなたの隣へと近づいてくる。
「私の声が、まだこの子の中に残ってる気がするの」
ロビンはピアノを見つめて、穏やかに微笑んだ。
あなたは小さく息を吐き、ようやく鍵盤から指を離す。
「残ってるよ。それと、最後の高音が少し震えてた」
「……気づいた?」
「気づくに決まってる。何年、君の歌に合わせて弾いてると思ってるんだ」
ロビンは困ったように笑った。
その笑顔は、舞台の上で見せる完璧なものとは少し違う。観客のための微笑みではなく、昔からあなたが知っている、ほんの少しだけ弱さを含んだ笑い方だった。
オーク家の屋敷に来たばかりの頃、ロビンはよく夜中に練習室へ忍び込んでいた。
まだ幼かった彼女は、自分の声が大きすぎることを恐れていた。美しいと言われるたびに、期待の重さで喉を塞がれそうになっていた。そんな夜、あなたは決まってピアノの前に座り、彼女が歌い出すより先に伴奏を始めた。
歌わなくてもいい。
泣いてもいい。
ただ、ここにいていい。
そう伝えるための音を、あなたは何度も弾いた。
今ではロビンの名は銀河に届き、あなたの名前はチラシの下の方に小さく載るだけになった。
それでも、彼女が歌い出す直前にほんの少しだけこちらを見る癖は、あの頃から変わっていない。
「今日は無理してた?」
あなたが尋ねると、ロビンは少し間を置いた。
「無理、というほどではないわ。ただ……聴いてくれる人が増えるほど、私の歌が私だけのものではなくなっていく気がして」
彼女の声は静かだった。
「嬉しいの。本当に。誰かの心に届くことは、私が望んだことだから。でも時々、どこまでが私の願いで、どこからがファミリーの望みなのか、分からなくなる」
天井に吊るされた照明が、かすかに揺れていた。
あなたは何も言わず、低い音をひとつ鳴らした。
柔らかく、深く、夜の底に沈むような音。
ロビンはそれを聴いて、ゆっくりと目を閉じる。
「……懐かしい」
「君が泣きそうな時に弾く音だから」
「そんな顔をしていた?」
「舞台ではしてなかった。でも、袖に戻ってきた時に」
「あなたには、隠せないのね」
「隠す必要もない」
そう言うと、ロビンは少し驚いたようにあなたを見た。
あなたは譜面台に置かれた楽譜を閉じる。そこには今夜の演目がきっちり書き込まれている。強弱、テンポ、ブレスの位置、照明との合わせ。完璧な舞台を作るための指示が、余白まで埋め尽くしている。
けれど今、あなたが弾きたい曲はそこにはない。
「一曲、弾こうか」
「今から?」
「観客はいない。ファミリーの監督もいない。君が歌っても歌わなくてもいい」
ロビンはしばらく黙っていた。
やがて彼女は、舞台中央ではなく、ピアノのすぐそばに立った。観客に向かう位置ではない。あなたひとりに声が届く距離だった。
「それなら、お願い」
あなたは頷き、鍵盤に指を置いた。
最初の旋律は、昔と同じだった。
幼いロビンが眠れない夜に、あなたが何度も弾いた子守歌。
オーク家の広すぎる屋敷で、ふたりだけが知っていた小さな秘密。豪奢な調度品も、厳格な規律も、期待も称賛も届かない場所で交わした、名前のない約束。
ロビンの唇が、そっと開く。
歌声は舞台の時よりもずっと小さい。
けれど、その声はどんな喝采よりも近く、どんなスポットライトよりも眩しかった。
あなたの指が旋律を支える。
彼女の声がその上を飛ぶ。
それは銀河に向けた歌ではなかった。ファミリーのための歌でも、夢境を彩るための歌でもない。
ただ、ロビンがロビンでいるための歌だった。
曲が終わるまで、ふたりは一度も言葉を交わさなかった。
最後の音が消えたあと、ロビンは静かに息を吸った。
「……ねえ」
「うん」
「もし私が、舞台から遠く離れた場所で歌いたいと言ったら……あなたは、伴奏してくれる?」
問いかけは小さかった。
けれど、その奥にある覚悟は、あなたにも分かった。
あなたは鍵盤から手を離し、彼女を見る。
ロビンの瞳には、ステージライトではない光が宿っていた。誰かに与えられた輝きではなく、自分の足で夜を歩こうとする光が。
「どこへ行っても弾くよ」
あなたは答える。
「君が歌うなら、僕の音はそこにいる」
ロビンは一瞬だけ泣きそうな顔をして、それから、舞台の上では決して見せないほど柔らかく笑った。
「ありがとう」
その言葉に、あなたは返事をしなかった。
代わりに、もう一度だけ短い旋律を弾く。
それは幼い頃から決まっている、ふたりだけの合図だった。
――大丈夫。
――ここにいる。
ロビンはその音を聴いて、小さく頷いた。
遠くで、夢境の夜が明けようとしていた。
黄金の時刻はまだ終わらない。けれどその片隅で、誰にも知られない新しい曲が、静かに生まれようとしていた。
□
その日は、空だけがやけに青かった。
砕けた校舎の壁。瓦礫の残る通学路。仮設の柵に吊るされた、子どもたちの絵。青い鳥、星、花、家族、そして歌うロビン。どれも線は拙く、色ははみ出していたけれど、そこには確かに明日を信じたい気持ちがあった。
ロビンは校庭の中央に立っていた。
豪奢な舞台衣装ではなく、風に揺れる簡素な白いドレス。首元には淡いリボンが結ばれている。ピノコニーの劇場で浴びる黄金の照明も、完璧な音響設備も、夢のような演出もない。
それでも彼女は、どこに立っても銀河一の歌手だった。
あなたは講堂の入り口近くに置かれた、古いアップライトピアノの前に座っていた。
鍵盤は重く、低音の響きは濁り、いくつかの音は押した瞬間にわずかに沈んだまま戻りが遅れる。調律もずれていて、並みの演奏者なら最初の数小節で顔をしかめるような代物だった。
けれど、あなたにとってそれは演奏できない理由にはならない。
鳴らない音は避ける。
濁る低音は深く踏み込まず、代わりに中音で厚みを作る。
戻りの悪い鍵盤には、旋律の重さを預けない。
狂った音程すら、和音の影に紛れ込ませれば、ほんの少しだけ哀しみを帯びた響きになる。
壊れかけの楽器を、無理に正しい音へ戻そうとはしない。
壊れたまま、歌える場所に変える。
それが、あなたの腕だった。
そして、そこにロビンの声が重なる。
不完全なピアノの隙間を、彼女の歌声が光の糸のように縫っていく。あなたが拾い、支え、整えた音の上で、ロビンは迷わず羽ばたく。
豪奢な劇場も、完璧な音響もない。
それでも、その瞬間だけは、瓦礫の残る校庭が舞台になった。
ロビンの歌が人々を見上げさせ、あなたの伴奏がその歌の足場を作る。
どちらか片方では、きっと届かなかった。
二人の音だから、届いていた。
子どもたちは、息をするのも忘れたようにロビンを見上げている。疲れ切った大人たちも、壁にもたれたまま目を閉じ、彼女の声に身を預けていた。
泣いていた子が、少しだけ顔を上げる。
固く握られていた誰かの手が、ほどける。
ロビンはそれを見て、柔らかく微笑んだ。
その微笑みを見て、あなたはいつも誇らしくなる。
同時に、怖くもなる。
彼女の歌は、あまりにもまっすぐ人へ届いてしまう。届いてしまうからこそ、ロビンはいつも逃げ場をなくしていく。誰かが救われるたび、彼女は自分が傷つくことを後回しにしてしまう。
けれど、あなたは弾いた。
ロビンが歌うなら、自分は弾く。
昔から、そう決めていた。
彼女が息を吸う。
あなたはその呼吸に合わせて、次の和音を置いた。
その時だった。
乾いた音が、空を裂いた。
初弾。
ロビンの歌声が途切れた。
あなたの指は、一瞬だけ遅れて止まった。
何が起きたのか、すぐには分からなかった。遠くで何かが破裂したのかもしれない。まだこの土地に残る戦闘の残響かもしれない。頭のどこかが、そうやって無理に理由を探そうとした。
けれど、次の瞬間にはもう分かっていた。
ロビンが、首元を押さえていた。
白く細い指の隙間から、赤が滲んでいる。
彼女は驚いたように目を見開いていた。
痛みよりも、恐怖よりも先に、自分の歌が途切れたことを信じられないような顔だった。
校庭の時間が止まる。
誰も動けなかった。
風だけが、子どもたちの絵を揺らしていた。
それから、悲鳴が上がった。
あなたは鍵盤から手を離していた。
椅子が床を擦る音がした。誰かがあなたの名前を呼んだ気がした。伏せろという声も、避難しろという叫びも、子どもの泣き声も、全部がひどく遠かった。
ただ、彼女だけがはっきり見えていた。
彼女はまだ立っている。
立ったまま、息を吸おうとしている。
喉を震わせようとしている。
歌おうとしている。
声が出ないのに。
あなたは走り出した。
伴奏を捨てて。音楽を置き去りにして。
ロビンの方へ。
ロビンがこちらを見た。
その瞳が、わずかに揺れる。
来ないで。
声にならないまま、彼女はそう言っていた。
分かった。
分かってしまった。
けれど、止まれなかった。
ロビンは血の滲む首元を押さえながら、なおも子どもたちの方へ顔を向けようとしていた。
怯えないで、と伝えようとしていた。
自分が倒れたら、せっかく立ち上がりかけた希望まで崩れてしまうと、そんなことを考えている顔だった。
そんな顔を見て、伴奏者のままでいられるわけがなかった。
「ロビン!」
ようやく声が出た。
その瞬間、二発目が鳴った。
あなたの左肩に、熱が突き刺さった。
痛みより先に、衝撃が身体を弾いた。視界が傾く。踏み出した足がもつれ、あなたは校庭の土に膝をついた。
遅れて、焼けるような痛みが肩から腕へ走る。
息が詰まった。
左腕に力が入らない。指先の感覚が遠い。さっきまで自在に鍵盤を押さえていた手が、自分のものではなくなったようだった。
土を掴んだ右手に砂が食い込む。
肩から血が滴り落ちる。
その赤を見た瞬間、ロビンの顔が変わった。
今度こそ、彼女の表情から歌姫の仮面が剥がれ落ちた。
首元を押さえたまま、彼女はこちらへ踏み出そうとする。
「……っ」
声にはならない。
それでも、あなたの名を呼ぼうとしたのが分かった。
ロビンは喉を震わせた。けれど漏れたのは、掠れた息だけだった。
その事実に、彼女自身が怯えたように見えた。
歌えない。
呼べない。
届かない。
その恐怖が、彼女の瞳に広がっていく。
あなたは立とうとした。
左肩に激しい痛みが走り、身体が崩れる。
片膝をついたまま、右手だけで地面を押した。
視界の端が白く滲む。けれど、それよりもロビンの首元から滲む赤の方が、ずっと恐ろしかった。
「逃げろ……」
絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
ロビンは首を振った。
音のない否定だった。
彼女は支援員に支えられながら、それでもあなたへ手を伸ばそうとしている。
それが、たまらなく苦しかった。
違う。
君がそんな顔をする必要はない。
君は今、自分のことだけ考えればいい。
そう言いたいのに、言葉にならない。
周囲では避難誘導が始まっていた。大人たちが子どもを抱え、校舎の陰へ走っていく。誰かが伏せろと叫んでいる。警備員の怒号が飛び、遠くでまた何かが割れる音がした。
けれどロビンは、その混乱の中であなたを見ていた。
歌えなくなった喉で。
血に濡れた指で。
それでも、何かを伝えようとしていた。
あなたは右手を伸ばした。
ロビンも、震える手を伸ばす。
指先が触れた。
たったそれだけで、彼女の瞳に涙が浮かんだ。
それは痛みの涙ではなかった。
たぶん、恐怖だけでもなかった。
自分の歌が途切れた。
あなたの伴奏も途切れた。
守りたかった子どもたちの前で、希望の形が崩れてしまった。
その全てを、ロビンは一瞬で背負ってしまったのだ。
彼女は唇を動かす。
声は出ない。
けれど、あなたには分かった。
ごめんなさい。
そう言っていた。
あなたは右手で彼女の指を握った。
強く。
違う。
謝るな。
君は何も悪くない。
今だけは、歌わなくていい。
今だけは、希望じゃなくていい。
そう伝えたかった。
けれど、あなたの指にも力が入りきらない。肩の痛みが波のように押し寄せ、呼吸をするたび傷口が焼ける。左腕は重く、冷たく、もう鍵盤の上で思い通りに動いていたものとは思えなかった。
ピアニストの肩。
歌姫の喉。
二人が持っていた音は、同じ空の下で撃ち抜かれた。
救護班が駆け寄ってくる。
誰かがロビンの首元を押さえた。別の誰かがあなたの肩に布を当てる。離されそうになった手を、ロビンが弱く握り返した。
その力は、あまりにも小さかった。
それでも彼女は離さなかった。
ロビンはまだ何かを言おうとしていた。
声の出ない喉で。
歌えない唇で。
それでも必死に、あなたへ何かを渡そうとしていた。
あなたは耳を澄ませる。
音はなかった。
けれど、その問いだけは聞こえた気がした。
また、歌えるかしら。
胸の奥が冷たくなる。
簡単に頷いていい問いではなかった。
大丈夫だと笑えるほど、傷は浅くなかった。
あなた自身の左肩だって、これまで通りピアノを弾けるのか分からない。
それでもあなたは、ロビンの手を握ったまま頷いた。
小さく。
震えながら。
嘘かもしれない。
願いでしかないかもしれない。
けれど今の彼女に渡せる音は、それしかなかった。
ロビンはその頷きを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
笑おうとしたのだと、あなたは思った。
涙が一筋、頬を伝う。
次の瞬間、彼女の身体から力が抜けた。
支援員が慌てて彼女を抱える。あなたも誰かに肩を支えられ、後ろへ引かれる。
触れていた指先が離れる。
その感触が消えた時、あなたは初めて、自分の手が震えていることに気づいた。
校庭には、もう歌がなかった。
ピアノも鳴っていなかった。
ただ、さっきまでロビンが立っていた場所に、風だけが通り過ぎていく。
仮設の柵で、子どもたちの絵が揺れていた。
青い鳥。
星。
学校。
歌うロビン。
その絵の中の彼女だけが、まだ笑っていた。
□
ロビンは、一人で歌わなくなった。
それは公式に発表されたことではない。
「新しい音楽表現のため」
「より深い調和を届けるため」
「専属ピアニストとの共演形式を重視するため」
広報は、いくらでも美しい言葉を用意した。
実際、それは嘘ではなかった。
ロビンの歌は、以前より深くなった。
あなたのピアノも、以前より繊細になった。
ふたりの呼吸は、もはや合わせる必要すらないほど調和していた。
ロビンが息を吸う前に、あなたの指は和音を置く。
あなたの左肩がわずかに強張る前に、ロビンの声は旋律の重心を変える。
彼女の喉が乾く一瞬前に、あなたは間奏を伸ばす。
あなたの指が迷う夜には、ロビンが少しだけ長く音を抱く。
観客はそれを奇跡と呼んだ。
完璧な共鳴。
魂の伴奏。
歌姫とピアニストがたどり着いた、ひとつの究極形。
拍手はいつも鳴り止まなかった。
けれどあなたたちは知っていた。
それは完成ではない。
互いを支え合っているのではなく、互いがいなければ形を保てなくなっただけなのだと。
□
その夜、ピノコニーの大劇場は満席だった。
復帰から一年。
ロビンは変わらず美しかった。
首元には淡いリボンが巻かれている。傷痕はほとんど見えない。照明の下で微笑む彼女は、かつてと同じように銀河の歌姫だった。
あなたもまた、ピアノの前に座っていた。
左肩はもう問題なく動く。長時間の演奏にも耐えられる。医師からは完治に近いと言われている。
何も失っていない。
そう医者に言われるたびに、あなたは少しだけ笑った。
何も失っていないなら、どうして一人で弾く最初の一音が、あんなにも怖いのだろう。
ロビンも同じだった。
彼女はどんな舞台でも歌える。
声は戻った。
高音も出る。
調和の力を借りれば、かつてより遠くまで届く。
それなのに、あなたがいないリハーサルでは、二小節目で息が止まった。
誰にも言わなかった。
あなたも、誰にも言わなかった。
ただその日から、ロビンが立つ舞台には必ずピアノが置かれるようになった。
そして、あなた以外がその椅子に座ることはなかった。
□
開演前、控室でロビンは鏡を見ていた。
衣装係も、スタッフも、護衛も、すでに部屋を出ている。
あなたとロビンだけが残っていた。
「今日は、少し静かね」
ロビンが言った。
窓の向こうでは、観客のざわめきが波のように響いている。静かとはほど遠い。けれど彼女が言っているのは、外の音のことではないと分かっていた。
あなたは左肩を軽く回す。
「痛まないよ」
「……まだ何も聞いていないわ」
「顔に書いてあった」
ロビンは小さく笑った。
その笑い方も、変わった。
昔はもっと軽かった。
今は、笑う前に必ずあなたを確認する。
あなたが笑えるか。
あなたが痛がっていないか。
あなたが彼女の声を待っているか。
それを見てから、ロビンは笑う。
「あなたは?」
今度はあなたが尋ねた。
ロビンは首元のリボンに触れた。
「大丈夫」
「本当に?」
「あなたが弾いてくれるなら」
想像通りの答えだった。
そして、いちばん聞きたかった答えでもあった。
あなたはその事実に、少しだけ目を伏せる。
ロビンは立ち上がり、あなたの前まで歩いてきた。白い手袋に包まれた指が、あなたの左肩にそっと触れる。
「怖い?」
その問いに、あなたは嘘をつけなかった。
「怖いよ」
ロビンは頷いた。
「私も」
彼女は、まるでそれが嬉しいことのように微笑んだ。
「でも、一緒なら怖くないわ」
その言葉は美しかった。
美しすぎて、どこか間違っていた。
一緒なら怖くない。
本当はそうではない。
一緒なら、怖さを忘れられるだけ。
一緒なら、傷が疼いても音に変えられるだけ。
一緒なら、壊れていることを隠せるだけ。
けれど、あなたは訂正しなかった。
訂正できなかった。
ロビンがその言葉に縋っているのを知っていたから。
そして自分も、その言葉に縋っていたから。
□
舞台に出る直前、ロビンは必ずあなたの手を取るようになった。
ほんの一瞬。
誰にも見えない袖の暗がりで、指先だけを絡める。
それは約束だった。
生きている。
ここにいる。
歌える。
弾ける。
離れない。
その全部を、言葉にせず確かめる儀式だった。
今日も同じだった。
舞台監督が合図を出す。
歓声が高まる。
ロビンはあなたの手を握った。
少し冷たい手だった。
あなたは握り返す。
彼女の指に力が入る。
強すぎるほどだった。
「ロビン」
呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「大丈夫」
あなたが言う。
その瞬間、彼女の表情がほどけた。
大丈夫という言葉そのものではない。
あなたがそう言ったこと。
あなたの声が震えていなかったこと。
あなたが彼女を見ていたこと。
それだけで、ロビンは息を吸えた。
「ええ」
彼女は微笑む。
「あなたも、大丈夫よ」
今度はあなたが息を吸う番だった。
□
舞台は暗闇から始まった。
先に響いたのは、ピアノだった。
一音目。
それは以前よりも静かな音だった。
けれど騒がしかった劇場全体が、その小さな響きに耳を澄ませた。
あなたの左手は迷わなかった。鍵盤の重みも、肩の感覚も、すべてがそこにある。けれど本当にあなたを支えていたのは身体ではない。
舞台中央で、ロビンが息を吸う気配。
それだけだった。
その気配がある限り、あなたは弾ける。
二音目。
三音目。
ロビンが歌い出した。
声は澄んでいた。
柔らかく、強く、そしてわずかに傷を含んでいた。
観客席のあちこちで、息を呑む音がする。
何人かはもう泣いていた。きっと彼らは、ロビンの声に希望を聴いている。
傷を越えた勇気を聴いている。折れずに立ち上がった歌姫の物語を聴いている。
間違ってはいない。
けれど、それだけではなかった。
ロビンの声は、あなたを探していた。
あなたのピアノは、ロビンを離さなかった。
一音ごとに確かめる。
いる?
いるよ。
怖い?
怖い。
それでも?
それでも。
観客には聞こえない会話が、旋律の底でずっと続いていた。
あなたたちはもう、音楽でしか正しく呼吸できなかった。
□
中盤の高音部で、ロビンの声がわずかに揺れた。
普通の観客なら気づかない程度だった。
けれどあなたには分かる。
喉ではない。
記憶だ。
あの日、銃声によって途切れた音域。
血の味。
声にならなかった呼び声。
伸ばした手が届く前に崩れた時間。
ロビンはそこへ近づくたび、今でも一瞬だけ怖がる。
あなたは伴奏を変えた。
楽譜にはない和音を、ほんの少しだけ厚くする。彼女が踏み外しても落ちないように。声が震えても、それを震えではなく祈りに変えられるように。
ロビンの目が、一瞬だけこちらを見る。
責めてはいなかった。
守られたことを恥じてもいなかった。
ただ、あなたがそこにいることを確認して、彼女は高音へ昇った。
その声は、美しかった。
美しすぎて、痛かった。
観客は涙した。
あなたは鍵盤を見つめたまま、奥歯を噛んだ。
ロビンの傷が美しいものとして受け取られていく。
あなたの恐怖が、彼女の歌を支える技術として昇華されていく。
それは救いだった。
同時に、逃げ場のない檻でもあった。
□
最後の曲が終わると、劇場は静まり返った。
ロビンの声が消える。
あなたのピアノも、最後の余韻を手放す。
数秒遅れて、拍手が爆発した。
立ち上がる観客。
泣きながら名前を呼ぶ人々。
ロビンは微笑んだ。
深く一礼する。
あなたもピアノの前で立ち上がり、礼をした。
完璧な終演だった。
誰もがそう思った。
けれど、袖に戻った瞬間、ロビンはあなたの手を掴んだ。
爪が食い込むほど強く。
あなたも、彼女の手を握り返していた。
どちらからともなく、暗い廊下の奥へ歩いた。
スタッフの声が背後から追ってくる。
「ロビン様、カーテンコールを」
「お二人とも、素晴らしい演奏でした」
「もう一度だけ、舞台へ」
ロビンは立ち止まらなかった。
あなたも振り返らなかった。
拍手がまだ聞こえている。
けれど二人の足は、控室へ向かっていた。
□
扉が閉まった瞬間、ロビンの膝が崩れた。
あなたは反射的に抱きとめる。
左肩に鈍い痛みが走った。
ロビンがそれに気づき、青ざめる。
「ごめんなさい」
「違う」
「でも」
「違うよ」
あなたは彼女を抱えたまま、床に座り込んだ。
ロビンは震えていた。
歌いきった身体の疲労ではない。
拍手を浴びた後の興奮でもない。
舞台の上で希望の象徴として立ち続けた反動だった。
「怖かった」
ロビンが言った。
「うん」
「途中で、声が出なくなるかと思った」
「うん」
「あなたがいなかったら……」
「うん」
あなたは彼女の背を撫でた。
ロビンはあなたの左肩に触れようとして、途中で手を止める。
「痛い?」
「少しだけ」
「嘘」
「少しより、少し多い」
「また、私のせいで」
「ロビン」
あなたは彼女の手を取った。
「それ以上言ったら、僕も同じことを言うよ」
ロビンは黙った。
分かっている。
あなたが何を言うか。
君が歌うから、自分は弾ける。
君が怖がるから、自分は必要でいられる。
君が壊れそうだから、そばにいる理由ができる。
それは優しさだけではなかった。
あなたは、ロビンに必要とされることに救われていた。
ロビンもまた、あなたに必要とされることで、壊れずに済んでいた。
「私たち」
ロビンが囁く。
「このままでいいのかしら」
本当なら、ここで言うべきだった。
よくない。
いつか一人でも歌えるようにならなければ。
いつか一人でも弾けるようにならなければ。
互いを支えにすることと、互いなしでは立てないことは違う。
正しい言葉はいくらでもあった。
けれど、あなたはそのどれも言わなかった。
言えば、ロビンが離れてしまう気がした。
そして何より、自分が離れられなかった。
「いいんじゃないかな」
あなたは言った。
ロビンの瞳が揺れる。
「本当に?」
「少なくとも、今夜は」
ずるい答えだった。
永遠を約束しない。
けれど、抜け出す道も示さない。
今日だけ。
今夜だけ。
次の舞台だけ。
次の一音だけ。
そうやって、二人はここまで来た。
そしてきっと、これからもそうやって続いていく。
ロビンはあなたの胸元に額を寄せた。
「明日も、弾いてくれる?」
「君が歌うなら」
「私が歌えなかったら?」
「その時は、歌えるまで」
「あなたが弾けなかったら?」
「君が歌ってくれたら、弾ける」
ロビンは泣きそうな顔で笑った。
「ひどいわね」
「うん」
「逃げ道がないわ」
「僕にもないよ」
「……それなのに、安心してしまうの」
「僕も」
その告白は、愛よりも重かった。
祈りよりも甘く、呪いよりも優しい。
□
それから、二人の公演形式は変わった。
ロビンは必ずあなたのピアノで歌う。
あなたは必ずロビンの声のために弾く。
ソロの依頼は完全に断るようになった。
理由はいくらでもあった。
準備期間が足りない。
表現の方向性が合わない。
体調を考慮したい。
今は二人での活動を大切にしたい。
周囲は惜しんだ。
けれど、誰も強くは止めなかった。
なぜなら二人で立つ舞台が、あまりにも美しかったから。
ロビンの歌は、あなたのピアノなしでは完成しない。
あなたのピアノは、ロビンの歌なしでは意味を持たない。
そう語られた。
美談になった。
伝説になった。
誰も知らない。
ロビンが本番前、あなたの手を握らなければ息を吸えないことを。
あなたが舞台に出る前、ロビンの声を聞かなければ左手を開けないことを。
ロビンが悪夢で声を失った夜、あなたが朝まで同じ和音を弾き続けることを。
あなたの肩が痛む夜、ロビンが歌わずに、ただ隣で呼吸を合わせてくれることを。
誰も知らない。
知らないまま、二人を称える。
理想の音楽家だと。
互いを高め合う、完璧な二人だと。
□
数回のコンサートの後。
ピノコニーの大劇場には、二人専用のピアノが置かれるようになった。
ロビンの立ち位置から、あなたの左肩が見える角度。
あなたの席から、ロビンの首元のリボンが見える距離。
どちらかが一瞬でも不安になれば、すぐに視線が合う配置。
それは舞台設計として、完璧だった。
あまりにも、二人のために作られすぎていた。
その夜も満席だった。
ロビンは舞台袖であなたの手を取る。
あなたは握り返す。
彼女の指は、もう震えていなかった。
あなたの左手も、もう冷たくなかった。
けれど、それは治ったからではない。
互いの存在に慣れすぎたからだ。
「行きましょう」
ロビンが言う。
「うん」
あなたは頷く。
「今日も、私を見ていて」
「ずっと見てる」
「今日も、私を離さないで」
「離さない」
「私も、あなたを離さないわ」
それは舞台へ向かう歌姫の言葉ではなかった。
祈りでもない。
誓いでもない。
もっと静かで、もっと深くて、もっと危ういもの。
二人は暗がりから光の中へ出る。
拍手が降る。
歓声が満ちる。
ロビンは微笑む。
あなたは鍵盤に指を置く。
最初の音が鳴る直前、ロビンがこちらを見る。
あなたも彼女を見る。
その一瞬、世界には二人しかいなかった。
観客も、劇場も、ピノコニーも、過去の銃声も、未来の不安も、すべて遠くなる。
ロビンは息を吸う。
あなたは鍵盤を押す。
歌が始まる。
それは美しかった。
誰もが涙するほどに。
けれど、その美しさの中心には、癒えきらなかった傷があった。
二人はもう、傷を治そうとはしなかった。
そこからしか音が鳴らないのだと、知ってしまったから。
ロビンはあなたの音でしか歌えない。
あなたはロビンの声でしか弾けない。
それを不幸と呼ぶには、あまりにも美しかった。
それを幸福と呼ぶには、あまりにも壊れていた。
だから二人は、どちらとも名付けなかった。
ただ、今日も舞台に立つ。
互いを命綱にして。
互いを檻にして。
互いを帰る場所にして。
拍手の中、ロビンの声が高く昇る。
あなたのピアノが、その足元を支える。
その姿は、銀河でもっとも美しい共鳴と呼ばれた。
そして二人だけが知っていた。
これは終着点ではない。
もう、降りられない場所なのだ。
この「あなた」はストーリーでロビンが死んだって聞いた時どうするんでしょうね。
一応ば~っと市民には広められてはないですけど、普通に気づきそうですよね。
ロビンに化けた花火にブチギレそうですね。
う~ん……まぁ自殺が安パイかな……。